嘘つきフェイク

水城ひさぎ

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恋が始まる

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 彼にとって私は、まるで精神安定剤のようだ。

 背中から伝わる彼の激しい鼓動が、次第に落ち着いていくのを感じる。

「……悪い」

 ようやく取り乱していた自分に気づいたのだろう。彼はそっと私から離れる。そして私の部屋に押しかけた自分を恥じるように玄関を出ていこうとする。

「春翔くんのことですか?」

 彼の背中に声をかけた。彼が結婚を悩んでいるからって、私には何も関係のないことだ。おせっかいしても仕方ない。そう思うのに、つらそうな彼をこのまま帰すことが出来なかった。

「え?」
「春翔くんのことで結婚に決心がつかないんですか? 私には想像がつかないですけど」

 春翔くんは、みのりさんと怜司さんの子であることは明白だ。婚姻関係を結ぶことにためらいがある理由など私には想像できない。

「コーヒーぐらいなら、ありますから」
「和美……」

 キッチンへ向かう私をしばらく呆然と見ていた怜司さんだったが、コーヒーの香りが小さなリビングに漂う頃には靴を脱いでいた。

「酔いは?」
「すっかり醒めました。だって怜司さんに会うなんて思ってなかったから」

 ローテーブルの前に腰を下ろす彼に、コーヒーを差し出す。不思議と心は穏やかだ。

 彼は結婚するのだ。
 その事実が私の期待や希望を破壊し、彼への想いが無になろうとしているからかもしれない。

「結婚のお相手は、みのりさんですよね?」

 冷静に尋ねると、怜司さんは観念したように眉を下げる。尋問してるわけじゃないのに、妙な罪悪感を覚える。

「別にすごく知りたいわけじゃないですから」
「わかってるよ。君の気持ちはわかってる」

 嘘だ。わかるはずなんてないだろう。そう思う私がいるのに、怒りはわいてこない。

「そう、君の言う通りだよ。相手はみのりさんだ。彼女から求婚されてね。その時は受け入れるつもりもなかったが、春翔の成長を見るたびに心は揺らいだ」
「みのりさんのこと、愛してないの?」
「好きな女性というのではないな。好きだったら迷うことはないだろう」
「私から見たら、お似合いですよ」

 そう言ったら、胸がチクリと痛んだ。

「……そうか」

 怜司さんは沈黙する。

 何を話してるんだろう、私たちは。彼の悩みは簡単に解決できなくて、私が何か言って救えるわけでもなかったのに。

「帰りますか?」

 腰を浮かしかける私をハッと見上げた彼は、「いや、もう少し」と手で制する。

「君に話すのは筋違いな気もするが……」
「筋違いです。私の気持ちがわかってるなら、結婚に悩んでるなんて言えないはずですから」
「……そうだな。ただ君以外に話す相手がいない。だから少し聞いて欲しい。君が背中を押してくれるなら、もしかしたらいい答えが見つかるかもしれない」

 いい答えは私にとって最悪なものだろう。だけど、聞かなきゃいけないのだ。それほど彼は憔悴している。

「みのりさんは、怜司さんを愛してるの?」
「どうだろう。いや、たぶん愛してくれてるんだろう。彼女も春翔の父親が欲しくて結婚を望んでるだけではないとは思う」
「思うって? 確かめてはないの?」
「極力さけてきた話だ。みのりさんの本心は聞いたことがない」
「それが問題なんですね。でもわかる気がします。怜司さんは私の本心を聞く気なんてなかったから」
「……和美」
「怖いんですよね? みのりさんが本気じゃないってはっきり知るのが。でも大丈夫です。みのりさんは怜司さんが好きですよ。そうじゃなきゃ、結婚したいなんて言わないと思います」
「君の言う通りかもしれないな。身代わりなんて……思うから悩むんだ」
「身代わり?」
「ああ」

 怜司さんは結婚指輪に触れる。スルリとそれを外し、私の前にコツリと置く。

 リビングのライトが指輪を照らすと、傷が浮かび上がる。以前見た時とほとんど変わらない傷がそのままそこにある。

「これは形見なんだ」
「……そう、ですか」

 それは小坂くんから聞いた。

「驚かないんだな。 関心がない……か」
「どなたの? ぐらいには関心があります」
「そうか。君は意外と淡白だな。さっきから距離を感じる。仕方なく俺の話に付き合ってるのはわかるよ」

 怜司さんの乾いた笑いがむなしい。無言で見つめる私と目を合わせると、ため息を落とす。

「兄貴の形見だよ」
「え……」
「交通事故で亡くなったんだ。指輪の傷はその時の事故でついたものだ。ちょうど春翔が1歳の誕生日に」
「それじゃあ……」
「ああ、みのりさんは兄貴の奥さんだった。春翔の父親は、俺の兄貴、石神春真はるまだよ」

 思いがけない告白だったが、妙に納得する私もいる。

「春翔くんが怜司さんに似てるのは、そういうこと……」
「似てる? やっぱりそう思うか。そうだな、似てるかもしれないな」
「怜司さんもきっとお兄さんに似てるんですね。だから余計に心配ですか? みのりさんが怜司さんの中にお兄さんを見てるんじゃないかって」
「そうだ……それはそうだ。みのりさんの本心はきっとそうじゃないかなんて思う時はある」
「でも、確信はないんですよね? それは確かめるしかないじゃないですか。みのりさんが違うっていうなら、怜司さんの答えは見つかります」

 さっきから私は何を言ってるんだろう。彼も、私に何を求めているのか。

「君は祝福してくれるか?」
「急に、何ですか?」
「もし兄貴が生きていて、君が結婚していなかったら、俺たちはもしかしたら……」
「ありえない過程の話に意味はないです」
「もう遅いかもしれないが。俺は君が好きだよ。ただ……」
「ただ、みのりさんを愛さなきゃいけないから……なんて言葉聞きたくないです。みのりさんとのことに悩むのは、怜司さんがみのりさんを大切に思ってるからです。あんまりもう、私を傷つけないでください」

 泣きたくないのに、涙がぽたりと落ちる。

「和美、俺は……」
「もう帰って。怜司さんは自分の気持ちがわかってないだけ」
「和美はご主人とうまくいってるか?」
「私は、朝霧和美です。それだけです」
「……そうか」

 怜司さんは小さくため息を吐きだし、両手で口元を覆ってむせび泣く私をいつまでもただジッと見つめていた。

 私が朝霧でなければ、怜司さんと結婚できただろうか。いや、朝霧だったからこそ、彼と恋に落ちることが許されたのだ。

 私はまだ朝霧和美だ。そしてまだ、彼を愛している。

 会うたびに、あなたに恋をする。
 会うたびに、愛は深くなる。

 そう言えたら、また彼と愛し合える日は来たのだろうか。
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