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番外 十五 節制とほんとうののぞみ
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魔女のお菓子の家事件で、テオドールが手を握ってきて、ふたりで手をつないで帰った。
あの時、ダリオは、ぎゅっ、ともう一度青年の手を握った。ゆびのすきまを、青年のゆびが絡んで、優しく握り返してくれる。
それは、ダリオの心ごと抱きしめるような労りに満ちたものだった。
胸がいっぱいだと、言葉が出て来なくなる。
ほんとうは、ダリオは何か言いたかったけれど、喉につかえて、結局口にすることができなかった。
いや、実のところ、ダリオはもうずっと、その『言葉』を口に出すまいと意図して封じている。意識の底に沈めて、つとめて表層に浮かばないよう、狡猾に処理さえしていた。ほんとうに望んでいることは、意識したくない。それでも、時々こらえきれないように、煮え立つなべ底から、あぶくが生じるように浮き上がってくる。長い間、つかえたようにその言葉は何度も喉元まで出かかっては、ぐっと飲み込まれてきたのだった。
魔女の家事件とも言えるかもしれない、ダリオの異父妹誘拐事件の後。
ダリオはテオドールと屋敷に帰って、夕食や入浴、明日の準備などを済ませ、あとは居間で参考書を読んでいた。
正直、文字が頭に入って来ない。
俺、なんでこんな落ち込んでんのかな、すっきりしないんだろうな、と自分でも困ってしまうくらい、ダリオは気落ちしていた。
事件は解決したからよかったじゃないか。
そう喜べばいいのに、ずっしり臓腑に重石でもされたような気鬱があった。
もうどうやっても、参考書の文字が読めない。ダリオはとうとう書籍をローテーブルに置いた。ギブアップだ。
見計らったように、テオドールがショコラショーを飲むか聞いて来た。ショコラショーはチョコレートを溶かした飲み物で、ダリオの好物だ。スパイスは入れるかまで尋ねられ、お願いすると、ほどなく熱々のスパイシーショコラショーが出てくる。
「悪いな。ありがとう」
「飲めなければそのままで。片づけます」
「ちょうど甘いもの欲しかったんだ。全部いただくよ」
あー、人外のテオに気を遣わせてんな~とダリオは内心頭を抱える。
確かに自分は落ち込んでいるが、それってテオに相談するようなことか? とダリオはいまいち疑問だった。恋人はカウンセラーではない。
しかし、逆の立場だったら、話をしてほしいと思う。テオドールもそうなのではないか。青年からの視線を感じて、隣に座ってほしいとお願いした。
テオドールが腰を下ろすと、「くっついていい?」「もちろん」というやりとりで、青年の肩口に寄りかかり、マグカップを持ったまま力を抜く。
「ダリオさんは――落ち込んでいますか?」
テオドールの方から切り出され、あ~~~~、とダリオはよりいっそう頭を抱えたくなった。
「そうだな。自分でもよくわかんないんだけど、これ、異父妹に嫉妬してんのかなあ」
口にしてみるが、そのような気もするけど、どうもしっくりこない気もする。別に異父妹と顔を合わせても、優しくできる気はしないが、両親たちが自分にしたような理不尽はしないだろうと思う。いや、優しくできない時点で、やっぱり嫉妬だな、と思った。
「認めたくないけど、羨ましいのかな。かといって、立場今更とっかえたいとも思わないし、変えてくれるといってもお断りするけど……」
口にしたことで、少し霧の晴れるような気持ちになった。
「認めたくねーってことは、認めると善人でいられなくなるからだな、たぶん」
「善人とは、善良な人、行いの正しい人、お人よし、転じて騙されやすい人のことですか」
「ええ……まあそうだな……」
またテオドールはどこからかデータを引っ張って来たらしい。
「ダリオさんは、総じて善良な人にあたると思いますが。おひとよしも十分値するでしょう。僕から見て、他者に親切にしすぎだと思います」
「あーうん?」
なんだか変な話になってきた。
「ダリオさんの血縁の方にも、親切にされたかったということですか?」
「平たく言うとそう……」
「なぜ?」
「なぜって……フィジカル面は俺の方がもう強いし……経済面は弱いけど……」
「ダリオさんの方が、フィジカルは強いから、親切にされたかった……それは、優しくしたかったということですか?」
「……」
「僕は人間の心理も、家族についてもよくわかりません。しかしながら、僕がダリオさんに対して、優しくしたいと思うように、ダリオさんが願っていたのでしたら。僕は少し想像することができます」
ダリオはマグカップに映る自分の顔を見つめたまま、瞠目した。
「僕がもしダリオさんに優しくしたいのに、ダリオさんが嫌がっていたら。ダリオさんにいらないと言われたら。距離を置きますが、『悲しい』です。これは、恐らく、僕の身勝手な『悲しい』だと思います」
もともとテオドールは『悲しい』という気持ちは当初理解していなかったように思う。これは彼が努力して、理解を獲得したものだ。
「その『悲しい』は僕の気持ちなので……ダリオさんにぶつけることはできません。そんなことをしたら、僕は余計に嫌われると思います。僕の気持ちで、ダリオさんに嫌な思いをさせたくありません。だから、僕が自分で持っておくべきものです。しかし、仮に僕がそれを抱えているとして……独りでずっと抱えていれば、とても重くて、苦しいと思います」
テオドールはダリオより地頭は遥かによいが、人間と同じような心理、感情について話すさまは、たどたどしく、どこか子どものような口調である。
「違うのかもしれませんが、ダリオさんの気持ちも、悲しい、ですか?」
ダリオは沈黙した。わからない。でも、自分の中を探してみても、他にしっくりくる言葉がなかった。そうだ、テオドールの言う通り、優しくしたかった。優しくしても、自分より下だと思われて、酷い言葉を投げつけられたくなかった。理想の家族を期待して、その期待が報われなくて、悲しい。だから誰にもぶつけることなんてできない。自分で持っておくしかないのだ。その重さに、にっちもさっちもいかなくなっているだけなのだろう。
「ダリオさん。誰にもぶつけない『悲しい』は悪い気持ちでしょうか。『悲しい』時点でもう悲しいので、どうしようもないです。僕が仮に『悲しい』としたら、それは悪い気持ちですか?」
「いや……悪くねーよ。全然悪くない」
「でしたら、ダリオさんも同じです」
「……うん」
人外ゆえに感情の機微に疎いであろうテオドールが、「落ち込んでいるから」と介入してきた。しかし心に無理に押し入ろうとはせず、結局見かねて、不器用に一生懸命説明しようとしている。
「テオ、ありがとうな」
テオドールはちょっと複雑そうだ。うまく言えた気がしないといった顔である。人によっては、励まされても嫌な気持ちになるのかもしれないが、ダリオの場合そうではない。誰かが、自分のために一生懸命考えてくれる。苦手分野なのに、がんばってくれた気持ちが単純に嬉しかった。
「——もし、また何か先方から言われるようであれば、今度は僕も同席させてください」
「ん?」
「僕の顔を見れば――恐らく関係者は全員操れると思います」
ダリオは「は?」と停止した。
一方、テオドールはダリオの片方の手を握って、ずい、と顔を覗き込んでくる。
「お望みなら、遠隔操作で心臓を停止させることができます」
「お望みじゃねーし、それはいい」
「おすすめは、遠隔操作で爆破もできます」
「おすすめじゃねーよ……ふふっ」
思わず息が漏れ、マグカップをどうにかテーブルに置くと、背を折り曲げるようにしてダリオは笑ってしまった。ひとしきり笑った後、目じりの涙をぬぐいながら、改めて礼を言う。
「すまん、笑い過ぎた。でも元気出たよ。本当にありがとうな」
「僕はいつでも用意ができていますので」
「もうこれ以上俺を笑わすな」
めちゃくちゃ過ぎて、逆に元気が出た。でも、心臓停止も爆破もやめて欲しい。
「ダリオさん、もうひとつ聞いてもいいですか」
「ん、なに」
「帰り際に何か言いかけていらっしゃったので……僕に?」
「あー……うん……」
今なら言えそうかな、とダリオは自分の心に聞いてみた。気持ちはずっと軽くなっていたが、やっぱりテオドールにそれを言っていいのかわからなかった。
テオドールが更にダリオの手を握ってきて、ふたりの十指が絡み合う。
「ダリオさんは時に度を過ぎて節制されますが……僕に対する言葉なら、僕は聞きたいです。僕はダリオさんのお世話をしたいですし、それはダリオさんがお考えになるより、際限のないレベルでしたいのです。僕の負荷を考えて躊躇されるなら、お世話させていただいた方が僕はいいです。それがダリオさんの負担になるなら、僕も自身の欲望を優先したいとは思いませんが……」
「お前俺に都合良すぎるだろ……」
そりゃ躊躇うよ、とダリオは呻いた。
「一方的に搾取したくねーよ。だって、俺、お前のこと好きだし……好きでなくてもできねーだろ……」
「やはりダリオさんは節制し過ぎでは? 僕は一方的に奪われたことは一度もないです。僕が与えているなら、ダリオさんも僕に与えてくれています。僕がどんな姿でも、ダリオさんは僕を好きだと仰って下さいました。僕が大きくても、醜く小さくても、僕を案じてくれましたし、抱きしめてくれました。それは一方的ですか?」
「違うけど……」
言えない。だって、ものすごい負担だ。テオドールは、支配者流にダリオと結婚してくれたんだから、もう十分だろう。両親は愛し合ってたけれども、離婚した。それは健全なことだと思う。ダリオのことだって、愛していると言ったのに、異常者呼ばわりして捨てた。これは仕方のないことだったとも思う。里親たちもダリオをもてあまして、施設に帰した。これも仕方ない。テオドールは……犬のテオドールは……ダリオをかばって父親に噛みつき、蹴り飛ばされた後……翌日、父親が保健所に連絡して……車に乗せられた。そして、キルシェルターに回収されたのだ……ごめんなさい、もう二度と逆らわないから、連れていかないでと言ったのに。ダリオは追いかけたのに、遠ざかる車に追いつかなくて、転んで、もう一回立ち上がったけれど、走っても追いつかなくて。連れて行かれてしまった。呆然とするダリオを置き去りにして。
ずっと一緒にいられない。
ずっと一緒にいられるわけがない。
そんなことを相手に望むのは。
あまりにも、過大で、身勝手な欲望だ。
それを他者に押し付けるなんてできない。
さいごはひとりなんだから。
ひとりで生きていかれるようにしないといけない。
「すみません、性急すぎましたね……ダリオさんが言いたいと、言ってもいいと思った時に、僕に教えて」
テオドールがダリオの頬に触れると、ゆっくり抱き寄せてくる。ダリオも抵抗する気が起こらず、身を任せた。
わからない。
テオドールともしそれぞれ違う道に分かれて生きていくことになっても、ダリオは我慢しようと思っている。壺中の天事件のように、全てダリオの妄想だったなどということでなければ、我慢できる。思い出だけで、ひとりでその後生きていける。テオドールがどこかでちゃんと幸せなら、ほんとうに我慢できる。嘘じゃない。
うそじゃないんだ。
愛している。この青年を、本当に愛しているから、テオドールが幸せなら、ダリオは我慢できる。
それが節制だ。
でも、もしかなうなら。
ずっといっしょにいたい。ずっとずっといっしょにいたい。
いぬのテオドールとも、ずっといっしょにいたかったのに。車で、キルシェルターに連れて行かれてしまったから。殺されてしまった。ダリオが望んだせいで。ダリオが、助けてって言ったから。いっしょにいてほしいって言ったから。まもってほしかったから。
どうして、青年のテオドールにテオドールと名づけてしまったのだろう。
ダリオはひとりで生きていけるはずだったのに、テオドールが、犬のテオドールみたいに、ダリオを守ってくれたから。甘やかして、お世話してくれて、優しくしてくれて、側に来てくれて、どこでもついて来るから。
テオドール、と呼んでしまった。
「……い、いっしょに……」
喉に熱い火箸でも差し込んだように塊がつっかえているようだった。
「ずっと……いっしょに……い、」
い、で言葉が止まってしまう。喉の奥に、ごうごうと高熱の炎が燃えているように熱い。
「いっしょに……ずっといっしょにいて……」
涙が出て来た。ダリオはどうにか絞り出して、テオドールの背中に腕を回した。馬鹿みたいだった。幼児でもこんなこと、簡単に言える。
言わないとしても、それはわきまえているからだ。
結局、ダリオが思うように、人は最後ひとりで死ぬ。だとしても、自分は社会の中で生きていると思う。ダリオは他者に助けられて生きて来た。両親とはうまくいかなかったが、より多くの人に出会い、今のダリオができている。
他者を尊重するなら、離れたいと言われれば、それを受け入れるしかない。でも、要望することはしてもいいのか。テオドールは教えてと言う。口にして、その関係を維持するために努力を払う。もしかしたら破綻するかもしれない。だけど、お互いに努力すれば、叶うかもしれない。
テオドールが何か言ったけれど、ダリオはもう頭がぐちゃぐちゃで、うまく聞き取れなかった。しかし、安心して、そのまま寝てしまったから、たぶん問題ないとか、大丈夫な言葉だったのだろう。
ダリオの肩越しに、テオドールが口も裂けよと笑っていたのも、ダリオが死んでもちゃんと魂を連れて行くと言ったのも。ずっとずっとお世話しますと嬉しそうに告げたのも。
ダリオを抱きしめた青年がどういう顔をしていたか、何を言ったのか、覚えてないのはどちらかと言えば幸いなのだった。
あの時、ダリオは、ぎゅっ、ともう一度青年の手を握った。ゆびのすきまを、青年のゆびが絡んで、優しく握り返してくれる。
それは、ダリオの心ごと抱きしめるような労りに満ちたものだった。
胸がいっぱいだと、言葉が出て来なくなる。
ほんとうは、ダリオは何か言いたかったけれど、喉につかえて、結局口にすることができなかった。
いや、実のところ、ダリオはもうずっと、その『言葉』を口に出すまいと意図して封じている。意識の底に沈めて、つとめて表層に浮かばないよう、狡猾に処理さえしていた。ほんとうに望んでいることは、意識したくない。それでも、時々こらえきれないように、煮え立つなべ底から、あぶくが生じるように浮き上がってくる。長い間、つかえたようにその言葉は何度も喉元まで出かかっては、ぐっと飲み込まれてきたのだった。
魔女の家事件とも言えるかもしれない、ダリオの異父妹誘拐事件の後。
ダリオはテオドールと屋敷に帰って、夕食や入浴、明日の準備などを済ませ、あとは居間で参考書を読んでいた。
正直、文字が頭に入って来ない。
俺、なんでこんな落ち込んでんのかな、すっきりしないんだろうな、と自分でも困ってしまうくらい、ダリオは気落ちしていた。
事件は解決したからよかったじゃないか。
そう喜べばいいのに、ずっしり臓腑に重石でもされたような気鬱があった。
もうどうやっても、参考書の文字が読めない。ダリオはとうとう書籍をローテーブルに置いた。ギブアップだ。
見計らったように、テオドールがショコラショーを飲むか聞いて来た。ショコラショーはチョコレートを溶かした飲み物で、ダリオの好物だ。スパイスは入れるかまで尋ねられ、お願いすると、ほどなく熱々のスパイシーショコラショーが出てくる。
「悪いな。ありがとう」
「飲めなければそのままで。片づけます」
「ちょうど甘いもの欲しかったんだ。全部いただくよ」
あー、人外のテオに気を遣わせてんな~とダリオは内心頭を抱える。
確かに自分は落ち込んでいるが、それってテオに相談するようなことか? とダリオはいまいち疑問だった。恋人はカウンセラーではない。
しかし、逆の立場だったら、話をしてほしいと思う。テオドールもそうなのではないか。青年からの視線を感じて、隣に座ってほしいとお願いした。
テオドールが腰を下ろすと、「くっついていい?」「もちろん」というやりとりで、青年の肩口に寄りかかり、マグカップを持ったまま力を抜く。
「ダリオさんは――落ち込んでいますか?」
テオドールの方から切り出され、あ~~~~、とダリオはよりいっそう頭を抱えたくなった。
「そうだな。自分でもよくわかんないんだけど、これ、異父妹に嫉妬してんのかなあ」
口にしてみるが、そのような気もするけど、どうもしっくりこない気もする。別に異父妹と顔を合わせても、優しくできる気はしないが、両親たちが自分にしたような理不尽はしないだろうと思う。いや、優しくできない時点で、やっぱり嫉妬だな、と思った。
「認めたくないけど、羨ましいのかな。かといって、立場今更とっかえたいとも思わないし、変えてくれるといってもお断りするけど……」
口にしたことで、少し霧の晴れるような気持ちになった。
「認めたくねーってことは、認めると善人でいられなくなるからだな、たぶん」
「善人とは、善良な人、行いの正しい人、お人よし、転じて騙されやすい人のことですか」
「ええ……まあそうだな……」
またテオドールはどこからかデータを引っ張って来たらしい。
「ダリオさんは、総じて善良な人にあたると思いますが。おひとよしも十分値するでしょう。僕から見て、他者に親切にしすぎだと思います」
「あーうん?」
なんだか変な話になってきた。
「ダリオさんの血縁の方にも、親切にされたかったということですか?」
「平たく言うとそう……」
「なぜ?」
「なぜって……フィジカル面は俺の方がもう強いし……経済面は弱いけど……」
「ダリオさんの方が、フィジカルは強いから、親切にされたかった……それは、優しくしたかったということですか?」
「……」
「僕は人間の心理も、家族についてもよくわかりません。しかしながら、僕がダリオさんに対して、優しくしたいと思うように、ダリオさんが願っていたのでしたら。僕は少し想像することができます」
ダリオはマグカップに映る自分の顔を見つめたまま、瞠目した。
「僕がもしダリオさんに優しくしたいのに、ダリオさんが嫌がっていたら。ダリオさんにいらないと言われたら。距離を置きますが、『悲しい』です。これは、恐らく、僕の身勝手な『悲しい』だと思います」
もともとテオドールは『悲しい』という気持ちは当初理解していなかったように思う。これは彼が努力して、理解を獲得したものだ。
「その『悲しい』は僕の気持ちなので……ダリオさんにぶつけることはできません。そんなことをしたら、僕は余計に嫌われると思います。僕の気持ちで、ダリオさんに嫌な思いをさせたくありません。だから、僕が自分で持っておくべきものです。しかし、仮に僕がそれを抱えているとして……独りでずっと抱えていれば、とても重くて、苦しいと思います」
テオドールはダリオより地頭は遥かによいが、人間と同じような心理、感情について話すさまは、たどたどしく、どこか子どものような口調である。
「違うのかもしれませんが、ダリオさんの気持ちも、悲しい、ですか?」
ダリオは沈黙した。わからない。でも、自分の中を探してみても、他にしっくりくる言葉がなかった。そうだ、テオドールの言う通り、優しくしたかった。優しくしても、自分より下だと思われて、酷い言葉を投げつけられたくなかった。理想の家族を期待して、その期待が報われなくて、悲しい。だから誰にもぶつけることなんてできない。自分で持っておくしかないのだ。その重さに、にっちもさっちもいかなくなっているだけなのだろう。
「ダリオさん。誰にもぶつけない『悲しい』は悪い気持ちでしょうか。『悲しい』時点でもう悲しいので、どうしようもないです。僕が仮に『悲しい』としたら、それは悪い気持ちですか?」
「いや……悪くねーよ。全然悪くない」
「でしたら、ダリオさんも同じです」
「……うん」
人外ゆえに感情の機微に疎いであろうテオドールが、「落ち込んでいるから」と介入してきた。しかし心に無理に押し入ろうとはせず、結局見かねて、不器用に一生懸命説明しようとしている。
「テオ、ありがとうな」
テオドールはちょっと複雑そうだ。うまく言えた気がしないといった顔である。人によっては、励まされても嫌な気持ちになるのかもしれないが、ダリオの場合そうではない。誰かが、自分のために一生懸命考えてくれる。苦手分野なのに、がんばってくれた気持ちが単純に嬉しかった。
「——もし、また何か先方から言われるようであれば、今度は僕も同席させてください」
「ん?」
「僕の顔を見れば――恐らく関係者は全員操れると思います」
ダリオは「は?」と停止した。
一方、テオドールはダリオの片方の手を握って、ずい、と顔を覗き込んでくる。
「お望みなら、遠隔操作で心臓を停止させることができます」
「お望みじゃねーし、それはいい」
「おすすめは、遠隔操作で爆破もできます」
「おすすめじゃねーよ……ふふっ」
思わず息が漏れ、マグカップをどうにかテーブルに置くと、背を折り曲げるようにしてダリオは笑ってしまった。ひとしきり笑った後、目じりの涙をぬぐいながら、改めて礼を言う。
「すまん、笑い過ぎた。でも元気出たよ。本当にありがとうな」
「僕はいつでも用意ができていますので」
「もうこれ以上俺を笑わすな」
めちゃくちゃ過ぎて、逆に元気が出た。でも、心臓停止も爆破もやめて欲しい。
「ダリオさん、もうひとつ聞いてもいいですか」
「ん、なに」
「帰り際に何か言いかけていらっしゃったので……僕に?」
「あー……うん……」
今なら言えそうかな、とダリオは自分の心に聞いてみた。気持ちはずっと軽くなっていたが、やっぱりテオドールにそれを言っていいのかわからなかった。
テオドールが更にダリオの手を握ってきて、ふたりの十指が絡み合う。
「ダリオさんは時に度を過ぎて節制されますが……僕に対する言葉なら、僕は聞きたいです。僕はダリオさんのお世話をしたいですし、それはダリオさんがお考えになるより、際限のないレベルでしたいのです。僕の負荷を考えて躊躇されるなら、お世話させていただいた方が僕はいいです。それがダリオさんの負担になるなら、僕も自身の欲望を優先したいとは思いませんが……」
「お前俺に都合良すぎるだろ……」
そりゃ躊躇うよ、とダリオは呻いた。
「一方的に搾取したくねーよ。だって、俺、お前のこと好きだし……好きでなくてもできねーだろ……」
「やはりダリオさんは節制し過ぎでは? 僕は一方的に奪われたことは一度もないです。僕が与えているなら、ダリオさんも僕に与えてくれています。僕がどんな姿でも、ダリオさんは僕を好きだと仰って下さいました。僕が大きくても、醜く小さくても、僕を案じてくれましたし、抱きしめてくれました。それは一方的ですか?」
「違うけど……」
言えない。だって、ものすごい負担だ。テオドールは、支配者流にダリオと結婚してくれたんだから、もう十分だろう。両親は愛し合ってたけれども、離婚した。それは健全なことだと思う。ダリオのことだって、愛していると言ったのに、異常者呼ばわりして捨てた。これは仕方のないことだったとも思う。里親たちもダリオをもてあまして、施設に帰した。これも仕方ない。テオドールは……犬のテオドールは……ダリオをかばって父親に噛みつき、蹴り飛ばされた後……翌日、父親が保健所に連絡して……車に乗せられた。そして、キルシェルターに回収されたのだ……ごめんなさい、もう二度と逆らわないから、連れていかないでと言ったのに。ダリオは追いかけたのに、遠ざかる車に追いつかなくて、転んで、もう一回立ち上がったけれど、走っても追いつかなくて。連れて行かれてしまった。呆然とするダリオを置き去りにして。
ずっと一緒にいられない。
ずっと一緒にいられるわけがない。
そんなことを相手に望むのは。
あまりにも、過大で、身勝手な欲望だ。
それを他者に押し付けるなんてできない。
さいごはひとりなんだから。
ひとりで生きていかれるようにしないといけない。
「すみません、性急すぎましたね……ダリオさんが言いたいと、言ってもいいと思った時に、僕に教えて」
テオドールがダリオの頬に触れると、ゆっくり抱き寄せてくる。ダリオも抵抗する気が起こらず、身を任せた。
わからない。
テオドールともしそれぞれ違う道に分かれて生きていくことになっても、ダリオは我慢しようと思っている。壺中の天事件のように、全てダリオの妄想だったなどということでなければ、我慢できる。思い出だけで、ひとりでその後生きていける。テオドールがどこかでちゃんと幸せなら、ほんとうに我慢できる。嘘じゃない。
うそじゃないんだ。
愛している。この青年を、本当に愛しているから、テオドールが幸せなら、ダリオは我慢できる。
それが節制だ。
でも、もしかなうなら。
ずっといっしょにいたい。ずっとずっといっしょにいたい。
いぬのテオドールとも、ずっといっしょにいたかったのに。車で、キルシェルターに連れて行かれてしまったから。殺されてしまった。ダリオが望んだせいで。ダリオが、助けてって言ったから。いっしょにいてほしいって言ったから。まもってほしかったから。
どうして、青年のテオドールにテオドールと名づけてしまったのだろう。
ダリオはひとりで生きていけるはずだったのに、テオドールが、犬のテオドールみたいに、ダリオを守ってくれたから。甘やかして、お世話してくれて、優しくしてくれて、側に来てくれて、どこでもついて来るから。
テオドール、と呼んでしまった。
「……い、いっしょに……」
喉に熱い火箸でも差し込んだように塊がつっかえているようだった。
「ずっと……いっしょに……い、」
い、で言葉が止まってしまう。喉の奥に、ごうごうと高熱の炎が燃えているように熱い。
「いっしょに……ずっといっしょにいて……」
涙が出て来た。ダリオはどうにか絞り出して、テオドールの背中に腕を回した。馬鹿みたいだった。幼児でもこんなこと、簡単に言える。
言わないとしても、それはわきまえているからだ。
結局、ダリオが思うように、人は最後ひとりで死ぬ。だとしても、自分は社会の中で生きていると思う。ダリオは他者に助けられて生きて来た。両親とはうまくいかなかったが、より多くの人に出会い、今のダリオができている。
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テオドールが何か言ったけれど、ダリオはもう頭がぐちゃぐちゃで、うまく聞き取れなかった。しかし、安心して、そのまま寝てしまったから、たぶん問題ないとか、大丈夫な言葉だったのだろう。
ダリオの肩越しに、テオドールが口も裂けよと笑っていたのも、ダリオが死んでもちゃんと魂を連れて行くと言ったのも。ずっとずっとお世話しますと嬉しそうに告げたのも。
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