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番外編
文緒の帰郷 2
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炎天下のグラウンドに長時間いるのはきついので、司と真琴の練習が終わったのを見計らって、岸監督は道具を積んだ車で帰っていった。私達三人は久し振りの顔合わせなので、一旦自宅で汗を流してから司の家で落ち合うことにした。
「野球の本しかない」
初めて入った司の部屋が、あまりにも想像通りだったので私は苦笑を洩らした。文句があるなら出ていけと司は嘯いたが、真琴は他のことに気が行ったらしい。
「桂先輩、岸くんの部屋初めてなんですか? 昔からの友達なのに」
真琴にとっては単純な質問だったのだろうが、司はしまったと言わんばかりに焦っている。おそらく彼女は度々この部屋に招かれているのだろう。
「私と司はグラウンドだけのつきあいだからね。野球チームの面々も然り。自分の領域に入れた女の子なんて、真琴くらいのもんじゃないの」
ぱちぱちと瞬きを繰り返す真琴に微笑むと、司は口をパクパクさせて私を睨んだ。
「そうですよね。他の人はみんな上手いから、課外授業は必要ないですもんね」
課外授業って……。呆れて司に視線を送ると、彼はバツが悪そうに頬を掻いている。竹を割ったような性格の持ち主だが、事恋愛においてはそうもいかないらしい。まあ真琴も相当鈍いけれど。
いやそれは私も同類か。大輔も文緒は鈍いといつもぼやいていた。
「板倉と二階のことならもう大丈夫だよ」
帰省する前に石井さんにいきなりそう言われた。二階さんが好きだったと、想いを清算するように過去形で告げたことで、一応の決着を見たのだそうだ。
「二人でキャッチボールをするのに、誰にも遠慮はいらないよ」
けれど私は大輔からその話を聞かされていないし、そもそも彼は私のアパートにも、ここのところ足を運ばなくなっている。最後にキャッチボールをしたのはいつだったろうか。
「大輔も練習や試合で忙しいんじゃないかな」
「文緒ちゃん」
何気なく洩らした台詞に、珍しく石井さんが低い声を出した。
「板倉が君をどれだけ大事にしてるか分かってる?」
私は曖昧に首を傾げた。もちろんいつも心配してくれていることはちゃんと知っている。喧嘩しているときでさえも。
「本当は自分の傍にいてほしいのに、それでは文緒ちゃんが自分らしくいられないからと、あえて自由にさせて見守っているんだよ。毎日一緒にいても手も出さずにね」
男にはきついよ、と石井さんは苦笑した。
「今度はさ、文緒ちゃんから板倉の懐に飛び込んであげてよ。きっとあいつ、喜ぶよ」
それともう一つ。そうして石井さんが補足したのは、到底信じられないことだった。
「板倉の初恋は文緒ちゃんだから。というか他に好きになった女の子、いないんだって。びっくりだよね」
あまりに驚き過ぎて返事ができなかった。結局その後すぐに帰省したので、大輔とは顔を合わせずじまい。
「ところで新たに立ち上げたサークルはどうなんだよ?」
気持ちを立て直した司が、監督と同じことを訊ねてくる。何だかんだ言って、相変わらず面倒見がいいのは父親譲り。
「一応軌道に乗ったよ。現在メンバーが七人で、中学野球の経験者も二人入ったから、個々の基礎とレベル上げに専念してる。まずは九人揃えて紅白戦を目指すよ」
「桂先輩は大学でも、私みたいな人達に門戸を開いてくれているんですね」
嬉しそうに真琴が目を細める。廃会の責任を負わせてしまったけれど、それでも彼女は同好会に入れてよかったと、悔いは一つもないと笑ってくれた。
「そんな立派なものじゃないよ。私がみんなと野球をやらずにいられないだけ。我儘なんだよね」
「違いますよ。だってやりたくても、そう声にできる場所、私にはずっとなかったんですから」
「真琴……」
穏やかな表情で頷く真琴と、現在彼女を支えて、支えられている司の姿に、自分と大輔が投影される。
「ありがとう。そう言ってくれて。じゃあいつかは真琴が、司と一緒にそういう場所を作っていって」
「はい! と胸を張りたいですが、岸くんからは怒られてばっかりで……」
せっかく指導を受けているのに、上達しない自分が歯痒いようだ。
「見込みがあるから煩くしているだけで、別に怒ってんじゃねーよ」
慌てて司が口を挟む。
「でも本当は岸くん、野球部に入部したいんじゃないの? 桂先輩に私を頼まれたから」
「頼んでないよ」
申し訳なさそうな真琴に私は即答した。ぽんぽんと頭を撫でる。
「私がお願いしたのは、同好会の存続がかかった二週間のみ。それ以降は司の意思だよ。真琴と一緒に野球をやりたくて」
「おい、桂!」
再び焦る司に頑張れと拳を握って見せる。
「仕方なくつきあってくれてたんじゃないの?」
不安げに確かめる真琴に、司はしどろもどろ気味に説明を始めた。
「そ、そんなわけないだろ。俺は暇じゃねーんだぞ。ったく、馬鹿なこと考えんな」
「絶対?」
「当たり前だ」
微笑ましいやり取りを続ける二人に気づかれぬよう、私はトイレに行く振りをして部屋を出た。真琴はずっと司に引け目を感じていた。自分のせいで彼が犠牲になっているのではないかと。たぶんそれは私が百回違うと言っても拭えない。けれど司がたった一度、自分の正直な思いを告げてくれたら簡単に解れるのだ。
この分ならきっと上手くいくだろう。数日後には会えるというのに、私も無性に大輔が自分を叱る声が聴きたくなった。
「野球の本しかない」
初めて入った司の部屋が、あまりにも想像通りだったので私は苦笑を洩らした。文句があるなら出ていけと司は嘯いたが、真琴は他のことに気が行ったらしい。
「桂先輩、岸くんの部屋初めてなんですか? 昔からの友達なのに」
真琴にとっては単純な質問だったのだろうが、司はしまったと言わんばかりに焦っている。おそらく彼女は度々この部屋に招かれているのだろう。
「私と司はグラウンドだけのつきあいだからね。野球チームの面々も然り。自分の領域に入れた女の子なんて、真琴くらいのもんじゃないの」
ぱちぱちと瞬きを繰り返す真琴に微笑むと、司は口をパクパクさせて私を睨んだ。
「そうですよね。他の人はみんな上手いから、課外授業は必要ないですもんね」
課外授業って……。呆れて司に視線を送ると、彼はバツが悪そうに頬を掻いている。竹を割ったような性格の持ち主だが、事恋愛においてはそうもいかないらしい。まあ真琴も相当鈍いけれど。
いやそれは私も同類か。大輔も文緒は鈍いといつもぼやいていた。
「板倉と二階のことならもう大丈夫だよ」
帰省する前に石井さんにいきなりそう言われた。二階さんが好きだったと、想いを清算するように過去形で告げたことで、一応の決着を見たのだそうだ。
「二人でキャッチボールをするのに、誰にも遠慮はいらないよ」
けれど私は大輔からその話を聞かされていないし、そもそも彼は私のアパートにも、ここのところ足を運ばなくなっている。最後にキャッチボールをしたのはいつだったろうか。
「大輔も練習や試合で忙しいんじゃないかな」
「文緒ちゃん」
何気なく洩らした台詞に、珍しく石井さんが低い声を出した。
「板倉が君をどれだけ大事にしてるか分かってる?」
私は曖昧に首を傾げた。もちろんいつも心配してくれていることはちゃんと知っている。喧嘩しているときでさえも。
「本当は自分の傍にいてほしいのに、それでは文緒ちゃんが自分らしくいられないからと、あえて自由にさせて見守っているんだよ。毎日一緒にいても手も出さずにね」
男にはきついよ、と石井さんは苦笑した。
「今度はさ、文緒ちゃんから板倉の懐に飛び込んであげてよ。きっとあいつ、喜ぶよ」
それともう一つ。そうして石井さんが補足したのは、到底信じられないことだった。
「板倉の初恋は文緒ちゃんだから。というか他に好きになった女の子、いないんだって。びっくりだよね」
あまりに驚き過ぎて返事ができなかった。結局その後すぐに帰省したので、大輔とは顔を合わせずじまい。
「ところで新たに立ち上げたサークルはどうなんだよ?」
気持ちを立て直した司が、監督と同じことを訊ねてくる。何だかんだ言って、相変わらず面倒見がいいのは父親譲り。
「一応軌道に乗ったよ。現在メンバーが七人で、中学野球の経験者も二人入ったから、個々の基礎とレベル上げに専念してる。まずは九人揃えて紅白戦を目指すよ」
「桂先輩は大学でも、私みたいな人達に門戸を開いてくれているんですね」
嬉しそうに真琴が目を細める。廃会の責任を負わせてしまったけれど、それでも彼女は同好会に入れてよかったと、悔いは一つもないと笑ってくれた。
「そんな立派なものじゃないよ。私がみんなと野球をやらずにいられないだけ。我儘なんだよね」
「違いますよ。だってやりたくても、そう声にできる場所、私にはずっとなかったんですから」
「真琴……」
穏やかな表情で頷く真琴と、現在彼女を支えて、支えられている司の姿に、自分と大輔が投影される。
「ありがとう。そう言ってくれて。じゃあいつかは真琴が、司と一緒にそういう場所を作っていって」
「はい! と胸を張りたいですが、岸くんからは怒られてばっかりで……」
せっかく指導を受けているのに、上達しない自分が歯痒いようだ。
「見込みがあるから煩くしているだけで、別に怒ってんじゃねーよ」
慌てて司が口を挟む。
「でも本当は岸くん、野球部に入部したいんじゃないの? 桂先輩に私を頼まれたから」
「頼んでないよ」
申し訳なさそうな真琴に私は即答した。ぽんぽんと頭を撫でる。
「私がお願いしたのは、同好会の存続がかかった二週間のみ。それ以降は司の意思だよ。真琴と一緒に野球をやりたくて」
「おい、桂!」
再び焦る司に頑張れと拳を握って見せる。
「仕方なくつきあってくれてたんじゃないの?」
不安げに確かめる真琴に、司はしどろもどろ気味に説明を始めた。
「そ、そんなわけないだろ。俺は暇じゃねーんだぞ。ったく、馬鹿なこと考えんな」
「絶対?」
「当たり前だ」
微笑ましいやり取りを続ける二人に気づかれぬよう、私はトイレに行く振りをして部屋を出た。真琴はずっと司に引け目を感じていた。自分のせいで彼が犠牲になっているのではないかと。たぶんそれは私が百回違うと言っても拭えない。けれど司がたった一度、自分の正直な思いを告げてくれたら簡単に解れるのだ。
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