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待ち合わせの牛丼店に向かう車の中で、私は一ノ瀬さんとの一連のやり取りを話していた。ハンドルを握る修司さんは運転に集中しながらも、ちゃんと耳を傾けては時折相槌を打つのを忘れない。久し振りに乗った彼の車の助手席は、まるで自分の定位置のように馴染んで、ここに座れる幸せを噛み締める。
「お茶、飲んで行かれますか?」
修司さんが私の髪で遊ぶのに飽きた頃、散々迷惑をかけてしまったお詫びに、私は特に深く考えもせずに自分の部屋に誘った。とっさに目を瞬いたものの、彼がすぐに眉間に皺を寄せたので、私は要らぬ一言を申し出たのだと悟った。
「すみません。余計でしたね」
間もなく夜の帳が降りる。そんな時間にさほど親しくない男性を部屋に上げようとしたことに、修司さんが不快を示したのは確かだ。
「勘違いすんな。喉は渇いてんだよ。ただ久しく女の部屋に入ったことなかったから」
会社でも合コンでも常に狙われている人の発言とは思えない。そこまで香さん一色の生活を送っているのだろうか。
「ろくなことがないんだよ。社内で俺が泊まりに来たとか言いふらされたり、既成事実を作ろうとされたり。一人でなんか絶対行かねーのに」
数人で訪れた先で既成事実を作るって…。女子の皆さんのバイタリティと、修司さんのモテぶりに呆然としているところに、私の行方を心配していた富沢くんから電話が入り、急遽咲さんも含めて報告がてら一緒に夕食を食べることになったのだ。
「誘拐された理由は分かったけど、あんたがへこんでいる理由は何?」
薄闇の中を走りながら、事情聴取よろしく修司さんが問う。対向車のライトがやけに眩しい。それ以前に誘拐じゃない。
「本当は復縁したかったのか?」
鋭さの方向が的を外れて私は内心項垂れる。修司さんにだけは確認されたくなかった。
「ありえません。自分の身勝手さが情けないだけです」
たった一度すれ違っただけの、私の身を案じてくれた一ノ瀬さんに対し、私は彼のことを気にかけるどころか、ずっと修司さんのことしか考えていなかった。相手を思いやる気持ちが微塵もなかった。
「誰にでも愛想がいいってことは、誰にも愛想が良くないってことなんだよ」
修司さんの言葉が今になって身に沁みる。みんなにいい顔をしておきながら、その実自分の保身に必死だった己が、こんな形で顕にされるとは。
「仕方がないだろ。世の中の人間誰一人傷つけずに生きるなんて土台無理だ」
もちろんそれは俺も同じと断言されてはっと息を呑む。
「親も兄弟もどうだっていい。香姉だけが幸せであればいい。これが傲慢でなくて何だ」
そこで一旦口を噤んで、修司さんは牛丼店の駐車場に車を停める。富沢くんと咲さんはまだ到着していないようだったので、窓を開けて風を取り込みながらシートベルトを外した。
「煙草、吸ってもいいか?」
訊かれて頷く。修司さんが煙草を吸うことを知らなかった。本人からも車の中からも独特の煙の臭いがしなかったからだ。
「止めてたんだよ。あんたの帰りを待っている間、何かしていないと落ち着かなかったもんでな」
私の表情を読んだらしい。照れくさそうにぼやいた修司さんは、私が謝り出す前に話の続きを再開した。
「どうでもいいって言い方したけど、本当にそう思っているわけじゃない」
火を点けた煙草の先から、煙がゆらゆらと外に流れてゆく。苦しい恋をしているが故に、年上の私よりも大人びている人ではあるけれど、双眸に映る横顔は別人のようだ。
「全部は選べない。大切な一つを守るためには、切り捨てなきゃいけないものも出てくる。だからと言って意味もなく傷つけたわけじゃないだろう? 結果そうなってしまっただけだ。それが嫌なら大切なものを手放すしかない」
「誰でも、そうなんでしょうか」
「多かれ少なかれ、たぶん。波風立てないように自分の意思を捨ててきたあんたには、かなりハードルが高いかもしれないけど」
そういうことだから、と修司さんは灰を軽く落とす。
「いちいちへこまれるとうざいんだよ。身勝手でいいじゃねーか。それがあんたの本心なんだ。何にも代えられないものならとことん突き通せ」
その不遜な物言いが似合い過ぎているのと、自分を悩ませている原因の一つに背中を押されているのが滑稽で、私はお腹の底から笑いが込み上げてきた。
「諦められなくなりますよね、こんな人が相手じゃ」
夕焼けの後に現れたのは瞬く星々。心の中の呟きは煙と共に夜空に消え、隣の自称腹黒さんは訝しそうに私を眺めている。
「あんたには、できたのか?」
そうして唐突に訊ねた。
「こんな迷いが生じるくらいだし。たった一つ選びたいもの」
さも興味がないというふうな態度。間違っても貴方ですとは告げられない。
「はい。富沢さんには…愚問でしたね」
「訊かないのか」
訊くだけ無駄ですという台詞を辛うじて呑み込む。
「後にも先にも一つしかないじゃないですか」
肩をすくめて答えたら、修司さんはそうだなとそっぽを向いて、二本目の煙草に火を点けた。
「お茶、飲んで行かれますか?」
修司さんが私の髪で遊ぶのに飽きた頃、散々迷惑をかけてしまったお詫びに、私は特に深く考えもせずに自分の部屋に誘った。とっさに目を瞬いたものの、彼がすぐに眉間に皺を寄せたので、私は要らぬ一言を申し出たのだと悟った。
「すみません。余計でしたね」
間もなく夜の帳が降りる。そんな時間にさほど親しくない男性を部屋に上げようとしたことに、修司さんが不快を示したのは確かだ。
「勘違いすんな。喉は渇いてんだよ。ただ久しく女の部屋に入ったことなかったから」
会社でも合コンでも常に狙われている人の発言とは思えない。そこまで香さん一色の生活を送っているのだろうか。
「ろくなことがないんだよ。社内で俺が泊まりに来たとか言いふらされたり、既成事実を作ろうとされたり。一人でなんか絶対行かねーのに」
数人で訪れた先で既成事実を作るって…。女子の皆さんのバイタリティと、修司さんのモテぶりに呆然としているところに、私の行方を心配していた富沢くんから電話が入り、急遽咲さんも含めて報告がてら一緒に夕食を食べることになったのだ。
「誘拐された理由は分かったけど、あんたがへこんでいる理由は何?」
薄闇の中を走りながら、事情聴取よろしく修司さんが問う。対向車のライトがやけに眩しい。それ以前に誘拐じゃない。
「本当は復縁したかったのか?」
鋭さの方向が的を外れて私は内心項垂れる。修司さんにだけは確認されたくなかった。
「ありえません。自分の身勝手さが情けないだけです」
たった一度すれ違っただけの、私の身を案じてくれた一ノ瀬さんに対し、私は彼のことを気にかけるどころか、ずっと修司さんのことしか考えていなかった。相手を思いやる気持ちが微塵もなかった。
「誰にでも愛想がいいってことは、誰にも愛想が良くないってことなんだよ」
修司さんの言葉が今になって身に沁みる。みんなにいい顔をしておきながら、その実自分の保身に必死だった己が、こんな形で顕にされるとは。
「仕方がないだろ。世の中の人間誰一人傷つけずに生きるなんて土台無理だ」
もちろんそれは俺も同じと断言されてはっと息を呑む。
「親も兄弟もどうだっていい。香姉だけが幸せであればいい。これが傲慢でなくて何だ」
そこで一旦口を噤んで、修司さんは牛丼店の駐車場に車を停める。富沢くんと咲さんはまだ到着していないようだったので、窓を開けて風を取り込みながらシートベルトを外した。
「煙草、吸ってもいいか?」
訊かれて頷く。修司さんが煙草を吸うことを知らなかった。本人からも車の中からも独特の煙の臭いがしなかったからだ。
「止めてたんだよ。あんたの帰りを待っている間、何かしていないと落ち着かなかったもんでな」
私の表情を読んだらしい。照れくさそうにぼやいた修司さんは、私が謝り出す前に話の続きを再開した。
「どうでもいいって言い方したけど、本当にそう思っているわけじゃない」
火を点けた煙草の先から、煙がゆらゆらと外に流れてゆく。苦しい恋をしているが故に、年上の私よりも大人びている人ではあるけれど、双眸に映る横顔は別人のようだ。
「全部は選べない。大切な一つを守るためには、切り捨てなきゃいけないものも出てくる。だからと言って意味もなく傷つけたわけじゃないだろう? 結果そうなってしまっただけだ。それが嫌なら大切なものを手放すしかない」
「誰でも、そうなんでしょうか」
「多かれ少なかれ、たぶん。波風立てないように自分の意思を捨ててきたあんたには、かなりハードルが高いかもしれないけど」
そういうことだから、と修司さんは灰を軽く落とす。
「いちいちへこまれるとうざいんだよ。身勝手でいいじゃねーか。それがあんたの本心なんだ。何にも代えられないものならとことん突き通せ」
その不遜な物言いが似合い過ぎているのと、自分を悩ませている原因の一つに背中を押されているのが滑稽で、私はお腹の底から笑いが込み上げてきた。
「諦められなくなりますよね、こんな人が相手じゃ」
夕焼けの後に現れたのは瞬く星々。心の中の呟きは煙と共に夜空に消え、隣の自称腹黒さんは訝しそうに私を眺めている。
「あんたには、できたのか?」
そうして唐突に訊ねた。
「こんな迷いが生じるくらいだし。たった一つ選びたいもの」
さも興味がないというふうな態度。間違っても貴方ですとは告げられない。
「はい。富沢さんには…愚問でしたね」
「訊かないのか」
訊くだけ無駄ですという台詞を辛うじて呑み込む。
「後にも先にも一つしかないじゃないですか」
肩をすくめて答えたら、修司さんはそうだなとそっぽを向いて、二本目の煙草に火を点けた。
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