見えない心の向こう側

さくら優

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2.敗北

2-2

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 勝つことに協力はしないと言われたけれど、翌日からの東藤の打ち方に大きな変化は見られなかった。

 和了りを拒否することもなければ、わざと手を安くすることもない。相変わらず、那智が覚えやすいように牌も積んでくれる。

 そもそも、仮に負けたとしても那智のミスでなければ問題はないのだから、東藤自身がわざと負けたり、那智の邪魔をしては意味がないのだ。

(けど、もし俺がミスをしたら…)

 それをカバーしてくれることはないのだろう。

 今まで、身体を賭けた勝負の時は負けたことがなかった。だから、誰かとそういうことをした経験は未だにない。身体で払うなどとわりと簡単に口に出していたけれど、実際にはほとんど何も考えないようにしていた。

 那智は、配牌を開く前に目を閉じて、一度大きく息を吐く。

 ミスは出来ない。いつも以上に気を使って、最初の牌を切った。


   ✦✦✦

 南四局。

 現在那智は三位。麻雀は、一位にならなければ意味がない。

 点差はほとんどなく、満貫マンガン──八千点以上の手が出来れば逆転トップも可能だった。けれど。

(来た。一索イーソウ

 那智はちらりと東藤の手牌に目をやる。

 この一索を捨てて、東藤に鳴いて貰えば彼は聴牌になる。

 純全帯么ジュンチャン三色同順サンショク、ドラ一で七千七百点。逆転トップだ。純全帯么は全ての面子を一、九牌を絡めて作る役、三色同順は同じ数並びの順子を萬子マンズ筒子ピンズ索子ソーズの全種類揃える役だ。

 那智の手は、六巡目にして未だくず手の二向聴リャンシャンテン。聴牌になるには有効牌があと二枚も必要な状態なのだ。ここは自分が和了るよりも、東藤に和了って貰った方がいいだろう。

(よし!)

 東藤に軽く目配せして、牌を切る。
 これで今回も勝利、そう確信した時だった。

「チー…」
「ポン!」

 チーを宣言した東藤と同時に、上家からポンと言う声が上がる。

「え…」

(嘘だろ…)

 他のプレーヤーの捨てた牌を使って自分の手を進める「鳴き」には三種類あり、鳴いて手に入れた牌で順子を作るのがチー、刻子を作るのがポン、同じ牌を四枚揃える槓子カンツを作るのがカンだ。

 鳴きは、一つの捨牌ステハイに対しチーとポン、チーとカンが重なった場合は、発声の早い方になる。けれど、今のように発声が同時だった場合はポンやカンが優先される。

「悪いな。ニイチャン」

 そう言いながら、上家の男は那智の捨てた一索を持っていった。

 那智は膝の上で強く拳を握り締めながら、忌々しげに上家の男の手牌を睨み付けた。

 この男の手は、同一牌二枚の組を七組作る七対子チートイツ狙いのはずだった。けれど確かに、鳴いて手を作ることも考えられなくはなかったのだ。那智なら絶対にやらないが。

(あと二巡で、こいつも七対子聴牌だったのに…っ)

 二巡待って、上家の男が聴牌してから一索を捨てるべきだった。

 勝負を焦ったが故のミス。完全に那智の失態だ。もし、これで負けてしまったら…。

(いったい、どうすればいい…?)

 必死に考えを巡らす那智の顔を見ながら、東藤がくすりと小さく笑みを溢していたことに、この時の那智は全く気付いていなかった。


   ✦✦✦

 結局、上家の男に和了られて、コンビ結成以来初の敗北を味わうことになった。

 唇を噛み締めて俯く。あの時のミスが悔まれてならない。今まで、あんなミスを犯すことはなかったのに。

「那智」

 肩に軽く手を置かれただけで、ビクッと身体が震えた。
 東藤は那智のそんな過剰反応には気付いていないふりをして、いつも通りの口調で言う。

「行こうか」
「…はい」

 どこへ、とは訊かなくてもなんとなくわかった。

 那智は椅子から立ち上がり、東藤の後を追って店を出た。

 負けた分の金は、約束通り東藤が那智の分まで支払った。那智も、約束を果たさなければならない。

 東藤の後ろについて歩いていくと、駅前の大通りに出た。人が大勢いて、車の通りも激しい。空はすっかり暗くなっているのに、地上は昼間のように明るかった。

 那智は、その光景に思わず目を奪われる。

 普段は錆びれた裏道しか通らないから、こんなに人通りが多い所に来たのは久しぶりだ。まるで浦島太郎にでもなったような気分になる。もしくは、一人ぼっちで迷子になってしまった小さな子ども。

 一歩前を歩く東藤は、この場の空気に馴染んでいる。那智一人が、溶け込むことが出来ずに浮いていた。

 突然わけのわからない不安に襲われて、手が勝手に東藤の方に伸ばされる。指先がコートの裾に触れそうになった瞬間、東藤が立ち止まって振り向いた。

 那智は慌てて手を引っ込める。

(なにやってんだよ、俺…)

 これからされることがわかっていながら、その男に縋ろうとするなんて。

 東藤に連れて来られた場所は、駅の近くにある高級感漂うホテルだった。
 広いロビーの中央に、大きなシャンデリアが吊るされている。

 案内された部屋は、最上階の一階下の部屋だった。キングサイズのダブルベッドが二つ置かれていて、その奥にソファセットがある。部屋の中にまで小さなシャンデリアがかかっていて、那智はただただ呆然としていた。

 改めて、東藤が金なら腐る程あると言っていた意味がわかる。恋人同士ならともかく、賭けの代償で寝るだけの相手とこんな所に来てしまうのだから、那智にはもう、彼がどれほどの人間なのか見当もつかなかった。

「すごい部屋…」
「そう?」

 東藤は慣れた様子でソファに座ると、上着を脱いで煙草に火を点けた。

 さっきまでわけのわからない不安に押し潰されそうになっていたことも忘れ、那智は好奇心旺盛に部屋の中を見回した。

 玄関から入ってすぐのところにあるドアを開けると、広々としたバスルームが現れる。浴槽と別に、シャワーブースもついていた。
 自宅の、足もろくに伸ばせない風呂とは大違いだ。

「ね、シャワー浴びてきていい?」

 自分の置かれている状況も忘れて子どものようにはしゃぐ那智に、東藤は一瞬呆れたような顔をして、小さく吹き出した。

「どうぞ」

 馬鹿にされたような気がして面白くなかったけれど、それには突っ込まずにバスルームに入り内側から鍵をかける。

 緊張感がないのは自分でもわかっていた。けれど、今更逃げられるわけでもないし、卑屈になってもしょうがない。それに。

 那智は改めて、その広い浴室の中を見回す。

(上出来じゃん?)

 身体を賭けて麻雀を打ち始めた時から、自分のことは全て諦めた。

 青春も、将来も、そして恋愛も。

 それなのに、初めてがこんな綺麗なホテルで、相手は容姿端麗の若い男。これはむしろ、ラッキーなのではないか。

「ははは…」

 那智は乾いた笑いを漏らして、ずるずるとその場にしゃがみ込む。

 頭を抱えて何度か大きく深呼吸をした。いったいどこまで堕ちれば気が済むのか。

 低俗な自分の考えに吐き気がした。
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