仮初めの甘い誘惑

水城ひさぎ

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永遠の条件

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「はい、佐那子です。実花ちゃんを見つけました。お母さんに会いたいって泣いてるので、少し落ち着かせてから帰ります。職員のみなさんにも無事だって伝えてください。……ええ、実花ちゃんには何も聞かないであげてください。よろしくお願いします」

 村上さんのほっとした声を聞いたあと電話を切ると、すぐさま手の中のスマートフォンは目の前の男に取り上げられた。

「さすが、和風先生。ご立派です」

 天野さんは満足そうに笑む。

「さあ、天野さんのおっしゃるようにしました。実花ちゃんをはやく返してください」

 そう言って、天野さんの背後へと視線を移す。

 ここはギャラリー鈴の店内だ。薄暗い店内の奥にある、赤いチェアーの上で実花ちゃんはぐったりとしていた。

 カウンターの上には、飲みかけのオレンジジュースが置いてあり、その横にはクロシェットのロゴの入った紙袋がある。

 実花ちゃんはクロシェットのオレンジジュースを飲んで眠ってしまった。ドリンクの中に睡眠薬を入れられたのかもしれない。すぐにそれを疑ったが、証明するには、あのオレンジジュースを持って帰らないといけない。

 実花ちゃんを抱いて、ドリンクも持って逃げられるだろうか。

 なんとかして逃げられる方法はないかと視線を動かすと、視線の先に回り込んできた天野さんが、私のほおにスッと触れた。

 ビクッとして、彼を見る。狡猾な目をした男がさらに手のひらをほおの奥へと滑り込ませてくる。

「和風先生は美しい。凛として優雅で、あなた自身が人類の最高傑作のようですよ」
「うわさを知らないわけじゃないんです。そうやって、いつも女の人をくどいてるんですか?」
「いやだな、違いますよ。彼女たちは有名になりたくて、俺に身体を開くんです。和風先生は違うでしょう?」

 すんなりとうわさを認めた彼は、くすりと笑って私から離れると、実花ちゃんの隣にあるいすへと腰かけた。

「実花ちゃんを返して」
「脱いでください」
「え……?」
「俺が脱がせるだけじゃ興奮しない。和風先生自ら脱いでくださいよ。じっくりと眺めてから、可愛がってあげますよ」

 そう言うと、天野さんはスマートフォンのカメラレンズをこちらへと向ける。動画を撮る気なのだ。

 ぎゅっと胸元を握りしめる。天野さんの要求を飲んだら、これから先もずっと、動画を脅しの材料にして関係を迫ってくるだろう。

 逃げなきゃ。でも、実花ちゃんを連れて、どうやって。

 一歩踏み出すと、天野さんは「おっと」と、片手をあげた。

「それ以上近づいたら、この子がどうなるかわかってるんですか?」
「何をする気」
「なにも動画は和風先生じゃなくたっていいんです」

 彼はカメラを実花ちゃんの方へ向け、スカートのすそをつかむ。

「やめてっ!」
「じゃあ、俺の言う通りにしてくださいよ、先生」

 ふたたび、こちらにカメラが向けられる。

 私はごくりと喉を鳴らし、うなずいた。

 私はずっと、施設を守るために、子どもたちの笑顔を守るためにがんばってきた。こんなことでその夢を果てさせるわけにはいかない。

 天野さんに抱かれることなんて大したことじゃない。

 少し前は恋人なんていらないと思ってたし、結婚もしたいと思ってなかった。これが済んだら、実花ちゃんの笑顔が戻ったら、私も少し前の……、夏凪さんに会う前の私に戻るだけ。

「わかりました。実花ちゃんには絶対手を出さないと約束してください」
「もちろん。和風先生が手に入るなら、ほかはもう、何もいらないですよ」
「脱げばいいんですね」
「そう。俺の方を向いて、きちんと見えるように」

 ワークショップのある日は動きやすいようにとジーンズにスニーカーを履いてきている。ゆっくりとスニーカーを脱いで、ひんやりとした床に足を下ろす。

 どこかに逃げ場はないかと考えながら、カーディガンのボタンを外していく。

 後ろには、ギャラリーの入り口があるが、天野さんはガラス扉に鍵をかけていた。彼の後ろにいる実花ちゃんを連れて、鍵のかかった扉を開けて外に出るのは難しい。

 せめて、実花ちゃんが目を覚ましてくれたら、隙を見つけられるかもしれないけれど……。

 実花ちゃん、起きて。

 と祈りながら、カーディガンを脱ぎ、床に落とす。

 舌なめずりをする天野さんから目を背ける。

 まだ夏凪さんに抱かれてもいない。彼は私を大事にしたいと言ってくれて、きっともっとたくさんデートを重ねてから、そういう関係になろうとしてくれていたのだと思う。

 天野さんはカメラをかまえたまま立ち上がり、こちらへ近づいてくる。

「和風先生、どうしました?」
「……わかってます」

 インナーのシャツに触れようとする彼の手を払って、腕を交差させてすそをつかむ。

 脱げばいい。それだけで、実花ちゃんは嫌な思いをすることなく帰れるのだし、子どもが守れるなら、これは私の本望だ。

 そう言い聞かせてみるけれど、さっきから夏凪さんの笑顔が浮かんで消えてくれない。

「和風先生」
「……いや」

 手を下げる。

 できない。脱げない。天野さんに指一本触れられたくない。

「先生、もう遅いですよ。何をしたってもう逃げられないんですから」

 天野さんはスマートフォンを放り投げると私の腕をつかんだ。

「やめて」

 痛みで顔をしかめると、もう片方の手で髪をつかまれる。

「本当に強情な人だ。気が強くて可愛げがない」
「あなただって、最低な人だわ」
「ああ、そうですよ。じゃあ、最低な者同士、交わってみましょうか。きっと天国が見れますよ」

 彼の手を引きはがそうとした時、いきなり突き飛ばされて、後ろにあったソファーに倒れ込んだ。

 天野さんが覆い被さってくる。あわてて振り上げた腕をつかまれて、ソファーに押し付けられる。

 もうダメ……。

 そう思ったときだった。

「すみませーん。誰かいますかー?」

 ギャラリー鈴のガラス扉が叩かれた。

 この声は……。

「誰だよ」

 舌打ちした天野さんは「無視しておけばいい」と言うと、私のあごをつかむ。

 どうしよう。この声は、この声は……。

「すみませーん! 神林です。天野さーん、見えませんかー?」

 夏凪さんはコツコツコツと扉をいらだたしげに叩いている。

 きっと、私がここにいるってわかってくれてる。

「神林……? どこかで……」

 天野さんが考え込むようにつぶやいたとき、彼の胸を突き飛ばして叫んだ。

「夏凪さん! 助けて!」
「……佐那子っ?」

 夏凪さんの焦るような声が聞こえて、ドアノブが強く押された。しかし、鍵がかかっていて開かない。

「あいつか。クソッ」

 吐き捨てる天野さんの横をすり抜け、実花ちゃんに駆け寄る。眠ったままの彼女を抱き寄せ、怒りに満ちた顔で近づいてくる彼をにらみつける。

「佐那子っ! 下がってろ!」

 夏凪さんの叫び声が聞こえたと同時に、ガシャーンッと大きな音がして、ガラス扉にかかるカーテンを突き破るスツールが見えた。

 スツールを放り出した手の持ち主が、割れたガラスをいとわずに鍵のつまみを探してあてると、ドアを開いて飛び込んでくる。

「佐那子……っ!」

 夏凪さんは私を見つけると、みるみるうちに表情を怒りに変え、天野さんを激しくにらみつけた。
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