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番外編
文緒の帰郷 1
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かつて自分が在籍した少年野球チームの練習に久しぶりに参加した。本当は見学だけのつもりだったが、ついでだから子供達の指導の手伝いをするよう、監督と補佐を務める司に勧められたのだ。大学の夏休みを利用しての帰郷はこうして幕を開けた。
「新しく立ち上げたサークルはどんな具合なんだ?」
グラウンドでは練習を終えた子供達が解散し、司と真琴が二人でキャッチボールに取り組んでいる。暑い日差しと風が吹く中、バックネット脇のベンチに並んで座った岸監督は、そんな二人を好もしそうに眺めていた。
「メンバーが七人になりました。男子も二名入っています」
卒業までに立ち上げられない可能性も踏まえた上で、一人で始める筈だった軟式野球サークル。実際は大輔はもちろん、軟式野球部の大幅な協力を得て、私が目指す形を整えつつある。
「荒木さんがお前を可愛がる理由が分かるな」
ふいに岸監督が小さな笑みを洩らした。司のボールを受け損ねた真琴が、彼にどやされて口を尖らせている。言葉遣いは相変わらず良くないが、司の真琴への視線は想像以上に優しい。
「初めて私の元を訪れたときに仰っていたんだよ。文緒は誰よりも野球を楽しむ子だと」
「お祖父ちゃんが?」
「ああ。そしてきっと一緒にいる者も、野球に惹かれていくだろうとな」
高校時代といい現在といい、お前の周囲には野球好きが集まるだろう? 悪戯っぽく唇の端を上げる岸監督。
「司でさえも桂には適わないとぼやいていた。次から次へと目標を掲げるからな。もっともあいつもようやく夢中になれるものを見つけたようだが」
さすが息子の恋心もお見通しのようだ。
「ところで監督。監督はどうして指導者の道を選んだんですか?」
長いつきあいだが今まで一度も訊ねたことがなかった質問だった。私にとっては出会ったときから教えを授けてくれる人だったのだ。
「高校時代の恩師の影響かな」
甲子園に出場経験のある岸監督は、お祖父ちゃん達が記憶する程有名な先生の教え子だと聞いている。
「とにかく厳しい人だった。練習においても普段の生活においても。その代わりどんなに下手だろうと伸び悩もうと、絶対生徒を見放すことはしなかった。部員の人数がかなり多かったのに、一人一人の性格も癖も趣味まで、一番把握していたのは先生だった」
楽しそうに話す岸監督の言葉が、そっくり自分や司、少年野球チームのメンバーの思いに繋がる。私達も子供ながらに岸監督のことをそういう人物だと、だからこそ誰も辞めることなく着いていった。
「私は先生のような人格者ではない。だが先生との出会いで野球をやっていて良かったと心底思えた。それをまだ野球を知らない、やってみたいけど躊躇している子供達に伝えたかった」
その熱意がまだ少年野球チームのなかったこの地に、新たにチームを発足させることになった原動力。私はそっと目を閉じた。再び開いた先に何度もボールのやり取りを繰り返す、かつてのチームメイトが笑っている。
「焦ることはない。自分の思うようにやってみればいい」
岸監督の声がお祖父ちゃんと重なる。私は間違っていなかった。先走りした感のあるサークル立ち上げだったけれど、今ここに私の信じたものが確かに根を下ろしている。私は私の道を行く。もう迷わない。
「そういえばメンバーが少なかったですね。今日は休みの子が多いんですか?」
自分の気持ちを再確認したところで、私は野球チームの練習中に気づいたことを訊いてみた。岸監督は小さなため息を一つつく。
「いや。全員参加していた。子供の数と野球人口が減っていることが理由だ」
言われてみれば私が現在住んでいる地域でも、少年野球チームを見かけたことがない。私の行動範囲が狭いだけかもしれないが、中学や高校の野球部の生徒とはすれ違っても、バットやグローブを担いでいる子供とは殆ど行き合わない。
「特にキャッチャー離れは深刻だぞ。疲れる、汚れる、危ないと。聞いただろう? 司の高校の野球部も、キャッチャーは外野の子がやっている」
私は無言で頷いた。今でも司が野球部から入部を打診されるのは、彼がキャッチャー経験者という点が大きい。それに嬉しさを覚えながらも、司は迷わず真琴の手を取った。
「勝つのは大事だ。でもそれとは無関係なところにも、必死な奴はいるよな」
野球が好きで、でも下手だからと一度は諦めた真琴の力になりたくて。
「例えメンバーが一人になろうとも、私は指導者でありたいと願っているがな」
岸監督の願いが胸を締め付ける。そしてやはり親子。司は意識せずとも、岸監督の背中を追いかけている。
突然眼前にとうもろこし畑が広がった。茶色いでこぼこのグラウンドで、楽しそうに駆け回る中学生の大輔が浮かび上がる。やがて景色は大輔の通っていた中学校の校庭に変わった。
「そもそも子供の数が少ないから、チームを組むことすらできないのよ」
たった五人しかいない野球部の事情を、基礎すら満足に教われない環境を嘆いていたのは、大輔のお祖母ちゃんだった。
ああ、そうか。すとんと何かが自分の中に落ちたとき、グラウンドにいたのは司と真琴だった。馬鹿だ、私。今頃気づいた。何故あんなにもサークルを立ち上げたかったのか。
ーー環境に恵まれず、野球を学びたくても学べなかった、中学の頃の大輔が根底にあったからだ。
「新しく立ち上げたサークルはどんな具合なんだ?」
グラウンドでは練習を終えた子供達が解散し、司と真琴が二人でキャッチボールに取り組んでいる。暑い日差しと風が吹く中、バックネット脇のベンチに並んで座った岸監督は、そんな二人を好もしそうに眺めていた。
「メンバーが七人になりました。男子も二名入っています」
卒業までに立ち上げられない可能性も踏まえた上で、一人で始める筈だった軟式野球サークル。実際は大輔はもちろん、軟式野球部の大幅な協力を得て、私が目指す形を整えつつある。
「荒木さんがお前を可愛がる理由が分かるな」
ふいに岸監督が小さな笑みを洩らした。司のボールを受け損ねた真琴が、彼にどやされて口を尖らせている。言葉遣いは相変わらず良くないが、司の真琴への視線は想像以上に優しい。
「初めて私の元を訪れたときに仰っていたんだよ。文緒は誰よりも野球を楽しむ子だと」
「お祖父ちゃんが?」
「ああ。そしてきっと一緒にいる者も、野球に惹かれていくだろうとな」
高校時代といい現在といい、お前の周囲には野球好きが集まるだろう? 悪戯っぽく唇の端を上げる岸監督。
「司でさえも桂には適わないとぼやいていた。次から次へと目標を掲げるからな。もっともあいつもようやく夢中になれるものを見つけたようだが」
さすが息子の恋心もお見通しのようだ。
「ところで監督。監督はどうして指導者の道を選んだんですか?」
長いつきあいだが今まで一度も訊ねたことがなかった質問だった。私にとっては出会ったときから教えを授けてくれる人だったのだ。
「高校時代の恩師の影響かな」
甲子園に出場経験のある岸監督は、お祖父ちゃん達が記憶する程有名な先生の教え子だと聞いている。
「とにかく厳しい人だった。練習においても普段の生活においても。その代わりどんなに下手だろうと伸び悩もうと、絶対生徒を見放すことはしなかった。部員の人数がかなり多かったのに、一人一人の性格も癖も趣味まで、一番把握していたのは先生だった」
楽しそうに話す岸監督の言葉が、そっくり自分や司、少年野球チームのメンバーの思いに繋がる。私達も子供ながらに岸監督のことをそういう人物だと、だからこそ誰も辞めることなく着いていった。
「私は先生のような人格者ではない。だが先生との出会いで野球をやっていて良かったと心底思えた。それをまだ野球を知らない、やってみたいけど躊躇している子供達に伝えたかった」
その熱意がまだ少年野球チームのなかったこの地に、新たにチームを発足させることになった原動力。私はそっと目を閉じた。再び開いた先に何度もボールのやり取りを繰り返す、かつてのチームメイトが笑っている。
「焦ることはない。自分の思うようにやってみればいい」
岸監督の声がお祖父ちゃんと重なる。私は間違っていなかった。先走りした感のあるサークル立ち上げだったけれど、今ここに私の信じたものが確かに根を下ろしている。私は私の道を行く。もう迷わない。
「そういえばメンバーが少なかったですね。今日は休みの子が多いんですか?」
自分の気持ちを再確認したところで、私は野球チームの練習中に気づいたことを訊いてみた。岸監督は小さなため息を一つつく。
「いや。全員参加していた。子供の数と野球人口が減っていることが理由だ」
言われてみれば私が現在住んでいる地域でも、少年野球チームを見かけたことがない。私の行動範囲が狭いだけかもしれないが、中学や高校の野球部の生徒とはすれ違っても、バットやグローブを担いでいる子供とは殆ど行き合わない。
「特にキャッチャー離れは深刻だぞ。疲れる、汚れる、危ないと。聞いただろう? 司の高校の野球部も、キャッチャーは外野の子がやっている」
私は無言で頷いた。今でも司が野球部から入部を打診されるのは、彼がキャッチャー経験者という点が大きい。それに嬉しさを覚えながらも、司は迷わず真琴の手を取った。
「勝つのは大事だ。でもそれとは無関係なところにも、必死な奴はいるよな」
野球が好きで、でも下手だからと一度は諦めた真琴の力になりたくて。
「例えメンバーが一人になろうとも、私は指導者でありたいと願っているがな」
岸監督の願いが胸を締め付ける。そしてやはり親子。司は意識せずとも、岸監督の背中を追いかけている。
突然眼前にとうもろこし畑が広がった。茶色いでこぼこのグラウンドで、楽しそうに駆け回る中学生の大輔が浮かび上がる。やがて景色は大輔の通っていた中学校の校庭に変わった。
「そもそも子供の数が少ないから、チームを組むことすらできないのよ」
たった五人しかいない野球部の事情を、基礎すら満足に教われない環境を嘆いていたのは、大輔のお祖母ちゃんだった。
ああ、そうか。すとんと何かが自分の中に落ちたとき、グラウンドにいたのは司と真琴だった。馬鹿だ、私。今頃気づいた。何故あんなにもサークルを立ち上げたかったのか。
ーー環境に恵まれず、野球を学びたくても学べなかった、中学の頃の大輔が根底にあったからだ。
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