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あなたか私か
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俺は何を期待していただろう。泣き濡れる和美を見つめながら、声をかけることも出来ない自分にふがいなさを感じていた。
君をまだ好きだ。
そんなことを言ったところでどうにもならない。和美が俺に結婚しないでほしいなんて言うとでも思っていただろうか。
俺の身勝手さに泣く和美は、か細い声で「帰ってください」と言った。
和美と別れたあの日、俺は彼女にそう言った。もう会ったらいけない。帰るようにと。この時になるまで、それを言われた彼女の心痛を察することが出来なかったなんて情けない。
愛想を尽かされて当然だ。
そんな思いがよぎる中、胸元にあるネックレスを押さえている彼女をぼんやりと見つめていた。
和美はまだ俺を愛してくれている。
俺に話せない気持ちを抱えたまま、俺へ想いを残していると、そう思えてならなかった。
思わず、深いため息が出る。
結婚へ踏み切ろうと思っていたのに、和美に会ったら余計に気持ちが揺らいだだけだった。
「怜司くん、朝霧って珍しい名前ねー」
「え……?」
みのりさんの声に驚いて、我にかえる。
「だから朝霧さんって苗字よ」
和美のことか?とハッとするが、それは杞憂だったようだ。キッチンに立つみのりさんの視線は、俺を越えてテレビに向けられている。
「今の、見てなかった?」
「あ、いや、すまない。ぼんやりとしか」
「怜司くんはワイドショーに興味ないわよね。今ね、映画の紹介してたの。それでね、主演女優が日本舞踊を好演技って」
目の前に広げたままだった新聞を閉じる。テレビ欄に朝霧の名は記載されてない。地方番組のほんの小さなコーナーで紹介された程度の話なのだろう。
「へえ、そう。それで?」
「日本舞踊の先生がすごく綺麗な人だって騒いでるニュースだったわ。昔は芸能界にスカウトされたこともあるみたい。地元はここなんですって。そんなすごい人が近くにいるんだわって思って。怜司くんのお店なら有名人なんて普通に来そうだけど知らない?」
「さあ、知らないなー」
「そう、残念。この辺り出身の芸能人って意外といないじゃない?」
「日本舞踊の先生なんだろう? 芸能人じゃない」
「私にしてみたら一緒よ」
ちょっと笑いつつ、話を戻す。
「その先生が朝霧だって?」
「ええ、珍しい名前と思って」
「言われてみれば、そうかな。気にしたこともなかったな。それだけ?」
「それだけよ、おかしい?」
「いや、そんなことないよ」
アイスコーヒーを運んできたみのりさんは、くすりと笑う俺を嬉しそうに見つめてきて、自然と隣に寄り添ってくる。
「怜司くんがそんな風に笑うの、久しぶりね」
そう言って、みのりさんは俺の左手を愛しそうに撫でた。
みのりさんに左手を触れられると身体に緊張が走る。それを悟られまいと、努めて力を抜く。そうしている間にも彼女は愛しげに俺の指に触れ、兄の形見の結婚指輪をそっと撫でていく。
「怜司くん……、今日は来てくれるなんて思ってなかったわ。どういう風の吹き回し?」
みのりさんはちょっと意地悪に尋ねる。
それはそうだ。彼女の誘いに乗って二人きりで会うことなどまずない。むしろ避けてきた。
みのりさんに結婚して欲しいと言われた一年前、兄が亡くなった後もたびたび春翔を連れて自宅を訪れる彼女から逃げるように家を出た。
兄の春真を亡くしたショックから立ち直れていなかった両親は、俺を手放すことに抵抗を見せたが、休日には自宅に戻ることを条件に一人暮らしは許された。
家を出てからみのりさんとこうして二人きりで過ごすのは、初めてのことかもしれない。
彼女に呼び出されて駆けつける時も、春翔が熱を出すなど、彼に何かあった時だけだ。ただ会いたいからという理由で彼女の元へ来たことなどない。
それが今日は、ためらいもなく彼女の誘いを受けたのだから、揶揄気味に問うのは当然だろう。
「いや、別に」
「別に、なの? 嬉しかったのに」
気の利いた言葉が見つからず、結局そんなことしか言えない。好意を見せるような素振りなど、冗談でもしてはいけないと体が強張るのだ。
「私たちの休みが合うなんてほとんどないんだもの。だから余計に嬉しいの」
みのりさんは俺の腕を押し引く。私の方を見て、と言わないばかりに顔をのぞかせる。
「怜司くん……」
甘めの声で俺の名を呼ぶ。
目を閉じて顎をあげる彼女が求めているものに応えなくてはいけない。
みのりさんの肩に手を置き、顔を寄せる。目を閉じて唇を重ねるだけのことだ。
和美にしてきたことはとても簡単だったのに、彼女には難しい。そう思ったら和美の泣き顔が浮かんで。
俺は和美に触れるだけで、どんな幸せも与えられなかったのに、それでも彼女は俺を愛していると言ってくれた。
俺も和美が好きだ。その思いが胸を苦しめて、どうしてもみのりさんに触れられない。
「ごめん……」
みのりさんは兄の愛した女だ。そしてまだ兄を愛している女だ。和美を愛している俺が触れていい理由などどこにもない。
「いいのよ……」
みのりさんは俺の腕に頬を寄せて、悲しげにつぶやく。
俺の葛藤をわかってくれてはいるのだろう。だが、俺が彼女を傷つけているのは事実だ。
「もう少しだけ、時間が欲しい」
この一年、与えられてきた時間が十分でないなら、いつならこの結婚に合意できる日が来るのかなんて俺にわかりはしない。
だがそう言うしかなくて、黙り込む俺の背中に手を置いた彼女は、心配そうに眉を寄せて問う。
「怜司くん、好きな人でもいるの……?」
俺は何を期待していただろう。泣き濡れる和美を見つめながら、声をかけることも出来ない自分にふがいなさを感じていた。
君をまだ好きだ。
そんなことを言ったところでどうにもならない。和美が俺に結婚しないでほしいなんて言うとでも思っていただろうか。
俺の身勝手さに泣く和美は、か細い声で「帰ってください」と言った。
和美と別れたあの日、俺は彼女にそう言った。もう会ったらいけない。帰るようにと。この時になるまで、それを言われた彼女の心痛を察することが出来なかったなんて情けない。
愛想を尽かされて当然だ。
そんな思いがよぎる中、胸元にあるネックレスを押さえている彼女をぼんやりと見つめていた。
和美はまだ俺を愛してくれている。
俺に話せない気持ちを抱えたまま、俺へ想いを残していると、そう思えてならなかった。
思わず、深いため息が出る。
結婚へ踏み切ろうと思っていたのに、和美に会ったら余計に気持ちが揺らいだだけだった。
「怜司くん、朝霧って珍しい名前ねー」
「え……?」
みのりさんの声に驚いて、我にかえる。
「だから朝霧さんって苗字よ」
和美のことか?とハッとするが、それは杞憂だったようだ。キッチンに立つみのりさんの視線は、俺を越えてテレビに向けられている。
「今の、見てなかった?」
「あ、いや、すまない。ぼんやりとしか」
「怜司くんはワイドショーに興味ないわよね。今ね、映画の紹介してたの。それでね、主演女優が日本舞踊を好演技って」
目の前に広げたままだった新聞を閉じる。テレビ欄に朝霧の名は記載されてない。地方番組のほんの小さなコーナーで紹介された程度の話なのだろう。
「へえ、そう。それで?」
「日本舞踊の先生がすごく綺麗な人だって騒いでるニュースだったわ。昔は芸能界にスカウトされたこともあるみたい。地元はここなんですって。そんなすごい人が近くにいるんだわって思って。怜司くんのお店なら有名人なんて普通に来そうだけど知らない?」
「さあ、知らないなー」
「そう、残念。この辺り出身の芸能人って意外といないじゃない?」
「日本舞踊の先生なんだろう? 芸能人じゃない」
「私にしてみたら一緒よ」
ちょっと笑いつつ、話を戻す。
「その先生が朝霧だって?」
「ええ、珍しい名前と思って」
「言われてみれば、そうかな。気にしたこともなかったな。それだけ?」
「それだけよ、おかしい?」
「いや、そんなことないよ」
アイスコーヒーを運んできたみのりさんは、くすりと笑う俺を嬉しそうに見つめてきて、自然と隣に寄り添ってくる。
「怜司くんがそんな風に笑うの、久しぶりね」
そう言って、みのりさんは俺の左手を愛しそうに撫でた。
みのりさんに左手を触れられると身体に緊張が走る。それを悟られまいと、努めて力を抜く。そうしている間にも彼女は愛しげに俺の指に触れ、兄の形見の結婚指輪をそっと撫でていく。
「怜司くん……、今日は来てくれるなんて思ってなかったわ。どういう風の吹き回し?」
みのりさんはちょっと意地悪に尋ねる。
それはそうだ。彼女の誘いに乗って二人きりで会うことなどまずない。むしろ避けてきた。
みのりさんに結婚して欲しいと言われた一年前、兄が亡くなった後もたびたび春翔を連れて自宅を訪れる彼女から逃げるように家を出た。
兄の春真を亡くしたショックから立ち直れていなかった両親は、俺を手放すことに抵抗を見せたが、休日には自宅に戻ることを条件に一人暮らしは許された。
家を出てからみのりさんとこうして二人きりで過ごすのは、初めてのことかもしれない。
彼女に呼び出されて駆けつける時も、春翔が熱を出すなど、彼に何かあった時だけだ。ただ会いたいからという理由で彼女の元へ来たことなどない。
それが今日は、ためらいもなく彼女の誘いを受けたのだから、揶揄気味に問うのは当然だろう。
「いや、別に」
「別に、なの? 嬉しかったのに」
気の利いた言葉が見つからず、結局そんなことしか言えない。好意を見せるような素振りなど、冗談でもしてはいけないと体が強張るのだ。
「私たちの休みが合うなんてほとんどないんだもの。だから余計に嬉しいの」
みのりさんは俺の腕を押し引く。私の方を見て、と言わないばかりに顔をのぞかせる。
「怜司くん……」
甘めの声で俺の名を呼ぶ。
目を閉じて顎をあげる彼女が求めているものに応えなくてはいけない。
みのりさんの肩に手を置き、顔を寄せる。目を閉じて唇を重ねるだけのことだ。
和美にしてきたことはとても簡単だったのに、彼女には難しい。そう思ったら和美の泣き顔が浮かんで。
俺は和美に触れるだけで、どんな幸せも与えられなかったのに、それでも彼女は俺を愛していると言ってくれた。
俺も和美が好きだ。その思いが胸を苦しめて、どうしてもみのりさんに触れられない。
「ごめん……」
みのりさんは兄の愛した女だ。そしてまだ兄を愛している女だ。和美を愛している俺が触れていい理由などどこにもない。
「いいのよ……」
みのりさんは俺の腕に頬を寄せて、悲しげにつぶやく。
俺の葛藤をわかってくれてはいるのだろう。だが、俺が彼女を傷つけているのは事実だ。
「もう少しだけ、時間が欲しい」
この一年、与えられてきた時間が十分でないなら、いつならこの結婚に合意できる日が来るのかなんて俺にわかりはしない。
だがそう言うしかなくて、黙り込む俺の背中に手を置いた彼女は、心配そうに眉を寄せて問う。
「怜司くん、好きな人でもいるの……?」
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