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12.一方通行

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 全身濡れ鼠のまま浜辺に降りたせいで砂まみれになってしまった俺たちは、それぞれの家に帰ることにした。
 じき日が暮れる。
 父はともかく、それなりに実子を大事に思っているはずの義母に心配をかけさせるのは本意ではない。

「兄ちゃん、もう会えない?」
「そうだな……明日から仕事にかかりきりで、終わったらすぐ帰らなきゃいけないから」
「うん……」

 きゅっと服の裾をつまむ弟と、それに寄り添って悲しそうに見上げてくる妹に心が痛む。
 兄と父親が揉めている姿など見せたくはなかった。
 しかし俺の仕送りを傾いた事業に使い込み、見栄のために浪費し、愛情を注ぐべき未成年の我が子から学習機会すら搾取しているなんて思ってもみなかった。
 俺を愛せない分、弟妹たちを愛してやっているのなら良いと諦めたのに。
 怒鳴りつけたが効果は薄いだろう。あれは「死ぬまで治らない」という性質だ。

「二人とも。俺が渡した儀式陣のことは覚えてるな?」
「兄さんの誕生日に発動させればいいんでしょ?」
「そうだ。絶対に忘れるなよ。父さんや義母さんに見つかったら取り上げられてしまうかもしれないから、こっそり持っておくんだ」
「うん。……父さんと仲直り、しないの?」

 悲しげな妹に笑顔を向けられず、ぐっと喉が詰まる。
 父と俺の関係はもう元には戻らない。表面を取り繕うことができたとしても、心から愛し合える家族にはなれない。

「そう……だね。でも、いつかは」

 だからそんな一時しのぎの嘘を吐くしかなかった。
 真っ直ぐ見つめてくる弟妹たちから目をそらして立ち上がる。
 本心では、お前たちが健やかでいてくれれば、両親なんて死んでも良いと思っている兄だと知ったら────彼らは軽蔑するだろうか?

「クッカ、ルーホ。素敵なプレゼントをありがとう。一生の思い出になった。気をつけて帰れよ……『天翔ける自由の申し子、我が呼び声に応え、力を示せ』」

 砂だらけの二人の肩に触れながら、風の精霊を召喚する。
 俺たちの周囲につむじ風に似た風の精霊魔術が広がり、肌や衣服にくっついた砂を吹き飛ばしていく。

「トゥーリだ!」

 ルーホが喜びの声を上げる。
 顔まで砂だらけだったのが、トゥーリのおかげでだいぶマシになった。
 あれだけ遊び回ったから、きっと服の内側や髪の中まで砂埃が入っているだろうが、少しは不快感を取り去れただろう。
 ほんの僅か、精霊が魔力を持っていった感覚にふうと嘆息すると、クッカが目を輝かせて俺を見上げた。

「兄さんの精霊魔術、いつ見てもスマートで素敵!」
「はは、ありがとな。クッカにもすぐできるようになるよ」
「私はまだまだだわ……でもいっぱい勉強して、いつかクロさんみたいなすごい精霊と契約できるようになりたい!」

 クッカの視線がちらとクロを見て、その目元がほんのり朱に染まったのを俺は見逃さなかった。
 まさかクッカ、クロのことを……?

「いや、クロはやめといたほうがいいな。もっとちゃんとした偉大な精霊はいっぱいいるから」

 俺はさりげなくクロとクッカの間に横移動して視線を遮った。
 クロは高位精霊にしては驕ったところのない性質だが、キスで魔力供給しなきゃいけなかったり、そもそも闇属性だったり、とても善良で素直で可愛い妹にオススメできる精霊じゃない。
 くそ、最初から最後まで姿消しといてくれるよう命令しておくべきだったか。
 まさか俺の魔力だけじゃなくクッカの淡い恋慕まで奪われることになろうとは。
 背後から俺の奇行を訝しむ視線がびしびし突き刺さるのを感じる。

「おい、どういう意味だ」
「クロは黙ってて。というか姿消してて」
「それは命令か?」
「そうだよ!」

 命令と言われれば逆らいにくいのか、クロは黙って姿を消してくれた。
 あぁでもこれでまた魔力を吸われてしまう……しかし、闇精霊の魔手から妹を守れるのなら本望か……。

「契約するなら、さっき俺が喚んだ風精霊なんかどうだ? そうだ、それがいい」
「え……う、うん……?」

 困惑する妹とポカンとしている弟の背中を押して家路を辿らせ、宿の前で別れた。
 二人の小さな背中が見えなくなった頃、クロが再び顕現する。
 形の良い唇がむっつりと尖り、あからさまに変な顔をしている。
 それなのに美形だという印象は変わらないんだから、この世は残酷だ。

「さっきの態度はなんだ、命令などして」
「悪かったよ」
「私と契約したのが間違いだったなどと思っていないだろうな。私ほど有能で万能な精霊はそういないぞ。召喚を誇られこそすれ、貶されるなど信じられん。それも契約主に」
「ごめんってば」

 どうやら高貴な精霊の機嫌を損ねてしまったらしい。
 精霊にぺこぺこ謝りながら部屋へ戻る俺を、宿の主人が不思議そうに見送っていた。
 クロは部屋に入ってもまだ不満そうで、椅子にどっかり座って窓の外を睨みつけている。

「クロ、ごめん。でもさっきのは貶めるとかじゃなくて」
「ではなんだったというのだ」
「えぇと、その……クッカに、妹にクロを、その……取られたくなかった、みたいな?」

 正確にはクロに妹の純情な初恋(推定)を奪われたくなかったというのが正しいが、今は少しでもこの口端をひん曲げた精霊に機嫌を直してもらいたい。
 しどろもどろに言い訳した俺を、黄金色の双眸がじっと見つめてきた。

「取られたくない? ならばさっきの無礼な態度は、おまえの嫉妬からくる行動だったというのか」
「し……ま、まぁそういうことになる、のかな?」
「そうか。なら許す」

 嫉妬ならいいのか。それはそれでどうかと思うけど。
 内心首を傾げる俺をよそに、クロが手招きする。
 傍に来いという合図に素直に従ってしまったが、これじゃどっちが契約主だかわからない。
 いつもは自分より高い位置にある美貌を見下ろすのは、ちょっとだけ良い気分だ。

「さっきの命令の対価を寄越せ」
「あ、はい」

 なめらかな頬に手を添え、男らしく薄い唇を見下ろして、はたと気づく。
 流れるようにキスの体勢に移行したが、ちょっと待ってほしい。
 今まで対価の譲渡はクロから仕掛けられていた。
 突然だったり騙し討ちだったり、とにかく俺の唇を奪って魔力を吸うのはクロの暴挙でしかなかった。
 しかしこのままでは、俺からこの美しい精霊に口づけて、自ら魔力を捧げることになってしまう。
 それってアリなのか?
 少なくとも俺の方はクロの外見が好みだという邪な思いを抱く同性愛者なんだけど、精霊的には嫌だったりしないのか?

「何をしている。早くしろ」
「……っ」

 俺だけがごちゃごちゃと考えていても埒が明かない。
 本人に聞く勇気も出ない。
 腹をくくって、えいとばかりに口唇を重ね合わせた。
 首筋をぐっと捕まれ、薄く唇を開くと舌を絡め取られ、腑の奥底から魔力を吸い上げられる。
 俺の方が覆いかぶさっているのに、俺は圧倒的に弱者で被食者でしかなかった。

「……ん、ぁ……っえ?」

 うなじに添えられていた手が降りてきて、腰をぐっと引き寄せられる。
 思わずクロの座る椅子に片膝乗り上げた俺の脇腹を何かが掠めた。
 服越しではなく、素肌だ。何か、なんてぼんやりした存在感じゃない。
 クロが俺の体に触れている。
 それも愛撫のような、性的な意図を感じさせる動きで。

「く、クロ、なんで、触って……」

 慌てて腕を掴んで止めた。
 閉じていた瞼を見開くと、強い光を放つ金色に射抜かれる。
 何の情感も浮かべない冷めた目だと思っていた頃が懐かしいくらい、近頃のクロは顔にも目にも感情を乗せることが増えた。
 喜怒哀楽といった原始的なものなら、目を見るだけで察せられるほど俺も彼に慣れた。
 それなのに今のクロは、読めない。
 俺を刺し貫こうとせんばかりに鋭く見つめているのに、そこに殺気はない。
 あるのは、凶暴な支配欲。

「わからない。こうしたいと思った。嫌か?」
「……っ、ぃ、やではない、けど」
「魔力は対価相応だけもらう」

 そう言って重ねられた唇に魔力を吸われる感覚はなく、「ただしたいから」するだけのキスだった。
 命令の対価を渡すための口づけじゃない。
 素肌を這い回る冷たい手のひらにも意味はない。
 ならこの行為は、なんだ?

「ふ、あぁ……っ」

 腰を撫でられ、背筋がぶるりと震えて、情けない声を出してしまった。
 表皮にびりびりと伝わってくる感覚には覚えがある。相対する男が俺を手に入れようとしているときの、被虐的な快感。
 クロは、俺に、欲情してるのか?
 でも精霊に性欲があるなんて話は聞いたことがない。精霊は生殖で増える存在でもない。そんなことあり得るのだろうか。
 でも今俺は確かに、契約している精霊に襲われていて、足腰が立たなくなりつつある。
 すぐ傍には寝台。
 俺がその気になれば、いつでも倒れ込める位置。
 いやいや何を横目で確認してるんだ。
 精霊とそんなことをするなんて倒錯的にも程がある。

「どうした。体が熱を持っているぞ」
「~~ッ!」

 首筋をするりと撫でられて、余計に熱が上がりそうだ。
 好みド真ん中の男にこんな積極的に触られたら、そりゃ期待しちゃうし、体も熱くなっちゃうし、ムスコも勃っちゃうよ。
 認めたくないが、俺は契約精霊にちょっと触られただけで興奮する変態魔術師だったらしい。
 クロの体にしがみついて、クロの太腿に座るような姿勢になってしまった俺を、元凶が軽々抱え上げる。
 半ば放り出されるように着地したのがベッドの上で、俺はさすがに慌てた。

「ちょっ、待てクロ、落ち着け」
「焦っているのはおまえの方だろう」
「そうだけど! 違う、そうじゃなくてこれ以上はまずい」
「? これ以上とは、なんだ」

 クロは心底不思議そうにベッドへ屈み込んで────折りたたまれていた毛布を取った。
 それを広げ、丁寧に俺の体に掛ける。

「体調が悪いときに無理をさせてすまなかった。発熱していては仕事をするのも難しいだろう。今日はもう休め」
「……え?」

 そしてクロは消えた。
 固まっていた体と思考が再び動き出す。
 つまりこういうことだろう。
 情けなくもクロに触られて興奮してしまった俺を、クロは病だと思って、病人にするようにベッドに寝かせただけである、と。

「やっぱ精霊に性欲とかないんじゃん!」

 なんとなく負けたような気分になってマットレスをぼすんと叩いたが、虚しいだけだった。
 向こうにそんな気はないのに、一人で盛り上がってしまったことがとてつもなく恥ずかしい。
 クロには俺の体の変化を理解できなかったらしいことだけが唯一救いだ。
 善意で寝かしつけてくれたクロには悪いが、火照った体をそのままにはできないし海辺で被った砂も落とさなくてはならない。
 ベッドを抜け出して宿の共同浴場へ向かう。
 正直すぎる自分の体と、熱のない精霊との温度差が余計に哀しく惨めに思えた。
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