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第50話・身体の声と、守る選択
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詩織は静かに診察室の椅子に腰を下ろし、怜司の隣で少し緊張した面持ちを見せていた。
妊娠30週。
ここまで来られたことに安堵する気持ちと、
日に日に重くなるお腹に対する不安が、心の中でせめぎ合っている。
いよいよ8ヶ月の終盤に差しかかり、お腹のふくらみもぐんと大きくなっていた。
検査室での測定を終え、診察室へ呼ばれると、
担当の女性医師が笑顔で迎えてくれる。
「こんにちは、逢坂さん。順調に来ていますね。……では、検査結果を見ていきましょう」
詩織は少し緊張しながらも、怜司と隣同士で椅子に腰を下ろした。
「うーん……少し浮腫みが見られますね。足のむくみ、気になってませんか?」
「はい……靴が少しきつく感じるようになってきました」
「それと、血液検査では貧血気味ですね。妊娠後期はどうしてもこうなりやすいですから、鉄剤を出しておきますね」
「ありがとうございます……」
詩織が目を伏せるのを見て、怜司が口を開いた。
「先生、妻の体調ですが……。
ここ数日、歩くだけで息切れや動悸があり、腰や背中の痛みもひどくなってきています。
仕事中にふらついて、壁に手をついてしゃがみこむようなこともありました」
医師の表情が少し引き締まる。
「それは心配ですね。お腹が大きくなってくる時期ですから、筋肉や血流にも負担がかかっています。
特に奥様は体型的に筋力が少なく、お腹が前に突き出しやすい傾向にあります。
お腹が大きくなればなるほど、バランスがとりづらくなり、腰や背中への負担は大きくなるでしょう。
お仕事は、今も続けていらっしゃるんですか?」
「はい。ただ、これ以上は無理はさせたくないと思っています」
詩織は少し驚いて、怜司を見た。
(……そんなに気にしてたんだ)
彼が、自分の小さな不調をこんなにも正確に覚えてくれていたことに胸が温かくなる――と同時に、
次の怜司の言葉に、思わず息を飲んだ。
「先生、産休の前倒しを検討したいのですが、診断書をいただけますか?」
(――え?)
詩織は、思わず怜司を見つめた。
聞いていなかった。今、初めて知った。
医師は頷きながら、怜司に応じる。
「はい、もちろん。今の状態であれば、早めの休養はとても良い判断だと思います。
診断書もすぐにご用意できますよ」
「お願いします。11月末で業務を終えて、12月から産休に入れるようにしたいと考えています」
(……そんなふうに、もう決まってるみたいに……)
医師と怜司が話すやり取りを、詩織は静かに聞いていた。
その内容が間違っているわけじゃない。身体は確かにきつくなってきている。
でも――
(私は、まだ最後まで頑張るつもりだったのに)
言葉にはできない戸惑いが、胸の奥でじんわりと膨らんでいく。
エコーの準備が始まり、横になると、モニターに映し出された赤ちゃんが元気に動いていた。
「赤ちゃんは順調ですよ。推定体重も週数通り。心拍も元気です」
詩織は静かに、そしてじっと画面を見つめる。
(私の体は、もう限界に近いのかもしれない……
でも、この子はちゃんと育ってる)
だからこそ――どうすればいいのかわからなかった。
(もう少しだけ、頑張れるんじゃないかって思ってた。
でも、もし無理をして、何かあったら……?)
帰りの車の中、詩織は終始無言だった。
怜司は多くを語らず、ただ静かに詩織の隣にいた。
健診の翌朝。
怜司の家のダイニングには、ばあやが用意してくれた優しい和朝食が並んでいた。
詩織は食卓につきながら、湯気の立つ味噌汁をぼんやりと見つめていた。
「……昨日、先生の話を聞いてから、ずっと考えていました」
「ああ」
怜司は箸を置き、詩織の方に目を向けた。
「あと3週間で産休……本当は、今すぐ休んだほうがいいと思ってますよね」
詩織の問いかけに、怜司は一度小さく頷いた。
「体調を考えれば、そのほうが安心だとは思ってます。けど――」
詩織は両手を膝の上でぎゅっと握る。
「……でも、もう少しだけ頑張ってみたいんです。
自分でちゃんと“仕事を終えた”って思いたい。
甘えてばかりじゃなくて、最後まで自分の意志で働いたって、そう思いたくて……」
その瞳には、迷いと、それでも進みたいという意志が混ざっていた。
怜司は静かに息を吐き、少しだけ目を細めた。
「……いいだろう。ただし条件付きだ」
詩織が怜司を見上げる。
「出勤は週に2~3回。体調次第で在宅か休養。
時間も午前だけに絞る。午後は必ず休め」
「……はい」
「そして。無理をしたら、そのときは俺が止める。それでもいいなら、許可する」
怜司の言葉は、静かで真っ直ぐだった。
その声に、詩織の喉がきゅっと詰まり、視界がにじんだ。
「……ありがとうございます、怜司さん」
「何度でも言う。俺がついてる。安心しろ」
そのひとことが、どんな薬よりも効いた。
詩織は小さく深呼吸して、目の前の湯気を見つめた。
「……まずは、ごはん、ですね」
「そうだ。できることからでいい」
怜司の声はいつも通りで、けれど少しだけ優しさが滲んでいた。
妊娠30週。
ここまで来られたことに安堵する気持ちと、
日に日に重くなるお腹に対する不安が、心の中でせめぎ合っている。
いよいよ8ヶ月の終盤に差しかかり、お腹のふくらみもぐんと大きくなっていた。
検査室での測定を終え、診察室へ呼ばれると、
担当の女性医師が笑顔で迎えてくれる。
「こんにちは、逢坂さん。順調に来ていますね。……では、検査結果を見ていきましょう」
詩織は少し緊張しながらも、怜司と隣同士で椅子に腰を下ろした。
「うーん……少し浮腫みが見られますね。足のむくみ、気になってませんか?」
「はい……靴が少しきつく感じるようになってきました」
「それと、血液検査では貧血気味ですね。妊娠後期はどうしてもこうなりやすいですから、鉄剤を出しておきますね」
「ありがとうございます……」
詩織が目を伏せるのを見て、怜司が口を開いた。
「先生、妻の体調ですが……。
ここ数日、歩くだけで息切れや動悸があり、腰や背中の痛みもひどくなってきています。
仕事中にふらついて、壁に手をついてしゃがみこむようなこともありました」
医師の表情が少し引き締まる。
「それは心配ですね。お腹が大きくなってくる時期ですから、筋肉や血流にも負担がかかっています。
特に奥様は体型的に筋力が少なく、お腹が前に突き出しやすい傾向にあります。
お腹が大きくなればなるほど、バランスがとりづらくなり、腰や背中への負担は大きくなるでしょう。
お仕事は、今も続けていらっしゃるんですか?」
「はい。ただ、これ以上は無理はさせたくないと思っています」
詩織は少し驚いて、怜司を見た。
(……そんなに気にしてたんだ)
彼が、自分の小さな不調をこんなにも正確に覚えてくれていたことに胸が温かくなる――と同時に、
次の怜司の言葉に、思わず息を飲んだ。
「先生、産休の前倒しを検討したいのですが、診断書をいただけますか?」
(――え?)
詩織は、思わず怜司を見つめた。
聞いていなかった。今、初めて知った。
医師は頷きながら、怜司に応じる。
「はい、もちろん。今の状態であれば、早めの休養はとても良い判断だと思います。
診断書もすぐにご用意できますよ」
「お願いします。11月末で業務を終えて、12月から産休に入れるようにしたいと考えています」
(……そんなふうに、もう決まってるみたいに……)
医師と怜司が話すやり取りを、詩織は静かに聞いていた。
その内容が間違っているわけじゃない。身体は確かにきつくなってきている。
でも――
(私は、まだ最後まで頑張るつもりだったのに)
言葉にはできない戸惑いが、胸の奥でじんわりと膨らんでいく。
エコーの準備が始まり、横になると、モニターに映し出された赤ちゃんが元気に動いていた。
「赤ちゃんは順調ですよ。推定体重も週数通り。心拍も元気です」
詩織は静かに、そしてじっと画面を見つめる。
(私の体は、もう限界に近いのかもしれない……
でも、この子はちゃんと育ってる)
だからこそ――どうすればいいのかわからなかった。
(もう少しだけ、頑張れるんじゃないかって思ってた。
でも、もし無理をして、何かあったら……?)
帰りの車の中、詩織は終始無言だった。
怜司は多くを語らず、ただ静かに詩織の隣にいた。
健診の翌朝。
怜司の家のダイニングには、ばあやが用意してくれた優しい和朝食が並んでいた。
詩織は食卓につきながら、湯気の立つ味噌汁をぼんやりと見つめていた。
「……昨日、先生の話を聞いてから、ずっと考えていました」
「ああ」
怜司は箸を置き、詩織の方に目を向けた。
「あと3週間で産休……本当は、今すぐ休んだほうがいいと思ってますよね」
詩織の問いかけに、怜司は一度小さく頷いた。
「体調を考えれば、そのほうが安心だとは思ってます。けど――」
詩織は両手を膝の上でぎゅっと握る。
「……でも、もう少しだけ頑張ってみたいんです。
自分でちゃんと“仕事を終えた”って思いたい。
甘えてばかりじゃなくて、最後まで自分の意志で働いたって、そう思いたくて……」
その瞳には、迷いと、それでも進みたいという意志が混ざっていた。
怜司は静かに息を吐き、少しだけ目を細めた。
「……いいだろう。ただし条件付きだ」
詩織が怜司を見上げる。
「出勤は週に2~3回。体調次第で在宅か休養。
時間も午前だけに絞る。午後は必ず休め」
「……はい」
「そして。無理をしたら、そのときは俺が止める。それでもいいなら、許可する」
怜司の言葉は、静かで真っ直ぐだった。
その声に、詩織の喉がきゅっと詰まり、視界がにじんだ。
「……ありがとうございます、怜司さん」
「何度でも言う。俺がついてる。安心しろ」
そのひとことが、どんな薬よりも効いた。
詩織は小さく深呼吸して、目の前の湯気を見つめた。
「……まずは、ごはん、ですね」
「そうだ。できることからでいい」
怜司の声はいつも通りで、けれど少しだけ優しさが滲んでいた。
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