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恋が始まる
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「朝霧さんってあんまりお酒強くないんだね? いつもよりちょっと多めに飲んだかなってぐらいだったのに、酔い潰れるんだもんな」
小坂くんは私を抱き寄せるように肩に手を回してくると、耳元でくすっと笑った。
他意のない会話。他意のない彼の手。それなのに他意があるように感じてしまうのは、私が酔っているからだろう。
「部屋まで送るよ」
「大丈夫。歩けるわ」
彼の優しい手をやんわりと突き放す。
「タクシー待たせてもいけないから、行って」
私の拒否で傷ついた彼の表情を見たら、申し訳ない気持ちになる。小坂くんは優しい。だからこそ、彼の好意に甘えてもいけなかったと思うのだ。
「……じゃあ行くよ。気をつけて」
「心配しないで。またね」
そう言ったら、小坂くんは少しだけ目を輝かせ嬉しそうにする。
「もう和音にはいないけど、また会える?」
「え、……ええ」
思わぬ期待をさせてしまったのではないかと案じ、短く返事をするにとどめたが、彼はそれでも満足そうだった。
「本当に気をつけて」
彼はそう言うと、タクシーに乗り込んで帰っていった。
タクシーのテールランプが見えなくなるまで見送った後、アパートに戻ろうとした私は足を止めた。
ハッとする。いつからいたのだろう。視界の端に人影がある。あまり遅い時間ではないけど、辺りは薄暗い。小坂くんとの会話に気を取られていた私は、そこに人がいることに気づかなかった。
人影が動く。顔をそちらへ向けた私は、体がすくんでいくのを感じた。
「怜司さん、どうして……」
久しぶりに会う。それなのに、彼と対峙したら、私たちが会っていなかった時間なんてわずかなものだったと思えてくる。彼への想いが鮮明によみがえってくる。
怜司さんは無言で私の前に立つと、ひとことだけ言う。
「デート?」
小坂くんと一緒にいたところは見ていたのだ。そう気付いたら、私の中に誤解されたくない思いがふくらむ。
「あの、違うの。小坂くん、就職が決まってバイト辞めるの。今日は再就職のお祝いを和音でしたけど、ちょっと酔ってしまって。マスターが心配して、小坂くんに送るように言ってくれて。私は仕事中だから大丈夫って断ったんだけど、結局送ってくれたの」
怜司さんの無言の圧力が私を早口にさせる。彼に伝わってるかもわからないまま言い終えると、沈黙がある。
それ以上言葉が見つからず、喉を詰まらせる私に、怜司さんの柔らかな声が届く。
「あなたには関係ないって言われるかと思ったよ」
「……え」
「君はすぐに心配かけさせるから、俺も心配で帰れそうにない。部屋はどこ?」
「どこって……」
「ご主人はいないんだろ? いるなら迎えに来るよな」
怜司さんは私の手を取る。あいかわらずだ。彼の左の薬指には結婚指輪が光る。彼の環境は何も変わってないのだろう。
「本当に、大丈夫ですから……」
彼は強引だ。「何階?」と尋ねて歩き出す。つい二階と答える私の手を引いたまま階段へ向かう。
「あの、怜司さんはどうして?」
「自宅が近い」
「……自宅から帰る途中ですか?」
「ああ」
前に春翔くんと一緒にいた怜司さんに会ったのもこの近くだったから、それは事実だろう。だけど、聞いて欲しくないように彼の返事は短かった。
「驚きました」
「ここはよく通る。驚くこともないよ」
階段を昇りきり、私は一番手前の部屋の前に進む。
「ここなので、もう大丈夫です」
「ご主人は?」
「……いません」
怜司さんが夫の存在を気にする理由がわからない。迷った挙句、正直に答える。もう彼に嘘をつく理由はないのだ。
「それは今はいないっていうこと? 今日は帰らないっていうこと?」
「両方です」
「恋人は?」
「そんなの、いないに決まってます。じゃあこれで」
頭を下げた後、怜司さんを見ないまま玄関ドアを開けようとしたその時、彼の手が私の背後から伸びてきてドアを押さえた。
「なに……?」
「ネックレス、してくれてるんだな」
ネックレスに沿って彼の指が首筋を這う。ぞくっとしてしまうのはまだ彼の指を覚えているからだ。
「……和美、少しだけ抱きしめてもいいか?」
切なげな声が耳に届いた時には彼の腕に包まれていた。背中に触れる彼の胸も、耳たぶに触れる彼の唇も、まだ何も忘れていないんだって体が反応する。
「何を言って……」
もう会ったらいけないと言われ、それを忠実に守りながら今日まで過ごしてきた。彼を嫌いになることなんて何一つなく、また会いたかった気持ちが溢れて体が震える。
「話を聞いてもらえないか」
「話すことなんて」
「和美が必要なんだ」
「……そんなの勝手だわ」
彼の手を振り払い、玄関ドアを開ける。すぐに中へ逃げ込もうとしたが、それは彼の手によって阻まれる。
「話すだけでいい。一緒にいてくれるだけでいい」
後ろから抱きしめてくる彼の声は頼りなくて、私の体から力が抜けていく。私は彼に甘い。勝手だとわかってるのに拒めない。
「少しだけ……こうしていてくれ」
泣いているのかと思うような苦しげな声だ。
「何かあったの?」
思わず尋ねた。前なら聞けなかったことも、今なら聞ける気がした。
怜司さんは私の胸の前で交差した腕に力を込め、そして首筋に額を押し付けてため息と共に吐き出す。
「結婚しようと思ってる。なのになかなか決心がつかなくてね……」
「朝霧さんってあんまりお酒強くないんだね? いつもよりちょっと多めに飲んだかなってぐらいだったのに、酔い潰れるんだもんな」
小坂くんは私を抱き寄せるように肩に手を回してくると、耳元でくすっと笑った。
他意のない会話。他意のない彼の手。それなのに他意があるように感じてしまうのは、私が酔っているからだろう。
「部屋まで送るよ」
「大丈夫。歩けるわ」
彼の優しい手をやんわりと突き放す。
「タクシー待たせてもいけないから、行って」
私の拒否で傷ついた彼の表情を見たら、申し訳ない気持ちになる。小坂くんは優しい。だからこそ、彼の好意に甘えてもいけなかったと思うのだ。
「……じゃあ行くよ。気をつけて」
「心配しないで。またね」
そう言ったら、小坂くんは少しだけ目を輝かせ嬉しそうにする。
「もう和音にはいないけど、また会える?」
「え、……ええ」
思わぬ期待をさせてしまったのではないかと案じ、短く返事をするにとどめたが、彼はそれでも満足そうだった。
「本当に気をつけて」
彼はそう言うと、タクシーに乗り込んで帰っていった。
タクシーのテールランプが見えなくなるまで見送った後、アパートに戻ろうとした私は足を止めた。
ハッとする。いつからいたのだろう。視界の端に人影がある。あまり遅い時間ではないけど、辺りは薄暗い。小坂くんとの会話に気を取られていた私は、そこに人がいることに気づかなかった。
人影が動く。顔をそちらへ向けた私は、体がすくんでいくのを感じた。
「怜司さん、どうして……」
久しぶりに会う。それなのに、彼と対峙したら、私たちが会っていなかった時間なんてわずかなものだったと思えてくる。彼への想いが鮮明によみがえってくる。
怜司さんは無言で私の前に立つと、ひとことだけ言う。
「デート?」
小坂くんと一緒にいたところは見ていたのだ。そう気付いたら、私の中に誤解されたくない思いがふくらむ。
「あの、違うの。小坂くん、就職が決まってバイト辞めるの。今日は再就職のお祝いを和音でしたけど、ちょっと酔ってしまって。マスターが心配して、小坂くんに送るように言ってくれて。私は仕事中だから大丈夫って断ったんだけど、結局送ってくれたの」
怜司さんの無言の圧力が私を早口にさせる。彼に伝わってるかもわからないまま言い終えると、沈黙がある。
それ以上言葉が見つからず、喉を詰まらせる私に、怜司さんの柔らかな声が届く。
「あなたには関係ないって言われるかと思ったよ」
「……え」
「君はすぐに心配かけさせるから、俺も心配で帰れそうにない。部屋はどこ?」
「どこって……」
「ご主人はいないんだろ? いるなら迎えに来るよな」
怜司さんは私の手を取る。あいかわらずだ。彼の左の薬指には結婚指輪が光る。彼の環境は何も変わってないのだろう。
「本当に、大丈夫ですから……」
彼は強引だ。「何階?」と尋ねて歩き出す。つい二階と答える私の手を引いたまま階段へ向かう。
「あの、怜司さんはどうして?」
「自宅が近い」
「……自宅から帰る途中ですか?」
「ああ」
前に春翔くんと一緒にいた怜司さんに会ったのもこの近くだったから、それは事実だろう。だけど、聞いて欲しくないように彼の返事は短かった。
「驚きました」
「ここはよく通る。驚くこともないよ」
階段を昇りきり、私は一番手前の部屋の前に進む。
「ここなので、もう大丈夫です」
「ご主人は?」
「……いません」
怜司さんが夫の存在を気にする理由がわからない。迷った挙句、正直に答える。もう彼に嘘をつく理由はないのだ。
「それは今はいないっていうこと? 今日は帰らないっていうこと?」
「両方です」
「恋人は?」
「そんなの、いないに決まってます。じゃあこれで」
頭を下げた後、怜司さんを見ないまま玄関ドアを開けようとしたその時、彼の手が私の背後から伸びてきてドアを押さえた。
「なに……?」
「ネックレス、してくれてるんだな」
ネックレスに沿って彼の指が首筋を這う。ぞくっとしてしまうのはまだ彼の指を覚えているからだ。
「……和美、少しだけ抱きしめてもいいか?」
切なげな声が耳に届いた時には彼の腕に包まれていた。背中に触れる彼の胸も、耳たぶに触れる彼の唇も、まだ何も忘れていないんだって体が反応する。
「何を言って……」
もう会ったらいけないと言われ、それを忠実に守りながら今日まで過ごしてきた。彼を嫌いになることなんて何一つなく、また会いたかった気持ちが溢れて体が震える。
「話を聞いてもらえないか」
「話すことなんて」
「和美が必要なんだ」
「……そんなの勝手だわ」
彼の手を振り払い、玄関ドアを開ける。すぐに中へ逃げ込もうとしたが、それは彼の手によって阻まれる。
「話すだけでいい。一緒にいてくれるだけでいい」
後ろから抱きしめてくる彼の声は頼りなくて、私の体から力が抜けていく。私は彼に甘い。勝手だとわかってるのに拒めない。
「少しだけ……こうしていてくれ」
泣いているのかと思うような苦しげな声だ。
「何かあったの?」
思わず尋ねた。前なら聞けなかったことも、今なら聞ける気がした。
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