仮初めの甘い誘惑

水城ひさぎ

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お気に入りの画家

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「白山和風先生じゃないですかっ?」

 いきなり腕をつかまれて、驚いて振り返ると、茶髪の青年が、「やっぱり、和風先生じゃないですかー」と笑顔を見せる。

 あ、どうしよう。私が白山和風だって、まだ夏凪さんに話してないのに。今のでバレてしまっただろう。

「和風……」

 ぽつりとつぶやいた夏凪さんを見上げる。彼はひどく驚いた様子でこちらを見ていた。

「あ、あのっ」
「和風先生、こちらの方は? 同業の方ですか?」

 夏凪さんに説明しなきゃと思うのに、青年はせっかちに話しかけてくる。

 何度会っても、彼の自分本位なところが苦手だ。ギャラリーのオーナーだから、むげにはできずにいるけれど、それもいけないのだろう。のらりくらりと交わすだけの私から、彼はいつまで経っても離れてくれない。

「佐那子さん、俺からも尋ねたい。こちらの方は?」

 夏凪さんは悩ましげな顔をしながら、さりげなく私の手を引き、彼から引き離してくれる。嫌がってることに気づいてくれたのだろう。

「えっと、こちらの方は、ギャラリー鈴のオーナー、天野鈴矢あまのすずやさんです。こちらは私の友人です。展覧会を見に来てくださったんです」

 夏凪さんの名前はあえて紹介しなかった。天野さんに詮索されるのは嫌がるだろうと思ったのだ。

「ギャラリーのオーナーなのか」

 夏凪さんは、ふーん、とうなずくだけで、黙っていた。名乗る必要は感じなかったみたい。天野さんの不躾な態度を、彼も快く思わなかったのだろう。

「ええ、ギャラリー鈴の天野と言います。和風先生とは、今日はご一緒に? それとも、こちらでたまたま?」

 天野さんの質問に冷や冷やしてしまう。夏凪さんは一見、紳士に見えるけれど、怒らせたら、場所をかまわず機嫌を態度に出す人だ。

 黄藤でけんかされたら大変だ。もう二度と、私の作品を扱わないとも言われかねない。

「夏凪さん、出ましょうか?」
「いや、まだ作品を見てないから帰らないよ」

 そう言って、彼は天野さんの前に進み出る。

 何をする気だろう。かたずを飲んで見守る。

「今日は一緒に来ましたので、お仕事の話でしたら後日にでも。プライベートな時間ですので、どうぞご容赦ください」

 穏やかに言う夏凪さんの、隙のない態度にほっと息をつく。

 夏凪さんだけでなく、安堵した私にも面白くなかったのか、天野さんは不機嫌そうな雰囲気をかもしだしたが、今日は引くことにしたのだろう。すぐに、私の方へ作り笑顔を向けて言う。

「またご連絡します。専属作家の件、諦めてませんから。次はいいお返事を期待してます」
「それは先日……」

 お断りしました、と言い終える前に、天野さんはとりつく島のない背中を見せて立ち去ってしまった。

 やっぱりなんだか、苦手な人だ。今日は夏凪さんがいてくれてよかった。

 疲れを感じて、私に寄り添うように立つ夏凪さんの腕にそっと手を添える。

「佐那子さん、大丈夫か?」
「えっ、……あ、ごめんなさい」

 無意識に彼に触れていた。パッと手を離すが、すぐに指先を絡め取られてしまう。

「な、夏凪さんっ?」
「こうしていれば、知り合いがいても、デートだって気づいて話しかけてこないさ。あの男はそういうのも関係なさそうだけどな」

 苦々しくそう言った夏凪さんだけど、すぐに気を取り直すと、手をつないだまま歩き出す。

 骨ばった指に、男の人を感じてドキドキしてしまう。高鳴る胸の原因は、それだけじゃないかもしれない。

 出会ったときは私にひどく立腹していた彼だけど、私もひどい態度を取ってしまったから、お互いさまだった。

 あれから彼は私に優しかったし、施設の子どもたちと触れ合う姿を見ていても、優しい人だと思えた。

 そして、天野さんから冷静に守ってもらえてうれしかった。

「天野さんは半年ぐらい前に、私の絵が気に入ったから取引したいって連絡をくださったんです。一度、ギャラリー鈴へ出かけて、いろいろとお話をうかがったんですけど、あまりにいい条件を提示されるので、かえって不審に感じてしまって、専属契約のお話はお断りしたんです」

 夏凪さんに知ってほしくて、私はそう言った。

 天野さんはまた私に会いに来るだろう。その確信があるから、彼に迷惑をかけてしまうかもしれないと思ったのだ。

「絵画以外が目的だから、相応の好条件を提示したんじゃないか? なんにしても、顔からして、信用ならない男に見えたけどな」
「そうですね……、あまり良くないうわさを聞いたりもします」

 画家志望の若い女の子とホテルに入っていくのを見たといううわさ話が、昔からいくらでもある人だと、何度か耳にした。

「信太朗がうさんくさいやつが近づいてくるって言ってたのは、あいつのことだったんだな。佐那子さんも、しかるべき相手と契約するといい。あいつが手も出せないようなね」
「そんなギャラリーあるでしょうか」
「俺はあると思うけどね。あとは、佐那子さん次第かな」

 夏凪さんは私を励ましてくれると、中央のパーテーションに飾られた油絵の前で足を止めた。

 どきりとする。見つけられてしまった。

 いま、彼の目に映る赤い紅葉の油絵は、私が1年の歳月をかけて描いたものだ。

「やっぱり、実物は間違いないな」

 彼は油絵に近づいて、食い入るように眺めたり、少し離れると、じっと見入って、そう言った。

「秋を描くのは苦手なんですけど、今年は向き合ってみたくて描きました」

 白山和風が『紅葉』を描き、お披露目するのは初めてのことだった。今でも、上手に描けているのかわからなくて自信がない。

 澄んだ空に浮かぶ白い雲に、赤く色づいたもみじ……、淡い赤、濃い赤、どこまでも赤い赤いもみじ……。

 この絵を見た人は何を感じるだろう。
 夏凪さんは、何を感じただろう。

「苦手? どうして」

 夏凪さんは意外そうにこちらを見る。

「憎いんです」

 ぽつりと言う。

「憎い……?」
「母が死んだんです、秋に」

 夏凪さんは知ってるだろうか、それを。
 私たちの母を奪った、紅葉を。

「佐那子さんの母親は確か、14年前に……」
「はい。もみじ狩りに出かけた日帰り旅行の帰り道、バスの横転事故でこの世を去りました」

 彼は眉をひそめて、私を見つめる。

「四季先生と母は仲が良かったですから、あの日、一緒にバス旅行へ出かけたんです。私が学校から帰る前に帰宅するって言ってたのに全然帰ってこなくて……」

 声が震え、口もとを覆う。

 さみしくてさみしくて、ずっと暗い部屋で母の帰りを待っていた。

「私……、憎かったんです、母を奪った紅葉が。でも、母が死ぬ前に見た美しい紅葉をいつか描いてみたかったんです。母の喜びを、私も感じてみたかった」

 彼は無言で、うつむく私を胸に引き寄せる。

 泣いてしまいそうになったけど、彼のぬくもりが私を包み込むから、涙は流れ落ちずにまぶたにとどまる。

 私には、この人が……夏凪さんが必要だ。

 それは直感だったけど、私を理解してくれる唯一の人なんだって思えたのだ。

「だからこんなにも、哀愁があるんだな」

 彼はそう言って、私の顔をのぞき込む。

「大丈夫だ。佐那子さんが描きたかったものは全部、この中にあるよ」
「本当? 夏凪さんの目には、そう見える?」
「ああ。きっと俺の母さんも、こんなにも細かい濃淡のある赤いもみじをかき分けた佐那子さんの成長を喜んでるよ。白山和風は、母さんの最初で最後の弟子なんだろ? 誇らしく思ってるよ」
「……ありがとう、ありがとうございます」

 14年過ぎて、ようやく向き合えた母の死を、四季先生の息子である夏凪さんに認めてもらえて、私の心は救われた気がした。

 やっと、やっと、画家を名乗ってもいい、と思えた。

「それにしても、なんだろうな、白山和風の画風には、いろんな感情を揺さぶられるが、どんな絵にも最後には優しさを感じるんだよな。懐かしくて帰りたくなるような気分になる。どこに帰るのかって聞かれたら、ちょっと困るんだけどな」

 夏凪さんはしげしげと『紅葉』を眺め、照れくさそうに笑う。

「うれしいことをおっしゃってくださるお客さまですね」

 後ろから声をかけられて、びっくりして振り返る。

 いつからいたのだろう。私たちを微笑ましげに見つめる紳士がいる。背筋がピンと伸びた気品ある彼は、ギャラリー黄藤の守谷オーナーだ。

「守谷さん、お世話になります」
「はい、和風先生、こんにちは。そちらの素敵な紳士は和風先生の?」

 ちょっと意味ありげな視線を向けられて、あわててしまう。

「あっ、いいえ。お世話になってる神林さんの息子さんで、神林夏凪さんです」
「ああ、深山四季先生の」
「は、はいっ、そうです。そう言った方がわかりやすかったですね。ちょっと動転しちゃって……」

 何を動転したのかってからかわれちゃいそうで、目をそらす。

 ちらっと夏凪さんをうかがうと、彼はどこか不満そうに私を見下ろしていた。

 きっと、私たちを恋人同士だって誤解した守谷さんを全否定したから、不機嫌になったのかもしれない。

「和風先生の画風は四季先生に通じるものがありますね。日本にとどめておくのはもったいない。そうは思いませんか?」

 守谷さんはそう、夏凪さんに話しかける。

「それが、ギャラリーの専属契約を断った理由ですか?」

 不躾な質問にも関わらず、守谷さんはうっすら笑んで、うなずく。

「私では力不足になる。そう思ったんですよ。いくつかのギャラリーから良いお話があるとうかがいましたが、私はどこもおすすめしません。世界的規模のあるギャラリーと契約できるといいのですが」
「守谷さんのギャラリーでも、それは可能な気がしますが」
「それは、おそれ多い。私はね、新人の方に活躍の場を与えたいだけなんですよ。和風先生にはもっと自由に羽ばたいていただきたい。その場が提供できるのは、一つしかないと思いますが?」
「なるほど。おっしゃることはわかりました」
「やはり、話が早い。さすが、世界のトップですね」

 守谷さんは夏凪さんがトップアートオークションの社員だって知ってたのだろうか。

「必ず、ご期待にお応えします」
「お願いしますよ。和風先生はいずれ、日本の宝になりますから。何がなんでも守り通さないといけませんね」

 夏凪さんは笑顔でその言葉を受け止めた。

 それから、展覧会会場に飾られたすべての作品を見て回った彼は、帰り際に守谷さんに呼ばれてしばらく話し込んでいた。

 最後には名刺交換をして戻ってきた彼が、「さあ、帰ろうか」と、あまりにも自然に私の手を握るから、私も思わず握り返していた。
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