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恋が始まる
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休日には家族そろって夕食を食べる。それは一人暮らしを始める時、両親と交わした約束でもあった。
夕食を終えた後、仏間に移動した俺は、遊び疲れて寝てしまった春翔を抱きかかえ、消えそうなほど小さな音のするテレビを見ていた。役者がほとんど何を言っているのかわからないが、ドラマは俺を取り残したまま進んでいく。
「なあ、兄さん、本当にこれでいいのか?」
ぽつりとつぶやくように兄に語りかけるが、自問でもある。
和美と別れてから二ヶ月ほどが経つ。同じ地下街の店で働いている和美の噂は時々耳にした。そのほとんどが、ミゾタ靴店に綺麗な店員がいるというおおざっぱなものだったが、胸はざわついた。
和美は誰の目から見ても綺麗なのだ。彼女には俺の代わりはいくらでもいる。その現実を突きつけられているようで、ため息が出ない日はない。
もう終わった恋なのに。俺が終わらせた恋なのに、まだ俺は彼女を求めている。
出来はしないことを望むのは高望みではないか。何度かミゾタ靴店の前を通り、和美の姿を遠目に見ては、また彼女を得ようなんて虫のいい話だと自分の気持ちを抑えてきた。
「あら春翔、寝ちゃったのね。怜司くん、お風呂が沸いたけど、入っていく?」
ふすまが開いて、みのりさんが顔を覗かせる。春翔を風呂に入れようと思っていたようだが、眠った彼に気づくとすぐそう言う。
「いや、もう帰るよ。明日は仕事だ」
「そうね。せっかくの休みなのにいつもありがとう」
みのりさんは俺の隣に腰を下ろすと、俺から春翔を受け取る。眠ってしまった春翔を抱き上げるのは大変そうだ。これからますます大変になっていくのだろう。春翔には父親が必要だ。そう思う瞬間だ。
「君が喜んでくれるならかまわないよ」
「あいかわらず優しいのね。今日はもう大丈夫よ」
「次はあさってに来るよ」
「ええ、おやすみなさい」
立ち上がった俺は、みのりさんの後ろへと視線をずらす。
「兄さん、帰るよ。また話そう」
そう言って、静かに微笑むみのりさんに背を向けて仏間を後にした。
*
もうすぐ夏が終わる。真っ暗な夜空の下には生暖かい風が吹いている。
和美と別れてから季節が変わった。それだけ彼女に触れていない期間は長いのに、いまだに彼女のぬくもり、香り、感触がこの手によみがえる時がある。
今夜も悪夢を見そうだ。
そんなことを考えながら駅に向かって歩いていると、一台のタクシーが俺の横を通り過ぎ、小さなアパートの前で停まった。
後部座席に寄り添う二人の頭が見える。降りてきたのは若い男だ。
俺はハッとして足を止めた。若い男の横顔に見覚えがある。黒ベストこそ着ていないものの、長く通ったバーの店員だ。すぐに彼と気づく。
小坂晃弘は後部座席に手を差し出す。すると、ドアの下に闇夜を彩る真っ赤なヒールを履いた白い足が現れ、歩道を頼りなく踏む。
後部座席を降りてきた若い女は、少し酔った様子で小坂から離れようとするが、彼はそれをさせまいと彼女の手をつかんだまま言った。
「部屋まで送るよ、朝霧さん」
休日には家族そろって夕食を食べる。それは一人暮らしを始める時、両親と交わした約束でもあった。
夕食を終えた後、仏間に移動した俺は、遊び疲れて寝てしまった春翔を抱きかかえ、消えそうなほど小さな音のするテレビを見ていた。役者がほとんど何を言っているのかわからないが、ドラマは俺を取り残したまま進んでいく。
「なあ、兄さん、本当にこれでいいのか?」
ぽつりとつぶやくように兄に語りかけるが、自問でもある。
和美と別れてから二ヶ月ほどが経つ。同じ地下街の店で働いている和美の噂は時々耳にした。そのほとんどが、ミゾタ靴店に綺麗な店員がいるというおおざっぱなものだったが、胸はざわついた。
和美は誰の目から見ても綺麗なのだ。彼女には俺の代わりはいくらでもいる。その現実を突きつけられているようで、ため息が出ない日はない。
もう終わった恋なのに。俺が終わらせた恋なのに、まだ俺は彼女を求めている。
出来はしないことを望むのは高望みではないか。何度かミゾタ靴店の前を通り、和美の姿を遠目に見ては、また彼女を得ようなんて虫のいい話だと自分の気持ちを抑えてきた。
「あら春翔、寝ちゃったのね。怜司くん、お風呂が沸いたけど、入っていく?」
ふすまが開いて、みのりさんが顔を覗かせる。春翔を風呂に入れようと思っていたようだが、眠った彼に気づくとすぐそう言う。
「いや、もう帰るよ。明日は仕事だ」
「そうね。せっかくの休みなのにいつもありがとう」
みのりさんは俺の隣に腰を下ろすと、俺から春翔を受け取る。眠ってしまった春翔を抱き上げるのは大変そうだ。これからますます大変になっていくのだろう。春翔には父親が必要だ。そう思う瞬間だ。
「君が喜んでくれるならかまわないよ」
「あいかわらず優しいのね。今日はもう大丈夫よ」
「次はあさってに来るよ」
「ええ、おやすみなさい」
立ち上がった俺は、みのりさんの後ろへと視線をずらす。
「兄さん、帰るよ。また話そう」
そう言って、静かに微笑むみのりさんに背を向けて仏間を後にした。
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もうすぐ夏が終わる。真っ暗な夜空の下には生暖かい風が吹いている。
和美と別れてから季節が変わった。それだけ彼女に触れていない期間は長いのに、いまだに彼女のぬくもり、香り、感触がこの手によみがえる時がある。
今夜も悪夢を見そうだ。
そんなことを考えながら駅に向かって歩いていると、一台のタクシーが俺の横を通り過ぎ、小さなアパートの前で停まった。
後部座席に寄り添う二人の頭が見える。降りてきたのは若い男だ。
俺はハッとして足を止めた。若い男の横顔に見覚えがある。黒ベストこそ着ていないものの、長く通ったバーの店員だ。すぐに彼と気づく。
小坂晃弘は後部座席に手を差し出す。すると、ドアの下に闇夜を彩る真っ赤なヒールを履いた白い足が現れ、歩道を頼りなく踏む。
後部座席を降りてきた若い女は、少し酔った様子で小坂から離れようとするが、彼はそれをさせまいと彼女の手をつかんだまま言った。
「部屋まで送るよ、朝霧さん」
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