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奈央編
話すべきか 話さざるべきか 茂木視点
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奈央さんの抱えていた事情は、俺が想像していた以上に過酷なものだった。ただできれば大したことがないのだと、よくあることなのだと思ってほしくて、あえて軽い雰囲気に持っていくよう努めた。とにかく彼女を自責の念と自らに対する嫌悪感から解放してあげたかった。
これが初めてでなかったら、誰かと抱き合うことができた後だったら、こんなに苦しまずに済んだものを。奈央さんに消えない傷をつけたあの男ーー片岡が許せない。
その一方でおそらく片岡は、今でも奈央さんを好きなのではないかと思った。自分とできなかったという悔しさと、他の男とできたのではないかという焦り。それを他人に知られたくないという男のプライド。
奈央さんにつきまとった理由は、本人にも話した通りそんなところだろうが、店で会ったとき、片岡は間違いなく俺を威嚇した。
「こいつは俺のものだからね、今も昔も」
あれはお気に入りの玩具を取られたときのような、所有欲から出たものではない。もしかしたら片岡も自覚していないのかもしれない。奈央さんに他の男の垢が付くのが嫌だと。だから脅しまがいのことをして、男を遠ざけているのだと。
例えそれが俺の想像に過ぎなくても、奈央さんの心は複雑ながらも救われるだろう。話してあげるのが一番いい。分かっている。なのによりが戻らないまでも、奈央さんの気持ちがまた彼に傾いたら…。そう思うと自然に口が重くなる。
「そんなもん、黙ってりゃいいだろ。うぜぇワンコだな」
話すべきか話さざるべきか一人悶々と悩む俺に、橋本さんは鬱陶しそうにぼやいた。
「わざわざ敵に塩を送ってどうすんだ。嫌われたまんまにしておけ」
仕事帰りに立ち寄ったラーメン屋で、味噌ラーメンを啜りながらすぱっと切り捨てる。この人のこういう性格が羨ましい。同じ男ながら惚れ惚れする。
「奈央を苦しめた張本人に、そこまで気を使うお前の気が知れない」
いやいや。俺が気に病んでいるのは奈央さんのことで、片岡なんかどうでもいいのだが。結果的に奴も助けることになってしまうのが痛い。
「それより橋本さん。何故奈央さんを呼び捨てにしているんですか?」
俺が奈央さんの存在を明るみに出してから、彼女と橋本さんの親密度が上がっているように感じる。不思議と奈央さんも橋本さんに対しては地が出るのか、長年の喧嘩友達みたいにも見える。
「店の常連のおばさんが、俺と奈央ができていると勘違いしてんだよ。面白いから協力してやってんだわ」
何でも奈央さんにお見合いの話を持ってこられたので、あやめさんがカタツムリ便の人とつきあっていると断っているところに、ちょうど橋本さんが配達に伺ったらしい。
「ちゃんと誤解を解いておいて下さいよ」
「そこから転じて真実になるかもしれないからな。しばらく様子見する」
「勘弁して下さい」
げらげら笑う橋本さんを睨んで、俺も伸びかけたラーメンを食べ始めた。
あの日ついキスはしてしまったものの、俺は当然それ以上のことはせずに奈央さんを店長宅まで送った。あやめさんからはもしも奈央さんが俺と一緒にいることを望んだら、帰さなくても構わないというメールは貰っていたが、奈央さんのショックの大きさを考えると、やはり男の俺の元にいては気が休まらないと思ったのだ。
奈央さんが早々に自室に引き上げた後、保護者である店長達にも事情を話すべきか迷ったが、逆に二人は俺に詳細を訊ねなかった。俺に奈央さんを委ねた以上、片が付くまで任せるつもりのようだった。
片岡は俺と奈央さんが去った後、しばらく店の前で呆然としていたそうだが、店長が凄んだらすぐ車でどこかに行ってしまったのだという。
「店長があの男をぼこぼこにしても俺は止めません」
だから再び来訪するかどうかは分からないが、これだけはしっかり伝えておいた。
帰り際、車に乗り込むときに見上げた奈央さんの部屋には、まだ起きているのか灯りがついていた。
今何を考えているのだろう。できれば奈央さんの呪縛を解く役目を、いつか俺が果たせたらいいのに。そう願いながら俺は車を発進させた。
「悩むのはちゃんと返事を貰ってからにしろ」
ラーメンを食べ終わって一息ついていると、橋本さんがふいに俺の顔を覗き込んだ。黒い気配が店内に広がっていますよ、先輩。
「振られるかもしれないんだからな」
どうして意地悪ばっかり言いますかね。
「上手くいった後なら懐の大きな人、失恋後なら嬉しい置き土産。どっちにしてもお前の株は上昇するだろ」
なるほど。そう割り切ると、案外悪いことばかりではないかも。
「振られたらあの男とは、もはや敵ですらないが」
肩をそびやかす橋本さん。お後がよろしくない。俺は勘定を済ませて立ち上がった。
泣いても笑っても、明日は約束のホワイトデー。どんな結果になろうとも、俺はあなたが好きですよ、奈央さん。それだけは忘れないで下さいね。
これが初めてでなかったら、誰かと抱き合うことができた後だったら、こんなに苦しまずに済んだものを。奈央さんに消えない傷をつけたあの男ーー片岡が許せない。
その一方でおそらく片岡は、今でも奈央さんを好きなのではないかと思った。自分とできなかったという悔しさと、他の男とできたのではないかという焦り。それを他人に知られたくないという男のプライド。
奈央さんにつきまとった理由は、本人にも話した通りそんなところだろうが、店で会ったとき、片岡は間違いなく俺を威嚇した。
「こいつは俺のものだからね、今も昔も」
あれはお気に入りの玩具を取られたときのような、所有欲から出たものではない。もしかしたら片岡も自覚していないのかもしれない。奈央さんに他の男の垢が付くのが嫌だと。だから脅しまがいのことをして、男を遠ざけているのだと。
例えそれが俺の想像に過ぎなくても、奈央さんの心は複雑ながらも救われるだろう。話してあげるのが一番いい。分かっている。なのによりが戻らないまでも、奈央さんの気持ちがまた彼に傾いたら…。そう思うと自然に口が重くなる。
「そんなもん、黙ってりゃいいだろ。うぜぇワンコだな」
話すべきか話さざるべきか一人悶々と悩む俺に、橋本さんは鬱陶しそうにぼやいた。
「わざわざ敵に塩を送ってどうすんだ。嫌われたまんまにしておけ」
仕事帰りに立ち寄ったラーメン屋で、味噌ラーメンを啜りながらすぱっと切り捨てる。この人のこういう性格が羨ましい。同じ男ながら惚れ惚れする。
「奈央を苦しめた張本人に、そこまで気を使うお前の気が知れない」
いやいや。俺が気に病んでいるのは奈央さんのことで、片岡なんかどうでもいいのだが。結果的に奴も助けることになってしまうのが痛い。
「それより橋本さん。何故奈央さんを呼び捨てにしているんですか?」
俺が奈央さんの存在を明るみに出してから、彼女と橋本さんの親密度が上がっているように感じる。不思議と奈央さんも橋本さんに対しては地が出るのか、長年の喧嘩友達みたいにも見える。
「店の常連のおばさんが、俺と奈央ができていると勘違いしてんだよ。面白いから協力してやってんだわ」
何でも奈央さんにお見合いの話を持ってこられたので、あやめさんがカタツムリ便の人とつきあっていると断っているところに、ちょうど橋本さんが配達に伺ったらしい。
「ちゃんと誤解を解いておいて下さいよ」
「そこから転じて真実になるかもしれないからな。しばらく様子見する」
「勘弁して下さい」
げらげら笑う橋本さんを睨んで、俺も伸びかけたラーメンを食べ始めた。
あの日ついキスはしてしまったものの、俺は当然それ以上のことはせずに奈央さんを店長宅まで送った。あやめさんからはもしも奈央さんが俺と一緒にいることを望んだら、帰さなくても構わないというメールは貰っていたが、奈央さんのショックの大きさを考えると、やはり男の俺の元にいては気が休まらないと思ったのだ。
奈央さんが早々に自室に引き上げた後、保護者である店長達にも事情を話すべきか迷ったが、逆に二人は俺に詳細を訊ねなかった。俺に奈央さんを委ねた以上、片が付くまで任せるつもりのようだった。
片岡は俺と奈央さんが去った後、しばらく店の前で呆然としていたそうだが、店長が凄んだらすぐ車でどこかに行ってしまったのだという。
「店長があの男をぼこぼこにしても俺は止めません」
だから再び来訪するかどうかは分からないが、これだけはしっかり伝えておいた。
帰り際、車に乗り込むときに見上げた奈央さんの部屋には、まだ起きているのか灯りがついていた。
今何を考えているのだろう。できれば奈央さんの呪縛を解く役目を、いつか俺が果たせたらいいのに。そう願いながら俺は車を発進させた。
「悩むのはちゃんと返事を貰ってからにしろ」
ラーメンを食べ終わって一息ついていると、橋本さんがふいに俺の顔を覗き込んだ。黒い気配が店内に広がっていますよ、先輩。
「振られるかもしれないんだからな」
どうして意地悪ばっかり言いますかね。
「上手くいった後なら懐の大きな人、失恋後なら嬉しい置き土産。どっちにしてもお前の株は上昇するだろ」
なるほど。そう割り切ると、案外悪いことばかりではないかも。
「振られたらあの男とは、もはや敵ですらないが」
肩をそびやかす橋本さん。お後がよろしくない。俺は勘定を済ませて立ち上がった。
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