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第五話 死後に届けられる忘却の宝物
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「すごい鳴き方でしたけど、大丈夫でしょうか?」
八戸城菜月は心配そうに縁側の方へ視線を移す。俺もつられて庭の奥へと目を向けるが、千鶴さんが茂みに向かって、「かわいい茶色の猫っ」と声をあげるから、そっと笑んで湯呑みのお茶をすする。
「春は猫の恋の季節ですから」
「えっ、……じゃあ、マヨイくんに恋のライバルでも?」
「あるいは、逆か」
「かわいい猫ちゃんたちだから、恋には事欠かないんですね。なんだかちょっと羨ましいです」
切なそうにつぶやく。菜月は堤達也を慕っていた。その気持ちを捨てきれていないのだろう。新しい恋でもすればいいのかもしれないが、そう簡単なものでもないこともわかっている。
「きっと堤先輩は、八戸城さんの幸せを願っていますよ」
そうなぐさめると、彼女は目を閉じた。そして、ゆっくりとまぶたを上げていく。ただまばたきをしただけだ。それだけなのに、頼りなげな光を帯びていた黒い瞳がふたたびまぶたの奥から現れたとき、強烈な既視感に襲われた。
俺はこの目を知っている。この瞳は、彼女のものであって彼女のものではない。
申し訳なさそうに、あわれむように、俺を見つめる黒い目。申し訳ないと思うなら、俺をあわれむな。俺や春樹を置いて出ていくな。そう、何度思ったか。
「親父……」
「立派になったな、誠」
菜月はばつが悪そうに唇を奇妙にゆがませて笑った。やはりその表情には見覚えがある。父、御影政憲に間違いがないようだった。
離婚し、家を出ていくときも、こんな表情をしていた。いつか帰ってくると期待していたのは数年で、春樹が高校生になる頃には俺も自由な生活を送っていて、もう二度と会うことはないと思っていた。
「こんな形で会うなんて、残念です」
今さら会いに来るなんて、家庭をかえりみない男の最期はいったいどういうものだったのだろう。きっとみじめなものだろう。哀れみだけが浮かぶ。
「まあ、そう言うなよ。俺だって驚いてるんだ。死ぬ間際に家族を思い出してな。気づいたら、そこにいた」
政憲は細い指を天井に向けて指した。そこには、何もない空間が広がっているだけだった。
「久しぶりに誠を見たら、話したくなってな。誠の隣に座っていた娘に引き寄せられたんだが、どういうわけか先客がいたようだ。入る余地がなくて、こっちの娘に入り込んだらしい」
俺は眉をひそめた。
千鶴さんに先客とはどういうことだろう? 別の誰かに憑依されてるのだろうか。最近は穏やかに生活していただけに、気がゆるんでいたかもしれない。
それにしても、菜月に取り憑くなんて、これはまた厄介なことになった。
「ちょっとよく顔を見せてくれないか」
政憲は身を乗り出すと、両手を広げて俺のほおをはさんだ。ぺたりぺたりとなでられると、奇妙な気分になる。
彼の記憶の中の俺はまだ子どもかもしれないが、親に触られる年頃は当時からもう過ぎていた。その上、俺に触れているのは菜月の柔らかで小さな手だ。
「なぜ死んだんですか」
そっと手首をつかんで下げさせ、尋ねた。政憲はちょっと残念そうに眉を下げ、肩をすくめる。
「トラックによく轢かれる運命にあるらしい」
「事故ですか」
「飛び出したとも言うな」
「自殺行為ですよ」
苦笑してしまう。我が父ながら、情けない。トラックの運転手に同情してしまうぐらいだ。
「混乱してたんだろう。大事なものを盗まれて、犯人を追いかける途中に轢かれた。まさか死ぬなんて思ってなかったさ」
「命をかけるほど大事なものでしたか?」
家族は簡単に捨てたのに?
命や家族より大切なものなどあるだろうか。
「ああ、大事なものだった。すごく大事なものだったのに忘れていたんだ。そのバチがあたったのかもしれないな」
「あたるバチがあるなら今さらじゃないですか。それで、大事なものとその犯人は?」
あきれる俺がにべもなく言うと、政憲はますます俺ににじり寄り、しっかりと手を握りしめてきた。
「もちろん逃げられたさ。あれもどこへ行ったかわからない。なあ、誠、頼まれてくれないか。犯人からあれを取り返してほしいんだよ」
「すごい鳴き方でしたけど、大丈夫でしょうか?」
八戸城菜月は心配そうに縁側の方へ視線を移す。俺もつられて庭の奥へと目を向けるが、千鶴さんが茂みに向かって、「かわいい茶色の猫っ」と声をあげるから、そっと笑んで湯呑みのお茶をすする。
「春は猫の恋の季節ですから」
「えっ、……じゃあ、マヨイくんに恋のライバルでも?」
「あるいは、逆か」
「かわいい猫ちゃんたちだから、恋には事欠かないんですね。なんだかちょっと羨ましいです」
切なそうにつぶやく。菜月は堤達也を慕っていた。その気持ちを捨てきれていないのだろう。新しい恋でもすればいいのかもしれないが、そう簡単なものでもないこともわかっている。
「きっと堤先輩は、八戸城さんの幸せを願っていますよ」
そうなぐさめると、彼女は目を閉じた。そして、ゆっくりとまぶたを上げていく。ただまばたきをしただけだ。それだけなのに、頼りなげな光を帯びていた黒い瞳がふたたびまぶたの奥から現れたとき、強烈な既視感に襲われた。
俺はこの目を知っている。この瞳は、彼女のものであって彼女のものではない。
申し訳なさそうに、あわれむように、俺を見つめる黒い目。申し訳ないと思うなら、俺をあわれむな。俺や春樹を置いて出ていくな。そう、何度思ったか。
「親父……」
「立派になったな、誠」
菜月はばつが悪そうに唇を奇妙にゆがませて笑った。やはりその表情には見覚えがある。父、御影政憲に間違いがないようだった。
離婚し、家を出ていくときも、こんな表情をしていた。いつか帰ってくると期待していたのは数年で、春樹が高校生になる頃には俺も自由な生活を送っていて、もう二度と会うことはないと思っていた。
「こんな形で会うなんて、残念です」
今さら会いに来るなんて、家庭をかえりみない男の最期はいったいどういうものだったのだろう。きっとみじめなものだろう。哀れみだけが浮かぶ。
「まあ、そう言うなよ。俺だって驚いてるんだ。死ぬ間際に家族を思い出してな。気づいたら、そこにいた」
政憲は細い指を天井に向けて指した。そこには、何もない空間が広がっているだけだった。
「久しぶりに誠を見たら、話したくなってな。誠の隣に座っていた娘に引き寄せられたんだが、どういうわけか先客がいたようだ。入る余地がなくて、こっちの娘に入り込んだらしい」
俺は眉をひそめた。
千鶴さんに先客とはどういうことだろう? 別の誰かに憑依されてるのだろうか。最近は穏やかに生活していただけに、気がゆるんでいたかもしれない。
それにしても、菜月に取り憑くなんて、これはまた厄介なことになった。
「ちょっとよく顔を見せてくれないか」
政憲は身を乗り出すと、両手を広げて俺のほおをはさんだ。ぺたりぺたりとなでられると、奇妙な気分になる。
彼の記憶の中の俺はまだ子どもかもしれないが、親に触られる年頃は当時からもう過ぎていた。その上、俺に触れているのは菜月の柔らかで小さな手だ。
「なぜ死んだんですか」
そっと手首をつかんで下げさせ、尋ねた。政憲はちょっと残念そうに眉を下げ、肩をすくめる。
「トラックによく轢かれる運命にあるらしい」
「事故ですか」
「飛び出したとも言うな」
「自殺行為ですよ」
苦笑してしまう。我が父ながら、情けない。トラックの運転手に同情してしまうぐらいだ。
「混乱してたんだろう。大事なものを盗まれて、犯人を追いかける途中に轢かれた。まさか死ぬなんて思ってなかったさ」
「命をかけるほど大事なものでしたか?」
家族は簡単に捨てたのに?
命や家族より大切なものなどあるだろうか。
「ああ、大事なものだった。すごく大事なものだったのに忘れていたんだ。そのバチがあたったのかもしれないな」
「あたるバチがあるなら今さらじゃないですか。それで、大事なものとその犯人は?」
あきれる俺がにべもなく言うと、政憲はますます俺ににじり寄り、しっかりと手を握りしめてきた。
「もちろん逃げられたさ。あれもどこへ行ったかわからない。なあ、誠、頼まれてくれないか。犯人からあれを取り返してほしいんだよ」
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