15 / 84
第一話 甘い夫婦生活とはなりません
15
しおりを挟む
***
「どういうことなのよ、あなたっ!」
水たまりを勢いよく踏みつけたスニーカーに、水しぶきがかかる。
傘を持っていた手を離し、夫の胸ぐらをつかんだ。
「さ、幸枝……、おまえこそなんでここに」
動揺を隠せない夫は私の手首をつかむと振り払おうとする。
足元で何度も水しぶきが飛んだ。
私たちは終電を迎えようとしている駅前で、通行人の視線を浴びながらもみ合った。
視界の片隅に、両手で顔を覆い、泣く女の姿がある。
悔しかった。
洗練されたあまりに美しい女だ。他に男なんていくらでもいるだろうに、私の夫をなぜ選んだのか。
「ひどい、ひどいわっ!」
「幸枝っ、落ち着きなさ……っ」
夫を突き倒すように胸を押した。
水たまりに足を取られ、革靴を滑らせた夫の身体が傾く。
「あっ!」という叫び声と、「きゃあーっ」という悲鳴。
その瞬間、ライトが私たちを照らした。
まぶしい。
そう感じた時には、鈍い痛みを覚え、雨の降り注ぐ真っ黒な空が見えていた。
*
「千鶴ちゃん、大丈夫か? ……千鶴ちゃん!」
何度も私の名を呼ぶ声がして、反射的にハッと突き上げた手を握られた。
霞む視界の中、金髪の青年が安堵で眉毛を下げる。
「春樹さん……」
「急に倒れるからびっくりしたよ。兄貴には気をつけるように言われてたのにさ、ごめん。こういうこと、よくあるんだよな?」
一気にそう吐き出した春樹さんは、心底申し訳なさそうに眉を下げたまま髪をかき乱す。
「ここは……?」
彼の金髪をくっきりと浮かび上がらせる黒い天井、黒い壁紙___、明らかにどこかの部屋の中にいる。
上体を起こし、重たい頭を振る。
視線の先にある床も真っ黒で、黒いソファーの上にいることに気づく。
「とりあえずネットカフェに来た」
辺りをぐるりと見回し、春樹さんが嘘をついてないことをさとると、額に手を当てる。
「私、気を失って……」
嫌な夢を見た。
激昂する母親の感情や痛みが伝わる生々しい夢。
両親がけんかする姿なんて見たことがなかったから、受けたショックは大きかった。
「病院連れていくか悩んだんだけどさ」
「病院に行っても原因不明なことばかりで……」
息をつくとともに視線を足元に落とす。
ハッとする。めくれ上がるワンピースのすそが見える。
「うん……、千鶴ちゃんの身体のことはなんとなく兄貴から聞いてるから。病院に行くのもどうかなと思ってさ」
ずいっと近づいてきた春樹さんが、同じソファーに腰掛けていることに気づいて、あわててすその乱れを直す。
「俺のこと、男として意識してる?」
私の行動を見て、彼はちょっとだけ意地悪そうに笑う。
「俺と一泊しようか? ここで」
驚いて春樹さんと目を合わせる。少しの沈黙の間、お互いに目を離せなかった。
「そ、そんなことできません。誠さんが許すはずもありません」
「兄貴はもうどこにいるかわかんないよ。今夜は帰らないかもしれないし」
おもむろに春樹さんは腕時計を見る。
「3時間も気を失ってたね、千鶴ちゃん」
「そんなに……」
ひどい失敗だ。
今日を逃したら、来週の水曜日まで真相はわからない。
いや、誠さんは今日何かが解決すると言っていた。
真相を知ることはできないまま、もしかしたら離婚を切り出されるかもしれないという不安を抱えたままの毎日が明日から始まるのだ。
「千鶴ちゃんも浮気しちゃえばいいのに」
「……何を言うんですか」
「俺はこんな可愛い子と結婚したら浮気なんてしないけどね」
そっと苦笑いした春樹さんの手のひらが私のほおに触れる。
骨張った指がほおの上を滑り、不意に真剣な目をした彼の顔が近づいた。
ぎゅっと目を閉じた。
もちろん受け入れるとかではなくて、怖かったから。
誠さんと夫婦らしいことをしたことはないけれど、誠さん以外はいやだった。
コツン、とひたいに温もりがぶつかる。
まぶたをそっと上げると、ひたいを合わせた春樹さんがくすりと笑うのが見えた。
「するわけないじゃん。俺、千鶴ちゃんに本気だから」
「……」
「遊びだったらもう手、出してるし。いつ気失うかわかんない千鶴ちゃんから目を離す兄貴が信じられないよ」
「……それは」
「違うか。兄貴は千鶴ちゃんをずっと閉じ込めてきたんだ、誰の目にも触れないように。俺が連れ出すのを嫌がるはずだ」
春樹さんは私から離れ、ひとりごとのように言う。そしてハッと短い息を吐いて天井を仰ぐ。
「兄貴、なんで仕事でもないのに女に会うかな。浮気じゃなきゃなんだって言うんだ」
「どういうことなのよ、あなたっ!」
水たまりを勢いよく踏みつけたスニーカーに、水しぶきがかかる。
傘を持っていた手を離し、夫の胸ぐらをつかんだ。
「さ、幸枝……、おまえこそなんでここに」
動揺を隠せない夫は私の手首をつかむと振り払おうとする。
足元で何度も水しぶきが飛んだ。
私たちは終電を迎えようとしている駅前で、通行人の視線を浴びながらもみ合った。
視界の片隅に、両手で顔を覆い、泣く女の姿がある。
悔しかった。
洗練されたあまりに美しい女だ。他に男なんていくらでもいるだろうに、私の夫をなぜ選んだのか。
「ひどい、ひどいわっ!」
「幸枝っ、落ち着きなさ……っ」
夫を突き倒すように胸を押した。
水たまりに足を取られ、革靴を滑らせた夫の身体が傾く。
「あっ!」という叫び声と、「きゃあーっ」という悲鳴。
その瞬間、ライトが私たちを照らした。
まぶしい。
そう感じた時には、鈍い痛みを覚え、雨の降り注ぐ真っ黒な空が見えていた。
*
「千鶴ちゃん、大丈夫か? ……千鶴ちゃん!」
何度も私の名を呼ぶ声がして、反射的にハッと突き上げた手を握られた。
霞む視界の中、金髪の青年が安堵で眉毛を下げる。
「春樹さん……」
「急に倒れるからびっくりしたよ。兄貴には気をつけるように言われてたのにさ、ごめん。こういうこと、よくあるんだよな?」
一気にそう吐き出した春樹さんは、心底申し訳なさそうに眉を下げたまま髪をかき乱す。
「ここは……?」
彼の金髪をくっきりと浮かび上がらせる黒い天井、黒い壁紙___、明らかにどこかの部屋の中にいる。
上体を起こし、重たい頭を振る。
視線の先にある床も真っ黒で、黒いソファーの上にいることに気づく。
「とりあえずネットカフェに来た」
辺りをぐるりと見回し、春樹さんが嘘をついてないことをさとると、額に手を当てる。
「私、気を失って……」
嫌な夢を見た。
激昂する母親の感情や痛みが伝わる生々しい夢。
両親がけんかする姿なんて見たことがなかったから、受けたショックは大きかった。
「病院連れていくか悩んだんだけどさ」
「病院に行っても原因不明なことばかりで……」
息をつくとともに視線を足元に落とす。
ハッとする。めくれ上がるワンピースのすそが見える。
「うん……、千鶴ちゃんの身体のことはなんとなく兄貴から聞いてるから。病院に行くのもどうかなと思ってさ」
ずいっと近づいてきた春樹さんが、同じソファーに腰掛けていることに気づいて、あわててすその乱れを直す。
「俺のこと、男として意識してる?」
私の行動を見て、彼はちょっとだけ意地悪そうに笑う。
「俺と一泊しようか? ここで」
驚いて春樹さんと目を合わせる。少しの沈黙の間、お互いに目を離せなかった。
「そ、そんなことできません。誠さんが許すはずもありません」
「兄貴はもうどこにいるかわかんないよ。今夜は帰らないかもしれないし」
おもむろに春樹さんは腕時計を見る。
「3時間も気を失ってたね、千鶴ちゃん」
「そんなに……」
ひどい失敗だ。
今日を逃したら、来週の水曜日まで真相はわからない。
いや、誠さんは今日何かが解決すると言っていた。
真相を知ることはできないまま、もしかしたら離婚を切り出されるかもしれないという不安を抱えたままの毎日が明日から始まるのだ。
「千鶴ちゃんも浮気しちゃえばいいのに」
「……何を言うんですか」
「俺はこんな可愛い子と結婚したら浮気なんてしないけどね」
そっと苦笑いした春樹さんの手のひらが私のほおに触れる。
骨張った指がほおの上を滑り、不意に真剣な目をした彼の顔が近づいた。
ぎゅっと目を閉じた。
もちろん受け入れるとかではなくて、怖かったから。
誠さんと夫婦らしいことをしたことはないけれど、誠さん以外はいやだった。
コツン、とひたいに温もりがぶつかる。
まぶたをそっと上げると、ひたいを合わせた春樹さんがくすりと笑うのが見えた。
「するわけないじゃん。俺、千鶴ちゃんに本気だから」
「……」
「遊びだったらもう手、出してるし。いつ気失うかわかんない千鶴ちゃんから目を離す兄貴が信じられないよ」
「……それは」
「違うか。兄貴は千鶴ちゃんをずっと閉じ込めてきたんだ、誰の目にも触れないように。俺が連れ出すのを嫌がるはずだ」
春樹さんは私から離れ、ひとりごとのように言う。そしてハッと短い息を吐いて天井を仰ぐ。
「兄貴、なんで仕事でもないのに女に会うかな。浮気じゃなきゃなんだって言うんだ」
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
9
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる