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恋が始まる
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小坂晃弘の再就職先が決まったと熊井紀子に聞いたのは、まだまだ暑い日の続く晩夏のことだった。
怜司さんと別れてから和音に行くことを意図的に避けていた私は、気の進まないままではあったが、仕事を終えたその足で和音へと向かっていた。
けして小坂くんに会いたくないわけではない。この扉の向こうにもし怜司さんがいたらと思うと、情けなくも身がすくんでしまうのだ。
おそるおそる取手に手を伸ばした時、思いがけず内側から扉が開く。
「あ……朝霧さんっ」
ほうきを手にした小坂くんが現れる。彼はひどくびっくりした様子だ。
「あの、久しぶりね。掃除?」
「あ、ああ、階段が汚れてるってお客さんに教えてもらってさ。驚いたな、まさか朝霧さんがいるなんて思わないからさ。不意打ちってやつ。すぐに片付けてくるから中に入って」
「いいのよ。小坂くんの顔が少し見れたら良かっただけだから」
「俺?」
「就職が決まったって聞いたわ。おめでとう」
「それを言いにだけ来たの? なんか………朝霧さんってやっぱり優しいなぁ。もう会えないかと思ってたから嬉しいよ」
小坂くんはにっこり笑って、店の扉を大きく開ける。
「最近石神さんも全然来てなくてさ。朝霧さん元気かなって気になってたから、少しぐらい話しよう」
「じゃあ怜司さんは今日も来てないの?」
「来てないよ。もう二ヶ月ぐらい見てないかな」
私と別れてから怜司さんもここを訪れていないようだ。彼も私に会いたくないから、ここへ来ることをやめてしまったのかもしれない。
小坂くんは私たちが別れたことを知らないのだろう。「石神さんは元気?」などと罪のない笑顔を見せる。
「私も知らないの。でもきっと元気よ」
「変な言い方だね」
「小坂くん、はやく掃除してきた方がいいわ。中で待ってるわね」
妙に表情を歪めた小坂くんを促すと、店内へと歩を進めた。
カウンター席に腰掛けて一息つく。店内を見渡す限り、怜司さんの姿はない。
いなくて良かった。そう思いながら、会いたかった気持ちが私の中にあったのだと気づかされ、動揺が胸に広がる。
私はまだ怜司さんが好きだ。当たり前だ。あんな別れ方で忘れられるわけがない。今でも苦しげに目を背けていた彼の横顔が浮かぶ。
なぜそんな顔するの?って尋ねていたら、何か変わっていたかもしれないなんて思ったりもする。たとえ私たちの終着点が別れであったとしても。
ほどなくして小坂くんは戻ってきた。カウンターをはさんで向かい側へと立つなり、「さっきの話」と切り出す。
「最近石神さんに会ってない?」
不躾に尋ねるものだ。そう思いながらも、言葉はすんなりと出た。
「そう、すっかり終わったの」
「そうなんだ……。でもさ、短くても後悔のない付き合いなら良かったんじゃないかな」
「なんだか、夢だったのかしらって思うぐらい何にも残ってないの」
「現実味がないんだね」
小坂くんは私よりも悲しげに息を吐く。
「気にしないで。もう落ち込んでないわ」
「別れたくなかったんだ?」
「それはそう。だって彼にやっと素直な気持ちが言えたつもりだったから。でも重すぎたのよ。すごく自分の気持ちだけ押し付けようとしてた」
「朝霧さんは素直なんだよ」
「小坂くんの言う通り、いつからか私が追いかけちゃうみたい。そうすると男の人は逃げてくの」
「ぜいたくな男だよね。羨ましいよ。でもさ、別れたくないならそう言えばいいんだよ。その気持ちは重いわけじゃないと思うな」
「そうね……。今それを考えてたところ。別れたくないって言ったら何か変わったのかしら。でもね、誰かを傷つけるぐらいなら別れて良かったとも思うの。私が悪あがきするかどうかだけの話」
「石神さんに好きな人でも出来た?」
「最初からいたの。知らないふりしてただけ」
「本当に? 信じられないな」
小坂くんは目を丸くする。それほど意外なことだろうか。怜司さんほどの魅力的な男性なら、私じゃなくてもと思う人はいくらでもいるだろうに。
「何も聞いてないから詳しくは知らないの。でも、子供がいるぐらいなんだもの。簡単なことじゃないのよ」
「えっ……、まさか。子供がいるって、想像つかないな」
「勘違いじゃないのよ。この目で見たんだから」
怜司さんは休日には保育園に通う春翔くんのお迎えをしていて、彼からパパと呼ばれていた。彼らが親子であることは明らかだった。
「何か事情があって一緒に暮らしてないだけで、それでも家族なんだわ」
「家族か。そうだよな。石神さんってすごく家族思いだから。朝霧さんも同じだよね。ご両親は離れ離れになっても、ちゃんと家族してる。家族の形っていろいろあるんだろうなって思うよ」
「だから良かったのよ。あの家族を壊すようなことしなくて良かったの、私は」
結婚したいぐらい好きだなんて告白した私は、彼と家族になりたがったように見えて滑稽だっただろう。最初から遊びの付き合いだったというのに。
沈痛な面持ちでうつむく私の頭上から優しい声が降り注ぐ。
「遊びではなかったと思うよ。俺が見た石神さんは、いつも朝霧さんのこと大事にしてた」
「気休めでも嬉しいわ」
自然と胸元に手が動く。怜司さんと別れたあの日から、他のアクセサリーではしっくりこなくて、いつも彼からのプレゼントを身につけている。
納得して別れたなんて嘘。落ち込んでないなんて嘘。ずっと未練がましく彼を好きでいる気持ちが本当。
「石神さんにもらった?」
小坂くんは何気に察しがいい。人の心を気遣う繊細さがあるのだろう。
「そう。つけてると、安心するの。だからなかなか捨てれなくて。おかしいでしょ?」
「良かったじゃないか」
「え?」
「朝霧さんは何にも残ってないなんて言ったけど、残ってるものはあったね。プレゼントしようと思った気持ちも、ネックレスを選んでる時の気持ちも。その気持ちがあるのは、石神さんが朝霧さんを好きだったっていうこと。全部確かな気持ちだったんだって証拠がそこにあるんだ」
「……小坂くん」
「石神さんの気持ちに嘘はなかったって思いたいね」
「本当ね。本当にそう。……ありがとう、小坂くん。あ、変ね。涙が出てくるなんて」
慌てて目元を押さえる。それでも涙は止まらなくて。怜司さんを思って泣く日なんてもう来ないと思っていたのに。
小坂くんはハンカチを差し出しながら、私を励ますように明るい声で言った。
「幸せだった分の涙が出るんだよ。朝霧さんは本当に幸せだったんだね」
小坂晃弘の再就職先が決まったと熊井紀子に聞いたのは、まだまだ暑い日の続く晩夏のことだった。
怜司さんと別れてから和音に行くことを意図的に避けていた私は、気の進まないままではあったが、仕事を終えたその足で和音へと向かっていた。
けして小坂くんに会いたくないわけではない。この扉の向こうにもし怜司さんがいたらと思うと、情けなくも身がすくんでしまうのだ。
おそるおそる取手に手を伸ばした時、思いがけず内側から扉が開く。
「あ……朝霧さんっ」
ほうきを手にした小坂くんが現れる。彼はひどくびっくりした様子だ。
「あの、久しぶりね。掃除?」
「あ、ああ、階段が汚れてるってお客さんに教えてもらってさ。驚いたな、まさか朝霧さんがいるなんて思わないからさ。不意打ちってやつ。すぐに片付けてくるから中に入って」
「いいのよ。小坂くんの顔が少し見れたら良かっただけだから」
「俺?」
「就職が決まったって聞いたわ。おめでとう」
「それを言いにだけ来たの? なんか………朝霧さんってやっぱり優しいなぁ。もう会えないかと思ってたから嬉しいよ」
小坂くんはにっこり笑って、店の扉を大きく開ける。
「最近石神さんも全然来てなくてさ。朝霧さん元気かなって気になってたから、少しぐらい話しよう」
「じゃあ怜司さんは今日も来てないの?」
「来てないよ。もう二ヶ月ぐらい見てないかな」
私と別れてから怜司さんもここを訪れていないようだ。彼も私に会いたくないから、ここへ来ることをやめてしまったのかもしれない。
小坂くんは私たちが別れたことを知らないのだろう。「石神さんは元気?」などと罪のない笑顔を見せる。
「私も知らないの。でもきっと元気よ」
「変な言い方だね」
「小坂くん、はやく掃除してきた方がいいわ。中で待ってるわね」
妙に表情を歪めた小坂くんを促すと、店内へと歩を進めた。
カウンター席に腰掛けて一息つく。店内を見渡す限り、怜司さんの姿はない。
いなくて良かった。そう思いながら、会いたかった気持ちが私の中にあったのだと気づかされ、動揺が胸に広がる。
私はまだ怜司さんが好きだ。当たり前だ。あんな別れ方で忘れられるわけがない。今でも苦しげに目を背けていた彼の横顔が浮かぶ。
なぜそんな顔するの?って尋ねていたら、何か変わっていたかもしれないなんて思ったりもする。たとえ私たちの終着点が別れであったとしても。
ほどなくして小坂くんは戻ってきた。カウンターをはさんで向かい側へと立つなり、「さっきの話」と切り出す。
「最近石神さんに会ってない?」
不躾に尋ねるものだ。そう思いながらも、言葉はすんなりと出た。
「そう、すっかり終わったの」
「そうなんだ……。でもさ、短くても後悔のない付き合いなら良かったんじゃないかな」
「なんだか、夢だったのかしらって思うぐらい何にも残ってないの」
「現実味がないんだね」
小坂くんは私よりも悲しげに息を吐く。
「気にしないで。もう落ち込んでないわ」
「別れたくなかったんだ?」
「それはそう。だって彼にやっと素直な気持ちが言えたつもりだったから。でも重すぎたのよ。すごく自分の気持ちだけ押し付けようとしてた」
「朝霧さんは素直なんだよ」
「小坂くんの言う通り、いつからか私が追いかけちゃうみたい。そうすると男の人は逃げてくの」
「ぜいたくな男だよね。羨ましいよ。でもさ、別れたくないならそう言えばいいんだよ。その気持ちは重いわけじゃないと思うな」
「そうね……。今それを考えてたところ。別れたくないって言ったら何か変わったのかしら。でもね、誰かを傷つけるぐらいなら別れて良かったとも思うの。私が悪あがきするかどうかだけの話」
「石神さんに好きな人でも出来た?」
「最初からいたの。知らないふりしてただけ」
「本当に? 信じられないな」
小坂くんは目を丸くする。それほど意外なことだろうか。怜司さんほどの魅力的な男性なら、私じゃなくてもと思う人はいくらでもいるだろうに。
「何も聞いてないから詳しくは知らないの。でも、子供がいるぐらいなんだもの。簡単なことじゃないのよ」
「えっ……、まさか。子供がいるって、想像つかないな」
「勘違いじゃないのよ。この目で見たんだから」
怜司さんは休日には保育園に通う春翔くんのお迎えをしていて、彼からパパと呼ばれていた。彼らが親子であることは明らかだった。
「何か事情があって一緒に暮らしてないだけで、それでも家族なんだわ」
「家族か。そうだよな。石神さんってすごく家族思いだから。朝霧さんも同じだよね。ご両親は離れ離れになっても、ちゃんと家族してる。家族の形っていろいろあるんだろうなって思うよ」
「だから良かったのよ。あの家族を壊すようなことしなくて良かったの、私は」
結婚したいぐらい好きだなんて告白した私は、彼と家族になりたがったように見えて滑稽だっただろう。最初から遊びの付き合いだったというのに。
沈痛な面持ちでうつむく私の頭上から優しい声が降り注ぐ。
「遊びではなかったと思うよ。俺が見た石神さんは、いつも朝霧さんのこと大事にしてた」
「気休めでも嬉しいわ」
自然と胸元に手が動く。怜司さんと別れたあの日から、他のアクセサリーではしっくりこなくて、いつも彼からのプレゼントを身につけている。
納得して別れたなんて嘘。落ち込んでないなんて嘘。ずっと未練がましく彼を好きでいる気持ちが本当。
「石神さんにもらった?」
小坂くんは何気に察しがいい。人の心を気遣う繊細さがあるのだろう。
「そう。つけてると、安心するの。だからなかなか捨てれなくて。おかしいでしょ?」
「良かったじゃないか」
「え?」
「朝霧さんは何にも残ってないなんて言ったけど、残ってるものはあったね。プレゼントしようと思った気持ちも、ネックレスを選んでる時の気持ちも。その気持ちがあるのは、石神さんが朝霧さんを好きだったっていうこと。全部確かな気持ちだったんだって証拠がそこにあるんだ」
「……小坂くん」
「石神さんの気持ちに嘘はなかったって思いたいね」
「本当ね。本当にそう。……ありがとう、小坂くん。あ、変ね。涙が出てくるなんて」
慌てて目元を押さえる。それでも涙は止まらなくて。怜司さんを思って泣く日なんてもう来ないと思っていたのに。
小坂くんはハンカチを差し出しながら、私を励ますように明るい声で言った。
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