仮初めの甘い誘惑

水城ひさぎ

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お気に入りの画家

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 淹れたてのコーヒーと午前中に焼いたクッキーをテーブルに乗せ、ソファーに腰かけると、斜向かいの夏凪さんが、まるで難しい話をしようとでもいうように、こちらへ身体を向けた。

 信太朗くんを断りもなくアトリエへ入れたことを、こころよく思ってないのだろうとは思うけど、怒ってるのだろうか。

「信太朗とは、いつから?」

 何が気にかかってるのだろうと考えをめぐらせていると、夏凪さんはそう尋ねてきた。思いのほか、声のトーンが柔らかくてホッとする。

「小学時代からの知り合いなんです」
「そんなに前から?」

 心底意外そうに、まぶたをしばたたかせる彼は、ほんの少し前のめりになった。

「四季先生の絵画教室で一緒だったんです。いつも信太朗くんは隣の席で、よく話しかけてくれました」
「そういえば、母さんが信太朗を絵画教室に誘ったとかなんとか言ってた気がするな」

 納得したようにうなずくと、彼はコーヒーを口もとに運ぶ。

「信太朗、別に絵は上手くないだろ?」
「そんなこともないですよ。練習はあんまり好きじゃないって言ってましたけど」
「そんな信太朗がどうして、佐那子さんの手伝いを?」
「あの……、四季先生の教室がなくなってしまってから、ずっと会ってなかったんですけど」

 ためらいながら、そう切り出すと、夏凪さんは、続けて、と優しくうなずく。

 彼のお母さんが亡くなったことを暗に口にしてしまったけど、大丈夫と言ってくれたみたい。

「信太朗くんとは、ここで暮らすようになってから再会したんです。私が神林家の親戚の人たちからよく思われてないって知って、心配して会いに来てくれたんです」

 音無家も居候になった私を快く思わない親戚の一つだったが、音無家が一番最初に理解を示してくれたのは、信太朗くんの存在があったからだと思う。

「それからの付き合い?」
「はい。最初は秋花さんに呼ばれた時だけ手伝ってくれてたんですけど、信太朗くんが大学を卒業して就職したあたりから、時間があるからって積極的に手伝ってくれるようになったんです」
「ずいぶん仲良さそうに見えたのは、そういうことか」

 夏凪さんがそう言うから、パッと気持ちが明るくなる。

「仲良さそうに見えました? いつも信太朗くんは気をつかってくれてるから、私のこと、どう思ってるのかなぁーって気になってたんです」

 仲の良い友人のように自然に見えたのならうれしい。そう思って言うと、夏凪さんは眉をぴくりとあげ、こちらをじっと見つめてきた。

 なんだろう。時折、彼はこうして私の顔を食い入るように見つめてくる。

「あ……、何か?」

 なんだか気まずい。視線から逃れようと、コーヒーカップに目線をさげる。

「信太朗に惚れてるのか?」
「えっ?」

 なんていう冗談を言うのだろう。

 びっくりして顔をあげると、夏凪さんが真剣なまなざしをしてるから、ますます驚いてしまう。

「信太朗くんはお仕事のパートナーだけど、私を不憫に思って手伝ってくれてるなら申し訳ないなって思ってて……」
「だからなんだ」
「えっと……」
「そういう話は聞いてない。遺産相続の条件を気にして、信太朗との付き合いを公にできないとしても、きちんとここで話してほしい」
「何の話ですか?」

 いったい、何を言ってるのだろう。

 遺産相続の条件って……、私に恋人がいたら相続の権利を失うっていう、あの条件のことだろうか。

 夏凪さんは、遺産相続したいがために、私が信太朗くんとこそこそと付き合ってると思ってるのだ。

 いやだ。そんなふうに誤解されてるなんて。恥ずかしい。

 熱を持つほおを両手で押さえると、夏凪さんは手首にそっと触れてくる。

「え……」

 優しく引きはがされた手は、彼の手の中へすっぽりとおさまる。

 夏凪さんの手は温かい。

 触れ方も優しくて、両親を失った悲しみも、幼い時に母を亡くし、夜遅くに帰宅する父の背中を見て育つ、ずっとさみしかった気持ちも全部、包み込んでくれてるみたい。

「正直に話してほしい」

 彼は私に遺産相続させたくないから、はっきりさせたいのだと思う。

 信太朗くんと付き合ってるなんて誤解されて、屋敷を追い出されたら大変だ。

「信太朗くんはお仕事のパートナーです。それだけです」

 やましいことはないと、声を張り上げた。

「本当か?」

 まだ疑うのだろうか。私の目をのぞき込む彼の瞳を見つめ返す。

「お付き合いしてないです。信太朗くんからそういうお話をされたこともないですし、今後もお付き合いすることはないです」

 信じてほしくて、目を見つめて言う。

「誰とも?」
「え?」

 誰とも?
 信太朗くんの話をしてたんじゃないのだろうか。

 肩透かしを食らったような気がして、全身に入っていた力が抜けていく。

「今後、誰とも付き合う気はないか?」
「あ……、はい。そうですね……、結婚願望もないですし、特に……」

 どこまで念を押すのだろう。信太朗くんのことだけじゃなく、これから先のことまで心配したりして。そんなに言わなくても、うそをついたりしないのに。

 このところは、めんどくさそうな彼の性格にうまく付き合えてると思っていたけれど、彼の方は全然私を信じてくれてないのだ。

 つながれた手を離そうとすると、彼は追い求めるようにますます握りしめてきた。

「夏凪さん……?」
「付き合いたいと言っても?」
「え……」

 しばらく、私たちは見つめ合った。

 彼の言葉の意味を理解するのに時間がかかってしまった。それは、到底予想もできない出来事だったからだ。

「俺と、付き合う気はあるか?」

 彼は言い直す。

「は……」

 まっすぐに見つめられて告白されるのは人生初めてのことで、気が動転した私は、思わず彼の手を振り払ってしまった。

 その拍子に、コーヒーカップのソーサーに手があたって、そのままカップがひっくり返ってしまった。

「あっ! 大変っ!」

 テーブルの上へ、扇上に広がる茶色の液体が、夏凪さんの方へ向かって流れていく。

 あわてて布巾を広げると、スクッと夏凪さんは立ち上がる。

「あの……、ごめんなさい」

 怒ってるに違いない。そう思って顔を上げると、彼は難しい顔をして、口を開く。

「考えておいてほしい。俺は付き合いたいと思ってるから」
「……はい」

 思わずうなずくと、彼はホッとしたような笑みを浮かべ、倒れたカップをソーサーに戻しながら、「俺が淹れ直すよ」と言った。
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