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9章
5
しおりを挟む会うことが出来なくてもクレハのことがわかるかもしれない、というのは良い誘い文句だったなとアトリは思う。
当初こそ気が乗らない体を装っていたが、三日も経てばヴィオルムの方からどこを見に行きたいと煩いほどに案内を求められるようになった。
訓練場、ホール、談話室、資料保管庫。
若干それはクレハに関係がなさそうなとこだけど、と言いたくなるような所にも彼は興味があるようだった。
或いは元々好奇心旺盛な方なのかもしれない。
気分は専属のツアーガイドだが、お好きにどうぞと放置でもしようものならうっかりクレハと遭遇しそうである。
ユーグレイには事情を説明してクレハの予定を確認するようにしているが、幸い向こうはあまり出歩く気がないらしい。
概ねヴィオルムの希望通りあちこちを見て回れることが出来ていたのだが、配慮が足りなかったと言うべきか油断していたと言うべきか。
まあ、この青年の態度を考えれば起きるべくして起きたトラブルではあった。
第五防壁の病院。
カンディードの医療施設を確認したいと言ったのはやはりヴィオルムで、今日はクレハもこちらに来る予定はなかったはずだからと案内をしたのだ。
廊下から待合室を覗き込んだ彼は訳知り顔で肩を竦める。
「思ったよりは綺麗だけれど、やはり程度が知れるね」
とんだ上から目線の発言だが、最早慣れて来たアトリは苦笑して「そ?」と返した。
「外から見ただけで色々お分かりになるようで、流石でございますねー」
揶揄われていることには気付いたらしい。
ヴィオルムは「視覚から得られる情報は重要だよ」と諭すように言い返して来る。
小麦色の髪をさっと払って、彼は年長者のような顔をしてアトリを見た。
「君、育ちはどうだか知らないけれど頭はそう悪くないだろう。よく考えればわからないかな? 医療っていうのは、機器にしたって看護スペースにしたってとにかく場所を取るものなんだ。こんな狭いところでは、『ある程度』の医療しか提供出来ないよ」
仰る通りだ。
けれど前提としてここは増築不可能な防壁の中。
外の医療施設と比べて狭いことは当然として、その分だけの工夫がなされている。
そもそも人魚討伐の最前線において、『ある程度』の医療しか提供出来ないなどということは決してない。
けれどそれを説明するのは、少々面倒だった。
こういう小難しい話はユーグレイ担当で、上手いことヴィオルムを納得させられる気は到底しない。
黙り込んだアトリに、彼は満足したようにもう一度待合室を見た。
「それにしたって混んでいないかい? この間の馬鹿騒ぎもそうだけど、君たち少々気が緩んでいるだろう。素養があることで自分が特別だと勘違いしているんじゃないかな。そういう油断が、怪我の原因になる」
こうして見るとちゃんとやっているのか不安になるね、と青年は笑った。
嘲笑とまではいかないが、見下すような意は確かに含まれていただろう。
ちゃんとやってなかったら今頃外界は大騒ぎですが、と言いかけて。
丁度診察を終えて待合室から出て来た少年と目が合った。
少し鬱陶しそうな長い前髪の奥、疲れたような眼が吊り上がっている。
ああこれは、と思った瞬間には「あんた」と詰め寄られていた。
「あ、あんた……、それ、どういう、い、意味だよ!?」
足を引き摺るように歩み寄って来たところを見ると、現場で怪我をして治療中と言ったところだろうか。
カグのような威勢の良さはない。
けれどこういう追い詰められた表情をしている人間の方が余程面倒だと知っている。
「どういうも何も、そのままの意味だけど」
意外にもヴィオルムは眼前に迫った相手に平然と言葉を返す。
傷付いたように顔を白くした少年が、ぐっと拳を握るのが見えた。
「煽んな、馬鹿!」
アトリはヴィオルムの襟首を掴んで引っ張ると、二人の間に割って入った。
罵り合いは経験があるようだが、少年がかっとなって手を上げるとは思わないのだろうか。
こういうところは本当に「お坊ちゃん」だ。
さっと視線をやると、騒動に気付いたらしい医療スタッフが慌ただしく奥へ入っていくのが見える。
ただでさえ忙しいだろうに申し訳ない。
「世間知らずなお客さんなんで、見逃してやって欲しい。ちゃんと言い聞かせとくから」
悪かった、と少年に謝罪をすると背後のヴィオルムが「謝る必要はないだろう」と不服そうな声を上げた。
外から来た青年が何だかんだと揶揄する気持ちも、わからなくもない。
彼はそもそもカンディードという組織に大切な人を奪われたと思っているのだから尚更だろう。
けれど、それはそれとして。
現場に出ている構成員は、事実命を賭けて人魚討伐を行なっている。
ちゃんとやっているか不安になる、なんて笑われたら黙っていられない奴の方が多いはずだ。
「一応案内役だからな。組織の人間として聞き流すべきじゃなかったし、理解してもらうために説明をするべきだった。謝罪は必要だろ」
双方に言い聞かせるようにゆっくりとそう口にすると、少年はアトリをじっと見て唇を噛んだ。
重い前髪で目元が隠れて、表情が消える。
余裕があって良いね、と掠れた声で彼は言った。
「聞き、流せるって……、さすがだよ。あの、ユーグレイ・フレンシッドに、ど、どうしてもって……、ペア継続を頼み込まれたんだろ? そ、そりゃあ、余裕もあるか」
「………………」
あの時のことはそれなりに騒ぎになったから知られていても不思議ではない。
面識があるとは言い難いが、どうやら少年の方はアトリを認識しているようだ。
良い感情は抱かれていなさそうだなと沈黙を選ぶと、彼は唐突に床を蹴った。
確かに引き摺っていた方の足のはずだが、一向に構う様子はない。
殴り合いは勘弁したいが、これはどうなることやら。
「ほら、程度が知れる」
「ヴィオ!」
それは独り言に近かったが、アトリに聞こえたのだから目の前の少年にも届いて当然だった。
鋭く名前を呼ばれてヴィオルムは流石にはっとしたようだったが、もう遅い。
背後の彼を乱暴に押しやると、伸ばされかけた少年の手は刹那の躊躇の末アトリの胸元を掴み上げる。
ぐっと首元が締まった。
反射的に半歩足を引いて、僅かに腰を落とす。
この手を叩き落とすくらいは別段難しいことではない。
でも。
そんな途方に暮れたような眼をされると、ちょっと。
「はいはい、そこまで」
ぱんと手を打つ乾いた音が響いた。
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