嘘つきフェイク

水城ひさぎ

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あなたのために

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***


 小坂くんとしばらく無言で歩いていた。

 地下鉄の駅も通り過ぎ、小坂くんはどこの駅から帰るのだろうと思っていると、彼が不意に尋ねてくる。

「朝霧さん、歩いて帰る?」
「あ、うん。意外とアパートから近いのよ。行きも歩いて来たの」
「じゃあ送っていくよ」
「いいの?」
「大丈夫だよ。もう少し朝霧さんと一緒にいたいし」
「……あ、ありがとう」

 なんて言っていいかわからなくて、ついそう言ってしまったけど、なんだか変だ。

 小坂くんも「お礼言うとこ?」なんてくすくす笑いながらも、ちょっと真面目な表情も見せたりする。

「朝霧さん、俺のことどう思ってる?」
「……どうって。ちょっと難しいわ」
「難しい? どういう風に?」
「あの、すごく優しくていい人だって思ってるわ。ずっとお友達でいましょうっていうのも気がひけるぐらい、私も何か返していかないとって思ってはいるの」
「……迷ってるんだね」
「そう。やっぱりそう。なかなか……ごめんね」
「いいよ。それなら、また会ってくれる?」
「あ、そうね。引っ越しのことも相談したいし、また近いうちに」
「良かった」

 小坂くんは安堵の息を吐き出す。私と恋人になりたいと言った彼の気持ちは健在なのだ。それでも性急な返事は求めてこないから、私がそこに甘えていて、ずっとこのままの関係が続くんじゃないかなんて、彼も不安なのだろう。

「また次に会う時、返事するわ」

 まだ答えは決めていない。それでも今の私には、彼以上に私を大切に思ってくれている友人はいないだろう。

「そうなんだ。覚悟、しておく」

 思いがけない私の返事だったのかもしれない。「もう少しだけ考えさせて」と言った私に緊張ぎみな笑みを見せた小坂くんは、それ以上はなにも言わずにアパートまで送ってくれた。





 このところ、辺りを見回してからアパートの階段をあがるようになっていた。でも今日は違った。怜司さんは今頃みのりさんと一緒に過ごしているのだ。ここに彼が来ることはない。

 私に注いでくれた愛情が奪われていく戦慄で苦しくなる胸を手で押さえながら、一段一段階段を上がっていく。

 怜司さんに会いたい。

 一人になると、いつもその言葉が胸にぽかりと浮かぶ。さっきまで小坂くんと一緒にいて、まぎれていた寂しさが顔を出す。

 もうこんな思いに苦しめられる日は終わりにしたい。それを終わらせてくれるのは、もしかしたら小坂くんかもしれない。

 そう思った時だった。背後がざわついた。誰かが駆けてくる足音が近づいてくる。

 何事かと驚いて振り返った私の目に、一人の青年が飛び込んでくる。どうして……。ここにいるはずのない彼がいる。

「和美っ」

 そう私の名を叫んだ彼は、迷うことなく階段を一気に駆け上がってくる。

「どうして……怜司さん……」
「一人?」

 怜司さんはいつも唐突だ。私の問いには答えず、まっすぐな目で私を見下ろしてくる。

「見ての通りよ」

 あなたの方こそ一人なの?
 そう問いたい気持ちをこらえながら顔を背ける。

「もう来ないで。話すことは何もないって言ったじゃない」

 そのまま逃げ出すように階段を上がろうとすると腕をつかまれる。

「君はいつも嘘ばかりだな」

 そんなこと言いに来たの?と彼を見上げる。非難がましい目をしたのだろう。彼は苦笑して、ため息を漏らす。

「嘘を見抜けない俺が悪いんだろう。君はいつも苦しんでたのに。全然わかってなかった」

 いきなり何を言い出すのだろう。

「もう、嘘なんてないわ」
「それも嘘? 君はみのりさんに会ってないと言ったが、そうじゃなかった。みのりさんが俺との結婚を諦めるように言ったから別れ話をしたなら、なんで相談してくれなかった」
「みのりさんがそう言ったの?」
「聞いたよ、全部」
「だから来たの?」

 そうだと、怜司さんはうなずく。

「みのりさんが君に迷惑かけたのは俺の責任だ。俺がもっとわかってやっていれば良かった」
「そうね。みのりさんに私たちのこと気づかれなければ良かったんだわ。そうしたら傷つけたりしなくてすんだのに」
「和美……」
「でも怜司さんはずっとみのりさんを大切にしてきたんだもの。みのりさんは私にひどいことは何も言わなかったわ。とても優しい人だと思うの。だから怜司さんが失望することなんて何もないのよ」

 みのりさんを疑ってはいけない。怜司さんにそう言うが、彼は眉を寄せるだけ。
 妙な沈黙は苦手だ。彼が何を考え、何を言おうとしてるのか、それがわからない今は、私に与えられるのは恐怖だけだ。

「はやくみのりさんのところへ行ってあげて」

 叫び出したい気持ちをこらえながら言う。

 怜司さんに会いたくてたまらなかったのに追い返すなんて矛盾してる。それでも、こういうことだ。結婚できない彼と付き合うと決めた時から、常にみのりさんの次に彼に会える存在でしかなかった。

「みのりさんには会わないよ」

 怜司さんは浮かない表情でそう言う。

「会わないって……そんなこと出来ないでしょう?」
「もちろん無理だろう。まだ何も解決してないが、会うつもりはもうないんだ」
「どうしてそんなこと言うの?」
「なぜ? 君がまだ好きだからだ。それ以外にないよ」

 ため息混じりにそう告白する怜司さんはなぜだか悲しげだ。

「そんな……」
「君に戻ってきてもらいたいと思ってる」
「無理よ。春翔くんはどうするの? 怜司さんのこと、本当の父親のように慕ってるのでしょう? みのりさんだって……」
「だから俺に我慢しろと? 春翔が大事な気持ちは変わらない。だけど、それ以上に君が大切だ。時間はかかるかもしれないが、解決していく覚悟はある」

 強い口調で私の言葉を遮る。すべてを解決する、そう言われて、すべてを信じることが私にできるだろうか。

「それを私にも背負わせるの?」
「和美……」
「みのりさんや春翔くんを苦しめるってわかってて、私に戻れなんていうの?」
「それは違う。君は傷つく必要ないよ」

 うなだれる私の背中に、そっと彼の手が優しく触れる。
 このまま彼に抱きしめられたら、このまま勢いで抱かれたら、私たちはきっと元に戻れる。虚しい気持ちを抱えながら抱き合うだけの毎日には、戻れるだろう。

「怜司さん……私」
「なに?」
「私、お付き合いしようと思ってる人がいるの」

 勇気を出して言う。怜司さんを忘れるためには、それしか方法が見つからない。

「和音のバーテンダーか?」

 なぜそれを知るのか。そう思うが、それを問い詰める必要はなくて。もう私たちはお互いを密に知り合う必要はない。

「彼はずっと私のこと見守ってくれてたから。私、今度こそ幸せになれるって思ってるの」
「好きじゃない男と付き合って幸せになれはしないよ」
「好きよ……。小坂くんが好きよ……」
「そう言い聞かせてるだけのように感じるよ」
「今日は彼とデートしたの。とても楽しかったから、また会うつもりなの」

 もう一度会ったら、小坂くんの気持ちに応えようと思う。まだ怜司さんを好きだけど、彼ならそれも承知の上で私を愛してくれるだろう。

「どうしても無理か?」
「忘れたいの。誰かを傷つけても、あなたの恋人でいたいなんて思ってたことが間違ってたの」
「まだ俺が好き?」

 頼りなげに私の目を覗き込む彼の指が、私の頬に触れる。

 私たちの関係に不必要だった愛を彼が求めるなんて。初めて彼に抱かれた時は、愛してもらえる日が来るなんて思ってもなかった。

「……答えたくないわ」
「そんな返事では、いいように解釈する」

 優しく頬に触れていく指が唇をなぞる。私を欲しがる彼の目から目が離せない。そうやっていつも、言いたいことも言えずに彼に抱かれてきた。

 怜司さんの唇が近づく。キスをされる。触れたら、彼への思いを隠しておくことなど出来ないだろう。

 かすかに唇が触れ合う。その瞬間、彼の胸を押していた。

 傷ついた表情で私を見下ろす彼から顔を背け、震える手を強く握りあわせる。

「本当のことを言うのが怖いの……わかって、怜司さん」

 声も震えた。堂々巡りの会話を続ける余裕もない。

「さようなら……」

 そう言って、彼の返事を待たず、階段を駆け上がって逃げ出した。
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