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第五話 死後に届けられる忘却の宝物
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真っ白なドアに取り付けられたシリンダーの下から、鉄サビが流れていた。まだ俺が働き出したころは、真っ白できれいなドアだった。
約10年、俺はレストランナカムラで働いてきた。ずいぶんと年季の入った店舗は、我が家のような居心地の良さがある。鉄サビを眺めるたびにそう思う。だけどどうも、そう考えるたびに、我が家なんて居心地がいいものだろうか、と反した思いも浮かぶのだ。
そのシリンダーにささる鍵を回そうとした瞬間、眉をひそめた。鍵があいている。こんなことは初めてだった。
中村保は俺より先に出勤したりしない。自分でも嫌になるぐらいこだわりの強い俺の朝のルーティーンを邪魔しないためだ。
店内準備を整えたころ、保は見計らったように出勤する。ここは彼のレストランなのに、俺の好きなようにしていいと気を遣ってくれているのだ。
細やかな神経の持ち主である保だ。先に出勤するなら俺に連絡してくれているだろう。
だったら、なぜ鍵があいているのか。
保じゃないなら、ほかに誰が……?
慎重にドアノブを引いた。わずかに、キィ……と鳴った音に自分で驚いて、肩をすくめたが、入ってすぐの更衣室には誰もいなかった。
更衣室には、休憩も取れるようにと小さなテーブルといすが置かれている。昨夜、帰宅するときと変わった様子はない。
そのまま、更衣室の中を進んだ。奥に事務室がある。俺がめったに立ち入らない場所だ。事務仕事のほとんどを保に任せている。最近は彼の息子の良弥くんも事務仕事の一部を手伝っているが、店で彼を見かけることはほとんどない。
良弥くんは去年、大学を卒業した。どちらかというと大人しそうな青年で、あまり口をきかない。俺も人見知りするから、彼と積極的に会話したこともないし、会話しないことに罪悪感もなかった。
保はよく、遊んでばっかりだとため息をついていたが、大学生なんてそんなものだろうと、知ったようなふりでなぐさめたりもした。
事務所のドアはしっかり閉まっていた。そっとドアに顔を寄せて、耳を澄ました。そのときだった。ガタンっと中から音がした。
誰かいる。
そう思ったときには勢いよくドアノブを引いていた。事務所内に踏み込んだ俺は、信じられない光景を目にした。
事務所の奥に置かれた金庫の前に、細身の男が立っていた。カーキのパーカーを目深にかぶる男の手には、現金が握られている。
「誰だっ!」
叫びながら近づくと、男は金庫の中に手を突っ込み、何かをつかむといきなり走り出した。とっさにドアの前をふさぐ俺は体当たりされ、簡単に床に転げた。男は一瞬足を止めた。そのとき、手もとに視線がいった。
男は札束と木箱をつかんでいた。俺の視線に気づいたのか、すぐさまそれらをポケットにねじ込み、事務所を飛び出していく。
俺もまたすぐに飛び起き、男を追った。無我夢中だった。金を取られた。俺たちが必死に稼いだ金だ。
これまで、保とふたりで一生懸命働いてきた。決して繁盛していたとは言えない保の店を、ふたりで大事に守り育ててきた。その大事な金を奪われてはいけないと思った。
しかし、それだけではなかったかもしれない。あの男がつかんでいた木箱に見覚えがあるような気がしたのだ。
あれは、寄木細工の小物入れだった。
旅行へ出かけた先で、寄木細工に魅了され、彼女も「すてきね」とほほえんだから、購入しようとなった。少しばかり値が張ったが、記念だから、と奮発した。そうやって、俺たちはたくさんの記念を増やしてきた。
「記念ってなんだ……。彼女って、だれだ……」
ガンッと何かに殴られたような頭痛がして、足を止めた。パパーッとクラクションが鳴った。白線から視線を上げたら、赤信号が点灯していた。
クラクションは鳴り止まなかった。ようやく、激しく鳴る警告音の方へ顔を向けたとき、笑顔の女性が眼前にちらついた。
「八枝……」
なぜ、忘れていたのだろう。
いつも俺を大事に思い、自分よりも御影家を大切にしてくれていた彼女を。
ひどい耳鳴りがして、崩れるように前かがみになる俺の身体は、次の瞬間、宙を舞った。
真っ白なドアに取り付けられたシリンダーの下から、鉄サビが流れていた。まだ俺が働き出したころは、真っ白できれいなドアだった。
約10年、俺はレストランナカムラで働いてきた。ずいぶんと年季の入った店舗は、我が家のような居心地の良さがある。鉄サビを眺めるたびにそう思う。だけどどうも、そう考えるたびに、我が家なんて居心地がいいものだろうか、と反した思いも浮かぶのだ。
そのシリンダーにささる鍵を回そうとした瞬間、眉をひそめた。鍵があいている。こんなことは初めてだった。
中村保は俺より先に出勤したりしない。自分でも嫌になるぐらいこだわりの強い俺の朝のルーティーンを邪魔しないためだ。
店内準備を整えたころ、保は見計らったように出勤する。ここは彼のレストランなのに、俺の好きなようにしていいと気を遣ってくれているのだ。
細やかな神経の持ち主である保だ。先に出勤するなら俺に連絡してくれているだろう。
だったら、なぜ鍵があいているのか。
保じゃないなら、ほかに誰が……?
慎重にドアノブを引いた。わずかに、キィ……と鳴った音に自分で驚いて、肩をすくめたが、入ってすぐの更衣室には誰もいなかった。
更衣室には、休憩も取れるようにと小さなテーブルといすが置かれている。昨夜、帰宅するときと変わった様子はない。
そのまま、更衣室の中を進んだ。奥に事務室がある。俺がめったに立ち入らない場所だ。事務仕事のほとんどを保に任せている。最近は彼の息子の良弥くんも事務仕事の一部を手伝っているが、店で彼を見かけることはほとんどない。
良弥くんは去年、大学を卒業した。どちらかというと大人しそうな青年で、あまり口をきかない。俺も人見知りするから、彼と積極的に会話したこともないし、会話しないことに罪悪感もなかった。
保はよく、遊んでばっかりだとため息をついていたが、大学生なんてそんなものだろうと、知ったようなふりでなぐさめたりもした。
事務所のドアはしっかり閉まっていた。そっとドアに顔を寄せて、耳を澄ました。そのときだった。ガタンっと中から音がした。
誰かいる。
そう思ったときには勢いよくドアノブを引いていた。事務所内に踏み込んだ俺は、信じられない光景を目にした。
事務所の奥に置かれた金庫の前に、細身の男が立っていた。カーキのパーカーを目深にかぶる男の手には、現金が握られている。
「誰だっ!」
叫びながら近づくと、男は金庫の中に手を突っ込み、何かをつかむといきなり走り出した。とっさにドアの前をふさぐ俺は体当たりされ、簡単に床に転げた。男は一瞬足を止めた。そのとき、手もとに視線がいった。
男は札束と木箱をつかんでいた。俺の視線に気づいたのか、すぐさまそれらをポケットにねじ込み、事務所を飛び出していく。
俺もまたすぐに飛び起き、男を追った。無我夢中だった。金を取られた。俺たちが必死に稼いだ金だ。
これまで、保とふたりで一生懸命働いてきた。決して繁盛していたとは言えない保の店を、ふたりで大事に守り育ててきた。その大事な金を奪われてはいけないと思った。
しかし、それだけではなかったかもしれない。あの男がつかんでいた木箱に見覚えがあるような気がしたのだ。
あれは、寄木細工の小物入れだった。
旅行へ出かけた先で、寄木細工に魅了され、彼女も「すてきね」とほほえんだから、購入しようとなった。少しばかり値が張ったが、記念だから、と奮発した。そうやって、俺たちはたくさんの記念を増やしてきた。
「記念ってなんだ……。彼女って、だれだ……」
ガンッと何かに殴られたような頭痛がして、足を止めた。パパーッとクラクションが鳴った。白線から視線を上げたら、赤信号が点灯していた。
クラクションは鳴り止まなかった。ようやく、激しく鳴る警告音の方へ顔を向けたとき、笑顔の女性が眼前にちらついた。
「八枝……」
なぜ、忘れていたのだろう。
いつも俺を大事に思い、自分よりも御影家を大切にしてくれていた彼女を。
ひどい耳鳴りがして、崩れるように前かがみになる俺の身体は、次の瞬間、宙を舞った。
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