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コーヒーショップで一ノ瀬さんと別れたときには、陽は既に傾きかけていた。眼前には翌日の天気を予想させるような、綺麗に赤く染まった空が広がっている。そんな穏やかな夕暮れの中を、私は一人帰途に着いていた。
「正直に言うと、本気でやり直そうと思ってきたわけじゃないんだ」
迷いなく現在は幸せだと答えた私に、何かを噛み締めるように目を細めると、一ノ瀬さんは時間をかけてコーヒーを飲み干した。やがて今のなぎさなら大丈夫だろうと前置きしてから続ける。
「偶然すれ違ったとき、なぎさは確かに別れた当時のような、感情を微塵も窺えない笑みを浮かべていた。驚いてはいたが嫌がる素振りもなかった。二年経ってもそんな状態だと知って、真っ先に湧いたのは罪悪感だった」
どんな理由で別れるにしても、一度は共に生きると決めた人と他人になる。そこに何らかの痛みが伴わないわけがない。例え当人同士が納得ずくでも、その後に周囲を取り巻く様々な思惑に疲弊することもあるだろう。
かくいう一ノ瀬さんも離婚した当初は、私に対して憎しみめいたものを抱いた。浮気に走らせたことも、私がそれを責めなかったことも含め、結婚生活が破綻したのは全て私のせいだと。そう考えることで自らを正当化していた。けれど時間が経てばそれは徐々に薄らいでゆく。
「なのになぎさの時間は止まったままだった」
何が原因なのかは分からない。でもそれがもし自分なら取り除いてやりたかった。
「結局自分が楽になりたいだけなんだよ、俺は」
苦味を滲ませて一ノ瀬さんが笑う。以前すれ違ったときに一緒だった女性は、会社の同僚なのだという。つきあいを申し込まれて返事を保留にしているのだそうだ。
「だからちゃんとけりをつけたかった。熊谷さんにはなぎさは変わろうと頑張っているから、そっとしておいてほしいと念を押されたんだけど、どうにも信じられなくて。まあ事実余計なお世話だった」
安堵したような一ノ瀬さんに、逆に私は後ろめたくなってしまった。私は彼の安否なんて少しも気にかけなかった。桜屋の駐車場に現れたときも、富沢くんが修司さんに連絡しようとしたので、彼を巻き込ないようにすることしか考えなかった。ううん。一ノ瀬さんとの関係を富沢くん達に勘ぐられる前に、急ぎその場を離れるように車に乗り込んでしまった。
「今日は話せてよかった」
形はどうあれこうして話せたことは良かったのだろう。私同様一ノ瀬さんまで過去の結婚に捕らわれていたのなら、お互いようやくその呪縛から解き放たれたことになる。
私はそっと自分の右手に視線を落とした。優しくて不器用な人を想う。こんなときでも心はあの人で占められているなんて、私はとてつもなく傲慢なのかもしれない。
重い足を引きずってアパートの近くまで帰りつくと、見覚えのある白い車が道路の端に停まっていた。運転席にいる筈の人は車の横に立ち、手持無沙汰なのか苛々と煙草を吸っている。時折落ちそうになる灰を、慌てて車内の灰皿に捨てる姿が好もしい。
「おせーよ」
驚いて固まっている私に、ずっと待ち侘びていた人は煙草を揉み消してぼやいた。
「悟が電話してきた。あんたが変なおっさんに連れ去られたって」
まるで誘拐でもされたような表現に、今度は一瞬にして体の力が抜ける。余程慌てていたんだろうけれど、三十路間近の女にそれはない。
「で、大丈夫だったのか?」
見かけは怒っているのに、心配そうに訊ねる声に口元が緩んだ。一月振りに目にする修司さんにやつれた様子はない。
「富沢さん、煙草吸うんですね」
初めて喫煙している現場を見たことも手伝い、私はうっかりのほほんとした台詞を洩らした。途端に修司さんは眉をこれ以上にないくらい釣り上げた。
「ふざけてんのかあんたは。こっちは連絡を貰うなり探し回ったっていうのに。何が煙草だ、このたわけ!」
ついでに容赦ない拳骨が脳天に落ちる。でも私は頭を押さえるのも忘れて、まじまじと修司さんを凝視した。
「探して、くれたんですか? 何で…」
「当たり前だろうが!」
どの辺が当たり前なのか分からない。だって私は香さんじゃない。探してもらう理由がない。首を傾げている間にも、修司さんの目つきはどんどん険しくなっている。
「え、でも、ほら、電話でもメールでも」
話題を逸らそうとしどろもどろ気味に訴えると、彼はバツが悪そうに視線を泳がせた。
「焦って飛び出したから、車の鍵しか持ってなかったんだよ」
普段の修司さんらしからぬ行動に、私はぽかんと口を開けた。
「どこにいるかなんて全く見当がつかないし、とにかく闇雲に走り回った挙句、どうしようもなくてここで待ってた」
ぶつぶつと文句を言うように零された言葉に、不謹慎にも嬉しさとやり切れなさが込み上げて、喉の奥が石で塞がれたようにぐっと詰まる。
「もっとも待っているうちに頭が冷えた。あんたを連れ去る人物、該当者は一人だろ」
「すみません、でした。せっかくの日曜日に」
無理やり絞り出した謝罪を、修司さんはあっさり遮った。
「違うだろ」
何故か再び拳骨を食らう。
「俺に謝らなければいけないようなこと、されたのか?」
「滅相もないです」
反射的に否定したものの、謝らなければいけないことって一体何だろう。
「それならいい」
意味はよく理解できなかったものの、私の髪をぐしゃぐしゃにしながらやっと修司さんが笑ってくれたので、やめて下さいと言いながらこっそり私も笑みを洩らした。
「正直に言うと、本気でやり直そうと思ってきたわけじゃないんだ」
迷いなく現在は幸せだと答えた私に、何かを噛み締めるように目を細めると、一ノ瀬さんは時間をかけてコーヒーを飲み干した。やがて今のなぎさなら大丈夫だろうと前置きしてから続ける。
「偶然すれ違ったとき、なぎさは確かに別れた当時のような、感情を微塵も窺えない笑みを浮かべていた。驚いてはいたが嫌がる素振りもなかった。二年経ってもそんな状態だと知って、真っ先に湧いたのは罪悪感だった」
どんな理由で別れるにしても、一度は共に生きると決めた人と他人になる。そこに何らかの痛みが伴わないわけがない。例え当人同士が納得ずくでも、その後に周囲を取り巻く様々な思惑に疲弊することもあるだろう。
かくいう一ノ瀬さんも離婚した当初は、私に対して憎しみめいたものを抱いた。浮気に走らせたことも、私がそれを責めなかったことも含め、結婚生活が破綻したのは全て私のせいだと。そう考えることで自らを正当化していた。けれど時間が経てばそれは徐々に薄らいでゆく。
「なのになぎさの時間は止まったままだった」
何が原因なのかは分からない。でもそれがもし自分なら取り除いてやりたかった。
「結局自分が楽になりたいだけなんだよ、俺は」
苦味を滲ませて一ノ瀬さんが笑う。以前すれ違ったときに一緒だった女性は、会社の同僚なのだという。つきあいを申し込まれて返事を保留にしているのだそうだ。
「だからちゃんとけりをつけたかった。熊谷さんにはなぎさは変わろうと頑張っているから、そっとしておいてほしいと念を押されたんだけど、どうにも信じられなくて。まあ事実余計なお世話だった」
安堵したような一ノ瀬さんに、逆に私は後ろめたくなってしまった。私は彼の安否なんて少しも気にかけなかった。桜屋の駐車場に現れたときも、富沢くんが修司さんに連絡しようとしたので、彼を巻き込ないようにすることしか考えなかった。ううん。一ノ瀬さんとの関係を富沢くん達に勘ぐられる前に、急ぎその場を離れるように車に乗り込んでしまった。
「今日は話せてよかった」
形はどうあれこうして話せたことは良かったのだろう。私同様一ノ瀬さんまで過去の結婚に捕らわれていたのなら、お互いようやくその呪縛から解き放たれたことになる。
私はそっと自分の右手に視線を落とした。優しくて不器用な人を想う。こんなときでも心はあの人で占められているなんて、私はとてつもなく傲慢なのかもしれない。
重い足を引きずってアパートの近くまで帰りつくと、見覚えのある白い車が道路の端に停まっていた。運転席にいる筈の人は車の横に立ち、手持無沙汰なのか苛々と煙草を吸っている。時折落ちそうになる灰を、慌てて車内の灰皿に捨てる姿が好もしい。
「おせーよ」
驚いて固まっている私に、ずっと待ち侘びていた人は煙草を揉み消してぼやいた。
「悟が電話してきた。あんたが変なおっさんに連れ去られたって」
まるで誘拐でもされたような表現に、今度は一瞬にして体の力が抜ける。余程慌てていたんだろうけれど、三十路間近の女にそれはない。
「で、大丈夫だったのか?」
見かけは怒っているのに、心配そうに訊ねる声に口元が緩んだ。一月振りに目にする修司さんにやつれた様子はない。
「富沢さん、煙草吸うんですね」
初めて喫煙している現場を見たことも手伝い、私はうっかりのほほんとした台詞を洩らした。途端に修司さんは眉をこれ以上にないくらい釣り上げた。
「ふざけてんのかあんたは。こっちは連絡を貰うなり探し回ったっていうのに。何が煙草だ、このたわけ!」
ついでに容赦ない拳骨が脳天に落ちる。でも私は頭を押さえるのも忘れて、まじまじと修司さんを凝視した。
「探して、くれたんですか? 何で…」
「当たり前だろうが!」
どの辺が当たり前なのか分からない。だって私は香さんじゃない。探してもらう理由がない。首を傾げている間にも、修司さんの目つきはどんどん険しくなっている。
「え、でも、ほら、電話でもメールでも」
話題を逸らそうとしどろもどろ気味に訴えると、彼はバツが悪そうに視線を泳がせた。
「焦って飛び出したから、車の鍵しか持ってなかったんだよ」
普段の修司さんらしからぬ行動に、私はぽかんと口を開けた。
「どこにいるかなんて全く見当がつかないし、とにかく闇雲に走り回った挙句、どうしようもなくてここで待ってた」
ぶつぶつと文句を言うように零された言葉に、不謹慎にも嬉しさとやり切れなさが込み上げて、喉の奥が石で塞がれたようにぐっと詰まる。
「もっとも待っているうちに頭が冷えた。あんたを連れ去る人物、該当者は一人だろ」
「すみません、でした。せっかくの日曜日に」
無理やり絞り出した謝罪を、修司さんはあっさり遮った。
「違うだろ」
何故か再び拳骨を食らう。
「俺に謝らなければいけないようなこと、されたのか?」
「滅相もないです」
反射的に否定したものの、謝らなければいけないことって一体何だろう。
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