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6巻
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秋休みの花火大会
季節の移り変わりがいささか遅刻気味なせいで、九月は夏だか秋だか判別がつけがたくなってきた。それでも十月も半ばを過ぎると風も熱を失い、あたりはすっかり秋色に染まる。
ようやく暑さが去ったことに安堵するとともに、夏の疲れが身体に忍び寄ってくるようなこの時期、東京下町にある居酒屋『ぼったくり』の引き戸には『休業のお知らせ』が貼り出される。
――誠に勝手ながら、十月八、九、十日は休業させていただきます。
『ぼったくり』の休みは週に一度、日曜日と決まっている。祝日と重なったところで、月曜日を休むわけではないので、連休という概念はない。
けれど年に一度だけ、『秋休み』と称して連休を取る。それは十月二週目、体育の日を含む三日間で、先代のころからの習わしだった。
引き戸に貼られた紙を見た常連たちは、ちょっとがっかりしながらも『今年も美音坊たちの命の洗濯の時期か……』なんて言ってくれる。
その期間を利用して旅行に出かけることもあれば、気力体力回復のためにひたすら家でだらけまくることもある。
美音が、妹の馨に今年の予定を訊ねたところ、彼女は少し考えたあと『できれば哲くんと旅行に行きたいんだけど……』と答えた。ためらいがちに見えたのは、恋人と旅行に出かけたいのは山々だけれど、姉のことを考えるとちょっと……ということだろう。
美音は旅行の計画を立てるのが苦手だから、誰かに連れ出されでもしない限り旅行はしない。親しい友人がいないわけでもないが、彼女らの大半は恋人がいたり、夫や子どもがいたりで、週末に誘うのは気が引ける。馨が哲と出かけるならば、美音は自動的に留守番ということになってしまうのだ。
ひとりで留守番をするのは寂しい。でも、馨が恋人と旅行したいと思うのは当然だ。ふたりは先般、お墓の在り方を巡ってけんかをしたばかりだ。馨によれば、仲直りはしたものの、哲はけんかの際の理不尽な物言いについて恥じ入っているそうだ。きっと彼は、旅行は名誉挽回の絶好の機会、とばかりに意気込んでいることだろう。
「私のことはいいから、どこへでも行ってらっしゃい」
「ありがとう、お姉ちゃん! お土産いっぱい買ってくるね!」
「はいはい。その代わり、『お知らせ』の紙はあんたが作ってね」
「了解! じゃあ早速」
元気よく返事をした馨は即座にパソコンの前に座り、あっという間に『休業のお知らせ』を作り上げた。
†
十月が迫り、そろそろ『お知らせ』を貼らなくては……と思っていたある日曜日、旅行ガイドを捲っていた馨が話しかけてきた。
「お姉ちゃんは旅行しないの?」
「ひとりで? それはちょっと……」
「誰もひとりで行けなんて言ってないでしょ」
「だって、友達はみんな……」
忙しいし、と続ける前に、馨はあまりにも遠慮のない言葉を投げてきた。
「ばっかじゃないの! 要さんとに決まってるでしょ」
「か、要さん? なんで?」
美音は狼狽のあまり、素っ頓狂な声を上げてしまった。
つい先日、要とふたりでバーで呑んだあと、帰る足をなくして泊めてもらったことも、翌朝あった大事件も馨には告げていない。とてもじゃないけれど、照れくさくて言えなかったのだ。
だから馨が知っているわけがない。それとも、微妙に変わった雰囲気から何かを察したのだろうか……
あたふたしている美音に、馨は容赦ない質問をぶつけてくる。
「要さんと付き合ってるんでしょ? いつから?」
「いつからって……まだ付き合い始めたばっかりで……」
ついうっかり答えてしまった美音を見て、馨は目を弓形にして笑った。
「ふうん、やっぱり付き合い始めたんだ。よかったねえ、お姉ちゃん」
そのあと、おめでとう! とハイタッチを要求される。手の平が立てたぺちりという音を聞いて、思わず腰から力が抜けそうになった。
馨は確信など持っていなかったのだ。経験が浅く情報ダダ漏れに近い姉に、カマをかけたにすぎなかった。
「あんたってカマかけが上手すぎ!」
「お姉ちゃんが引っかかりすぎなんだよ」
恨めしそうに睨んでも、馨はケラケラ笑っているだけ。馨に知られたら冷やかされたりして面倒くさい、しばらく隠しておきたい、という美音の思惑は木っ端微塵だった。
「じゃあ何の問題もないじゃない。要さんを旅行に誘いなよ」
「そんなことできるわけないでしょ! 私はあんたほど恋愛スキルが高くないの!」
「お姉ちゃん、それはスキルとかいう問題じゃ……」
「うるさいわね!!」
「年に一度しかない秋休みだよ。世間様だって三連休。あたしも出かけちゃうんだから、お姉ちゃんもどこかに連れてってもらえばいいじゃない? きっと要さんなら、すごいプラン立ててくれるよ~」
やっぱり社会人になりたての哲くんとは甲斐性が違うでしょ! とか羨ましそうに言われても、美音は困惑するばかりだった。
普段から、とにかく要は忙しい。会社は週休二日だと聞いたことがあるが、たいてい土日のどちらか、ひどいときは両方とも仕事をしている。三連休があったところで、実際に休める日が何日あるだろう。もしかしたらまた出張が入っているかもしれない。
「要さん、すごく忙しいから無理。普段の週末だって全部休めたことなんてないみたいだし……連休だからって旅行とかありえない。それに今からじゃ宿も取れないし」
「とかいって、本当はお姉ちゃんが言い出せないだけなんじゃないの? 年に一度しかない、しかも付き合って初めての連休なんだよ。なんとかしてくれると思うけどなあ……」
なんならあたしが訊いてみてあげようか? とまで言われて、美音は絶叫した。
「やめてーーー!! 私が無理! あらゆる意味で無理!! そこまで頑張れない!」
「何を?」
「何をって……」
お姉様はいったい何を頑張るおつもりかしらあ? と答えるに答えられない質問を投げっぱなしにしたまま、馨はさっさと旅行ガイドに目を戻した。深追いは逆効果とでも思ったのかもしれない。それでいて、聞こえよがしに呟く。
「あの経験値マックスっぽい人が、お姉ちゃんみたいなばりばりの初心者相手なんて気の毒すぎる。要さん、かわいそー」
姉の睨むような眼差しを完全に無視して、馨はガイドを捲り続ける。美音は、同じ親から生まれたはずなのに、なんでこんなに両極端な姉妹になっちゃったの、と嘆きたくなった。足して二で割りたいと思ったところでどうにもならない。
でも……
美音は壁に貼られたカレンダーを見ながら、ちらりと思う。
休みは三日ある。そのうちの一日ぐらい、要が休める日があるのではないか。
――日帰りでなら、どこかに出かけられるかも……
けれど、そう考えたとたん、いつかの要の言葉が蘇ってきた。
『おれはそんなに暇じゃない。君の店に行ったあと、戻って仕事したこともある』
その言葉を口にしたあとも、要が『ぼったくり』に現れる頻度は変わらない。彼は今も、無理をして『ぼったくり』に来る時間を作っているのだ。
もしも三連休のうちの一日でも休める日があるとしたら、彼にはゆっくり休んでもらいたい。どこかに連れ出して疲れさせるなんてもってのほかだ。
要と付き合うようになってから、美音はさらにその思いを強くしていた。
†
「うーん。さすがに秋休み寸前……」
『本日のおすすめ』が書かれた紙を見ながら、獣医の茂先生がからからと笑った。
三連休が近づくと『ぼったくり』のメニューはより多彩になる。冷蔵庫の中にあるものを片っ端から料理して出してしまうからだ。
在庫処分が目的だけに、値段はいつも以上に店名詐欺。言うなればそれは、休業のお詫び代わりの大盤振る舞いだった。そのせいで秋休み寸前の『ぼったくり』はネタ切れ状態、品書きはかなり寂しいことになってしまう。ところが茂先生は、そんな空っぽの『ぼったくり』に狙い澄ましたように現れる。それは、秋休み前の恒例行事だった。
「とかなんとか言っちゃって、茂先生のお目当ては、大盤振る舞いのあとの間に合わせだろ?」
そんな風にウメが冷やかすのもお約束である。
「いいじゃないか。俺は例の奴でビールをぐいっとやるのが好きなんだから」
茂先生はまったく応えていない口ぶりで宣言する。
「揚げたての鮭団子とビール! これ以上の組み合わせはないね!」
茂先生は、年に一度しかありつけないからなあ、なんて期待いっぱいの眼差しでおしぼりを使う。
「面倒ってほどでもないし、言ってくれればいつでも作るのに」
あたしにだって作れるぐらいなんだから遠慮しないで、と馨に言われても、茂先生はいやいや、と首を横に振った。
「そりゃあわかってるよ。でも、あえてこの時期に『冷蔵庫が空っぽで、もうこれしか作れません!』みたいな感じで出てくるのがいいんだよ」
「変な趣味だね、この先生は」
ウメは理解できない、という顔をするが、美音はなんとなく茂先生の気持ちがわかる。
いつでも食べられる、言えば作ってくれるとわかっていても、そのシチュエーションでこそ食べたい料理というのがあるのだろう。
「まあいいじゃないか。ということで馨ちゃん、鮭団子、鮭団子!」
「はいはーい、少々お待ちくださーい!」
洗い物をしていた馨は、濡れた手を拭き、乾物入れにしている棚から鮭缶を取り出した。すかさずウメが声をかけてくる。
「あーついでに……」
「わかってます。そちらは私が」
美音は片手を上げてウメの言葉を止め、冷蔵庫を開けた。
空っぽの冷蔵庫の真ん中に鎮座しているのは、鮭団子とともに出す、とある料理のために仕入れた豚挽肉だった。
「やっぱりちゃんと用意してくれてたんだねえ……」
ウメが嬉しそうに目を細めた。
「毎年のことですものね」
豚挽肉を用意しておかないとウメはもちろん、茂先生までがっかりしてしまう。鮭団子と豚挽肉で作る肉団子は一緒に出てきてこそだ、なんて言うのである。ふたりがそろって落胆するのは見るに忍びなかった。
『ぼったくり』で、鮭の缶詰が使われることは滅多にない。というか頻繁に登場する缶詰はツナ缶くらいだ。それでも缶詰を常備しているのは、いわゆる緊急時対応である。店にいるときに災害に見舞われないとは限らない。備えあれば憂いなし、ということで美音は自宅のみならず店にも缶詰をストックしているのだ。
マグロ、カツオ、イワシ……昨今、魚の缶詰は軒並み値上がりした。とりわけ鮭缶は価格高騰が著しく、生の鮭とほとんど変わらなくなってしまったのだ。同じような値段なら、煮物、焼き物、蒸し物、揚げ物……と何でもござれの生のほうが断然いい。
子どものころは身近だった鮭缶が、いつの間にか高嶺の花になってしまったことが美音は残念でならない。それでも美音は缶詰にされた鮭の味が大好きだったので、常備している乾物類から鮭缶を外すことはなかった。
美音としては、鮭缶は少し温めて醤油を垂らしただけで食べるのが一番だ、と思っていたが、さすがにそれを店で出すわけにはいかない。せめても……と考えたのが鮭団子だったのだが、いつの間にか鮭団子は秋休み直前の人気メニューとなっていた。
紅白の縞に鮭のイラストの入った缶の蓋をぱっかんと開け、馨は鮭をボウルに移した。
細かく刻んだ玉葱とつなぎの片栗粉、それに胡椒を少々。鮭缶はけっこう味がしっかりついているから塩は入れない。風味を出すために醤油を数滴入れたあと、馨はボウルの中身を箸でぐるぐるかきまぜた。
馨の様子を横目で確認しつつ、美音は肉団子の支度をする。
こちらは餃子の中身を作る場合と同じく、挽肉に生姜の絞り汁と塩胡椒、酒を入れ、全体を馴染ませるようにまぜる。挽肉の色が少し白っぽくなるぐらいまでまぜたあと、鮭と同じようにみじん切りの玉葱、片栗粉を入れた。
「馨、そっち終わった? ソース頼める?」
「お任せあれ!」
元気に答えた馨が、小ぶりの鉢にマヨネーズとケチャップを入れてかきまぜ始めた。威勢はいいけれど、作業としてはただそれだけ。あっという間にオーロラソースが出来上がった。
――揚げ物をするのも楽な季節になったわねえ……
一口大に丸めた鮭と豚挽肉を揚げ油に泳がせながら、美音は気温の変化を実感する。夏の盛りは揚げ物も大変だ。エアコンが効いていてもおかまいなしに汗が滲み出る。それに比べれば秋や冬の揚げ物は楽勝、むしろ温まって嬉しいぐらいだった。
「お待たせしました。熱々をどうぞ!」
二人分の揚げ物は、大した時間もかからずに出来上がった。
平皿に二種類の団子を盛り、カウンター越しに茂先生とウメの前に置く。すかさずカウンターから出ていった馨が、ふたりの後ろからオーロラソースと塩胡椒の小皿を出した。
「ソースはお好みで」
「待ってました! 馨ちゃん、ビール、ビール!」
「はーい!」
「あ、馨、黒ビールがあるからそれをお出しして」
了解! と言いながら馨が取り出した瓶を見て、茂先生の顔がさらにほころんだ。
「『ブラウンポーター』! これはいいな!」
『ブラウンポーター』は神奈川県にあるサンクトガーレン有限会社の製品である。下面発酵製法のラガービールが主流と言われるビール業界に、上面発酵製法のエールビールの美味しさを広めたいという思いから、一九九三年からサンフランシスコでビールの醸造と販売を開始。六本木のカフェでの逆輸入販売を経て一九九七年に国内醸造所を建造した。ちなみに『サンクトガーレン』という社名はスイスにある世界最古のビール醸造所と言われる『ザンクト・ガレン修道院』に由来している。
夏の暑さと乾きの中、ラガービールの軽くてすっきりした味わいはとても人気が高い。夏ばかりではなく、一年を通じてラガービールを愛好する人も多いだろう。
けれど、秋が深まり、よく冷えたビールのありがたみが少々薄れ始めるころになると、黒ビールのほろ苦さの中に潜むコクと甘みが嬉しくなってくる。黒ビールの真価をよく知っている茂先生が大喜びするのは当然だった。
すぐに馨がビールを運び、茂先生のグラスに注ぐ。夜の闇を思わせる濃い褐色は麦芽をしっかり焦がす製法ならではのもので、口に含むとエールビール独特の甘みとチョコレートに似た香り、そして微かな苦みを感じる。茂先生は、その甘みと苦みの絶妙なバランスを楽しみつつ、鮭団子に箸を伸ばした。
オーロラソースをちょっとつけて口に放り込み、熱さに驚いたようにまた一口『ブラウンポーター』を呑む。数秒後、茂先生が感極まった声を上げた。
「うまいっ!!」
そして茂先生は、どこにでもある普通の鮭缶なんだけどなあ……と毎年恒例となっている台詞を口にする。さらに、揚げたての鮭団子と黒ビール、これ以上の極楽はないよ……なんて言って呻いた。
一方ウメは、極楽気分の茂先生の隣で塩胡椒をつけた肉団子を口に運んでいる。
「あー……元気が出る味だねえ。あたしはハンバーグよりもこっちのほうが好きだよ」
いつもの焼酎の梅割りをぐびりとやって、ウメも満面の笑みを浮かべた。
「鮭団子ねえ。こればっかりは缶詰で作るほうが美味しいから不思議よね。大抵の魚は生のほうが断然美味しいのに」
美音が首を傾げながら言うと、馨も大きく頷いて同意する。
「挽肉にしても油で揚げちゃったらくどくなりそうな気がするけど、ハンバーグより軽く感じちゃうのは不思議だよねー」
「それは別に不思議じゃないでしょ。ハンバーグにはたっぷり挽肉を使うし、つなぎにパンを入れたりするからボリュームが出るのは当然よ」
「そっか。ま、どっちにしても、これでうちの秋休みの準備は完了!」
空っぽに近くなった冷蔵庫や乾物入れを見て、馨がそう宣言した。
「十月にまとまったお休みがあると助かるわねえ……」
「遊びに行くのにもいい季節だしね!」
美音がしみじみ呟いた声に、馨が元気いっぱいに同意した。
「あんたはもう、頭の中が遊びでいっぱいなのね」
「そりゃそうだよ。だって、年に一度の連休なんだよ」
ここぞとばかりに遊ばないと! と馨は意気込んでいる。ウメがやれやれ……と呆れた調子で美音に話しかけてきた。
「乾物ばっかりじゃなくて防災用品を確認して入れ替えるにしても格好の季節だね」
「水とか薬でも、使おうと思ったら期限が切れてたってこと、けっこうありますからね」
「気候がいいから動きやすくて掃除もしやすい。大物を洗うのもおすすめだね」
少し動いただけで汗が滲む季節が去り、木枯らしが吹き始めるにはまだ間がある十月は、大物洗濯にももってこいの季節だ。空気が乾いているからカーテンなどを洗濯してもすぐ乾くし、窓ふきや網戸洗いもしやすい。夏ほど日差しが強くないから虫干しにも適しているだろう。
今年はひとりで留守番になるし、いっそ大掃除もしてしまおうか。掃除と料理なら断然料理のほうが好きだけど、暇に飽かせてのんびりお掃除、というのはいかにも自分らしい。よく晴れて気持ちのいいお天気だったら、だけど……
微妙に逃げ道を残しつつ、美音がそんなことを考えていると、また馨の声がした。
「そういえば家の災害対策用品も確認しなきゃね」
「家のはもうやったわよ。台所の隅に入れ替え済みの缶詰が積んであるでしょ。気がつかなかったの?」
「あれ……そうだった?」
馨は眉を寄せて天井を見上げている。どうやら家の台所を思い出そうとしているらしい。
けっこうたくさんあったのに、あれに気がつかないなんて……と美音は呆れてしまった。馨の心はもう秋休み一直線、旅行情報以外目にも耳にも入らないのかもしれない。
まったくこの子は……と馨を睨んでいる美音を見て、茂先生が吹き出した。
「おー怖い。美音ちゃんは、そういうとこ、ほんとにきっちりしてるからなあ」
そんな茂先生を諫めるようにウメは言う。
「大事なことだよ。備えあれば憂いなしって昔から言うけど、備えだって、一度備えてそれきりにしておいたんじゃ意味ないからね。いざってときに期限切ればっかりじゃどうにもなんないよ」
災害対策用品の点検や入れ替えは、防災の日に合わせておこなうことが奨励されているらしい。だが、実際にやっている人はどれぐらいいるのだろう。
残暑も真っ盛りの九月一日、美音はとてもじゃないがそんな仕事をする気になれない。それでもやはり点検は必要、ということで美音は秋休みに合わせて常備食材の入れ替えをおこなってきたのだ。
「そうだなあ……。災害対策は必要だってわかってるから一通り買いそろえてみたけど、押し入れにしまい込んだままって人が多いかもな」
茂先生はどうやら思い当たる節があるようだ。ウメは横目で茂先生を見ながら言う。
「茂先生みたいな獣医さんのところでしっかり備えておいてくれないと、町内の犬猫がみんな困っちまうよ。うちのクロだってさ」
ちょっと待って。さすがに自分が飼っている猫の餌ぐらいは用意しておかないとだめでしょう。獣医さん任せじゃ、いくら茂先生だって大変すぎる。
やんわりと意見を述べる美音に、ウメは、そういうことじゃなくてさ……と続けた。
「飼い主が一緒にいるならいいよ。でも、大きな災害のときは、飼い主とはぐれるペットがけっこういるじゃないか。うちのクロだって、どうなるかわかったもんじゃない。そういうときの頼みの綱は、やっぱり茂先生ってことにならないかい?」
次になんかあったら、あたしみたいな年寄りはどうなるかわからない。独り住まいだから家の下で潰れてても気付いてくれる人もいないだろうし……と、ウメはいつもの彼女らしくない、ちょっと弱気な発言をした。
あたしはともかく、クロだけはなんとかしてやらないと……なんてしんみり言われて、美音はどう答えていいかわからなくなった。馨も返事に困っている。
だが当の茂先生は至って呑気に答えた。
「クロもウメさんも心配ないよ。この町にいれば大丈夫」
「この町にいればって……。なんでさ? きっとみんな、自分たちのことで精一杯になっちまう。それを責めてるわけじゃないんだよ。そんなの当たり前のことだからさ……」
そんなこんなも含めて、好きで独りで暮らしてるあたしの自己責任ってやつだし、とウメは消え入りそうな声で呟く。ウメの言葉を聞いて、美音はやっと言葉を見つけた。
「ウメさん……それは違うと思うわ」
「違わないんだよ、美音坊」
遮二無二首を横に振るウメを見て、美音は勢い込んで言った。
「絶対違うわ! だってここにはすごくしっかりした町内会があるでしょ!」
ここぞとばかり、馨も加勢する。
「そうだよ! 東日本大震災のとき、ヒロシさんすごかったじゃない。自分の家そっちのけで、町内回ってみんなが無事かどうか確認してたでしょ? あとで聞いたけど、ヒロシさん、揺れが治まって一番に住民リストを探したんだって」
そういえばそうだった……とみんなが馨の言葉に頷いた。
季節の移り変わりがいささか遅刻気味なせいで、九月は夏だか秋だか判別がつけがたくなってきた。それでも十月も半ばを過ぎると風も熱を失い、あたりはすっかり秋色に染まる。
ようやく暑さが去ったことに安堵するとともに、夏の疲れが身体に忍び寄ってくるようなこの時期、東京下町にある居酒屋『ぼったくり』の引き戸には『休業のお知らせ』が貼り出される。
――誠に勝手ながら、十月八、九、十日は休業させていただきます。
『ぼったくり』の休みは週に一度、日曜日と決まっている。祝日と重なったところで、月曜日を休むわけではないので、連休という概念はない。
けれど年に一度だけ、『秋休み』と称して連休を取る。それは十月二週目、体育の日を含む三日間で、先代のころからの習わしだった。
引き戸に貼られた紙を見た常連たちは、ちょっとがっかりしながらも『今年も美音坊たちの命の洗濯の時期か……』なんて言ってくれる。
その期間を利用して旅行に出かけることもあれば、気力体力回復のためにひたすら家でだらけまくることもある。
美音が、妹の馨に今年の予定を訊ねたところ、彼女は少し考えたあと『できれば哲くんと旅行に行きたいんだけど……』と答えた。ためらいがちに見えたのは、恋人と旅行に出かけたいのは山々だけれど、姉のことを考えるとちょっと……ということだろう。
美音は旅行の計画を立てるのが苦手だから、誰かに連れ出されでもしない限り旅行はしない。親しい友人がいないわけでもないが、彼女らの大半は恋人がいたり、夫や子どもがいたりで、週末に誘うのは気が引ける。馨が哲と出かけるならば、美音は自動的に留守番ということになってしまうのだ。
ひとりで留守番をするのは寂しい。でも、馨が恋人と旅行したいと思うのは当然だ。ふたりは先般、お墓の在り方を巡ってけんかをしたばかりだ。馨によれば、仲直りはしたものの、哲はけんかの際の理不尽な物言いについて恥じ入っているそうだ。きっと彼は、旅行は名誉挽回の絶好の機会、とばかりに意気込んでいることだろう。
「私のことはいいから、どこへでも行ってらっしゃい」
「ありがとう、お姉ちゃん! お土産いっぱい買ってくるね!」
「はいはい。その代わり、『お知らせ』の紙はあんたが作ってね」
「了解! じゃあ早速」
元気よく返事をした馨は即座にパソコンの前に座り、あっという間に『休業のお知らせ』を作り上げた。
†
十月が迫り、そろそろ『お知らせ』を貼らなくては……と思っていたある日曜日、旅行ガイドを捲っていた馨が話しかけてきた。
「お姉ちゃんは旅行しないの?」
「ひとりで? それはちょっと……」
「誰もひとりで行けなんて言ってないでしょ」
「だって、友達はみんな……」
忙しいし、と続ける前に、馨はあまりにも遠慮のない言葉を投げてきた。
「ばっかじゃないの! 要さんとに決まってるでしょ」
「か、要さん? なんで?」
美音は狼狽のあまり、素っ頓狂な声を上げてしまった。
つい先日、要とふたりでバーで呑んだあと、帰る足をなくして泊めてもらったことも、翌朝あった大事件も馨には告げていない。とてもじゃないけれど、照れくさくて言えなかったのだ。
だから馨が知っているわけがない。それとも、微妙に変わった雰囲気から何かを察したのだろうか……
あたふたしている美音に、馨は容赦ない質問をぶつけてくる。
「要さんと付き合ってるんでしょ? いつから?」
「いつからって……まだ付き合い始めたばっかりで……」
ついうっかり答えてしまった美音を見て、馨は目を弓形にして笑った。
「ふうん、やっぱり付き合い始めたんだ。よかったねえ、お姉ちゃん」
そのあと、おめでとう! とハイタッチを要求される。手の平が立てたぺちりという音を聞いて、思わず腰から力が抜けそうになった。
馨は確信など持っていなかったのだ。経験が浅く情報ダダ漏れに近い姉に、カマをかけたにすぎなかった。
「あんたってカマかけが上手すぎ!」
「お姉ちゃんが引っかかりすぎなんだよ」
恨めしそうに睨んでも、馨はケラケラ笑っているだけ。馨に知られたら冷やかされたりして面倒くさい、しばらく隠しておきたい、という美音の思惑は木っ端微塵だった。
「じゃあ何の問題もないじゃない。要さんを旅行に誘いなよ」
「そんなことできるわけないでしょ! 私はあんたほど恋愛スキルが高くないの!」
「お姉ちゃん、それはスキルとかいう問題じゃ……」
「うるさいわね!!」
「年に一度しかない秋休みだよ。世間様だって三連休。あたしも出かけちゃうんだから、お姉ちゃんもどこかに連れてってもらえばいいじゃない? きっと要さんなら、すごいプラン立ててくれるよ~」
やっぱり社会人になりたての哲くんとは甲斐性が違うでしょ! とか羨ましそうに言われても、美音は困惑するばかりだった。
普段から、とにかく要は忙しい。会社は週休二日だと聞いたことがあるが、たいてい土日のどちらか、ひどいときは両方とも仕事をしている。三連休があったところで、実際に休める日が何日あるだろう。もしかしたらまた出張が入っているかもしれない。
「要さん、すごく忙しいから無理。普段の週末だって全部休めたことなんてないみたいだし……連休だからって旅行とかありえない。それに今からじゃ宿も取れないし」
「とかいって、本当はお姉ちゃんが言い出せないだけなんじゃないの? 年に一度しかない、しかも付き合って初めての連休なんだよ。なんとかしてくれると思うけどなあ……」
なんならあたしが訊いてみてあげようか? とまで言われて、美音は絶叫した。
「やめてーーー!! 私が無理! あらゆる意味で無理!! そこまで頑張れない!」
「何を?」
「何をって……」
お姉様はいったい何を頑張るおつもりかしらあ? と答えるに答えられない質問を投げっぱなしにしたまま、馨はさっさと旅行ガイドに目を戻した。深追いは逆効果とでも思ったのかもしれない。それでいて、聞こえよがしに呟く。
「あの経験値マックスっぽい人が、お姉ちゃんみたいなばりばりの初心者相手なんて気の毒すぎる。要さん、かわいそー」
姉の睨むような眼差しを完全に無視して、馨はガイドを捲り続ける。美音は、同じ親から生まれたはずなのに、なんでこんなに両極端な姉妹になっちゃったの、と嘆きたくなった。足して二で割りたいと思ったところでどうにもならない。
でも……
美音は壁に貼られたカレンダーを見ながら、ちらりと思う。
休みは三日ある。そのうちの一日ぐらい、要が休める日があるのではないか。
――日帰りでなら、どこかに出かけられるかも……
けれど、そう考えたとたん、いつかの要の言葉が蘇ってきた。
『おれはそんなに暇じゃない。君の店に行ったあと、戻って仕事したこともある』
その言葉を口にしたあとも、要が『ぼったくり』に現れる頻度は変わらない。彼は今も、無理をして『ぼったくり』に来る時間を作っているのだ。
もしも三連休のうちの一日でも休める日があるとしたら、彼にはゆっくり休んでもらいたい。どこかに連れ出して疲れさせるなんてもってのほかだ。
要と付き合うようになってから、美音はさらにその思いを強くしていた。
†
「うーん。さすがに秋休み寸前……」
『本日のおすすめ』が書かれた紙を見ながら、獣医の茂先生がからからと笑った。
三連休が近づくと『ぼったくり』のメニューはより多彩になる。冷蔵庫の中にあるものを片っ端から料理して出してしまうからだ。
在庫処分が目的だけに、値段はいつも以上に店名詐欺。言うなればそれは、休業のお詫び代わりの大盤振る舞いだった。そのせいで秋休み寸前の『ぼったくり』はネタ切れ状態、品書きはかなり寂しいことになってしまう。ところが茂先生は、そんな空っぽの『ぼったくり』に狙い澄ましたように現れる。それは、秋休み前の恒例行事だった。
「とかなんとか言っちゃって、茂先生のお目当ては、大盤振る舞いのあとの間に合わせだろ?」
そんな風にウメが冷やかすのもお約束である。
「いいじゃないか。俺は例の奴でビールをぐいっとやるのが好きなんだから」
茂先生はまったく応えていない口ぶりで宣言する。
「揚げたての鮭団子とビール! これ以上の組み合わせはないね!」
茂先生は、年に一度しかありつけないからなあ、なんて期待いっぱいの眼差しでおしぼりを使う。
「面倒ってほどでもないし、言ってくれればいつでも作るのに」
あたしにだって作れるぐらいなんだから遠慮しないで、と馨に言われても、茂先生はいやいや、と首を横に振った。
「そりゃあわかってるよ。でも、あえてこの時期に『冷蔵庫が空っぽで、もうこれしか作れません!』みたいな感じで出てくるのがいいんだよ」
「変な趣味だね、この先生は」
ウメは理解できない、という顔をするが、美音はなんとなく茂先生の気持ちがわかる。
いつでも食べられる、言えば作ってくれるとわかっていても、そのシチュエーションでこそ食べたい料理というのがあるのだろう。
「まあいいじゃないか。ということで馨ちゃん、鮭団子、鮭団子!」
「はいはーい、少々お待ちくださーい!」
洗い物をしていた馨は、濡れた手を拭き、乾物入れにしている棚から鮭缶を取り出した。すかさずウメが声をかけてくる。
「あーついでに……」
「わかってます。そちらは私が」
美音は片手を上げてウメの言葉を止め、冷蔵庫を開けた。
空っぽの冷蔵庫の真ん中に鎮座しているのは、鮭団子とともに出す、とある料理のために仕入れた豚挽肉だった。
「やっぱりちゃんと用意してくれてたんだねえ……」
ウメが嬉しそうに目を細めた。
「毎年のことですものね」
豚挽肉を用意しておかないとウメはもちろん、茂先生までがっかりしてしまう。鮭団子と豚挽肉で作る肉団子は一緒に出てきてこそだ、なんて言うのである。ふたりがそろって落胆するのは見るに忍びなかった。
『ぼったくり』で、鮭の缶詰が使われることは滅多にない。というか頻繁に登場する缶詰はツナ缶くらいだ。それでも缶詰を常備しているのは、いわゆる緊急時対応である。店にいるときに災害に見舞われないとは限らない。備えあれば憂いなし、ということで美音は自宅のみならず店にも缶詰をストックしているのだ。
マグロ、カツオ、イワシ……昨今、魚の缶詰は軒並み値上がりした。とりわけ鮭缶は価格高騰が著しく、生の鮭とほとんど変わらなくなってしまったのだ。同じような値段なら、煮物、焼き物、蒸し物、揚げ物……と何でもござれの生のほうが断然いい。
子どものころは身近だった鮭缶が、いつの間にか高嶺の花になってしまったことが美音は残念でならない。それでも美音は缶詰にされた鮭の味が大好きだったので、常備している乾物類から鮭缶を外すことはなかった。
美音としては、鮭缶は少し温めて醤油を垂らしただけで食べるのが一番だ、と思っていたが、さすがにそれを店で出すわけにはいかない。せめても……と考えたのが鮭団子だったのだが、いつの間にか鮭団子は秋休み直前の人気メニューとなっていた。
紅白の縞に鮭のイラストの入った缶の蓋をぱっかんと開け、馨は鮭をボウルに移した。
細かく刻んだ玉葱とつなぎの片栗粉、それに胡椒を少々。鮭缶はけっこう味がしっかりついているから塩は入れない。風味を出すために醤油を数滴入れたあと、馨はボウルの中身を箸でぐるぐるかきまぜた。
馨の様子を横目で確認しつつ、美音は肉団子の支度をする。
こちらは餃子の中身を作る場合と同じく、挽肉に生姜の絞り汁と塩胡椒、酒を入れ、全体を馴染ませるようにまぜる。挽肉の色が少し白っぽくなるぐらいまでまぜたあと、鮭と同じようにみじん切りの玉葱、片栗粉を入れた。
「馨、そっち終わった? ソース頼める?」
「お任せあれ!」
元気に答えた馨が、小ぶりの鉢にマヨネーズとケチャップを入れてかきまぜ始めた。威勢はいいけれど、作業としてはただそれだけ。あっという間にオーロラソースが出来上がった。
――揚げ物をするのも楽な季節になったわねえ……
一口大に丸めた鮭と豚挽肉を揚げ油に泳がせながら、美音は気温の変化を実感する。夏の盛りは揚げ物も大変だ。エアコンが効いていてもおかまいなしに汗が滲み出る。それに比べれば秋や冬の揚げ物は楽勝、むしろ温まって嬉しいぐらいだった。
「お待たせしました。熱々をどうぞ!」
二人分の揚げ物は、大した時間もかからずに出来上がった。
平皿に二種類の団子を盛り、カウンター越しに茂先生とウメの前に置く。すかさずカウンターから出ていった馨が、ふたりの後ろからオーロラソースと塩胡椒の小皿を出した。
「ソースはお好みで」
「待ってました! 馨ちゃん、ビール、ビール!」
「はーい!」
「あ、馨、黒ビールがあるからそれをお出しして」
了解! と言いながら馨が取り出した瓶を見て、茂先生の顔がさらにほころんだ。
「『ブラウンポーター』! これはいいな!」
『ブラウンポーター』は神奈川県にあるサンクトガーレン有限会社の製品である。下面発酵製法のラガービールが主流と言われるビール業界に、上面発酵製法のエールビールの美味しさを広めたいという思いから、一九九三年からサンフランシスコでビールの醸造と販売を開始。六本木のカフェでの逆輸入販売を経て一九九七年に国内醸造所を建造した。ちなみに『サンクトガーレン』という社名はスイスにある世界最古のビール醸造所と言われる『ザンクト・ガレン修道院』に由来している。
夏の暑さと乾きの中、ラガービールの軽くてすっきりした味わいはとても人気が高い。夏ばかりではなく、一年を通じてラガービールを愛好する人も多いだろう。
けれど、秋が深まり、よく冷えたビールのありがたみが少々薄れ始めるころになると、黒ビールのほろ苦さの中に潜むコクと甘みが嬉しくなってくる。黒ビールの真価をよく知っている茂先生が大喜びするのは当然だった。
すぐに馨がビールを運び、茂先生のグラスに注ぐ。夜の闇を思わせる濃い褐色は麦芽をしっかり焦がす製法ならではのもので、口に含むとエールビール独特の甘みとチョコレートに似た香り、そして微かな苦みを感じる。茂先生は、その甘みと苦みの絶妙なバランスを楽しみつつ、鮭団子に箸を伸ばした。
オーロラソースをちょっとつけて口に放り込み、熱さに驚いたようにまた一口『ブラウンポーター』を呑む。数秒後、茂先生が感極まった声を上げた。
「うまいっ!!」
そして茂先生は、どこにでもある普通の鮭缶なんだけどなあ……と毎年恒例となっている台詞を口にする。さらに、揚げたての鮭団子と黒ビール、これ以上の極楽はないよ……なんて言って呻いた。
一方ウメは、極楽気分の茂先生の隣で塩胡椒をつけた肉団子を口に運んでいる。
「あー……元気が出る味だねえ。あたしはハンバーグよりもこっちのほうが好きだよ」
いつもの焼酎の梅割りをぐびりとやって、ウメも満面の笑みを浮かべた。
「鮭団子ねえ。こればっかりは缶詰で作るほうが美味しいから不思議よね。大抵の魚は生のほうが断然美味しいのに」
美音が首を傾げながら言うと、馨も大きく頷いて同意する。
「挽肉にしても油で揚げちゃったらくどくなりそうな気がするけど、ハンバーグより軽く感じちゃうのは不思議だよねー」
「それは別に不思議じゃないでしょ。ハンバーグにはたっぷり挽肉を使うし、つなぎにパンを入れたりするからボリュームが出るのは当然よ」
「そっか。ま、どっちにしても、これでうちの秋休みの準備は完了!」
空っぽに近くなった冷蔵庫や乾物入れを見て、馨がそう宣言した。
「十月にまとまったお休みがあると助かるわねえ……」
「遊びに行くのにもいい季節だしね!」
美音がしみじみ呟いた声に、馨が元気いっぱいに同意した。
「あんたはもう、頭の中が遊びでいっぱいなのね」
「そりゃそうだよ。だって、年に一度の連休なんだよ」
ここぞとばかりに遊ばないと! と馨は意気込んでいる。ウメがやれやれ……と呆れた調子で美音に話しかけてきた。
「乾物ばっかりじゃなくて防災用品を確認して入れ替えるにしても格好の季節だね」
「水とか薬でも、使おうと思ったら期限が切れてたってこと、けっこうありますからね」
「気候がいいから動きやすくて掃除もしやすい。大物を洗うのもおすすめだね」
少し動いただけで汗が滲む季節が去り、木枯らしが吹き始めるにはまだ間がある十月は、大物洗濯にももってこいの季節だ。空気が乾いているからカーテンなどを洗濯してもすぐ乾くし、窓ふきや網戸洗いもしやすい。夏ほど日差しが強くないから虫干しにも適しているだろう。
今年はひとりで留守番になるし、いっそ大掃除もしてしまおうか。掃除と料理なら断然料理のほうが好きだけど、暇に飽かせてのんびりお掃除、というのはいかにも自分らしい。よく晴れて気持ちのいいお天気だったら、だけど……
微妙に逃げ道を残しつつ、美音がそんなことを考えていると、また馨の声がした。
「そういえば家の災害対策用品も確認しなきゃね」
「家のはもうやったわよ。台所の隅に入れ替え済みの缶詰が積んであるでしょ。気がつかなかったの?」
「あれ……そうだった?」
馨は眉を寄せて天井を見上げている。どうやら家の台所を思い出そうとしているらしい。
けっこうたくさんあったのに、あれに気がつかないなんて……と美音は呆れてしまった。馨の心はもう秋休み一直線、旅行情報以外目にも耳にも入らないのかもしれない。
まったくこの子は……と馨を睨んでいる美音を見て、茂先生が吹き出した。
「おー怖い。美音ちゃんは、そういうとこ、ほんとにきっちりしてるからなあ」
そんな茂先生を諫めるようにウメは言う。
「大事なことだよ。備えあれば憂いなしって昔から言うけど、備えだって、一度備えてそれきりにしておいたんじゃ意味ないからね。いざってときに期限切ればっかりじゃどうにもなんないよ」
災害対策用品の点検や入れ替えは、防災の日に合わせておこなうことが奨励されているらしい。だが、実際にやっている人はどれぐらいいるのだろう。
残暑も真っ盛りの九月一日、美音はとてもじゃないがそんな仕事をする気になれない。それでもやはり点検は必要、ということで美音は秋休みに合わせて常備食材の入れ替えをおこなってきたのだ。
「そうだなあ……。災害対策は必要だってわかってるから一通り買いそろえてみたけど、押し入れにしまい込んだままって人が多いかもな」
茂先生はどうやら思い当たる節があるようだ。ウメは横目で茂先生を見ながら言う。
「茂先生みたいな獣医さんのところでしっかり備えておいてくれないと、町内の犬猫がみんな困っちまうよ。うちのクロだってさ」
ちょっと待って。さすがに自分が飼っている猫の餌ぐらいは用意しておかないとだめでしょう。獣医さん任せじゃ、いくら茂先生だって大変すぎる。
やんわりと意見を述べる美音に、ウメは、そういうことじゃなくてさ……と続けた。
「飼い主が一緒にいるならいいよ。でも、大きな災害のときは、飼い主とはぐれるペットがけっこういるじゃないか。うちのクロだって、どうなるかわかったもんじゃない。そういうときの頼みの綱は、やっぱり茂先生ってことにならないかい?」
次になんかあったら、あたしみたいな年寄りはどうなるかわからない。独り住まいだから家の下で潰れてても気付いてくれる人もいないだろうし……と、ウメはいつもの彼女らしくない、ちょっと弱気な発言をした。
あたしはともかく、クロだけはなんとかしてやらないと……なんてしんみり言われて、美音はどう答えていいかわからなくなった。馨も返事に困っている。
だが当の茂先生は至って呑気に答えた。
「クロもウメさんも心配ないよ。この町にいれば大丈夫」
「この町にいればって……。なんでさ? きっとみんな、自分たちのことで精一杯になっちまう。それを責めてるわけじゃないんだよ。そんなの当たり前のことだからさ……」
そんなこんなも含めて、好きで独りで暮らしてるあたしの自己責任ってやつだし、とウメは消え入りそうな声で呟く。ウメの言葉を聞いて、美音はやっと言葉を見つけた。
「ウメさん……それは違うと思うわ」
「違わないんだよ、美音坊」
遮二無二首を横に振るウメを見て、美音は勢い込んで言った。
「絶対違うわ! だってここにはすごくしっかりした町内会があるでしょ!」
ここぞとばかり、馨も加勢する。
「そうだよ! 東日本大震災のとき、ヒロシさんすごかったじゃない。自分の家そっちのけで、町内回ってみんなが無事かどうか確認してたでしょ? あとで聞いたけど、ヒロシさん、揺れが治まって一番に住民リストを探したんだって」
そういえばそうだった……とみんなが馨の言葉に頷いた。
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