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番外 七 マルチバース 不仲世界編
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嘘だろ、と思ったのを最後に。
ダリオは硬い床の上で、骨の芯まで凍えるような冷たさを感じながら、身を丸めている自分に気づかされた。
頭、いってぇ……と思いながら、ギシギシと固まった体をどうにか起こして周囲を確認する。
ダリオが転がされていたのは、見知らぬ鉄筋の旧校舎の廊下だった。
空はのっぺりとした黒に閉ざされ、薄暗い電灯が廊下の先の方でぼんやりと奥を照らしている。首を回すと、ボロボロに黄ばんだ掲示物が年月の経過を感じさせる体でボードに貼られており、反対側を見ると、逆さに積み上げられた机や椅子が、そこが教室であることを示していた。学校だ。
「あー……」
またもや理不尽引きずり込み食らわされたかと。
ダリオは額をおさえる。
覚えているのは、地下鉄構内で線路側に突き飛ばされたこと。先頭車両のライトがもう見えていたので、普通なら接触して地下鉄事故を起こしている。そのまま死亡すれば、投身自殺扱いで統計の数字のひとつにされたかもしれない。賠償金は、ダリオはもう身内がいないのでどうなったんだろうか。
しかし、ダリオは今、見知らぬ旧校舎の中にいて、窓から見える真っ黒に塗り潰された空を見上げた。
いやーどう考えても現実ではない。
経験上、ダリオは現実の自分は死んでいないだろうと考えた。
生と死など、極端に反対方向のものが、一点に極限集中し、境が凝縮すると、歪みの極致の末に対象物が『転移』や、世界が裏返るように『反転』することがある。どういう理屈なのかは知らないが、あちらとこちらの境界があいまいになるのかもしれない。
なんなのかね、俺何に巻き込まれてんの、と思って調べたことはある。
民俗学系の書籍によれば、奥深い山中や急流など、特に死へ直結するような禁足地と、人の生活圏の境には、守護像のたぐいを設置したり、その付近の巨岩や木に目印のような祭具をつけてまつったりすることがあるらしい。
そこからは、生と死、人間社会とそのルールが通用しない領域が反転するという『警告』だ。昔の人は、感覚的にここからは危険、というのを理解していたのだろう。土砂崩れや濃霧、鉄砲水でやられたり、この先は『死亡事故が多い』経験蓄積などもあったのかもしれない。先人の知恵である。
また、その辺りで、不思議な出来事が言い伝えなどされていることも多い。要するに、生きている者が死んだり、なんなら死んでいる者が生きている姿で目撃されたり。
『ゆるむ』のだ。
箱の中の実験動物のようなもので、ダリオも『生きているのか』『死んでいるのか』曖昧にされ、結果を観測するまで保留にされているようなものなのかもしれない。
どうにか異界から逃れて、帰ってくると、事故の直前だったり、悲惨なのは直後だったりで、肉体にダメージは受けているが、命はとりとめているような状態に『死』が『生』に収束しているのが経験上の幕引きだ。
死の運命から免れるチャンスを与えられるだけありがたいと思うべきなのかもしれないが、およその人はそもそも怪異発端の厄介事にいたらない気がする。
「……たぶん、きっかけは、あのスケッチか」
ひとりごとを呟いて、どうにか現状確認することで落ち着こうと深呼吸した。
『アディラが調べていた複数の事件において、被害児童が描いたもの』として刑事に見せられた、異様なスケッチブックだ。もうあれが挙動のおかしい自動お絵描き再生を始めた時点で、ダリオは異界にパスをつなげられていたのかもしれない。
背中を押されて、死を突き付けられたのは、最後のドミノ倒しだ。
(とすると、ここはもしかして、あのコピー見取り図のエレメンタリースクールか?)
それが正解かどうかはわからない。なにもかもわからなかった。結局、いつだってダリオは無力だ。理不尽に巻き込まれても、あらがう術がない。ただ濁流に流される木の葉のように、なすがままになる。連中の気まぐれやお遊びで、ダリオは腹が立とうがなにしようが、怪異にもてあそばれ、時に異界へ引きずり込まれてしまう。
だからといって、唯々諾々受け入れる気もなかった。
今回もどうにかして帰る。
単なる虚勢も、張り続ければ、アクションを起こすことはできる。
冷静さを失って、惑乱すれば楽だが、藁一本の活路さえ見失うだろう。
俺はな、何度だってこういう目にはあって来たんだ――ダリオは心中に唱える。
そのたびにちゃんと帰って来た。
今回だってそうしてやる。
よろよろと立ち上がり、足の膝が少し震えているが無視した。
握り込んだ拳もやはり震えている。
己を鼓舞し、叱咤するのは、そうする必要があるからだ。実際は、何度だって、何べん経験したって、恐ろしい。
今回も帰れるのか、いつだって保証はない。今度こそ終わりかもしれない。死ぬより酷い状態で永遠にここに閉じ込められるかもしれない。
(知るか)
ぐい、と顔面の汚れを腕でぬぐう。
まずは持ち物を確認して、近場から探索する。
掲示物を見た。ところどころ黒いインクで情報を塗り潰されている。この場にダリオを招いた何かは、情報全てを素直に渡してくれる気はないらしい。
黒ずみは、ひょっとして血痕ではないかと気づいて、ダリオはあからさまに顔面を歪めた。クソオブクソに悪趣味だ。
あるいは、この存在しない旧校舎で、過去に起きた『実績』なのか。
しばらくしてわかったことは、外には出られない。窓は開かない。玄関扉も何らかの力により、閉鎖され、閉じ込められている。身につけていたPandoroid型携帯フォンは、外部に通信できないが、ライトやカメラ機能は使える。通信系アプリは全滅。ただし、試せば校内LANにはつなげそうだ。時刻は、校内の掛け時計と、携帯フォンで連動はしているので、時間経過はある程度わかる。掲示物を見る限り、世界暦であるパンゲア大陸歴は不明。とはいえ、おおまかに黒塗りされた年月日を見るに、恐らくかなり過去と思われる。だが、少なくとも、ラップトップ型コンピューター(電源を入れてもつかなかった)などの設置や通信網の状態から、半世紀前ではない。エレメンタリースクールであったようだが、少子化のため、学校統廃合直前であったこと。人数は、一学級のみ。学級日誌の最後に、『ホームルームでの注意事項。生徒だけで、F埠頭に行かないように。校内で不審人物を見かけた場合は~』と書かれて、それ以降の日付がない。
「校内で不審人物を見かけた場合は――」
ダリオは引っかかって、引き返し、掲示物を確認した。
『不審者に注意』
『不審者警戒中 校内に許可なく立ち入ることを■じます』
恐らく、『禁じます』だ。『禁じます』の部分が黒で塗りつぶされている。悪意を感じた。あるいは、禁じられるものかという邪悪な意思の痕跡を。
走り去る黒塗りされた不審者人物のデフォルメのフェイス部分に、三日月型の切れ込みが入っている。嗤っているのだ。嘲弄している象徴の顔。
ダリオは注意深く掲示物を調べていく。
『お知らせ トイレでふしんな位置にとりつけのある箱、カメラ本体などを発見した場合は、先生に知らせてください』
Damnit! と呪いのスラングが口をついて出そうになる。
(盗撮じゃねーか、クソ。エレメンタリースクールに仕掛けてるやつがいたのか?)
ダリオはしばらく考えた。
被害児童が描いたというダリオにはトイレ個室に見えた水平線一本のスケッチ。
下の隙間から見えた、大人の足と子供の足。
不審人物に注意。
盗撮。
小学校の見取り図。
中心に描かれた並列便所。
存在しない異界の旧校舎。
「……ここ、マジで存在しないのか?」
あるいは。
「……現実の事件のパッチワーク寄せ集め?」
アディラが調べていた『複数の事件』。それらの集積だとしたら?
いや……なんか引っかかるな、とダリオは口元に手を当てる。
アディラが先じゃない。アディラは『ハント』していただけだ。彼女は痕跡を追っていただけ。
そこまで考えて、ダリオは、はっと顔を上げた。
廊下の奥で、ぱっと緑のランプが点灯した。
『EXIT』
白地に、出口へ向かって緑の走る人を模したピクトグラムは非常口マークだ。これは、赤の補色が緑色のため、グリーンカラーが採用されている。赤イコール炎の色だ。色相関図において、赤の反対に緑は配置され、この色関係を『補色』という。緑のピクトグラムは、燃え盛る炎の中でも、はっきりと非常口マークとして視認可能なカラーなのだ。
非常口ドアの前を、黒い何かが、首を傾げるようにして、足を開き、立っている。
酷く小柄だ。
ドアのスコープから、赤いランプが点灯した。滲むように左右の壁に炎の色が反射する。リノリウム廊下を赤い光が、水面に映る夕日のように照らした。EXITランプの下、引き立てあうように小柄な影を逆光で更に暗く沈める。
大きな白目が、じっとダリオを見つめていた。凝視している。目つきが尋常ではない。薬でもやっているのか。小柄に見えたのは、体中の関節バランスがおかしいせいだ。人間の形の比率を無視している。
ダリオは後じさりした。
何かは、非常口を塞ぐようにして立っている。いや、つまり塞いだ上で、ダリオを見ているのだ。
『不審者に注意』
掲示物の文言が頭に浮かんだ。
グリズリーにあった登山家のように、ダリオは静かに後退していく。追いかけてくる様子はない。ただそいつは小首を傾げていた。
角を曲がって退避すると、ダリオは慎重に上の階に上がった。
あれはなんだ、というのも今更だ。
なにもかも「なんなんだ」状態である。
職員室のプレートを頭上に確認して、ダリオは中に入った。
ドアを閉めると、どっと汗が出て来る。
ハンカチを出す気にもなれず、ボトムの部分で汗をぬぐった。
何度目かの深呼吸をして、震える手を反対の手でおさえつける。
ちょうどいい、教員のパソコンを立ち上げ、アディラからの資料を確認することにした。封筒にはUSBメモリが同封されており、今回の脱出の手掛かりになるかもしれない。できればこんなわけのわからん場所で接続したくないが、背に腹はかえられなかった。
電源を入れると、生きている。よし、と旧型ドライブの回転する音を聞いた。かなりの年代ものだ。
ガリガリと不穏なディスク回転を聞きながら、パスワードがデスクトップ上に付箋で大量に貼りつけされているのを見て、苦笑いが漏れた。リテラシー皆無である。
詳細に目を通すのは難しいが、ダリオはUSBメモリ内フォルダの内容をざっと確認してため息が漏れた。
複数事件は点であり、つなげているのは『ダークウェブ』だった。
児童ポルノ、盗撮、下手すると建前上は『偽物』ということになっているスナッフフィルム、もろもろがインターネット上の通称『old school building(旧校舎)』というチャットルームでやり取りされている。
違法交換ソフトを使って、ユーザー同士が簡単にそれらの画像や映像、音声を配布・交換できる仕組みのようだ。
「なんで野放しになってんだよ……」
記録によれば、アディラはかなり初期に警察に資料を添えて通報しているが、無関心な態度で捜査されたかも疑わしい対応だったようだ。
急速に広がるインターネット世界に、法の世界が追いついていない弊害で、個人所有のわいせつ物交換に、警察も根拠法がなく冷淡な態度となったものだろう。
できるだけ要点をかいつまんで、ダリオは目を通していく。
「あっ、ちくしょう、春の連邦議会上院選か……!」
汚い言葉が出る。理解した。
選挙公約だ。
近年懸念される児童ポルノのインターネット流出など、これらの問題への包括的取り組みを、上院選で選挙公約に掲げて出る弁護士出身黒人女性議員候補がいる。
詳しい資料が公開され、世論を動かせれば、かなり有利になるだろう。法律の整備にも大きく天秤が傾くことになる。
アディラは、警察への通報から方向転換し、この議員に資料提出するつもりで、ダークウェブの『old school building(旧校舎)』に潜入捜査を行っていたのだ。あるいは、現実においてもかなり核心まで潜入していたのかもしれない。
「……チャットルームの顧客リスト……あー対立候補……警察委員会のメンバーじゃねーか……」
イーストシティ警察委員会……某国の公安委員会に相当する行政委員会だが、ECPDの警察官ではない。警察委員長は市長が任命し、任期五年。数名の警察委員を任命できる権限を持つため、民間からも現委員が封ぜられている。文民のため、政治家になることの妨げはない。この内、上院選に出馬が予定されている白人男性委員が顧客リストに上がっていた。
「資料提出に手間取ってたのはこのあたりか……というか、選挙前までに世論を動かせなければ、対立候補有利な現状……はあ、なるほどな……」
今回のアディラ殺害事件は、政治的にも分水嶺であったようだ。
しかし、二十二年前のエレメンタリー・スクールにおける女児殺害事件から、とてつもない執念だろう。彼女はいわばハンター(狩人)だった。
「……整理が追いつかん」
ダリオは椅子をギシギシと鳴らす形で仰け反るようにもたれかかった。画面の燐光がダリオの上半身を明るく照らし出す。
思っていたより、デカい話になってしまった。
「ということは、ここは……」
現実の事件のパッチワーク寄せ集めや、アディラが『ハント』していた複数事件というより、ダークウェブそのものだ。
文字通り、『old school building(旧校舎)』だった。
アディラのコメントを追う。
性暴行の上、口に下着を詰め込まれた形でトイレに遺棄された彼女の妹。当時七歳のメイ・ハントの遺体写真も、『old school building(旧校舎)』のチャットルームでやり取りされていたらしい。どういう経路でそんなものが入手されたのかわからないが、少なくとも、一度ネット世界に流出したものは、本人の意思とは関係なく、半永久的に残り続ける。『デジタルタトゥー』と呼称されるゆえんだ。
そして、当時犯人は捕まっている。
不審者の目撃情報を求めるアディラたち家族のビラ配りに、ボランティアで参加していた青年だ。アディラはこの青年と話し、励まされるようなことも言われていたようだ。
アディラは簡素にコメントしていた。
あらゆる児童性被害を。児童ポルノを。わたしは憎みます。その被害防止に、わたしの調査記録が資することを願って。××××年〇月〇日 アディラ・ハント
ダリオはつめていた息を吐いた。簡素な言葉だ。火の玉のように燃える追跡の意思は、たった数行のそれにすべて集約されていた。
浅い縁である。
アディラとは友人というわけでもなく、袖がすりあったレべルの知人だ。彼女のために、リスクを冒す義理はない。
炎は消えた。
アディラは殺された。
重ねて、ダリオには何の義理もない。保身第一に徹したところで、何の咎めもあるまい。
なんでそんなことをする必要がある? と問う声が聞こえた気がした。
「知るかよ」
ダリオは吐き捨て、義理もクソもないが、したいようにすることにした。世界が悪夢でも、大人として果たさねばならぬ道義的責任というものがある。それは冷笑したり、茶化したりしてよいものではない。大人が子どもを守るのは、ダリオにとって息を吸うように当たり前のことだ。
まずは、現実に帰還する。話はそれからだ。
そう思ったはいいが、対角の廊下側の真っ黒な窓を、何かがゆっくりと覗き込むようにするのに気づいて、ダリオはしゃがんだ。
(あーデカい。デカいってレベルじゃない)
顔だ。巨大な男の顔が、窓の向こう側にべたっと貼りついていた。しゃがみ込んだダリオの真上から、ぎょろっとした目玉で、熱心に覗き込んで探している。
『こっちを……こっちをこっちをこっちを見なさい……』
『もしもーし、もしもーし』
『いらっしゃいませんか、こちらに、いらっしゃいませんかー』
ついでに、ドサドサッ、と上から毛の黒い塊と毛根やら皮膚その他が落下していたが、ダリオは見ていないので音だけ耳にした。
『もしもーし、こっちをこっちをこっちを見なさい……』
見ねーよ、どうしたら見ると思うんだ……目ぇ、合わせたくなさ過ぎる……ダリオはそのまま壁に背中を預けて、片膝を立てると楽な姿勢で座る。頭上から降り注いでくる異様な罵声を聞き流した。
どうしたもんかね……と遠い目になる。見つかりそうな気がした。死ぬ気は欠片もないんだが、相手はそうしてくれなさそうだ。
なんとなくもう秒読み段階で見つかるなとは思った。経験上の感覚である。
実のところ、解決手段は最初からダリオの手の中にあった。
使うかどうか決めかねていただけだ。
(あまりに身勝手だろ……)
ダリオは自ら一度も呼んだことはない。これまで勝手に助けられてきただけだ。しかし今回は、相手との『パス』ともいうべきつながりが、ぶつりと乱暴に切断されているのを感じた。いや、細くつながってはいるが、相手の視線が自分を見失っている感じだ。ダリオが黙っていても支援してもらえるということはまずないという感じがした。
(その辺も身勝手なんだよな……)
決定打を自ら打たずに、相手が助けてくれるのを期待値に入れていないつもりで、結局頼ってきたこれまでを思う。
初手で拉致監禁してきた相手だ。でももう、多分危害を加えてくることはないだろう。認識の齟齬からくる加害は、事前に話し合えば回避できるかもしれない。しかし今更なんじゃないか? という思いもあって、避けて来た。利用したいから話し合うのか。それでも相手はいいのか。というか、なんで執着されてるのかよく分からない。ダリオが心を許したら、めちゃくちゃにされるかも。そう一応防御を張ってみるが、おそらくねーな、と実はとっくに結論している。本当は、声をかけられて、雑踏に置き去りにした日から、鳩尾の痛むようにそう思っていた。酷いことをしてきた怪異が心を入れ替えたと思って仲よくしたら結局更に理不尽を食らわされた経験も山ほどあったが、あの青年は違う気はしていた。わからないけれど、大切にされているのはわかっていたのだ。そうしようとしている。でも認識のすれ違いから、うまくいかないでいる。だから困っているのだと。ただこれまでのことから来る警戒と不安と頑迷さが、心を開くのを許さなかっただけだ。
呼べば、相手は『見つける』だろう。
ダリオは呼んだ。
一瞬である。
ハイブランドスーツをまとう人間離れした美貌の青年が現れる。
「……ダリオさん」
顔面蒼白の無表情という器用な真似をして、血の気の失せた唇をしている。抱きしめるというより、安全確保という感じに引き寄せられた。
「……見失ったので、探して……」
ロイヤルブルーの両眼がダリオを覗き込んだ。深海に灯した炎のような紫の色が、動揺に揺れている。言葉を喪失したかのように、美しい青年は言いかねて、それから口をつぐんだ。
「すみません、喫緊のことでしたので」
謝罪され、ダリオは目を見開いた。これまでの経緯を考えると、姿を現し勝手に引き寄せたことや、そうしたままであること、勝手に様子を見ていたことなど、全部を詫びられていることは察せられる。
「あ……いや……」
ダリオの方も語彙喪失が甚だしかった。というのも、目の奥や喉がカッと熱くなって、言葉が出て来なかったためだ。
ひとりでこのような異常空間に孤立することは、心的負担が凄まじい。毎度ダリオは死ぬ気はないが、覚悟はする。いやでも腹を括らされる。恐怖を抑圧して、冷静に、理性的に脱出を試みる。そうしなければ、髪一筋ほどの帰還のチャンスも失ってしまうからだ。
だからといって、ダリオ自身が本当に岩のように精神が頑強であるわけではない。ただそうあろうとしなければ、どうにもならないからそうしているだけだ。
誰も助けてくれない。怪異にまつわることはそのはずだった。助けてと口にして、どこにも誰にも助けてもらえないのは辛いことだ。ずっとそうだった。
だが、ダリオがきちんと呼んだら、青年——テオドールと名づけた彼が来た。
——来てくれた。
こんなところにまで。
安堵よりも、その事実がダリオを強く揺さぶり、打ちのめし、言葉を喋れなくさせた。気が付くと、ダリオの目から水滴が盛り上がり、無言でボロボロと涙を零させていた。
言いたいことは色々あるのに、声が出ない。
手も震え、貧血のように力が抜けて平衡感覚が怪しくなり、テオドールに支えてもらうことになる。
「ここから出ますので、今しばらく」
我慢してください、と言われ、違うと口にしたかったが、次から次にと涙が堤防決壊して、ダリオは否定もできなかった。
もしこの青年が、後から豹変したとしても恨むまいと思った。すでに初手の拉致監禁を打ち消してあまりある助けを得ている。
ひ、ぐ、と喉奥が引きつれ、火箸を当てたように痛んだ。
やるべきことは山ほどあって、それらの負債を考えながら、涙の止まらないダリオは、気づかなかった。
青年——テオドールがこのダリオの様子をどう受け止めたのかを。
テオドールのおかげでダリオは無事脱出したが、この互いの認識齟齬が、時間経過とともに大きなひずみとなって、酷い事態を招くことになるのである。
ダリオは硬い床の上で、骨の芯まで凍えるような冷たさを感じながら、身を丸めている自分に気づかされた。
頭、いってぇ……と思いながら、ギシギシと固まった体をどうにか起こして周囲を確認する。
ダリオが転がされていたのは、見知らぬ鉄筋の旧校舎の廊下だった。
空はのっぺりとした黒に閉ざされ、薄暗い電灯が廊下の先の方でぼんやりと奥を照らしている。首を回すと、ボロボロに黄ばんだ掲示物が年月の経過を感じさせる体でボードに貼られており、反対側を見ると、逆さに積み上げられた机や椅子が、そこが教室であることを示していた。学校だ。
「あー……」
またもや理不尽引きずり込み食らわされたかと。
ダリオは額をおさえる。
覚えているのは、地下鉄構内で線路側に突き飛ばされたこと。先頭車両のライトがもう見えていたので、普通なら接触して地下鉄事故を起こしている。そのまま死亡すれば、投身自殺扱いで統計の数字のひとつにされたかもしれない。賠償金は、ダリオはもう身内がいないのでどうなったんだろうか。
しかし、ダリオは今、見知らぬ旧校舎の中にいて、窓から見える真っ黒に塗り潰された空を見上げた。
いやーどう考えても現実ではない。
経験上、ダリオは現実の自分は死んでいないだろうと考えた。
生と死など、極端に反対方向のものが、一点に極限集中し、境が凝縮すると、歪みの極致の末に対象物が『転移』や、世界が裏返るように『反転』することがある。どういう理屈なのかは知らないが、あちらとこちらの境界があいまいになるのかもしれない。
なんなのかね、俺何に巻き込まれてんの、と思って調べたことはある。
民俗学系の書籍によれば、奥深い山中や急流など、特に死へ直結するような禁足地と、人の生活圏の境には、守護像のたぐいを設置したり、その付近の巨岩や木に目印のような祭具をつけてまつったりすることがあるらしい。
そこからは、生と死、人間社会とそのルールが通用しない領域が反転するという『警告』だ。昔の人は、感覚的にここからは危険、というのを理解していたのだろう。土砂崩れや濃霧、鉄砲水でやられたり、この先は『死亡事故が多い』経験蓄積などもあったのかもしれない。先人の知恵である。
また、その辺りで、不思議な出来事が言い伝えなどされていることも多い。要するに、生きている者が死んだり、なんなら死んでいる者が生きている姿で目撃されたり。
『ゆるむ』のだ。
箱の中の実験動物のようなもので、ダリオも『生きているのか』『死んでいるのか』曖昧にされ、結果を観測するまで保留にされているようなものなのかもしれない。
どうにか異界から逃れて、帰ってくると、事故の直前だったり、悲惨なのは直後だったりで、肉体にダメージは受けているが、命はとりとめているような状態に『死』が『生』に収束しているのが経験上の幕引きだ。
死の運命から免れるチャンスを与えられるだけありがたいと思うべきなのかもしれないが、およその人はそもそも怪異発端の厄介事にいたらない気がする。
「……たぶん、きっかけは、あのスケッチか」
ひとりごとを呟いて、どうにか現状確認することで落ち着こうと深呼吸した。
『アディラが調べていた複数の事件において、被害児童が描いたもの』として刑事に見せられた、異様なスケッチブックだ。もうあれが挙動のおかしい自動お絵描き再生を始めた時点で、ダリオは異界にパスをつなげられていたのかもしれない。
背中を押されて、死を突き付けられたのは、最後のドミノ倒しだ。
(とすると、ここはもしかして、あのコピー見取り図のエレメンタリースクールか?)
それが正解かどうかはわからない。なにもかもわからなかった。結局、いつだってダリオは無力だ。理不尽に巻き込まれても、あらがう術がない。ただ濁流に流される木の葉のように、なすがままになる。連中の気まぐれやお遊びで、ダリオは腹が立とうがなにしようが、怪異にもてあそばれ、時に異界へ引きずり込まれてしまう。
だからといって、唯々諾々受け入れる気もなかった。
今回もどうにかして帰る。
単なる虚勢も、張り続ければ、アクションを起こすことはできる。
冷静さを失って、惑乱すれば楽だが、藁一本の活路さえ見失うだろう。
俺はな、何度だってこういう目にはあって来たんだ――ダリオは心中に唱える。
そのたびにちゃんと帰って来た。
今回だってそうしてやる。
よろよろと立ち上がり、足の膝が少し震えているが無視した。
握り込んだ拳もやはり震えている。
己を鼓舞し、叱咤するのは、そうする必要があるからだ。実際は、何度だって、何べん経験したって、恐ろしい。
今回も帰れるのか、いつだって保証はない。今度こそ終わりかもしれない。死ぬより酷い状態で永遠にここに閉じ込められるかもしれない。
(知るか)
ぐい、と顔面の汚れを腕でぬぐう。
まずは持ち物を確認して、近場から探索する。
掲示物を見た。ところどころ黒いインクで情報を塗り潰されている。この場にダリオを招いた何かは、情報全てを素直に渡してくれる気はないらしい。
黒ずみは、ひょっとして血痕ではないかと気づいて、ダリオはあからさまに顔面を歪めた。クソオブクソに悪趣味だ。
あるいは、この存在しない旧校舎で、過去に起きた『実績』なのか。
しばらくしてわかったことは、外には出られない。窓は開かない。玄関扉も何らかの力により、閉鎖され、閉じ込められている。身につけていたPandoroid型携帯フォンは、外部に通信できないが、ライトやカメラ機能は使える。通信系アプリは全滅。ただし、試せば校内LANにはつなげそうだ。時刻は、校内の掛け時計と、携帯フォンで連動はしているので、時間経過はある程度わかる。掲示物を見る限り、世界暦であるパンゲア大陸歴は不明。とはいえ、おおまかに黒塗りされた年月日を見るに、恐らくかなり過去と思われる。だが、少なくとも、ラップトップ型コンピューター(電源を入れてもつかなかった)などの設置や通信網の状態から、半世紀前ではない。エレメンタリースクールであったようだが、少子化のため、学校統廃合直前であったこと。人数は、一学級のみ。学級日誌の最後に、『ホームルームでの注意事項。生徒だけで、F埠頭に行かないように。校内で不審人物を見かけた場合は~』と書かれて、それ以降の日付がない。
「校内で不審人物を見かけた場合は――」
ダリオは引っかかって、引き返し、掲示物を確認した。
『不審者に注意』
『不審者警戒中 校内に許可なく立ち入ることを■じます』
恐らく、『禁じます』だ。『禁じます』の部分が黒で塗りつぶされている。悪意を感じた。あるいは、禁じられるものかという邪悪な意思の痕跡を。
走り去る黒塗りされた不審者人物のデフォルメのフェイス部分に、三日月型の切れ込みが入っている。嗤っているのだ。嘲弄している象徴の顔。
ダリオは注意深く掲示物を調べていく。
『お知らせ トイレでふしんな位置にとりつけのある箱、カメラ本体などを発見した場合は、先生に知らせてください』
Damnit! と呪いのスラングが口をついて出そうになる。
(盗撮じゃねーか、クソ。エレメンタリースクールに仕掛けてるやつがいたのか?)
ダリオはしばらく考えた。
被害児童が描いたというダリオにはトイレ個室に見えた水平線一本のスケッチ。
下の隙間から見えた、大人の足と子供の足。
不審人物に注意。
盗撮。
小学校の見取り図。
中心に描かれた並列便所。
存在しない異界の旧校舎。
「……ここ、マジで存在しないのか?」
あるいは。
「……現実の事件のパッチワーク寄せ集め?」
アディラが調べていた『複数の事件』。それらの集積だとしたら?
いや……なんか引っかかるな、とダリオは口元に手を当てる。
アディラが先じゃない。アディラは『ハント』していただけだ。彼女は痕跡を追っていただけ。
そこまで考えて、ダリオは、はっと顔を上げた。
廊下の奥で、ぱっと緑のランプが点灯した。
『EXIT』
白地に、出口へ向かって緑の走る人を模したピクトグラムは非常口マークだ。これは、赤の補色が緑色のため、グリーンカラーが採用されている。赤イコール炎の色だ。色相関図において、赤の反対に緑は配置され、この色関係を『補色』という。緑のピクトグラムは、燃え盛る炎の中でも、はっきりと非常口マークとして視認可能なカラーなのだ。
非常口ドアの前を、黒い何かが、首を傾げるようにして、足を開き、立っている。
酷く小柄だ。
ドアのスコープから、赤いランプが点灯した。滲むように左右の壁に炎の色が反射する。リノリウム廊下を赤い光が、水面に映る夕日のように照らした。EXITランプの下、引き立てあうように小柄な影を逆光で更に暗く沈める。
大きな白目が、じっとダリオを見つめていた。凝視している。目つきが尋常ではない。薬でもやっているのか。小柄に見えたのは、体中の関節バランスがおかしいせいだ。人間の形の比率を無視している。
ダリオは後じさりした。
何かは、非常口を塞ぐようにして立っている。いや、つまり塞いだ上で、ダリオを見ているのだ。
『不審者に注意』
掲示物の文言が頭に浮かんだ。
グリズリーにあった登山家のように、ダリオは静かに後退していく。追いかけてくる様子はない。ただそいつは小首を傾げていた。
角を曲がって退避すると、ダリオは慎重に上の階に上がった。
あれはなんだ、というのも今更だ。
なにもかも「なんなんだ」状態である。
職員室のプレートを頭上に確認して、ダリオは中に入った。
ドアを閉めると、どっと汗が出て来る。
ハンカチを出す気にもなれず、ボトムの部分で汗をぬぐった。
何度目かの深呼吸をして、震える手を反対の手でおさえつける。
ちょうどいい、教員のパソコンを立ち上げ、アディラからの資料を確認することにした。封筒にはUSBメモリが同封されており、今回の脱出の手掛かりになるかもしれない。できればこんなわけのわからん場所で接続したくないが、背に腹はかえられなかった。
電源を入れると、生きている。よし、と旧型ドライブの回転する音を聞いた。かなりの年代ものだ。
ガリガリと不穏なディスク回転を聞きながら、パスワードがデスクトップ上に付箋で大量に貼りつけされているのを見て、苦笑いが漏れた。リテラシー皆無である。
詳細に目を通すのは難しいが、ダリオはUSBメモリ内フォルダの内容をざっと確認してため息が漏れた。
複数事件は点であり、つなげているのは『ダークウェブ』だった。
児童ポルノ、盗撮、下手すると建前上は『偽物』ということになっているスナッフフィルム、もろもろがインターネット上の通称『old school building(旧校舎)』というチャットルームでやり取りされている。
違法交換ソフトを使って、ユーザー同士が簡単にそれらの画像や映像、音声を配布・交換できる仕組みのようだ。
「なんで野放しになってんだよ……」
記録によれば、アディラはかなり初期に警察に資料を添えて通報しているが、無関心な態度で捜査されたかも疑わしい対応だったようだ。
急速に広がるインターネット世界に、法の世界が追いついていない弊害で、個人所有のわいせつ物交換に、警察も根拠法がなく冷淡な態度となったものだろう。
できるだけ要点をかいつまんで、ダリオは目を通していく。
「あっ、ちくしょう、春の連邦議会上院選か……!」
汚い言葉が出る。理解した。
選挙公約だ。
近年懸念される児童ポルノのインターネット流出など、これらの問題への包括的取り組みを、上院選で選挙公約に掲げて出る弁護士出身黒人女性議員候補がいる。
詳しい資料が公開され、世論を動かせれば、かなり有利になるだろう。法律の整備にも大きく天秤が傾くことになる。
アディラは、警察への通報から方向転換し、この議員に資料提出するつもりで、ダークウェブの『old school building(旧校舎)』に潜入捜査を行っていたのだ。あるいは、現実においてもかなり核心まで潜入していたのかもしれない。
「……チャットルームの顧客リスト……あー対立候補……警察委員会のメンバーじゃねーか……」
イーストシティ警察委員会……某国の公安委員会に相当する行政委員会だが、ECPDの警察官ではない。警察委員長は市長が任命し、任期五年。数名の警察委員を任命できる権限を持つため、民間からも現委員が封ぜられている。文民のため、政治家になることの妨げはない。この内、上院選に出馬が予定されている白人男性委員が顧客リストに上がっていた。
「資料提出に手間取ってたのはこのあたりか……というか、選挙前までに世論を動かせなければ、対立候補有利な現状……はあ、なるほどな……」
今回のアディラ殺害事件は、政治的にも分水嶺であったようだ。
しかし、二十二年前のエレメンタリー・スクールにおける女児殺害事件から、とてつもない執念だろう。彼女はいわばハンター(狩人)だった。
「……整理が追いつかん」
ダリオは椅子をギシギシと鳴らす形で仰け反るようにもたれかかった。画面の燐光がダリオの上半身を明るく照らし出す。
思っていたより、デカい話になってしまった。
「ということは、ここは……」
現実の事件のパッチワーク寄せ集めや、アディラが『ハント』していた複数事件というより、ダークウェブそのものだ。
文字通り、『old school building(旧校舎)』だった。
アディラのコメントを追う。
性暴行の上、口に下着を詰め込まれた形でトイレに遺棄された彼女の妹。当時七歳のメイ・ハントの遺体写真も、『old school building(旧校舎)』のチャットルームでやり取りされていたらしい。どういう経路でそんなものが入手されたのかわからないが、少なくとも、一度ネット世界に流出したものは、本人の意思とは関係なく、半永久的に残り続ける。『デジタルタトゥー』と呼称されるゆえんだ。
そして、当時犯人は捕まっている。
不審者の目撃情報を求めるアディラたち家族のビラ配りに、ボランティアで参加していた青年だ。アディラはこの青年と話し、励まされるようなことも言われていたようだ。
アディラは簡素にコメントしていた。
あらゆる児童性被害を。児童ポルノを。わたしは憎みます。その被害防止に、わたしの調査記録が資することを願って。××××年〇月〇日 アディラ・ハント
ダリオはつめていた息を吐いた。簡素な言葉だ。火の玉のように燃える追跡の意思は、たった数行のそれにすべて集約されていた。
浅い縁である。
アディラとは友人というわけでもなく、袖がすりあったレべルの知人だ。彼女のために、リスクを冒す義理はない。
炎は消えた。
アディラは殺された。
重ねて、ダリオには何の義理もない。保身第一に徹したところで、何の咎めもあるまい。
なんでそんなことをする必要がある? と問う声が聞こえた気がした。
「知るかよ」
ダリオは吐き捨て、義理もクソもないが、したいようにすることにした。世界が悪夢でも、大人として果たさねばならぬ道義的責任というものがある。それは冷笑したり、茶化したりしてよいものではない。大人が子どもを守るのは、ダリオにとって息を吸うように当たり前のことだ。
まずは、現実に帰還する。話はそれからだ。
そう思ったはいいが、対角の廊下側の真っ黒な窓を、何かがゆっくりと覗き込むようにするのに気づいて、ダリオはしゃがんだ。
(あーデカい。デカいってレベルじゃない)
顔だ。巨大な男の顔が、窓の向こう側にべたっと貼りついていた。しゃがみ込んだダリオの真上から、ぎょろっとした目玉で、熱心に覗き込んで探している。
『こっちを……こっちをこっちをこっちを見なさい……』
『もしもーし、もしもーし』
『いらっしゃいませんか、こちらに、いらっしゃいませんかー』
ついでに、ドサドサッ、と上から毛の黒い塊と毛根やら皮膚その他が落下していたが、ダリオは見ていないので音だけ耳にした。
『もしもーし、こっちをこっちをこっちを見なさい……』
見ねーよ、どうしたら見ると思うんだ……目ぇ、合わせたくなさ過ぎる……ダリオはそのまま壁に背中を預けて、片膝を立てると楽な姿勢で座る。頭上から降り注いでくる異様な罵声を聞き流した。
どうしたもんかね……と遠い目になる。見つかりそうな気がした。死ぬ気は欠片もないんだが、相手はそうしてくれなさそうだ。
なんとなくもう秒読み段階で見つかるなとは思った。経験上の感覚である。
実のところ、解決手段は最初からダリオの手の中にあった。
使うかどうか決めかねていただけだ。
(あまりに身勝手だろ……)
ダリオは自ら一度も呼んだことはない。これまで勝手に助けられてきただけだ。しかし今回は、相手との『パス』ともいうべきつながりが、ぶつりと乱暴に切断されているのを感じた。いや、細くつながってはいるが、相手の視線が自分を見失っている感じだ。ダリオが黙っていても支援してもらえるということはまずないという感じがした。
(その辺も身勝手なんだよな……)
決定打を自ら打たずに、相手が助けてくれるのを期待値に入れていないつもりで、結局頼ってきたこれまでを思う。
初手で拉致監禁してきた相手だ。でももう、多分危害を加えてくることはないだろう。認識の齟齬からくる加害は、事前に話し合えば回避できるかもしれない。しかし今更なんじゃないか? という思いもあって、避けて来た。利用したいから話し合うのか。それでも相手はいいのか。というか、なんで執着されてるのかよく分からない。ダリオが心を許したら、めちゃくちゃにされるかも。そう一応防御を張ってみるが、おそらくねーな、と実はとっくに結論している。本当は、声をかけられて、雑踏に置き去りにした日から、鳩尾の痛むようにそう思っていた。酷いことをしてきた怪異が心を入れ替えたと思って仲よくしたら結局更に理不尽を食らわされた経験も山ほどあったが、あの青年は違う気はしていた。わからないけれど、大切にされているのはわかっていたのだ。そうしようとしている。でも認識のすれ違いから、うまくいかないでいる。だから困っているのだと。ただこれまでのことから来る警戒と不安と頑迷さが、心を開くのを許さなかっただけだ。
呼べば、相手は『見つける』だろう。
ダリオは呼んだ。
一瞬である。
ハイブランドスーツをまとう人間離れした美貌の青年が現れる。
「……ダリオさん」
顔面蒼白の無表情という器用な真似をして、血の気の失せた唇をしている。抱きしめるというより、安全確保という感じに引き寄せられた。
「……見失ったので、探して……」
ロイヤルブルーの両眼がダリオを覗き込んだ。深海に灯した炎のような紫の色が、動揺に揺れている。言葉を喪失したかのように、美しい青年は言いかねて、それから口をつぐんだ。
「すみません、喫緊のことでしたので」
謝罪され、ダリオは目を見開いた。これまでの経緯を考えると、姿を現し勝手に引き寄せたことや、そうしたままであること、勝手に様子を見ていたことなど、全部を詫びられていることは察せられる。
「あ……いや……」
ダリオの方も語彙喪失が甚だしかった。というのも、目の奥や喉がカッと熱くなって、言葉が出て来なかったためだ。
ひとりでこのような異常空間に孤立することは、心的負担が凄まじい。毎度ダリオは死ぬ気はないが、覚悟はする。いやでも腹を括らされる。恐怖を抑圧して、冷静に、理性的に脱出を試みる。そうしなければ、髪一筋ほどの帰還のチャンスも失ってしまうからだ。
だからといって、ダリオ自身が本当に岩のように精神が頑強であるわけではない。ただそうあろうとしなければ、どうにもならないからそうしているだけだ。
誰も助けてくれない。怪異にまつわることはそのはずだった。助けてと口にして、どこにも誰にも助けてもらえないのは辛いことだ。ずっとそうだった。
だが、ダリオがきちんと呼んだら、青年——テオドールと名づけた彼が来た。
——来てくれた。
こんなところにまで。
安堵よりも、その事実がダリオを強く揺さぶり、打ちのめし、言葉を喋れなくさせた。気が付くと、ダリオの目から水滴が盛り上がり、無言でボロボロと涙を零させていた。
言いたいことは色々あるのに、声が出ない。
手も震え、貧血のように力が抜けて平衡感覚が怪しくなり、テオドールに支えてもらうことになる。
「ここから出ますので、今しばらく」
我慢してください、と言われ、違うと口にしたかったが、次から次にと涙が堤防決壊して、ダリオは否定もできなかった。
もしこの青年が、後から豹変したとしても恨むまいと思った。すでに初手の拉致監禁を打ち消してあまりある助けを得ている。
ひ、ぐ、と喉奥が引きつれ、火箸を当てたように痛んだ。
やるべきことは山ほどあって、それらの負債を考えながら、涙の止まらないダリオは、気づかなかった。
青年——テオドールがこのダリオの様子をどう受け止めたのかを。
テオドールのおかげでダリオは無事脱出したが、この互いの認識齟齬が、時間経過とともに大きなひずみとなって、酷い事態を招くことになるのである。
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