嘘つきフェイク

水城ひさぎ

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あなたのために

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 和美の体に回った腕が目の前にちらつく。

 和美はあの男と付き合い始めたのだろうか。俺を愛していないと言った言葉は本当だったのだろうか。

 みのりさんと歩きながら、そんなことばかり考えていた。

 和美に誰が触れようと、俺にはもう関わることさえ許されない。夫がいると信じていた頃は、彼女の体を別の男と共有することなどかまわないと思っていたのに、結婚していないと知った途端、独占欲がわくなんて。

 あの男は……、和音のバーテンダーは、いつから和美に惚れていたのだろう。俺と和美が別れたことを知って、彼女を誘ったのだろうか。

 もう和美は、俺のことなど忘れてしまったのだろうか。

 取り留めのない考えに陥る俺を呼び覚ますような声が届いてハッとする。

「怜司くん、水……」

 アパートへ戻ってきたみのりさんは、足元をふらつかせてソファーへと倒れ込み、仰向けになって手をあげる。

 半分目を閉じて、至福の笑みを浮かべるみのりさんを見下ろす。

 みのりさんと結婚はしなくても、春翔の父親代わりになりながら、今まで通りの関係を続けていけたら、また和美と元の関係に戻れるんじゃないかなんて考えていた。

 それは甘かっただろうか。

 和美の気持ちがいつまでも俺のものだなんて高をくくっていた結果、あの小坂という男に隙を与えてしまったようだ。

 もう和美は忘れなければならない。未練がましく過去を懐かしむのは、もう終わりにしなければならない。

 ソファーに横になるみのりさんの側にかがみ込む。

「怜司く……ん?」

 不思議そうに首を傾げる彼女の髪に指を通す。

 みのりさんを抱くだけでいい。みのりさんは兄を、俺は和美を、それで忘れられる。

「怜司くん……いいのよ……」

 みのりさんは俺の頬に手を当てて、顔を寄せる。

 初めてみのりさんに会ったのは、兄に結婚したい女性がいるのだと紹介された時だった。

 それまでも兄は自宅に恋人を呼ぶこともあり、中には心惹かれる女性もいた。しかし、俺に緊張した笑顔を見せたみのりさんを、俺はけして好きにならない女だと思った。それほど兄にお似合いだった。

 もし兄の恋人が和美だったなら、と思う。俺はもしかしたら、彼女を奪っていたかもしれない。そう思うほど、和美が俺の心を占めている。彼女が俺のものになるなら、誰のものでもかまわないぐらいに。

 現に、以前の俺はそれで満足していた。和美を抱いて、彼女で癒される日々を幸せに感じていた。
 それももう終わりだ。何度も終わったのだと言い聞かせてきた。

 みのりさんの腕が俺の首に回る。彼女は春翔の父親が欲しいだけだ。そう思いながら、ブラウスのボタンに指をかける。

 好きだという言葉も、唇へのキスも、彼女へはしてやれないまま、無言で首筋に顔を埋めた。

 鎖骨をなぞりながら、細い首に唇を這わせていく。ブラウスの前身を開きながら、上下する胸のふくらみに指を這わせていく。まるでそこに和美の感触を探すように。

「怜司くん……」
「黙って」

 この身体が和美じゃないのだと知らしめる声など聞きたくなくて、みのりさんの唇に指を当てるが、彼女は眉を寄せる。

「キスして……怜司くん」
「……ベッドに行こうか」

 みのりさんを抱き上げる。早く抱いてしまわないとと、そんな気持ちになる。迷いが生まれたらきっと抱けなくなるだろう。

「待って。待って……」

 俺を引きとめようと襟元をつかむみのりさんを無視したまま、無言でベッドルームに入る。

「結婚はする」

 そう言って、みのりさんをベッドに下ろす。暗闇で俺を見つめる彼女の瞳が揺れている。

「それは……」

 みのりさんは俺の手を探り、不安げに言う。

「それは愛せないって言ってるの……?」
「みのりさんの望むことはする」

 愛してると言って欲しいなら、俺はそれを言うだろう。口先だけならなんとでも言えるのだ。

 和美もそうだった。俺を引き止めるために嘘をついてきた。いつも傷ついた目をして、嘘をつく罪悪感に苦しみながら、それでも俺を愛してくれていた。

 言葉で発するのと体を受け入れるのとは違う。和美はその心も体も、すべての愛を俺に向けていたのに、俺は彼女の言葉にだまされてきた。

 だったら、みのりさんもだまされていればいい。真実など言葉にしなければどんな意味も持たない。

 今でも後悔している。

 和美が真実の告白をした時、俺はなんと言っただろう。もう会わない方がいいと、別れを告げたのではなかったか。

 あの時、和美はどんな思いでいたのだろう。どんな思いで、俺を慕い続けていたのだろう。真実など知らずにいれば良かった。

 俺は結局、誰も愛せず、誰かを傷つけながら生きていくしかできないのだ。

「結婚してくれたらそれでいいわけじゃないの」
「兄貴のように優しくはしてやれない」

 愛しい女でさえ優しく抱いてやったことはない。みのりさんにそれが出来るとは思えない。

「本当は、あの子とも別れて欲しいって思ってるの……」

 みのりさんにかぶさる俺の胸を彼女は押し止める。

「……」
「わかってるのよ、私」
「なんの話?」
「怜司くんに好きな人がいるの、わかってるの。別れられないこともわかってるの。それでもいいから結婚して欲しい……でも私のことも、愛して欲しいの」
「……欲張りだな」

 やはり気づいていたのか、とため息が出る。みのりさんは和美のことを知っていて、それでも俺を手放せないという。

 わかっているなら、俺を解放してくれないか。

 叫び出したい気持ちをこらえながら、この苦しみから解放される術を求めてみのりさんの頬を両手でつかみ、顔を近づけていく。

 望むなら、愛のないキスだって俺はできる。

「怜司く……んっ、いやっ」

 みのりさんは頭を左右に振り抵抗した。

「やめて……」
「みのりさんの望みならやめるよ」
「……怜司くん」

 あっさりと身を引く。みのりさんから離れ、ベッドに腰掛ける。頭を抱え、ため息を吐く。

 結局無理なのだ。俺はみのりさんを抱けない。

 後ろから俺を抱きしめるみのりさんは、背中に顔をうずめてくる。

「怜司くん……あの子を忘れて」

 返事を返せない俺に、さらに言う。

「怜司くんが言えないなら私が言うわ」
「何を……?」
「別れるように言うの。あの子ならきっとわかってくれる」

 わかってくれる?

「私のつらい気持ち、あの子は理解してくれたから……」
「理解してくれたって? 彼女に……和美に会った?」

 いつ?

 ゆっくりとみのりさんを振り返る。彼女は申し訳なさそうに目を伏せた。

「和美に会って、なんて?」

 あれも嘘か。みのりさんに会ってないと言ったのも。和美は俺に嘘をついてばかりだ。

 なぜいつも真実に気づいてやれないのだろう。後悔する俺に、みのりさんは言いにくそうに言う。

「私たちの結婚は邪魔しないって言ったわ。あの子、理解してくれたの」
「何をどう理解したって?」
「交換条件よ。結婚を邪魔しないかわりに、怜司くんとは別れなくてもいいって条件を出したの」
「和美は承諾したのか」
「怜司くんが私に会ってくれるから、わかってくれたって思ってるわ」
「そんな……」
「いいじゃない。あの子は結婚してるの。ご主人がいる人を好きになるなんて、怜司くんがどうかしてる」
「……違うんだ」
「え……」
「和美は結婚なんてしてないんだ」

 ぽつりと告白したら、みのりさんの表情は硬くなる。

 みのりさんにはわからないだろうか。和美が結婚していないことが、どれほど俺の支えになっているか。

「みのりさんさえ諦めてくれたら、今すぐにでも和美のところへ行きたいと思ってる」
「そんな……あの子は結婚してるの。どうして結婚してないなんて」
「和美が告白してくれた。俺と別れたくないって、そう思ってたから真実を話してくれたんだと思う」

 勝手な解釈だ。だが、今はその思いにすがるしかない。

「あの子……わかったようなふりをしていただけなのね。私から怜司くんを奪うつもりだったのね」

 シーツをぎゅっと握るみのりさんの拳にこもるのは、怒りか、嘆きか。俺はその手を優しく握り、涙に濡れるみのりさんの瞳を覗き込む。

 澄んだ黒い瞳だ。みのりさんは一途に兄を愛し、真っ直ぐに生きている。

「俺にみのりさんはもったいない……」

 みのりさんは首を横に振る。

「そんなこと言わないで。私には怜司くんが必要よ」
「俺に必要なのは和美だけなんだ。わかってくれないか。俺たちは義姉弟の関係からは抜けられないんだ」
「……いや」

 みのりさんから離れようとすると、彼女はだだをこねるように俺の手を引っ張る。

「和美のところへ行かせて欲しい」
「うなずいたら、あなたは行ってしまうでしょう?」
「みのりさんが本気で俺を好きなら行かないさ。和美を忘れる努力はする」

 いや、みのりさんが最初から俺に本気なら、和美を好きになったりしなかっただろう。

 俺の心を見透かしたみのりさんは、両手に顔をうずめ、声を殺して泣いた。

「兄貴がまだ好きなんだろう? それは、俺を好きだっていうより、俺にとっては何倍も嬉しいことだ」
「でももう春真は……」
「俺は兄貴じゃない。みのりさんの望むようにはやれても、満ち足りた生活は与えてやれない」
「……怜司くん」
「先に拒んだのは、みのりさんだよ。答えはもう出たんじゃないのか?」
「それは……」
「行ったらもう戻らない。それでもいいか?」

 猶予は与えてやれなかった。

 俺はいくらでも和美を待てるが、彼女はそうではないのだ。目を離したら、和美はすぐにいなくなってしまう。

「みのりさん」

 優しく名を呼ぶ。俺は最後まで兄のように、「みのり」とは呼べなかった。その意味を彼女も理解しているはずだ。

「行くよ、みのりさん」

 そう言ったら、みのりさんは小さく肩を震わせ、頭をゆるりと下げた。

「間違ってたわ……私」
「みのりさんは間違ってないさ。ずっと兄貴を愛してる。その気持ちに嘘をついたことは一度もないだろう?」

 俺も和美も嘘をついてばかりだ。不誠実だったのが誰であるかなんて問うまでもない。

「後悔したくないから行くよ」

 後悔なら何度もした。もう俺たちは戻れないかもしれない。それでも行かなくてはいけない。

 最後の後悔をするかもしれないけど、俺は二度と同じ過ちを繰り返さないため、走り出した。
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