3 / 31
3. 家庭教師
しおりを挟む
「やあ、ラウル。今日も暇そうだね」
リカルドは軽く右手を上げ、にこやかな笑みを浮かべながら医務室に入ってきた。そこにいたのはラウルひとりきりである。今日も患者はひとりも来ていない。リカルドが何日かぶりの訪問者だ。
「何の用だ」
ラウルは本をめくる手を止めると、冷たく一瞥して言った。開け放たれた窓から流れ込む新鮮な空気が、焦茶色の長髪を微かに揺らした。
「めずらしいね。どういう心境の変化?」
リカルドはにっこり笑いながら尋ねた。
めずらしいというのは、ラウルが窓際に椅子を置いて座っていたことだろう。おまけにガラス窓まで全開にしている。ラウルにしてはずいぶん開放的だと思ったに違いない。リカルドの表情から察するに、自分の忠告が効いたなどと勘違いしているのかもしれない。
ラウルはその態度が癪に障った。眉をひそめて睨みつける。
「何の用だと聞いている」
「覚えているか? 頼みたいことがあるって言ったこと」
リカルドは急に真面目な表情になった。
「ああ、今まで忘れていたがな」
ラウルは低い声で素っ気なく答えた。一ヶ月前、リカルドが診察を受けに来たときに聞いた話だった。それきりになっていたので、話自体がもうなくなったものと思っていた。
「改めて頼みに来たよ。聞いてくれるな?」
リカルドは近くのパイプベッドにゆっくりと腰掛けた。真新しい白のシーツに、いくつかの皺が緩やかに走った。患者用のベッドであるが、肝心の患者が来ないため、本来の目的で使用されることは滅多にない。ほとんどリカルドの椅子代わりとなっていた。
「話せ」
ラウルはため息まじりに言った。面倒だと思ったが、そういう約束をしたことを覚えている。話だけでも聞かなければならない。
リカルドは膝の上で両手を組み合わせた。小さく呼吸をしてから切り出す。
「おまえに頼みたいことというのはな、家庭教師なんだ」
ラウルは怪訝に眉をひそめた。
「……家庭教師、だと?」
「そう、家庭教師」
リカルドはにっこりとして頷いた。
ラウルは無言で彼を見つめた。肩透かしを食らった気分だった。一ヶ月も前からもったいつけていたので、よほど重大なこと、つまり政治的な類ではないかと想像したのだ。相手が名門ラグランジェ家の当主となればなおのことである。それが、まさか家庭教師などという極めて個人的なこととは、まったくの想定外だった。しかし、どちらにしろ引き受けるつもりはない。
「いいだろう? 家庭教師くらい」
リカルドは人なつこい笑顔のまま、軽い調子で畳み掛けた。
ラウルは冷たく鋭利な眼差しで睨みつける。
「ふざけるな。おまえに教えることなどない」
だが、リカルドにはまったく効き目はなかった。少しも怯むことなく、穏やかに応じる。
「私じゃないよ、息子のサイファだ。もうすぐ10歳になる」
「息子でも同じだ。私は医師だ。家庭教師などやるつもりはない」
ラウルは低い声で明瞭に一蹴した。
「こんなことを言うと親バカだと思われるだろうけど……」
リカルドはそう前置きをして続ける。
「サイファはとても頭が良い子でね。魔導に関してもかなりの力を持っている。もう並の家庭教師では、まともに教えられないんだよ。おまけにちょっと生意気なところがあって、すぐに先生を辞めさせてしまうんだ」
そう言うと、肩をすくめて苦笑する。
「その点、おまえなら安心だ。魔導については言うまでもなく、科学や医学などの学問にも造詣が深いし、何よりサイファにやりこめられるとも思えない」
「断る」
ラウルは間髪入れず、端的すぎる言葉を返した。少しの迷いもなかった。リカルドの丁寧な説明は、まったくの徒労に終わった。
しかし、それでも彼は引き下がらなかった。
「許可はすでに取ってあるよ。家庭教師をやっている時間は、休診しても構わないとね」
「おまえ、人の話を聞いているのか」
ラウルは白い目を向け、半ば呆れぎみに言った。
もともとラウルの医務室には患者はほとんど来ない。休診しようがしまいが、何ら影響がないことは明白である。ラグランジェ家の当主ならば、許可を取ることは極めて容易だろう。だからといって、あらかじめそこまでの手回しをするとは思わなかった。甘い人間に見えるが、意外と抜け目がない。
「もうおまえしか頼む相手がいないんだ」
リカルドは顔の前で両手を合わせ、片目を瞑ってみせる。愛嬌の中にも必死さが窺える表情だ。だが、ラウルはこんな泣き落としにはびくともしない。
「それほど頭がいいのなら、自習でもさせておけ」
「出来るだけ才能を伸ばしてやりたいんだよ。親心ってやつかな」
「私は教え方など知らん」
「子供相手だと思わなくて大丈夫だよ。逆に子供だと思っていると、痛い目を見るかもしれない」
リカルドはなぜか嬉しそうに声を弾ませた。その内容もどこか微妙にずれている。
「出て行け」
ラウルは鋭く睨みつけ、凄みのある低音で命令した。
「引き受けてくれたらね」
リカルドは動じることなく涼やかに言葉を返した。ラウルが承諾するまでは、どうあっても帰るつもりはないらしい。普段の物腰は柔らかいが、ここぞというときには頑固である。
ラウルは手にしていた本を後ろの棚に置き、椅子から立ち上がった。焦茶色の長髪をなびかせながら、パイプベッドに座るリカルドの前に歩み出る。冷たく射抜くように睨み下ろすと、彼の首に右手を掛けた。そのまま、上から覗き込んで顔を近づける。肩から落ちた長い髪が、カーテンのように二人を外界から遮断した。
「これ以上しつこくすると命の保証はない」
「なぜ、そんなにむきになる」
リカルドは目をそらさず、静かに尋ねる。
ラウルは首に掛けた手に力を込めた。
それでも、リカルドの表情は動かなかった。
ラウルはさらに力を込めた。指が白い首筋に沈む。
一瞬、リカルドの顔が歪んだ。だが、その目はラウルを捉えたままだった。
ラウルは深い濃色の瞳で睨み返した。
青い瞳は逃げずにそれを受け止めた。
視線が交錯したまま、無言の時間が流れる。
やがて、ラウルはため息をついた。
「むきになっているのはおまえも同じだろう」
そう言って、体を起こしながら手を引いた。眉をしかめて腕を組む。
「教える価値がないと判断したら、いつでも辞める」
それは、一応の承諾を意味する言葉だった。リカルドは何があっても引きそうもない。これ以上、言い合っても泥沼にはまるだけである。そんな面倒なことは願い下げだった。ここはとりあえず収めた方が良いとラウルは判断した。こう言っておけば、何かしら理由をつけて辞めることは可能である。
「ありがとう」
リカルドはにっこりと笑った。
「それじゃあ、あしたからさっそく来てもらおうかな。最初のうちは、昼すぎから3時間くらいで」
「何を教えればいい」
「すべて任せるよ。サイファはアカデミー修了程度と想定してくれ」
「わかった」
ラウルは面倒くさそうに返事をした。前髪を掻き上げながら、疲れたように小さく息を吐く。
そんな彼を横目で見ながら、リカルドはパイプベッドから立ち上がった。両手を腰にあて、背筋を反らせるくらいに伸ばすと、目を細めて表情を緩めた。
「これから昼食なんだが、一緒にどうかな?」
「断る。これ以上、おまえと顔を突き合わせたくはない」
ラウルは目も向けずに答えた。
「残念だな。いつか奢らせてくれ」
リカルドは笑いながらそう言うと、軽く右手を上げて医務室を出て行った。家庭教師の一件と比べると、随分あきらめが早い。本気ではないのだろうとラウルは思った。
医務室は再び静寂を取り戻した。遠くの微かな声や足音、そして木々のざわめきが聞こえるだけである。
ラウルは窓際の椅子に戻った。無表情で腰を下ろす。棚に置いた読みかけの本を一瞥したが、今は手に取る気にもなれなかった。鼻から小さく息を漏らすと、窓枠に右肘をついて空を見上げた。意味もなく、流れゆく雲を目で追う。
そのとき、ふと下方から声が聞こえた。
「お父さま、この花はなあに?」
「ん? ああ、これはバラだな」
「きれいね」
「触るんじゃないぞ、棘があるからな」
「とげ?」
「刺さると血が出るんだ」
ラウルは視線を落とした。目にしなくてもわかっていたが、そこにいたのはアルフォンスとレイチェルの親子だった。日だまりの中で、野生のバラを眺めながら会話をしている。微笑ましいといえる光景だ。
やがて、アルフォンスは幼いレイチェルの手を引いて歩き始めた。彼女の長い金色の髪と、淡い水色のワンピースが、ふわりと柔らかく風をはらんだ。
医務室の下を通りかかる。
レイチェルは大きく顔を上げた。
ラウルと目が合った。
迷うことなく、にっこりと華やかに笑った。
幸せそうな笑顔だった。
あどけない無防備な笑顔だった。
それは、とても大切だった少女を想起させた。
だが、別人だ。何の関わりもないのだ。
そんなことはわかっている。なのに、なぜいつまでも――。
ラウルは眉を寄せた。
レイチェルを初めて見かけた日から、窓際で過ごすことが増えていた。言い訳はしない。間違いなく彼女を待っているのだ。
彼女は父親とともに、週に数回ほど、ここを通っているようだった。そして、通るたびに顔を上げ、無邪気に笑いかけてきた。ラウルは何の反応を返すわけでもなく、無表情で見下ろすだけだったが、彼女はそれでもやめることはなかった。
彼女の笑顔に惹かれていた。それ以上に、自分に笑顔を向ける理由が気になった。そのためなのだろうか、姿を見るたびごとに、彼女から目が離せなくなっていった。
しかし、もうこれも最後になるだろう。明日からはリカルドの息子の家庭教師が始まる。ここで待つ時間はなくなるのだ。一抹の寂しさを感じたが、断ち切るにはちょうどいい機会だと思った。いつまでもこんなものに惑わされているわけにはいかないだろう。
そう、これが最後だ――。
ラウルは去りゆく少女の小さな後ろ姿を、いつまでも目で追った。強い日差しの当たる右側が、焼けるように熱かった。
翌日、ラウルは約束どおり、リカルドの家、すなわちラグランジェ本家を訪れた。それは、王宮に隣接した場所に存在していた。いや、隣接というより、一部であるかのように敷地の一角を占めている。家自体も個人のものとは思えないほど非常識に大きい。まるで城のようだ。知らない人間が見れば、王宮の一部と誤解しても無理はないだろう。
「来てくれて嬉しいよ、ラウル」
リカルドは両腕を広げ、満面の笑顔で出迎えた。
ラウルは眉根を寄せて睨んだ。平日だが仕事は休みなのだろうか、と怪訝に思ったが、尋ねることはしなかった。
「紹介するよ、妻のシンシアだ」
「初めまして」
リカルドの後ろに控えていた女性が、一歩前に出て、軽くドレスを持ち上げ膝を曲げた。客観的に見て、間違いなく美人といえるだろう。ただ美人というだけではなく、その表情からは聡明さが見て取れる。青い瞳には理知的な光を宿していた。
「こちらは王宮医師のラウル」
リカルドは、次にラウルを示して妻に紹介した。だが、ラウルは彼女を冷たく見下ろしただけで、何も言わなかった。面倒くさそうにリカルドに振り向いて尋ねる。
「サイファとやらはどこにいる」
「二階だ。案内するよ」
リカルドは緩やかにカーブする幅広い階段を指差すと、ラウルを先導して上っていった。
「サイファ、先生が来たよ」
リカルドは二階に上がってすぐの部屋をノックして、声を掛けた。
「はい」
中から返事が聞こえた。子供にしてはしっかりとした声だった。
扉が開いた。
そこには少年が立っていた。これがリカルドの息子、サイファなのだろう。整ったきれいな顔に、鮮やかな金髪といった、とても人目を引く容姿をしていた。背格好はもうすぐ10歳という年相応のものだったが、表情は見るからに聡明そうで大人びている。彼の青い瞳には、シンシアと同じような理知的な輝きが宿っていた。
サイファは背の高いラウルをじっと仰ぎ見た。少し目を大きくして、僅かに驚いたような顔を見せる。しかし、すぐに表情を緩め、にっこりと笑った。
「ようこそ、先生」
そう言うと、ラウルの手を取り、広い部屋の中へと引き入れた。
リカルドが軽い足取りで階段を下りていくと、シンシアが訝しげな表情で待ち構えていた。
「大丈夫なの? あの人。強い魔導力を持っているのはわかるけれど」
「悪い人じゃないよ。ああ見えて実直だしね。愛想はないけれど、信頼に足る人物だと思っている」
リカルドは自信を持って言った。
それでもシンシアの不信感は拭えなかった。腕を組み、眉をひそめる。
「問題は、リカルドに人を見る目があるかどうかね」
「少しは信用してほしいな」
リカルドは苦笑した。難しい顔をした妻の腰に手をまわすと、リビングルームへと促した。
「先生は何を教えてくれるの? 魔導?」
サイファは好奇心いっぱいに目を輝かせ、ラウルにまとわりついた。先ほどとは別人のような、子供っぽい無邪気な表情だった。
「ラウルだ。“先生”は必要ない」
ラウルは小さな教え子を見下ろしながら、無表情で言った。
「じゃあラウル、座って」
サイファは急に大人びた口調になった。口調だけではない。表情も落ち着いたものに変わっていた。微笑を浮かべながら、用意してあった椅子を右手で示す。
ラウルは促されるまま、椅子に腰を下ろした。
サイファもその隣の椅子に座った。机に左手をのせて寄りかかりながら、ラウルの目をじっと見つめる。出方を窺っているのだろう。
「これを読め」
ラウルは手にしていた3冊の本を机に投げ置き、突き放すように言った。その本はいずれも魔導に関する論文で、読者は専門の研究者を想定している。最高学府であるアカデミーの生徒でも、理解は難しいに違いない。
サイファは醒めた目でそれを一瞥すると、ラウルに向き直った。
「もう読んだよ。だいたい本を読ませるだけなんて、家庭教師としては手抜きじゃない?」
「おまえこそ、読んだなどと嘘を言っているのではないだろうな」
ラウルはムッとして言い返した。どれもつい二ヶ月ほど前に発表されたばかりのものだ。こんな子供がもう読み終わったなど、信じることが出来なかった。
サイファはフッと挑発的な笑みを浮かべた。机の上の本を一冊、手に取って掲げる。
「この本、第四章の結論が間違っているよね。むしろ逆じゃないのかな。第六章は導き方が強引すぎる。この実験だけでは、この結論は出せないよ。結論ありきで実験をして急ぎすぎたんだろうね」
それは、ラウルが考えたこととまったく同じだった。きちんと読まなければその指摘はできない。いや、読んでいたとしても、そこに気がつく人間はそうはいない。
「それはおまえの意見か?」
「そうだよ。前の家庭教師が、これを書いた人でさ。教本として読ませられたんだけど、今みたいに指摘したら辞めちゃったんだよね」
サイファはつまらなそうに言うと、手にしていた本を投げ出すように机に落とした。まるで、読む価値がないと言わんばかりだった。
ラウルは眉をひそめた。
「指摘しただけではないのだろう」
「こんなところで小遣い稼ぎしてないで、研究に本腰入れた方がいいんじゃない? って言っただけだよ」
サイファは事も無げにしれっと言った。
ここまで言われて家庭教師を続けられる人間は皆無だろう。リカルドの言っていたことが、ラウルはようやく理解できた。「ちょっと生意気」どころではない。相当に生意気だ。
「ねえ、こんな本よりさ、魔導を教えてよ。実戦的なやつ」
サイファはパッと顔を輝かせてそう言うと、身を乗り出してラウルの手を取った。
「ラウルってすごく強くて深い魔導力を持っているよね。今まで僕が出会った中で圧倒的に一番だよ。医師って聞いてたから期待してなかったけれど、今はラウルが来てくれて嬉しく思ってるんだ」
その言葉は、彼の魔導使いとしての水準を証明していた。向かい合っただけで相手の魔導力を測ることが可能なのは、上級以上の使い手のみだ。
もちろん、最上級の使い手であるラウルにも、それが可能である。彼はサイファの魔導力をかなりのものと評価した。王宮に勤める人間でも、敵うものはごく少数だろう。父親のリカルドよりも上である。ただし、それ相応に優秀な使い手であるかは、また別の話だ。いくら強い魔導力を持っていても、知識と技術がなければ、単なる宝の持ち腐れにしかならない。
「ねえ、教えてよ。家庭教師なんだから、教えるのが仕事じゃない?」
サイファは人なつこい笑顔で、催促するように大きな手を引いた。
ラウルは腕を取られたまま、険しい顔で睨みつけて言う。
「その前におまえの力を見せてみろ」
サイファはにっこりと笑った。
「わかった。じゃあ、地下へ行こう。稽古場があるんだ」
「ここでだ」
ラウルは低い声でそう言うと、サイファの手を払いのけ、椅子から立ち上がった。そして、短く呪文を唱えると、部屋の内壁に沿うように、青白く光る結界を張った。魔導も物体も遮断する強力なものである。
「私をここから一歩でも動かしてみろ。手段は問わない」
サイファは肘掛けに右手を置き、ラウルの横顔をじっと見つめた。そのままゆっくりと顎を引くと、ニッと口の端を上げる。
「面白いよ、それ」
その静かな声には、挑みかけるような色が含まれていた。
だが、ラウルはピクリとも反応しなかった。無表情な横顔を見せたまま、腕を組み、まっすぐに立っている。一見、無防備そうに見えるが、攻撃を仕掛けにくい隙のない構えだ。そう、すでに「試験」は始まっているのだ。
サイファは口元をきゅっと引き締めた。椅子から軽く跳ねるようにして立ち上がると、足早にラウルの正面に回り込み、少し距離を取って向かい合う。
小さく息を吸った。
ラウルを見据えたまま短い呪文を唱え、ふたりの間に透明な結界を張る。
間髪入れず、胸の前で両手を合わせ、次の呪文を紡ぐ。両手の間に白い光が生じた。かなり輝度の強いものだ。眩しくて正視できないくらいである。光の向こう側にあるラウルの姿を捉えることは不可能だろう。
サイファの額に汗が滲んだ。
「やぁっ!」
幼い掛け声とともに、ラウル目掛けて光球を放出した。それは、ふたりの間の結界を消滅させ、それでも勢いを失うことなく目標に突き進む。
ラウルは開いた左手を突き出し、サイファの攻撃を受け止めた。その瞬間、ジュッと何かが焼けるような音がして、光球は激しい光を放ちながら霧散した。
サイファは身を低く前傾して地面を蹴った。素早く光の海をくぐり抜ける。地面に手をつき、体ごと遠心力をつけ、コンパスのように足先をくるりと回す。計画通りラウルの足首を薙ぎ払った、いや、払おうかという、そのとき――。
「うわっ!」
逆に細い足首を掴み上げられ、一瞬で逆さづりになった。何が起こったのか理解できない表情で、あたふたと周囲の状況を窺う。
「稚拙な手だ」
ラウルは冷淡にそう言うと、腕の力だけで、小さな体を勢いよく放り投げた。
サイファは受け身を取ろうとしたが、不完全なまま、部屋を覆う結界に打ちつけられた。僅かに弾むようにして床に落ちる。
「う……っ……」
顔をしかめ、頭を押さえ、よろめきながら立ち上がった。眉根を寄せて前を見る。
ラウルは感情のない顔で、開いた右手を正面に突き出した。そこに、呪文の詠唱なしに、白い光球を生じさせる。先ほどサイファが放ったものより何倍も攻撃力が強いものだ。あたりが強く照らされ、ラウルの後ろに長い影を作る。
サイファははっとした。防御の呪文を口にのせる。
白い光がサイファに襲いかかる。
まだ詠唱は終わっていない。
もう間に合わない。
サイファは息を呑んだ。視界が白で覆われた。
だが――。
それは目の前で中央から分かれ、彼を避けるように両側を通り過ぎた。凄まじい速度だった。背後の青白い結界に衝突し、部屋の壁ごと突き破る。それでも止まらず、屋敷の外壁にも穴を開けた。粉塵が舞い、瓦礫が山となる。
――ガ、タン。
サイファは呆然としながら、その場に崩れるように両膝をついた。
白い頬には薄く傷が走っていた。
袖にはいくつもの切れ目が入っていた。
金の髪が幾本か舞い上がり、はらりはらりと落ちていく。
それでも、目は、粉塵で煙る向こう側の人影に釘付けになっていた。長髪をたなびかせながら腕を組み、二つの足でしっかりと直立している。いまだ一歩も動いていない。
上方から次第に靄が晴れていく。
凍てついた無感情な瞳が露わになった。ギロリ、と視線が動く。
サイファはびくりと体を竦ませた。そして、芯から痙攣するように震え出した。僅かに口を開いたが、そこから声は出てこなかった。彼のすべては、戦慄と畏怖に支配されていた。
リカルドは軽く右手を上げ、にこやかな笑みを浮かべながら医務室に入ってきた。そこにいたのはラウルひとりきりである。今日も患者はひとりも来ていない。リカルドが何日かぶりの訪問者だ。
「何の用だ」
ラウルは本をめくる手を止めると、冷たく一瞥して言った。開け放たれた窓から流れ込む新鮮な空気が、焦茶色の長髪を微かに揺らした。
「めずらしいね。どういう心境の変化?」
リカルドはにっこり笑いながら尋ねた。
めずらしいというのは、ラウルが窓際に椅子を置いて座っていたことだろう。おまけにガラス窓まで全開にしている。ラウルにしてはずいぶん開放的だと思ったに違いない。リカルドの表情から察するに、自分の忠告が効いたなどと勘違いしているのかもしれない。
ラウルはその態度が癪に障った。眉をひそめて睨みつける。
「何の用だと聞いている」
「覚えているか? 頼みたいことがあるって言ったこと」
リカルドは急に真面目な表情になった。
「ああ、今まで忘れていたがな」
ラウルは低い声で素っ気なく答えた。一ヶ月前、リカルドが診察を受けに来たときに聞いた話だった。それきりになっていたので、話自体がもうなくなったものと思っていた。
「改めて頼みに来たよ。聞いてくれるな?」
リカルドは近くのパイプベッドにゆっくりと腰掛けた。真新しい白のシーツに、いくつかの皺が緩やかに走った。患者用のベッドであるが、肝心の患者が来ないため、本来の目的で使用されることは滅多にない。ほとんどリカルドの椅子代わりとなっていた。
「話せ」
ラウルはため息まじりに言った。面倒だと思ったが、そういう約束をしたことを覚えている。話だけでも聞かなければならない。
リカルドは膝の上で両手を組み合わせた。小さく呼吸をしてから切り出す。
「おまえに頼みたいことというのはな、家庭教師なんだ」
ラウルは怪訝に眉をひそめた。
「……家庭教師、だと?」
「そう、家庭教師」
リカルドはにっこりとして頷いた。
ラウルは無言で彼を見つめた。肩透かしを食らった気分だった。一ヶ月も前からもったいつけていたので、よほど重大なこと、つまり政治的な類ではないかと想像したのだ。相手が名門ラグランジェ家の当主となればなおのことである。それが、まさか家庭教師などという極めて個人的なこととは、まったくの想定外だった。しかし、どちらにしろ引き受けるつもりはない。
「いいだろう? 家庭教師くらい」
リカルドは人なつこい笑顔のまま、軽い調子で畳み掛けた。
ラウルは冷たく鋭利な眼差しで睨みつける。
「ふざけるな。おまえに教えることなどない」
だが、リカルドにはまったく効き目はなかった。少しも怯むことなく、穏やかに応じる。
「私じゃないよ、息子のサイファだ。もうすぐ10歳になる」
「息子でも同じだ。私は医師だ。家庭教師などやるつもりはない」
ラウルは低い声で明瞭に一蹴した。
「こんなことを言うと親バカだと思われるだろうけど……」
リカルドはそう前置きをして続ける。
「サイファはとても頭が良い子でね。魔導に関してもかなりの力を持っている。もう並の家庭教師では、まともに教えられないんだよ。おまけにちょっと生意気なところがあって、すぐに先生を辞めさせてしまうんだ」
そう言うと、肩をすくめて苦笑する。
「その点、おまえなら安心だ。魔導については言うまでもなく、科学や医学などの学問にも造詣が深いし、何よりサイファにやりこめられるとも思えない」
「断る」
ラウルは間髪入れず、端的すぎる言葉を返した。少しの迷いもなかった。リカルドの丁寧な説明は、まったくの徒労に終わった。
しかし、それでも彼は引き下がらなかった。
「許可はすでに取ってあるよ。家庭教師をやっている時間は、休診しても構わないとね」
「おまえ、人の話を聞いているのか」
ラウルは白い目を向け、半ば呆れぎみに言った。
もともとラウルの医務室には患者はほとんど来ない。休診しようがしまいが、何ら影響がないことは明白である。ラグランジェ家の当主ならば、許可を取ることは極めて容易だろう。だからといって、あらかじめそこまでの手回しをするとは思わなかった。甘い人間に見えるが、意外と抜け目がない。
「もうおまえしか頼む相手がいないんだ」
リカルドは顔の前で両手を合わせ、片目を瞑ってみせる。愛嬌の中にも必死さが窺える表情だ。だが、ラウルはこんな泣き落としにはびくともしない。
「それほど頭がいいのなら、自習でもさせておけ」
「出来るだけ才能を伸ばしてやりたいんだよ。親心ってやつかな」
「私は教え方など知らん」
「子供相手だと思わなくて大丈夫だよ。逆に子供だと思っていると、痛い目を見るかもしれない」
リカルドはなぜか嬉しそうに声を弾ませた。その内容もどこか微妙にずれている。
「出て行け」
ラウルは鋭く睨みつけ、凄みのある低音で命令した。
「引き受けてくれたらね」
リカルドは動じることなく涼やかに言葉を返した。ラウルが承諾するまでは、どうあっても帰るつもりはないらしい。普段の物腰は柔らかいが、ここぞというときには頑固である。
ラウルは手にしていた本を後ろの棚に置き、椅子から立ち上がった。焦茶色の長髪をなびかせながら、パイプベッドに座るリカルドの前に歩み出る。冷たく射抜くように睨み下ろすと、彼の首に右手を掛けた。そのまま、上から覗き込んで顔を近づける。肩から落ちた長い髪が、カーテンのように二人を外界から遮断した。
「これ以上しつこくすると命の保証はない」
「なぜ、そんなにむきになる」
リカルドは目をそらさず、静かに尋ねる。
ラウルは首に掛けた手に力を込めた。
それでも、リカルドの表情は動かなかった。
ラウルはさらに力を込めた。指が白い首筋に沈む。
一瞬、リカルドの顔が歪んだ。だが、その目はラウルを捉えたままだった。
ラウルは深い濃色の瞳で睨み返した。
青い瞳は逃げずにそれを受け止めた。
視線が交錯したまま、無言の時間が流れる。
やがて、ラウルはため息をついた。
「むきになっているのはおまえも同じだろう」
そう言って、体を起こしながら手を引いた。眉をしかめて腕を組む。
「教える価値がないと判断したら、いつでも辞める」
それは、一応の承諾を意味する言葉だった。リカルドは何があっても引きそうもない。これ以上、言い合っても泥沼にはまるだけである。そんな面倒なことは願い下げだった。ここはとりあえず収めた方が良いとラウルは判断した。こう言っておけば、何かしら理由をつけて辞めることは可能である。
「ありがとう」
リカルドはにっこりと笑った。
「それじゃあ、あしたからさっそく来てもらおうかな。最初のうちは、昼すぎから3時間くらいで」
「何を教えればいい」
「すべて任せるよ。サイファはアカデミー修了程度と想定してくれ」
「わかった」
ラウルは面倒くさそうに返事をした。前髪を掻き上げながら、疲れたように小さく息を吐く。
そんな彼を横目で見ながら、リカルドはパイプベッドから立ち上がった。両手を腰にあて、背筋を反らせるくらいに伸ばすと、目を細めて表情を緩めた。
「これから昼食なんだが、一緒にどうかな?」
「断る。これ以上、おまえと顔を突き合わせたくはない」
ラウルは目も向けずに答えた。
「残念だな。いつか奢らせてくれ」
リカルドは笑いながらそう言うと、軽く右手を上げて医務室を出て行った。家庭教師の一件と比べると、随分あきらめが早い。本気ではないのだろうとラウルは思った。
医務室は再び静寂を取り戻した。遠くの微かな声や足音、そして木々のざわめきが聞こえるだけである。
ラウルは窓際の椅子に戻った。無表情で腰を下ろす。棚に置いた読みかけの本を一瞥したが、今は手に取る気にもなれなかった。鼻から小さく息を漏らすと、窓枠に右肘をついて空を見上げた。意味もなく、流れゆく雲を目で追う。
そのとき、ふと下方から声が聞こえた。
「お父さま、この花はなあに?」
「ん? ああ、これはバラだな」
「きれいね」
「触るんじゃないぞ、棘があるからな」
「とげ?」
「刺さると血が出るんだ」
ラウルは視線を落とした。目にしなくてもわかっていたが、そこにいたのはアルフォンスとレイチェルの親子だった。日だまりの中で、野生のバラを眺めながら会話をしている。微笑ましいといえる光景だ。
やがて、アルフォンスは幼いレイチェルの手を引いて歩き始めた。彼女の長い金色の髪と、淡い水色のワンピースが、ふわりと柔らかく風をはらんだ。
医務室の下を通りかかる。
レイチェルは大きく顔を上げた。
ラウルと目が合った。
迷うことなく、にっこりと華やかに笑った。
幸せそうな笑顔だった。
あどけない無防備な笑顔だった。
それは、とても大切だった少女を想起させた。
だが、別人だ。何の関わりもないのだ。
そんなことはわかっている。なのに、なぜいつまでも――。
ラウルは眉を寄せた。
レイチェルを初めて見かけた日から、窓際で過ごすことが増えていた。言い訳はしない。間違いなく彼女を待っているのだ。
彼女は父親とともに、週に数回ほど、ここを通っているようだった。そして、通るたびに顔を上げ、無邪気に笑いかけてきた。ラウルは何の反応を返すわけでもなく、無表情で見下ろすだけだったが、彼女はそれでもやめることはなかった。
彼女の笑顔に惹かれていた。それ以上に、自分に笑顔を向ける理由が気になった。そのためなのだろうか、姿を見るたびごとに、彼女から目が離せなくなっていった。
しかし、もうこれも最後になるだろう。明日からはリカルドの息子の家庭教師が始まる。ここで待つ時間はなくなるのだ。一抹の寂しさを感じたが、断ち切るにはちょうどいい機会だと思った。いつまでもこんなものに惑わされているわけにはいかないだろう。
そう、これが最後だ――。
ラウルは去りゆく少女の小さな後ろ姿を、いつまでも目で追った。強い日差しの当たる右側が、焼けるように熱かった。
翌日、ラウルは約束どおり、リカルドの家、すなわちラグランジェ本家を訪れた。それは、王宮に隣接した場所に存在していた。いや、隣接というより、一部であるかのように敷地の一角を占めている。家自体も個人のものとは思えないほど非常識に大きい。まるで城のようだ。知らない人間が見れば、王宮の一部と誤解しても無理はないだろう。
「来てくれて嬉しいよ、ラウル」
リカルドは両腕を広げ、満面の笑顔で出迎えた。
ラウルは眉根を寄せて睨んだ。平日だが仕事は休みなのだろうか、と怪訝に思ったが、尋ねることはしなかった。
「紹介するよ、妻のシンシアだ」
「初めまして」
リカルドの後ろに控えていた女性が、一歩前に出て、軽くドレスを持ち上げ膝を曲げた。客観的に見て、間違いなく美人といえるだろう。ただ美人というだけではなく、その表情からは聡明さが見て取れる。青い瞳には理知的な光を宿していた。
「こちらは王宮医師のラウル」
リカルドは、次にラウルを示して妻に紹介した。だが、ラウルは彼女を冷たく見下ろしただけで、何も言わなかった。面倒くさそうにリカルドに振り向いて尋ねる。
「サイファとやらはどこにいる」
「二階だ。案内するよ」
リカルドは緩やかにカーブする幅広い階段を指差すと、ラウルを先導して上っていった。
「サイファ、先生が来たよ」
リカルドは二階に上がってすぐの部屋をノックして、声を掛けた。
「はい」
中から返事が聞こえた。子供にしてはしっかりとした声だった。
扉が開いた。
そこには少年が立っていた。これがリカルドの息子、サイファなのだろう。整ったきれいな顔に、鮮やかな金髪といった、とても人目を引く容姿をしていた。背格好はもうすぐ10歳という年相応のものだったが、表情は見るからに聡明そうで大人びている。彼の青い瞳には、シンシアと同じような理知的な輝きが宿っていた。
サイファは背の高いラウルをじっと仰ぎ見た。少し目を大きくして、僅かに驚いたような顔を見せる。しかし、すぐに表情を緩め、にっこりと笑った。
「ようこそ、先生」
そう言うと、ラウルの手を取り、広い部屋の中へと引き入れた。
リカルドが軽い足取りで階段を下りていくと、シンシアが訝しげな表情で待ち構えていた。
「大丈夫なの? あの人。強い魔導力を持っているのはわかるけれど」
「悪い人じゃないよ。ああ見えて実直だしね。愛想はないけれど、信頼に足る人物だと思っている」
リカルドは自信を持って言った。
それでもシンシアの不信感は拭えなかった。腕を組み、眉をひそめる。
「問題は、リカルドに人を見る目があるかどうかね」
「少しは信用してほしいな」
リカルドは苦笑した。難しい顔をした妻の腰に手をまわすと、リビングルームへと促した。
「先生は何を教えてくれるの? 魔導?」
サイファは好奇心いっぱいに目を輝かせ、ラウルにまとわりついた。先ほどとは別人のような、子供っぽい無邪気な表情だった。
「ラウルだ。“先生”は必要ない」
ラウルは小さな教え子を見下ろしながら、無表情で言った。
「じゃあラウル、座って」
サイファは急に大人びた口調になった。口調だけではない。表情も落ち着いたものに変わっていた。微笑を浮かべながら、用意してあった椅子を右手で示す。
ラウルは促されるまま、椅子に腰を下ろした。
サイファもその隣の椅子に座った。机に左手をのせて寄りかかりながら、ラウルの目をじっと見つめる。出方を窺っているのだろう。
「これを読め」
ラウルは手にしていた3冊の本を机に投げ置き、突き放すように言った。その本はいずれも魔導に関する論文で、読者は専門の研究者を想定している。最高学府であるアカデミーの生徒でも、理解は難しいに違いない。
サイファは醒めた目でそれを一瞥すると、ラウルに向き直った。
「もう読んだよ。だいたい本を読ませるだけなんて、家庭教師としては手抜きじゃない?」
「おまえこそ、読んだなどと嘘を言っているのではないだろうな」
ラウルはムッとして言い返した。どれもつい二ヶ月ほど前に発表されたばかりのものだ。こんな子供がもう読み終わったなど、信じることが出来なかった。
サイファはフッと挑発的な笑みを浮かべた。机の上の本を一冊、手に取って掲げる。
「この本、第四章の結論が間違っているよね。むしろ逆じゃないのかな。第六章は導き方が強引すぎる。この実験だけでは、この結論は出せないよ。結論ありきで実験をして急ぎすぎたんだろうね」
それは、ラウルが考えたこととまったく同じだった。きちんと読まなければその指摘はできない。いや、読んでいたとしても、そこに気がつく人間はそうはいない。
「それはおまえの意見か?」
「そうだよ。前の家庭教師が、これを書いた人でさ。教本として読ませられたんだけど、今みたいに指摘したら辞めちゃったんだよね」
サイファはつまらなそうに言うと、手にしていた本を投げ出すように机に落とした。まるで、読む価値がないと言わんばかりだった。
ラウルは眉をひそめた。
「指摘しただけではないのだろう」
「こんなところで小遣い稼ぎしてないで、研究に本腰入れた方がいいんじゃない? って言っただけだよ」
サイファは事も無げにしれっと言った。
ここまで言われて家庭教師を続けられる人間は皆無だろう。リカルドの言っていたことが、ラウルはようやく理解できた。「ちょっと生意気」どころではない。相当に生意気だ。
「ねえ、こんな本よりさ、魔導を教えてよ。実戦的なやつ」
サイファはパッと顔を輝かせてそう言うと、身を乗り出してラウルの手を取った。
「ラウルってすごく強くて深い魔導力を持っているよね。今まで僕が出会った中で圧倒的に一番だよ。医師って聞いてたから期待してなかったけれど、今はラウルが来てくれて嬉しく思ってるんだ」
その言葉は、彼の魔導使いとしての水準を証明していた。向かい合っただけで相手の魔導力を測ることが可能なのは、上級以上の使い手のみだ。
もちろん、最上級の使い手であるラウルにも、それが可能である。彼はサイファの魔導力をかなりのものと評価した。王宮に勤める人間でも、敵うものはごく少数だろう。父親のリカルドよりも上である。ただし、それ相応に優秀な使い手であるかは、また別の話だ。いくら強い魔導力を持っていても、知識と技術がなければ、単なる宝の持ち腐れにしかならない。
「ねえ、教えてよ。家庭教師なんだから、教えるのが仕事じゃない?」
サイファは人なつこい笑顔で、催促するように大きな手を引いた。
ラウルは腕を取られたまま、険しい顔で睨みつけて言う。
「その前におまえの力を見せてみろ」
サイファはにっこりと笑った。
「わかった。じゃあ、地下へ行こう。稽古場があるんだ」
「ここでだ」
ラウルは低い声でそう言うと、サイファの手を払いのけ、椅子から立ち上がった。そして、短く呪文を唱えると、部屋の内壁に沿うように、青白く光る結界を張った。魔導も物体も遮断する強力なものである。
「私をここから一歩でも動かしてみろ。手段は問わない」
サイファは肘掛けに右手を置き、ラウルの横顔をじっと見つめた。そのままゆっくりと顎を引くと、ニッと口の端を上げる。
「面白いよ、それ」
その静かな声には、挑みかけるような色が含まれていた。
だが、ラウルはピクリとも反応しなかった。無表情な横顔を見せたまま、腕を組み、まっすぐに立っている。一見、無防備そうに見えるが、攻撃を仕掛けにくい隙のない構えだ。そう、すでに「試験」は始まっているのだ。
サイファは口元をきゅっと引き締めた。椅子から軽く跳ねるようにして立ち上がると、足早にラウルの正面に回り込み、少し距離を取って向かい合う。
小さく息を吸った。
ラウルを見据えたまま短い呪文を唱え、ふたりの間に透明な結界を張る。
間髪入れず、胸の前で両手を合わせ、次の呪文を紡ぐ。両手の間に白い光が生じた。かなり輝度の強いものだ。眩しくて正視できないくらいである。光の向こう側にあるラウルの姿を捉えることは不可能だろう。
サイファの額に汗が滲んだ。
「やぁっ!」
幼い掛け声とともに、ラウル目掛けて光球を放出した。それは、ふたりの間の結界を消滅させ、それでも勢いを失うことなく目標に突き進む。
ラウルは開いた左手を突き出し、サイファの攻撃を受け止めた。その瞬間、ジュッと何かが焼けるような音がして、光球は激しい光を放ちながら霧散した。
サイファは身を低く前傾して地面を蹴った。素早く光の海をくぐり抜ける。地面に手をつき、体ごと遠心力をつけ、コンパスのように足先をくるりと回す。計画通りラウルの足首を薙ぎ払った、いや、払おうかという、そのとき――。
「うわっ!」
逆に細い足首を掴み上げられ、一瞬で逆さづりになった。何が起こったのか理解できない表情で、あたふたと周囲の状況を窺う。
「稚拙な手だ」
ラウルは冷淡にそう言うと、腕の力だけで、小さな体を勢いよく放り投げた。
サイファは受け身を取ろうとしたが、不完全なまま、部屋を覆う結界に打ちつけられた。僅かに弾むようにして床に落ちる。
「う……っ……」
顔をしかめ、頭を押さえ、よろめきながら立ち上がった。眉根を寄せて前を見る。
ラウルは感情のない顔で、開いた右手を正面に突き出した。そこに、呪文の詠唱なしに、白い光球を生じさせる。先ほどサイファが放ったものより何倍も攻撃力が強いものだ。あたりが強く照らされ、ラウルの後ろに長い影を作る。
サイファははっとした。防御の呪文を口にのせる。
白い光がサイファに襲いかかる。
まだ詠唱は終わっていない。
もう間に合わない。
サイファは息を呑んだ。視界が白で覆われた。
だが――。
それは目の前で中央から分かれ、彼を避けるように両側を通り過ぎた。凄まじい速度だった。背後の青白い結界に衝突し、部屋の壁ごと突き破る。それでも止まらず、屋敷の外壁にも穴を開けた。粉塵が舞い、瓦礫が山となる。
――ガ、タン。
サイファは呆然としながら、その場に崩れるように両膝をついた。
白い頬には薄く傷が走っていた。
袖にはいくつもの切れ目が入っていた。
金の髪が幾本か舞い上がり、はらりはらりと落ちていく。
それでも、目は、粉塵で煙る向こう側の人影に釘付けになっていた。長髪をたなびかせながら腕を組み、二つの足でしっかりと直立している。いまだ一歩も動いていない。
上方から次第に靄が晴れていく。
凍てついた無感情な瞳が露わになった。ギロリ、と視線が動く。
サイファはびくりと体を竦ませた。そして、芯から痙攣するように震え出した。僅かに口を開いたが、そこから声は出てこなかった。彼のすべては、戦慄と畏怖に支配されていた。
0
あなたにおすすめの小説
田舎暮らしの貧乏令嬢、幽閉王子のお世話係になりました〜七年後の殿下が甘すぎるのですが!〜
侑子
恋愛
「リーシャ。僕がどれだけ君に会いたかったかわかる? 一人前と認められるまで魔塔から出られないのは知っていたけど、まさか七年もかかるなんて思っていなくて、リーシャに会いたくて死ぬかと思ったよ」
十五歳の時、父が作った借金のために、いつ魔力暴走を起こすかわからない危険な第二王子のお世話係をしていたリーシャ。
弟と同じ四つ年下の彼は、とても賢くて優しく、可愛らしい王子様だった。
お世話をする内に仲良くなれたと思っていたのに、彼はある日突然、世界最高の魔法使いたちが集うという魔塔へと旅立ってしまう。
七年後、二十二歳になったリーシャの前に現れたのは、成長し、十八歳になって成人した彼だった!
以前とは全く違う姿に戸惑うリーシャ。
その上、七年も音沙汰がなかったのに、彼は昔のことを忘れていないどころか、とんでもなく甘々な態度で接してくる。
一方、自分の息子ではない第二王子を疎んで幽閉状態に追い込んでいた王妃は、戻ってきた彼のことが気に入らないようで……。
魔法師団長の家政婦辞めたら溺愛されました【完結】
iru
恋愛
第19回 恋愛小説大賞エントリーしています。ぜひ1票お願いします。
小説家になろうですでに完結済みの作品です。よければお気に入りブックマークなどお願いします。
両親と旅をしている途中、魔物に襲われているところを、魔法師団に助けられたティナ。
両親は亡くなってしまったが、両親が命をかけて守ってくれた自分の命を無駄にせず強く生きていこうと決めた。
しかし、肉親も家もないティナが途方に暮れていると、魔物から助けてくれ、怪我の入院まで面倒を見てくれた魔法師団の団長レオニスから彼の家政婦として住み込みで働かないと誘われた。
魔物から助けられた時から、ひどく憧れていたレオニスの誘いを、ティナはありがたく受ける事にした。
自分はただの家政婦だと強く言い聞かせて、日に日に膨らむ恋心を抑え込むティナだった。
一方、レオニスもティナにどんどん惹かれていっていた。
初めはなくなった妹のようで放っては置けないと家政婦として雇ったが、その健気な様子に強く惹かれていった。
恋人になりたいが、年上で雇い主。
もしティナも同じ気持ちでないなら仕事まで奪ってしまうのではないか。
そんな思いで一歩踏み出せないレオニスだった。
そんな中ある噂から、ティナはレオニスの家政婦を辞めて家を出る決意をする。
レオニスは思いを伝えてティナを引き止めることができるのか?
両片思いのすれ違いのお話です。
通りすがりのエルフに求婚された貧乏男爵令嬢です〜初対面なのに激重感情を向けられています〜
東雲暁
恋愛
時はヴィトリア朝時代後期のイングランド。幻想が消え、文明と科学が世界を塗り替えようとしていた時代。
エヴェリーナ・エイヴェリーはコッツウォルズ地方の小さな領地で慎ましく暮らす、17歳の貧乏男爵令嬢。ある日父親が嘘の投資話に騙されて、払えないほどの借金を背負うはめに。
借金返済と引き換えに舞い込んできたのは、実業家との婚約。彼はただ高貴な血筋が欲しいだけ。
「本当は、お父様とお母様みたいに愛し合って結婚したいのに……」
その婚約式に乱入してきたのはエルフを名乗る貴公子、アルサリオン。
「この婚約は無効です。なぜなら彼女は私のものですから。私……?通りすがりのエルフです」
......いや、ロンドンのど真ん中にエルフって通り過ぎるものですか!?っていうか貴方誰!?
エルフの常識はイングランドの非常識!私は普通に穏やかに領地で暮らしたいだけなのに。
貴方のことなんか、絶対に好きにならないわ!
ティーカップの底に沈む、愛と執着と少しの狂気。甘いお菓子と一緒に飲み干して。
これは、貧乏男爵令嬢と通りすがりのエルフの、互いの人生を掛けた365日の物語。
離婚するはずの旦那様を、なぜか看病しています
鍛高譚
恋愛
「結婚とは、貴族の義務。そこに愛など不要――」
そう割り切っていた公爵令嬢アルタイは、王命により辺境伯ベガと契約結婚することに。
お互い深入りしない仮面夫婦として過ごすはずが、ある日ベガが戦地へ赴くことになり、彼はアルタイにこう告げる。
「俺は生きて帰れる自信がない。……だから、お前を自由にしてやりたい」
あっさりと“離婚”を申し出る彼に、アルタイは皮肉めいた笑みを浮かべる。
「では、戦争が終わり、貴方が帰るまで離婚は待ちましょう。
戦地で女でも作ってきてください。そうすれば、心置きなく別れられます」
――しかし、戦争は長引き、何年も経ったのちにようやく帰還したベガは、深い傷を負っていた。
彼を看病しながら、アルタイは自分の心が変化していることに気づく。
「早く元気になってもらわないと、離婚できませんね?」
「……本当に、離婚したいのか?」
最初は“義務”だったはずの結婚。しかし、夫婦として過ごすうちに、仮面は次第に剥がれていく。
やがて、二人の離婚を巡る噂が王宮を騒がせる中、ベガは決意を固める――。
【完結】孤高の皇帝は冷酷なはずなのに、王妃には甘過ぎです。
朝日みらい
恋愛
異国からやってきた第3王女のアリシアは、帝国の冷徹な皇帝カイゼルの元に王妃として迎えられた。しかし、冷酷な皇帝と呼ばれるカイゼルは周囲に心を許さず、心を閉ざしていた。しかし、アリシアのひたむきさと笑顔が、次第にカイゼルの心を溶かしていき――。
天然だと思ったギルド仲間が、実は策士で独占欲強めでした
星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー本編8話+後日談7話⭐︎
ギルドで働くおっとり回復役リィナは、
自分と似た雰囲気の“天然仲間”カイと出会い、ほっとする。
……が、彼は実は 天然を演じる策士だった!?
「転ばないで」
「可愛いって言うのは僕の役目」
「固定回復役だから。僕の」
優しいのに過保護。
仲間のはずなのに距離が近い。
しかも噂はいつの間にか——「軍師(彼)が恋してる説」に。
鈍感で頑張り屋なリィナと、
策を捨てるほど恋に負けていくカイの、
コメディ強めの甘々ギルド恋愛、開幕!
「遅いままでいい――置いていかないから。」
冷徹団長の「ここにいろ」は、騎士団公認の“抱きしめ命令”です
星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー全16話+後日談5話⭐︎
王都最硬派、規律と責任の塊――騎士団長ヴァルド・アークライトは、夜の見回り中に路地で“落とし物”を拾った。
……いや、拾ったのは魔物の卵ではなく、道端で寝ていた少女だった。しかも目覚めた彼女は満面の笑みで「落とし物です!拾ってくださってありがとうございます!」と言い張り、団長の屋敷を“保護施設”だと勘違いして、掃除・料理・当番表作りに騎士の悩み相談まで勝手に開始。
追い出せば泣く、士気は落ちる、そして何より――ヴァルド自身の休息が、彼女の存在に依存し始めていく。
無表情のまま「危ないから、ここにいろ」と命令し続ける団長に、周囲はざわつく。「それ、溺愛ですよ」
騎士団内ではついに“団長語翻訳係”まで誕生し、命令が全部“愛の保護”に変換されていく甘々溺愛コメディ!
まだ20歳の未亡人なので、この後は好きに生きてもいいですか?
せいめ
恋愛
政略結婚で愛することもなかった旦那様が魔物討伐中の事故で亡くなったのが1年前。
喪が明け、子供がいない私はこの家を出て行くことに決めました。
そんな時でした。高額報酬の良い仕事があると声を掛けて頂いたのです。
その仕事内容とは高貴な身分の方の閨指導のようでした。非常に悩みましたが、家を出るのにお金が必要な私は、その仕事を受けることに決めたのです。
閨指導って、そんなに何度も会う必要ないですよね?しかも、指導が必要には見えませんでしたが…。
でも、高額な報酬なので文句は言いませんわ。
家を出る資金を得た私は、今度こそ自由に好きなことをして生きていきたいと考えて旅立つことに決めました。
その後、新しい生活を楽しんでいる私の所に現れたのは……。
まずは亡くなったはずの旦那様との話から。
ご都合主義です。
設定は緩いです。
誤字脱字申し訳ありません。
主人公の名前を途中から間違えていました。
アメリアです。すみません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる