降ってきた結婚

文月 青

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夕食の支度をしないといけない。ふとそのことに気づいて私は拓海の車を降りた。急いで部屋に歩きながら考えを巡らせる。今日は駅の近くにあるスーパーで秋刀魚が安かった筈だけれど、買うのを忘れたから予定変更。作り置きの冷凍ハンバーグもあるし、たれに漬け込んでおいた鶏チャーシューも食べ頃だ。

「詩乃、急にどうした?」

着替えもせずにキッチンでがさごそやり出した私の肩を、後を追いかけてきた拓海が背後から両手でがっちりと掴んだ。フライパン片手に振り返ると、とてつもなく慌てた様子。よほどお腹が空いているらしい。

「すぐ準備するから」

「そうじゃなくて、さっきのことだが」

「うん。分かってる」

「何を」

「待ち切れないんでしょ」

にっこり微笑んで正面に直り、いそいそと冷蔵庫を開けて中身を物色する。そうだ。昨日買物に行ったから食材はいろいろあったんだっけ。馬鹿だな私。

「詩乃」

頭上に腕が伸びて冷蔵庫のドアが閉められた。強引に私の体の向きを変えた拓海が、怒りの形相で見下ろしている。

「人の話を聞かずに、自分の思い込みで突っ走るのはお前の悪い癖だ」

その静かな口調から、拓海が本気で憤っているのが感じられた。これまではどんなに私が勝手な振る舞いをしても、呆れながら許してくれていた。

「仕事もこんなふうに気分に左右されるのか?」

真っ白だった頭に徐々に煩悩が戻ってくる。忘れていればいいのに、先程の拓海の台詞まで蘇る。

「時と場合を弁えろ」

胸の中に何かがすとんと落ちた。ああ、そうか。意味を理解した。好きになりたくないんじゃない。拓海は私をーー。

「嫌いになりたい」

「え?」

「ごめん。下痢ぴー」

フライパンをがつんと置いて、私は拓海の横をすり抜けた。悔し紛れに毒づく。

「あんたのご飯はわさびとからしのてんこ盛りにしてやる」

「いや、せめてどちらかに……じゃなくて、おい!」

苛々している夫を残して、私は一目散にトイレに駆け込んだ。他に一人になれる場所がないのだから仕方がない。

「詩乃、大丈夫なのか?」

「音を聞かないでよ変態!」

ノックを上回る大声で喚くと、拓海は不満を洩らしながらも離れたので、私は力なく便座に腰かけた。俯いてうーと唸ったら、膝の上に置いた手に水滴が落ちる。

「何で?」

そっと頬に手を当てると涙が一筋流れている。自分でも驚いた。顔に白い布をかけられたお祖母ちゃんの枕元でさえ、親戚が揃っていたから泣くのを堪えられたのに。

「分からない」

理由もなく溢れる涙に戸惑い、漏れる! と拓海が痺れを切らすまで、私はトイレに閉じこもっていた。




キッチンからは物音も匂いもしていなかった。たぶん拓海も夕食は食べていないのだろう。彼と入れ替わるように出たトイレから、私はぺたぺたと寝室に移動した。着ていた服を脱ぎ捨てていると、ノックもせずに侵入してきた拓海が、

「悪い」

ぼそりと呟いて回れ右をした。昨夜はあんなことやこんなことをしていたくせに、今更照れる心境や如何に。しかも相手がそんなふうだと、微かな衣ずれの音が無言の室内にやけに響き、逆に見られているようで恥ずかしくなってくる。

「もう、いいか?」

だから許可なんか取らないで。友達以上恋人未満の関係じゃあるまいし。シンプルな部屋着を纏って文句を言おうとしたら、今度は拓海がばさっとスーツを脱ぎ始めた。ネクタイを外し、Yシャツのボタンに手をかける。やがて眼前に晒された大きな背中に、私は思わずその場から飛び退いた。

「ななな、何を!」

つい今しがたの拓海よろしく、平成を装いながら回れ右をする。

「着替えだが」

さらっと答えてがさごそ続ける拓海。そういえばそれぞれの身支度の時間がずれていたおかげで、結婚してからここで同時に着替えをしたことがない。ということはこれはもしや初の生着替え?

「別に見ても構わんぞ」

くすくす笑いを零す拓海に無性に腹が立った。私の着替えを見ることは躊躇うのに、自分が見られることには抵抗がないのだろうか。同じ夜でもベッドの中とは違い、室内は電気のおかげで明るいんである。ご親切にも振り返れば丸見えなんである。なのにこの余裕。これが経験値の差か。

「しーの?」

どうしたと予告なく顔を覗き込む拓海は、着替えの途中なのか上半身裸で(下半身は直視できなかったのであります! でも生々しい感触はなかったので、トランクスくらいは履いていると思われます!)、逃げ出そうとする私を両腕ですっぽり包む。

「トイレには行かせない」

じたばたする私の胸の中に、惨敗という二文字が広がってゆく。でも一体何に対してだろう。

「すまない、きつい言い方して」

諦めて大人しくなった私を、拓海は自分の胸元に貼りつけた。どちらのものか判別がつかない鼓動が早い。

「本当だよ、鬼」

「うん。けどお前も早とちりし過ぎ」

「早とちり?」

「好きになりたくはない。これ以上はな」

とっさに上を向こうとしたら、勢いよく頭を抱え込まれてしまい、拓海がどんな表情をしているのか確かめることができなかった。



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