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第12章 スペードの女王と道化師
ギーズ公夫人とユグノー
しおりを挟むさて、占いの本を見ている側からまた懐妊の喜びを得たカトリーヌだったが、フランスは断続的に神聖ローマ帝国と戦闘中である。宮廷は大騒ぎして祝福するような状態ではなかった。王の子の誕生も七度目になれば騒ぎ立てるよりも、そっと見守る方が望ましい態度だろう。廷臣も不在が多く、それぞれ奥方は一日千秋の思いで静かに日々を過ごしている。カトリーヌも同様で率先して礼拝に赴くなどしていた。
彼女はカトリック教徒で、フランス王家もカトリックである。
カトリーヌは教皇の一族なので、カトリックから離れることなど夢にも思わないのだが、国民や貴族の一部にとってはそうではないらしい。マルティン・ルターやジャン・カルヴァンらの著作に感化されて新教(プロテスタント)に改める者も出ているという。
ルターは神聖ローマ帝国領ザクセンでカトリック批判を展開した。いわば「発生地」である。その後紆余曲折を経て、当地の新教徒(フランスではユグノー)支持者は増え、政治にも影響を及ぼすようになった。神聖ローマ皇帝カール五世もカトリック支持を鮮明にしているが国内問題では悩みが尽きない。長く続くイタリア戦争に関しても、率直なところ継続する意思は失せているようだ。
「こちらが潮時と捉えさえすれば、交渉しだいですぐ終戦に至れるのに」とカトリーヌはつぶやく。彼女の部屋には大きな書棚や机が置かれている。彼女は手にしていた本をそこに納める。
背表紙には『君主論』という文字が見える。
ノックの音がして「Oui.(はい)」と応じると女性が入ってくる。控えめな印象で亜麻色の髪をきっちりと結わえ上げてから垂らしている。服装は貴族女性のそれである。
「王妃さま、ご懐妊おめでとうございます。おかげんはいかがでしょうか」
「アンナ、来てくれたのね。赤ちゃんを産んだばかりだから、まだ休んでいたらいいのに。でも、正直嬉しいわ」
「二人目ですから、三日も休めば歩いたりもできますわ」とアンナは微笑む。
「女の子だったそうね。何という名に?」
問われたギーズ公夫人・アンナはいたずらっぽい目をして答える。
「それはもちろん、カトリーヌですわ!王妃さま」
「あら、ありがとう。そういえば、男の子にはアンリと名付けていたものね」とカトリーヌは微笑んだ。
アンナは真面目な顔をして言う。
「本当はカテリーナにしたかったのです。王妃さま、イタリア語で話しても?」
カトリーヌは「Si.(はい)」とうなずく。
王の有力な家臣であるギーズ公フランソワの妻はイタリア半島の出身だ。名はアンナ・デステ。彼女はイタリア・フェラーラ公国の領主エルコレ1世の娘だった。
エルコレをはじめデステ家の人々は以前登場したが、簡単に述べておく。
何代もフェラーラを治めているデステ家はコンドッティアーレ(傭兵隊長、イタリアでは武勇に秀で高い地位に付いた者をさす)を祖に持ち、イタリア戦争の際にも武勇や知略でフェラーラを守ってきた。特にアルフォンソ・デステ1世はイタリア戦争にも参戦し負けることがほとんどなかったと言われる。その姉イザベッラ・デステは嫁ぎ先のマントヴァ公国を夫に替わって切り盛りし、政治的交渉能力に長けていた。『君主論』のマキアヴェッリとも交流の深かった人物である。この話の章のいくつかにその足跡を記している。
アルフォンソ・デステ1世と妻ルクレツィア・ボルジアの長子がエルコレ2世だが、その娘がアンナである。エルコレ2世がフランスから妻を娶ったこともあり、その娘がフランスに嫁いだのだ。そして、ルクレツィア・ボルジアはチェーザレ・ボルジアの妹である。なので、アンナにとってチェーザレは大伯父になる。
血脈というものは、途絶えたように見えるときでも川の流れのように連なっていくものである。
「フェラーラは今回の戦いには巻き込まれていないので、それには安心しています。ただ、父と母がずっと袂を分かったままでいることがどうしても気になってしまって」
実家の話題になると、アンナは自身の悩みをぽつりぽつりとこぼしだす。カトリーヌもその事情をこれまでにたびたび聞いている。
エルコレ2世と妻のレナータは断絶したも同然の状態が続いていた。その理由は一つ、レナータが新教への改宗を望んだからだった。もともと、フランスからフェラーラに嫁いできて言葉や習慣の違いに馴染めなかったとき、彼女を力づけたのが新教徒の訴える数々の論説だった。そして、たまたまフェラーラに立ち寄ったジャン・カルヴァンと対話の機会を得たことで、彼女の決意は固いものとなる。
しかし、婚家においてそれは決して許されないことだった。カトリックの本拠地ローマのあるイタリア半島では、新教は異端とされ審問にかけられる。言いたくはないが処刑されることもある。コンドッティアーレの血筋としてローマを奉じてきたデステ家なのだから、なおさら禁忌である。そして、エルコレの祖父、ルクレツィアの父は教皇アレクサンデル6世である。カトリーヌがそうであるように、新教に改宗することなどありえないのである。
結果、レナータは他と交流ができないよう、いわゆる軟禁生活を送ることになった。地下牢のように非人道的なものでなかったにせよ囚人と同じ扱いである。時折、夫なり司祭が改宗の意思を翻意させようと試みるが何年経っても徒労に終わっている。
「私はカトリックを捨てることはないけれど、だからと言ってそれだけの目に遭うなんて、お母さまもお父さまも辛いでしょうね」
「はい、ただ仲が悪いというだけならいいのですけれど……何か悲劇的なことになったらどうしようと」とアンナは顔を曇らせる。
カトリーヌは首を横に振ってアンナをゆっくり抱きしめる。
「悪い方に考えてはだめ。私もずいぶん危険な目に遭ってきましたが、何とか切り抜けられるとただ信じてここまで生きてきました。お父さまもお母さまも何かしら方法を見つけられる。信じましょう」
アンナは「王妃さま……」と涙ぐむ。
ひとしきり話をするとアンナは部屋を下がっていき、カトリーヌは一人になった。
今はどこでもユグノーを警戒している。
アンリも異端審問をさらに厳格化すると言っていた。カール5世もマインツ・ケルン・バイエルン・ザクセンなど選帝侯領(神聖ローマ帝国=ドイツの有力諸侯の支配地域)の一部では新教に融和的にならざるを得ないけれど、一方のハプスブルグ領スペインでは厳しい取り締まりを行っている。フランスではまだユグノーの勢力は脅威になっていないけれど、本当にそうかしら。
アンナのお母さまがカルヴァンに感化されたのはだいぶ前のことだわ。そのように感化された人が少ないとはとても思えない。カルヴァンは今ジュネーヴにいるけれど、まるで王のような振る舞いをしているという。市民の崇敬は自分の正しさによるものだと思っているのではないだろうか。
カトリックは誤っている?
ユグノーは正しい?
確かに言えることは、
神の存在は絶対のものだということだけ。
人のすることに絶対的正しさというのはない。どれだけの誤りが、軽率が、悪意が、傲慢がそれを左右するか、分かっているのだろうか。
糾弾する者はそれが分からない。
倨傲に陥っている者にも分からない。
ただし、統べる者は分からなくとも手を尽くさなければならない。時にそれが個人の信条と異なるとしても、広く多くの人々を救うような政治をしなければならない。
今は形骸化した戦争が局地的に続いているけれど、これから大きな問題となるのはユグノーとの関わりようになるのかもしれない。
カトリーヌはまた書棚にゆっくり歩いて、さきほど納めたマキアヴェッリの『君主論』を引き出した。この本は私のためにあるような気がする。カトリーヌはパラパラとページをめくる。そして、ふとあるページに目を留める。
「チェーザレ・ボルジア……アンナのおばあさまの兄上ね」
そこから本を読み進めていく。
〈民衆からヴァレンティーノ公と呼ばれたチェーザレ・ボルジアは、父親の運命によって政体を獲得し、同じものによってそれを失ったが、彼としては他者の軍備や運命によって譲り受けたあの政体のなかで、自分の根っ子を張るために、賢明で有能な人物がなすべき一切の事柄を行ない、手立てのかぎりを尽くしたのではあった。なぜならば、先に述べたように、前もって土台を築いていない者であっても、大きな力量の持主であれば、後になってこれを固めることができないわけではないから。ただし、建築家のほうはひどい苦労をし、建造物には危険を伴ってしまうが。したがって、もし公の歩んだ来歴をつぶさに熟慮してみるならば、彼が将来の権勢のために大きな土台を築いていたのが看て取れるであろう。これを論ずるのが余計なことである、と私は判断しない。なぜならば、彼の行動の実例以上に、新しい君主にとってすぐれた規範を示してくれるものを私は知らないから。そして、彼の行動様式が実益をもたらさなかったとしても、それは彼の罪ではなかったのである。なぜならば、それは甚だしく極端な運命の悪意が生み出したものであったから〉※
「この人は、マキアヴェッリのお眼鏡にかなったのね。善悪の狭間を、その才で自在に動けたのだから」とカトリーヌは一人つぶやく。
アンナのおばあさんはこの人の妹だったと聞いた。何か話が伝わっていないのかしら。今度アンナに尋ねてみよう。
ふっと、カトリーヌの脳裏に懐かしいイッポーリトとのやり取りが甦る。
「カテリーナ、『君主論』の表紙をもう一度読んでごらん」
カテリーナはすらすらとそれを読む。
「IL PRINCIPE
DI NICOLO MACHIAVELLI,
AL MAGNIFICO LORENZO
DI PIERO DE MEDICI」
(君主論
ニッコロ・マキアヴェッリ著
ロレンツォ・マニーフィコと
ピエロ・ディ・メディチに捧ぐ)
「きみは大きなロレンツォの曾孫で、ピエロの孫で、ロレンツォの子だ。それは、きみしかいない。それは知っているね。きみしかいないんだ」
カトリーヌはそう言った人がとうに天に召されたのを思う。
「そうね、これは私のための本だわ」
彼女は表紙の文字をしばらく眺めていた。
※引用 「君主論」マキアヴェッリ著 河島英昭訳 岩波文庫
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