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2章 一人のアルファで一人の兄で
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「相変わらず元気そうだ」
潤は同期を久々に見て、笑みを浮かべた。
一方、藤堂は頭を掻く。
「いや、お久しぶりって感じでもないですね。俺は先月の開発進捗会議で社長のお姿を拝見してますし。
でも、直接お会いするのは、とてつもなくお久しぶりなんですよね」
藤堂の口調は砕けたものだが、飯田も大西も何も言わない。潤と藤堂の関係はこのようなものだと理解しているからだ。
「忙しい?」
暇ではないだろうとは思いつつ、問いかける。
「いやぁ……大西部長にしごかれていまして」
藤堂は現在、大西直轄の配属で、M203のプロダクトマネジメントを請け負う、開発部門の責任者だ。
潤という異色の存在を除けば、同期の中では江上と一、二を争う出世の速さだ。
藤堂はアルファで、入社当時から優秀な男だった。
入社時は六年制の薬学部だけでなく大学院まで飛び級で出ていて、他の新入社員よりも二歳年上だった。
新入社員研修ではその優秀な能力を発揮し、すぐさまリーダー格となり、破天荒なコミュニケーション力であっという間に新入社員をまとめ上げてしまった。それゆえ、現在でも同期会を主催する存在だ。
その一方で、同期と距離を置く潤とも、つかず離れずの関係を続けていたが、ついにこのように気さくに話す間柄になってしまった。
潤にとって、藤堂はコンプレックスを刺激されるはずのアルファなのに、全く気にならない。ついついそのことを忘れてしまうほどに言動に愛嬌があり、コミュニケーション力に長けているせいだろう。
潤にとっては信頼する部下で、頼りにしたい同期でもある。
藤堂につられるせいか、いつも自然と潤の口調も砕けたものになってしまう。
「しごかれてるとか言いつつ、生き生きしてるじゃん。
根っからの仕事人間だって知ってるけど、もう会社に泊まり込んだりしてないよね」
その潤の指摘に、藤堂も苦笑する。
「いやだなあ。それは社長に怒られたので、もうやってないですよ」
終電で帰ってます、と胸を張る。
終電だって、日付が変わっているではないか。
「大西さん、まだ藤堂は仕事多そうですね。他の人と仕事を割り振っては?」
大西は、潤と藤堂の歯に衣着せぬやりとりがどのようなものであるのかを分かっている。
「藤堂君じゃないと任せられないことも多くてですね」
笑って躱す。
「大丈夫です! プライベートも充実しているので問題ありません! なので社長、同期会にご出席ください!」
大西の言葉を受け止める形で、藤堂がいきなり話を振ってきた。
「は?」
「帰国してから一度も出席してないですよね。俺知ってます」
「うん、わかったわかった」
「軽く流された気がします。江上さん、次回は四月なので、社長のスケジュール押さえてください」
「なんで私が」
珍しく渋る江上に、藤堂は畳みかける。
「社長のスケジュールを一手に握ってるのは秘書室長だと聞いてますよ」
頼みます! と藤堂が江上に念を押して拝んだ。
憎めない男で、相手を容易に自分のテリトリーに巻き込む。こういうところで煙たがられないのが得だよな潤は思う。
「相変わらず、いちゃいちゃしてますね」
江上の静かな指摘に、潤は苦笑する。
「そうかもね。藤堂は遠慮がないね」
「社長の前ですが、変わらないですね」
「……まあそういう男なんですわ」
飯田と大西も頷く。幹部二人の会話に潤も苦笑せざるを得ない。有能だからこそ、キャラクターで許されてしまっている。
「社長のドイツ赴任時代の同僚ですからな」
大西の言葉に潤も懐かしくなり頷く。
「そうですね、毎日あのテンションでぎゃあぎゃあ言いながら仕事をした仲です」
「疲れそうですなぁ」
飯田の感想は否定できない。
潤と藤堂は、ドイツにいたときに現在開発中の開発コード番号M203の、森生メディカルへの開発導入交渉を一緒に進めた、いわば戦友だ。
「ぎゃあぎゃあとは……。まあそんな感じでしたね。もともとこのM203を最初に評価されたのは社長じゃないですか」
潤は苦笑する。それを言うならお前も一緒だと言いたい。
「最初にこの話を持ってきてくれたのは藤堂だけどね」
藤堂は、藤堂は、薬剤師の資格を持って入社したが、そのコミュニケーション力の高さを買われて、しばらく営業職を経験し、海外事業部に異動した。そこで潤と同じくドイツ赴任組に抜擢されたのだ。
彼のキャリアの転機となったのが、M203を創出したドイツのベンチャー企業と出会ったこと。
展示会の小さなワークショップで、一番最初に興味を持ったのはまず藤堂だった。
この創薬ベンチャー、ちょっと面白いですよ。
藤堂はそんな言葉とともに、その企業の魅力と可能性を、同じオフィスにいた潤に、情熱的な言葉でプレゼンした。
そのなかで潤の直感の琴線に触れたのが、現在はM203と呼ばれているフェロモン誘発成分を持った化合物だった。潤は、その企業とM203に興味を惹かれ、すぐに資料を取り寄せて情報を精査し、本社にデータを送った。
「社長の決断力と行動力には当時驚きましたけどね」
M203は、潤の勘によると森生メディカルにとって大きなビジネスになりそうな臭いがした。
そこで潤は、藤堂にそのベンチャー企業と接触させ、技術評価やライセンス交渉の足場を整えさせた。そして、自分は何度か帰国して本社を説き伏せたのだ。
潤が海外事業部や開発部、さらにはデバイス部門の責任者や経営陣を日本で説き伏せつつ、藤堂が援護射撃のようにM203の成分的な優位性をデータで示していった。
そんなドイツ駐在員の動きに、頷いてゴーサインを出したのが前の社長の茗子だ。
会社の承認を得ると、潤と藤堂は導入交渉を加速させた。先方が興味を示したのが、M203に森生メディカルの製剤技術を乗せるという点。そのベンチャー企業は、M203を含めいくつかの化合物のライセンスアウトを提案してきた。
藤堂が資料を探し、根拠と理論を構築し、潤がそれを元に交渉を進めていくという二人三脚でM203の導入が叶った。
帰国後、潤はそのまま取締役に就任した。一方、藤堂は海外事業部から開発部に異動し、そのまま自分がドイツで導入を決めてきたM203のプロダクトマネージャーに就いた。
今は、社内で最もM203に詳しいと言われている。
「それで、仕事に話を戻そうか。藤堂」
「あ、はい。えっと、進捗ですが、キーオープン後、解析が順調に進んでいまして、早ければ来月にも承認申請が可能なところまで進んでいます」
その言葉に潤は驚く。
「本当に。早いね。ありがとう」
「いえ、審査側が熱心なんですよ。ここ最近」
潤は思わず大西と飯田の三人で顔を見合わせてしまった。
「ああ……。そういうことね」
潤が合点して応える。
「早いですなあ……」
「……巻き込む気満々ですね」
大西も飯田も頷いた。
「……なんかあるんですか?」
藤堂の問いかけに、潤は頷いた。
「まあね。まだ本決まりじゃないから、ここだけの話にしておいてくれる?
実は、誠心医大病院で行っているペア・ボンド療法への参加を求められてる」
そうあっさり明かすと、藤堂は少し考えた様子で沈黙し、ああ、あの話ですか、と納得した様子。
「知ってるのか」
期待を込めた上司の言葉に、藤堂は苦笑で応えた。
「いやあ、先日取材を受けたのですが、その記者が調べているらしくて、俺も一緒になって調べたという程度です」
藤堂は潤をちらりと見て、あの人ですよ、と考えている様子。名前が出てこないのか。
「年末の社長の密着を担当したとかいう……」
「片桐さん?」
潤の口添えに藤堂は腑に落ちたように、それです、と即答した。
「メトロポリタンテレビの片桐氏です」
「片桐さんが藤堂のところに取材?」
藤堂は軽く頷いた。
「ええ、ペア・ボンド療法というよりは、アルファ・オメガ領域の治療の現状、みたいなことを取材しているという話で、製薬企業側からの新薬開発競争といった一般的な話を聞きたいという依頼が広報からこちらに来まして」
年明けの賀詞交換会では片桐もペア・ボンド療法に興味を示していた。その絡みで取材を進めているのだろうかと少し考える。
「M203の話も少しだけ聞かれました」
承認申請前の開発品の話は、機密にも関わりなかなかオープンにすることも出来ない情報も多い。そのあたりは、藤堂がうまく処理したのだろう。
「ペア・ボンド療法の絡みか? マスコミもずいぶん気が早いね」
潤は少し皮肉げな気持ちで呟いた。森生メディカルがどうするかを選ぶ前に、着実に外濠を埋められているような気もする。
潤はこの男がどう考えているのかを聞いてみたくなった。
「この話、藤堂はどう思う?」
すると即座に前のめりな答えが返ってきた。
「興味深いですね。やりがいはありそうだ」
らしさあふれる反応に、潤はにやりと笑った。
「前向きだね」
ふたりでふっと笑い合う。
戻りたいわけではないが、あの頃の、懐かしい空気に触れた気がした。
そして、あの冬空の下で交わされた、メルト製薬社長の長谷川との対話が、ふわりと漂ってきた梅の花の香りの記憶とともに、潤の脳裏に不意に蘇ってくる。
先週土曜日の昼。
「ずいぶん、我が社の開発品を買って下さっているんですね」
M203を興味深く見ていると評価され、潤が探るように問いかける。長谷川は小さく笑って答えた。
「化合物自体のポテンシャルはもちろんです。
それに、さらに興味をそそられたのが、M203のライセンス交渉をされたのが森生社長自身であるという点ですね」
思わぬ返事に潤は戸惑う。
「御社がドイツの創薬ベンチャーからM203を導入した経緯まで調べさせました」
メルト製薬の本気具合を潤も実感する。
「治験を担当されていたドクターから、森生社長が本社を説き伏せて導入を決定し、交渉の最前線に立たれていた、いわば社長の肝煎りのプロジェクトであると伺いました」
M203は潤にとってドイツ時代の成果の一つだ。思い入れがある。導入の決定に際しても、実際に交渉も難航したし、思えば信念だけで達成したものだった。
今後の日本のアルファ・オメガ領域にこの手の薬剤は絶対にニーズがある。潤には確信があった。
「正直に言えば、それを聞いた時に、御社と共同研究を行う可能性がふと脳裏を過ぎりました」
いつそれを長谷川が誰から聞いたのかは分からない。しかし、それがきっかけだったというのは意外だった。
「M203は、時代にマッチしたコンセプトが素晴らしいし、ポテンシャルもあります。それを導入し技術と融合させた、御社の技術力とセンスも興味深い」
他社の社長が手放しでの賞賛に、潤もむず痒く、どう反応していいものかと迷う。
「ただ、私はそういうものを発掘してくる森生社長が率いる会社に興味を持ったいうのがあります」
潤は言葉を失った。
「同じ領域で展開しているというだけでなく、何というか、勘と言ってしまうと、いい加減に聞こえそうですが、わたしの直感がそう言っているのです。面白い仕事ができそうだと」
本気で取り組んだ仕事の成果が、自分の年齢より長く、ビジネスの第一線にいる人物の直感に、図らずも訴えることができたのだ。
正直に言えば、長谷川の言葉に潤は嬉しさを覚えた。
「社長?」
飯田の呼びかけで潤は我に返る。
潤の中では腹が決まっていたが、結論を急ぐ必要はなかった。長谷川からは時間をもらっている。
思った以上に早い承認申請となりそうだから、その際に最終決断を下すという結論で、その場は散会となった。
「そうだ、社長」
飯田と大西が退室した後に、思い出したように藤堂が潤に駆け戻ってきた。
「何?」
潤が藤堂を見上げる。
「本当に同期会、待ってるんで」
その言葉に潤も諦念した。しつこい。こいつには潤が同期会と距離を置いている心情など分からないのだろう。
「分かったよ……」
「あと」
藤堂が耳元で囁く。
「結構、香り漏れてますよ。自覚あります?」
潤が驚いて藤堂の顔を見る。藤堂の表情は真剣だ。
「……なかった。そういえば嗅覚鋭かったね。ありがとう」
どうも本音はそれを言いたかったようだ。藤堂はにっこり笑った。
「いえいえ」
「助かる」
「それでは同期会で!」
「また、それか」
呆れる潤の反応を無視して、藤堂は颯爽と社長室から出て行った。
潤は同期を久々に見て、笑みを浮かべた。
一方、藤堂は頭を掻く。
「いや、お久しぶりって感じでもないですね。俺は先月の開発進捗会議で社長のお姿を拝見してますし。
でも、直接お会いするのは、とてつもなくお久しぶりなんですよね」
藤堂の口調は砕けたものだが、飯田も大西も何も言わない。潤と藤堂の関係はこのようなものだと理解しているからだ。
「忙しい?」
暇ではないだろうとは思いつつ、問いかける。
「いやぁ……大西部長にしごかれていまして」
藤堂は現在、大西直轄の配属で、M203のプロダクトマネジメントを請け負う、開発部門の責任者だ。
潤という異色の存在を除けば、同期の中では江上と一、二を争う出世の速さだ。
藤堂はアルファで、入社当時から優秀な男だった。
入社時は六年制の薬学部だけでなく大学院まで飛び級で出ていて、他の新入社員よりも二歳年上だった。
新入社員研修ではその優秀な能力を発揮し、すぐさまリーダー格となり、破天荒なコミュニケーション力であっという間に新入社員をまとめ上げてしまった。それゆえ、現在でも同期会を主催する存在だ。
その一方で、同期と距離を置く潤とも、つかず離れずの関係を続けていたが、ついにこのように気さくに話す間柄になってしまった。
潤にとって、藤堂はコンプレックスを刺激されるはずのアルファなのに、全く気にならない。ついついそのことを忘れてしまうほどに言動に愛嬌があり、コミュニケーション力に長けているせいだろう。
潤にとっては信頼する部下で、頼りにしたい同期でもある。
藤堂につられるせいか、いつも自然と潤の口調も砕けたものになってしまう。
「しごかれてるとか言いつつ、生き生きしてるじゃん。
根っからの仕事人間だって知ってるけど、もう会社に泊まり込んだりしてないよね」
その潤の指摘に、藤堂も苦笑する。
「いやだなあ。それは社長に怒られたので、もうやってないですよ」
終電で帰ってます、と胸を張る。
終電だって、日付が変わっているではないか。
「大西さん、まだ藤堂は仕事多そうですね。他の人と仕事を割り振っては?」
大西は、潤と藤堂の歯に衣着せぬやりとりがどのようなものであるのかを分かっている。
「藤堂君じゃないと任せられないことも多くてですね」
笑って躱す。
「大丈夫です! プライベートも充実しているので問題ありません! なので社長、同期会にご出席ください!」
大西の言葉を受け止める形で、藤堂がいきなり話を振ってきた。
「は?」
「帰国してから一度も出席してないですよね。俺知ってます」
「うん、わかったわかった」
「軽く流された気がします。江上さん、次回は四月なので、社長のスケジュール押さえてください」
「なんで私が」
珍しく渋る江上に、藤堂は畳みかける。
「社長のスケジュールを一手に握ってるのは秘書室長だと聞いてますよ」
頼みます! と藤堂が江上に念を押して拝んだ。
憎めない男で、相手を容易に自分のテリトリーに巻き込む。こういうところで煙たがられないのが得だよな潤は思う。
「相変わらず、いちゃいちゃしてますね」
江上の静かな指摘に、潤は苦笑する。
「そうかもね。藤堂は遠慮がないね」
「社長の前ですが、変わらないですね」
「……まあそういう男なんですわ」
飯田と大西も頷く。幹部二人の会話に潤も苦笑せざるを得ない。有能だからこそ、キャラクターで許されてしまっている。
「社長のドイツ赴任時代の同僚ですからな」
大西の言葉に潤も懐かしくなり頷く。
「そうですね、毎日あのテンションでぎゃあぎゃあ言いながら仕事をした仲です」
「疲れそうですなぁ」
飯田の感想は否定できない。
潤と藤堂は、ドイツにいたときに現在開発中の開発コード番号M203の、森生メディカルへの開発導入交渉を一緒に進めた、いわば戦友だ。
「ぎゃあぎゃあとは……。まあそんな感じでしたね。もともとこのM203を最初に評価されたのは社長じゃないですか」
潤は苦笑する。それを言うならお前も一緒だと言いたい。
「最初にこの話を持ってきてくれたのは藤堂だけどね」
藤堂は、藤堂は、薬剤師の資格を持って入社したが、そのコミュニケーション力の高さを買われて、しばらく営業職を経験し、海外事業部に異動した。そこで潤と同じくドイツ赴任組に抜擢されたのだ。
彼のキャリアの転機となったのが、M203を創出したドイツのベンチャー企業と出会ったこと。
展示会の小さなワークショップで、一番最初に興味を持ったのはまず藤堂だった。
この創薬ベンチャー、ちょっと面白いですよ。
藤堂はそんな言葉とともに、その企業の魅力と可能性を、同じオフィスにいた潤に、情熱的な言葉でプレゼンした。
そのなかで潤の直感の琴線に触れたのが、現在はM203と呼ばれているフェロモン誘発成分を持った化合物だった。潤は、その企業とM203に興味を惹かれ、すぐに資料を取り寄せて情報を精査し、本社にデータを送った。
「社長の決断力と行動力には当時驚きましたけどね」
M203は、潤の勘によると森生メディカルにとって大きなビジネスになりそうな臭いがした。
そこで潤は、藤堂にそのベンチャー企業と接触させ、技術評価やライセンス交渉の足場を整えさせた。そして、自分は何度か帰国して本社を説き伏せたのだ。
潤が海外事業部や開発部、さらにはデバイス部門の責任者や経営陣を日本で説き伏せつつ、藤堂が援護射撃のようにM203の成分的な優位性をデータで示していった。
そんなドイツ駐在員の動きに、頷いてゴーサインを出したのが前の社長の茗子だ。
会社の承認を得ると、潤と藤堂は導入交渉を加速させた。先方が興味を示したのが、M203に森生メディカルの製剤技術を乗せるという点。そのベンチャー企業は、M203を含めいくつかの化合物のライセンスアウトを提案してきた。
藤堂が資料を探し、根拠と理論を構築し、潤がそれを元に交渉を進めていくという二人三脚でM203の導入が叶った。
帰国後、潤はそのまま取締役に就任した。一方、藤堂は海外事業部から開発部に異動し、そのまま自分がドイツで導入を決めてきたM203のプロダクトマネージャーに就いた。
今は、社内で最もM203に詳しいと言われている。
「それで、仕事に話を戻そうか。藤堂」
「あ、はい。えっと、進捗ですが、キーオープン後、解析が順調に進んでいまして、早ければ来月にも承認申請が可能なところまで進んでいます」
その言葉に潤は驚く。
「本当に。早いね。ありがとう」
「いえ、審査側が熱心なんですよ。ここ最近」
潤は思わず大西と飯田の三人で顔を見合わせてしまった。
「ああ……。そういうことね」
潤が合点して応える。
「早いですなあ……」
「……巻き込む気満々ですね」
大西も飯田も頷いた。
「……なんかあるんですか?」
藤堂の問いかけに、潤は頷いた。
「まあね。まだ本決まりじゃないから、ここだけの話にしておいてくれる?
実は、誠心医大病院で行っているペア・ボンド療法への参加を求められてる」
そうあっさり明かすと、藤堂は少し考えた様子で沈黙し、ああ、あの話ですか、と納得した様子。
「知ってるのか」
期待を込めた上司の言葉に、藤堂は苦笑で応えた。
「いやあ、先日取材を受けたのですが、その記者が調べているらしくて、俺も一緒になって調べたという程度です」
藤堂は潤をちらりと見て、あの人ですよ、と考えている様子。名前が出てこないのか。
「年末の社長の密着を担当したとかいう……」
「片桐さん?」
潤の口添えに藤堂は腑に落ちたように、それです、と即答した。
「メトロポリタンテレビの片桐氏です」
「片桐さんが藤堂のところに取材?」
藤堂は軽く頷いた。
「ええ、ペア・ボンド療法というよりは、アルファ・オメガ領域の治療の現状、みたいなことを取材しているという話で、製薬企業側からの新薬開発競争といった一般的な話を聞きたいという依頼が広報からこちらに来まして」
年明けの賀詞交換会では片桐もペア・ボンド療法に興味を示していた。その絡みで取材を進めているのだろうかと少し考える。
「M203の話も少しだけ聞かれました」
承認申請前の開発品の話は、機密にも関わりなかなかオープンにすることも出来ない情報も多い。そのあたりは、藤堂がうまく処理したのだろう。
「ペア・ボンド療法の絡みか? マスコミもずいぶん気が早いね」
潤は少し皮肉げな気持ちで呟いた。森生メディカルがどうするかを選ぶ前に、着実に外濠を埋められているような気もする。
潤はこの男がどう考えているのかを聞いてみたくなった。
「この話、藤堂はどう思う?」
すると即座に前のめりな答えが返ってきた。
「興味深いですね。やりがいはありそうだ」
らしさあふれる反応に、潤はにやりと笑った。
「前向きだね」
ふたりでふっと笑い合う。
戻りたいわけではないが、あの頃の、懐かしい空気に触れた気がした。
そして、あの冬空の下で交わされた、メルト製薬社長の長谷川との対話が、ふわりと漂ってきた梅の花の香りの記憶とともに、潤の脳裏に不意に蘇ってくる。
先週土曜日の昼。
「ずいぶん、我が社の開発品を買って下さっているんですね」
M203を興味深く見ていると評価され、潤が探るように問いかける。長谷川は小さく笑って答えた。
「化合物自体のポテンシャルはもちろんです。
それに、さらに興味をそそられたのが、M203のライセンス交渉をされたのが森生社長自身であるという点ですね」
思わぬ返事に潤は戸惑う。
「御社がドイツの創薬ベンチャーからM203を導入した経緯まで調べさせました」
メルト製薬の本気具合を潤も実感する。
「治験を担当されていたドクターから、森生社長が本社を説き伏せて導入を決定し、交渉の最前線に立たれていた、いわば社長の肝煎りのプロジェクトであると伺いました」
M203は潤にとってドイツ時代の成果の一つだ。思い入れがある。導入の決定に際しても、実際に交渉も難航したし、思えば信念だけで達成したものだった。
今後の日本のアルファ・オメガ領域にこの手の薬剤は絶対にニーズがある。潤には確信があった。
「正直に言えば、それを聞いた時に、御社と共同研究を行う可能性がふと脳裏を過ぎりました」
いつそれを長谷川が誰から聞いたのかは分からない。しかし、それがきっかけだったというのは意外だった。
「M203は、時代にマッチしたコンセプトが素晴らしいし、ポテンシャルもあります。それを導入し技術と融合させた、御社の技術力とセンスも興味深い」
他社の社長が手放しでの賞賛に、潤もむず痒く、どう反応していいものかと迷う。
「ただ、私はそういうものを発掘してくる森生社長が率いる会社に興味を持ったいうのがあります」
潤は言葉を失った。
「同じ領域で展開しているというだけでなく、何というか、勘と言ってしまうと、いい加減に聞こえそうですが、わたしの直感がそう言っているのです。面白い仕事ができそうだと」
本気で取り組んだ仕事の成果が、自分の年齢より長く、ビジネスの第一線にいる人物の直感に、図らずも訴えることができたのだ。
正直に言えば、長谷川の言葉に潤は嬉しさを覚えた。
「社長?」
飯田の呼びかけで潤は我に返る。
潤の中では腹が決まっていたが、結論を急ぐ必要はなかった。長谷川からは時間をもらっている。
思った以上に早い承認申請となりそうだから、その際に最終決断を下すという結論で、その場は散会となった。
「そうだ、社長」
飯田と大西が退室した後に、思い出したように藤堂が潤に駆け戻ってきた。
「何?」
潤が藤堂を見上げる。
「本当に同期会、待ってるんで」
その言葉に潤も諦念した。しつこい。こいつには潤が同期会と距離を置いている心情など分からないのだろう。
「分かったよ……」
「あと」
藤堂が耳元で囁く。
「結構、香り漏れてますよ。自覚あります?」
潤が驚いて藤堂の顔を見る。藤堂の表情は真剣だ。
「……なかった。そういえば嗅覚鋭かったね。ありがとう」
どうも本音はそれを言いたかったようだ。藤堂はにっこり笑った。
「いえいえ」
「助かる」
「それでは同期会で!」
「また、それか」
呆れる潤の反応を無視して、藤堂は颯爽と社長室から出て行った。
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