75 / 84
第五話 死後に届けられる忘却の宝物
9
しおりを挟む
***
政憲は10年ほど前、交通事故に遭い、家族の記憶を失った。大したけがではなかったのだが、本郷町に来る前、どこに住んでいたのか、誰と暮らしていたのか、目を覚ましたときにはすっかり忘れていたという。
もしかしたら、忘れたかったのかもしれないと思う。天目の土地と家族から逃げ出したいという潜在的な思いが、彼の記憶を封じたのかもしれないと。
「誠さん、お出かけですか?」
スーツに着替えていると、千鶴さんが部屋へ顔を出した。金にならない調査ばかりしてる俺を簡単に許す彼女だが、急に慌ただしくなる周囲に落ち着かず、不安そうにしている。
「本郷署へ行ってきます。中村さんのお話だけでは、父の依頼は解決できそうにありません」
政憲は金と一緒に盗まれた大事な〝あれ〟を探してくれと言った。その手がかりになる話を保からは得られなかった。
「中村さんも憔悴されてましたね。しつこく聞くのもお気の毒で、あまりお話できませんでしたね」
「そうですね。今日はひとりで行ってきます。千鶴さんは菜月さんをお願いします」
「はい、わかりました」
千鶴さんは胸を張る。頼りにされるのはうれしいのだろう。ずっと俺が守ってやらないと、と思っていたが、今はずいぶんと彼女のたくましさに救われている。
「このところ、体調はどうですか?」
「体調ですか? 特に……」
千鶴さんはふしぎそうに首をふる。どうやら、変わりないらしい。彼女の中に先客がいると言った父の言葉は気になるが、それを話して不安にさせる気もない。
「できるだけはやく帰ります。久しぶりに今夜はあなたに触れたいです」
不意打ちのように告白すると、千鶴さんは恥ずかしそうに目を伏せる。
「そ、そんなに久しぶりでは……」
「一日千秋の思いなんですよ」
彼女は真っ赤になって、それから、何か思うように上の空になったが、すぐに首をふって、赤いほおに手を添えた。
表情が豊かに変わる彼女が愛おしくて、そっと手を重ね、触れるだけのキスをする。
「行ってきます」
無防備な彼女はますます赤くなって、「は、はい……。いってらっしゃいませ」とうわずった声で俺を送り出した。
天目川の下流へ向かって歩いていくと、左手に天目神社が見えてくる。大きく立派な鳥居の向かいに、天目神社前駅はある。
改札を抜け、先頭車両の停まるホームへと進んだ俺は、あっと驚いて足をとめた。ワンピースを着た菜月が、手を振っている。
「やっと来たか。警察に行くんだろう?」
「なんでここにいるんですか」
声を押し殺しつつ、彼女に駆け寄る。正確には、菜月に取り憑いた政憲に。
「保が何も話さないなら、警察の出番だろ。あの日なにがあったのか、俺だってはっきり知りたいんだ」
「中村さんが何か隠してると?」
「言っただろ。俺は金とあれを盗まれて、犯人を追いかける途中にトラックに轢かれたってさ。あの時の金は、保の金だ」
「そうだったんですか」
だとしたら、保が疲弊するのは無理がない。金を取られた上、その金のために政憲が死んだと思ってるならなおさら。
「なんで保は、俺が犯人を追いかけて道路に飛び出したって言わないんだろうなって気になった」
確かに、保の金が政憲の死因につながるものだからといって、俺に黙ってる理由にはならないかもしれない。
「警察に行けば、何かわかるかもしれませんね」
「だろう? 何にもないのにトラックの前に飛び出す酔狂な男のまま、俺も人生終わりたくないからな」
「うかつなんですよ」
苦笑すると、政憲は不服そうに俺を横目で軽くにらむ。
「まあ、一回目の事故は確かにな。否定はできない」
「なんで轢かれたんですか」
「道に不慣れでな、地図を見ながら歩いてた。気づいたら真横にトラックが来ていて、軽く接触したんだ。それを思い出したのが死んだ時だなんてな、情けない」
「全部思い出したんですか?」
「まぁな。だいたいな……」
政憲は言葉を濁すと、ホームへ入ってきた二両編成の電車へと視線を移した。
政憲は10年ほど前、交通事故に遭い、家族の記憶を失った。大したけがではなかったのだが、本郷町に来る前、どこに住んでいたのか、誰と暮らしていたのか、目を覚ましたときにはすっかり忘れていたという。
もしかしたら、忘れたかったのかもしれないと思う。天目の土地と家族から逃げ出したいという潜在的な思いが、彼の記憶を封じたのかもしれないと。
「誠さん、お出かけですか?」
スーツに着替えていると、千鶴さんが部屋へ顔を出した。金にならない調査ばかりしてる俺を簡単に許す彼女だが、急に慌ただしくなる周囲に落ち着かず、不安そうにしている。
「本郷署へ行ってきます。中村さんのお話だけでは、父の依頼は解決できそうにありません」
政憲は金と一緒に盗まれた大事な〝あれ〟を探してくれと言った。その手がかりになる話を保からは得られなかった。
「中村さんも憔悴されてましたね。しつこく聞くのもお気の毒で、あまりお話できませんでしたね」
「そうですね。今日はひとりで行ってきます。千鶴さんは菜月さんをお願いします」
「はい、わかりました」
千鶴さんは胸を張る。頼りにされるのはうれしいのだろう。ずっと俺が守ってやらないと、と思っていたが、今はずいぶんと彼女のたくましさに救われている。
「このところ、体調はどうですか?」
「体調ですか? 特に……」
千鶴さんはふしぎそうに首をふる。どうやら、変わりないらしい。彼女の中に先客がいると言った父の言葉は気になるが、それを話して不安にさせる気もない。
「できるだけはやく帰ります。久しぶりに今夜はあなたに触れたいです」
不意打ちのように告白すると、千鶴さんは恥ずかしそうに目を伏せる。
「そ、そんなに久しぶりでは……」
「一日千秋の思いなんですよ」
彼女は真っ赤になって、それから、何か思うように上の空になったが、すぐに首をふって、赤いほおに手を添えた。
表情が豊かに変わる彼女が愛おしくて、そっと手を重ね、触れるだけのキスをする。
「行ってきます」
無防備な彼女はますます赤くなって、「は、はい……。いってらっしゃいませ」とうわずった声で俺を送り出した。
天目川の下流へ向かって歩いていくと、左手に天目神社が見えてくる。大きく立派な鳥居の向かいに、天目神社前駅はある。
改札を抜け、先頭車両の停まるホームへと進んだ俺は、あっと驚いて足をとめた。ワンピースを着た菜月が、手を振っている。
「やっと来たか。警察に行くんだろう?」
「なんでここにいるんですか」
声を押し殺しつつ、彼女に駆け寄る。正確には、菜月に取り憑いた政憲に。
「保が何も話さないなら、警察の出番だろ。あの日なにがあったのか、俺だってはっきり知りたいんだ」
「中村さんが何か隠してると?」
「言っただろ。俺は金とあれを盗まれて、犯人を追いかける途中にトラックに轢かれたってさ。あの時の金は、保の金だ」
「そうだったんですか」
だとしたら、保が疲弊するのは無理がない。金を取られた上、その金のために政憲が死んだと思ってるならなおさら。
「なんで保は、俺が犯人を追いかけて道路に飛び出したって言わないんだろうなって気になった」
確かに、保の金が政憲の死因につながるものだからといって、俺に黙ってる理由にはならないかもしれない。
「警察に行けば、何かわかるかもしれませんね」
「だろう? 何にもないのにトラックの前に飛び出す酔狂な男のまま、俺も人生終わりたくないからな」
「うかつなんですよ」
苦笑すると、政憲は不服そうに俺を横目で軽くにらむ。
「まあ、一回目の事故は確かにな。否定はできない」
「なんで轢かれたんですか」
「道に不慣れでな、地図を見ながら歩いてた。気づいたら真横にトラックが来ていて、軽く接触したんだ。それを思い出したのが死んだ時だなんてな、情けない」
「全部思い出したんですか?」
「まぁな。だいたいな……」
政憲は言葉を濁すと、ホームへ入ってきた二両編成の電車へと視線を移した。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
9
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる