肥後の春を待ち望む

尾方佐羽

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国衆一揆勃発

秀吉の人たらしに騙される

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 関白豊臣秀吉が南関に入ったのは四月に入ってからであった。

 関白秀吉が「九州平定」にみずから軍をひき参陣した頃には、島津はすでに講和を受けて兵を次々と薩摩に退かせていたので実戦を指揮して戦うことはなかった。数は力ということである。かれは戦大将というよりは、講和大将とでも言うべき位置にあった。あるいは実質的に天下人となった者がその巨大な力を誇示するための行軍とも言えなくもない。

 もっと言えば、「唐攻め」の前線基地となる九州の地をじっくりと自身の目で確認したかった。秀吉子飼いの武将・小西行長もこのときに対馬の領主、宗義智と会見している。

 成政より少し遅れて、南関に到着した「関白殿下」を一目見たいと、それは大勢の人々が集まっていた。祭りのようである。隈部親永、親泰親子にとってもそれは晴れがましい舞台であった。

 国人らの最前列に隈部親永、親泰親子は立った。
 赤星統家、内古閑鎮房(うちこがしげふさ)ら隈部の血縁者も後ろに付いている。赤星も内古閑も肥後の有力な国人だったが、結縁によって隈部の者が入っていたのである。名実ともに隈部氏は肥後国人衆の筆頭であった。
 この時、球磨・相良地方の国人領主はほとんど南関に集まっていた。

「関白様のおなりじゃあ!」

 秀吉が馬に乗って現れると、一同は揃ってひれ伏した。
 馬から下りた秀吉に親永が神妙にあいさつを述べる。そして島津退却への礼を述べ、「今後の恭順を誓うので従来どおりの処遇を与えてほしい」ことを伝えた。秀吉は国侍が揃ってひれ伏すのを眺め、よしよしと言わんばかりに相好を崩した。

「もう島津もおらぬ。安心して暮らせるよう、今後の扱いもしっかりとするよって、何も心配することはない。貴殿らのこれまでの領地を安堵するよう朱印状を発給し、お渡しいたしますぞ。これはわしと肥後国人の皆さんとの約束じゃ」

 満面の笑みでそう語る秀吉にひれ伏しながら、一同は、「何と心の広い関白様ばい、喜んでついていくとね」と口々に言い合った。
 隈部親永が喜び勇んで息子親泰の顔を見る。
「関白様におかれましては、これから薩摩に向かわれるよし、われら地の利に明るくぜひ国境まで先導の役を勤めさせていただきたくあい申し候」と、親泰が言上した。秀吉は隈部親子らに微笑みかけたままうなずいた。

「さようか、貴殿らは道に詳しかろうから、ここに在る本願寺の顕如上人とともに先導してくれまいか」と告げた。

 浄土宗の主である顕如とともに関白様を先導できるとは、何と名誉なことか。隈部親子は感動を覚えた。
 そして、喜んで薩摩に行く街道を進んだのである。

 しかし、この晴れがましい一日が隈部親永の目をかすませることになった。

 秀吉をよく知る者にとっては、芝居がかった余興のようなものだったのである。天下人の名を実質的に得た秀吉はこの手の派手な仕掛けをことさらに好むようになっていた。烏が孔雀の羽をぺたぺた貼り付けるがごとくである。九州は念仏の盛んな場所のようだから、おおもとの本願寺の座主を連れていき先導させればよい。織田信長の時代にはさんざんてこずった本願寺もすでに秀吉に従っている。すべてを手にした者だけができる仕掛けである。それは確かに絶大な効果を上げたらしい。これで肥後の国人は秀吉を丸ごと信用し、崇敬の念すら抱いたのである。

 秀吉は九州を無事に平定したと喜び、肥後国の五十余人の国侍にそれぞれ本領を安堵する旨の朱印状を発行することとした。佐々陸奥守成政を呼び肥後国主に任じたのもこのときである。その領地は五十万石だった。
 とはいえ、この五十万石は大雑把な見積もりで実質がどれほどなのかは精確に調べないと分からなかった。そもそも、五十万石は肥後一国という意味であり、そこにはもちろん、肥後国人に認めた所領も含まれているのである。加えて、その五十万石には秀吉の直轄地であるいわゆる「蔵入地」は含まれていない。

 国人の領地を大幅に削らなければ、新国主の領地は確保できない、ということである。

 記録では、秀吉が成政に肥後を与えるにあたって、「守護にあった菊池氏に仕えていた肥後の国人領主は勢力も堅固で、他国のものを容易に受け入れる風土ではない」ことを念頭におき、肥後に下向するにあたって五ケ条の定めを申し渡したとされる。
 あらかじめ成政には肥後の統治は難しいから慎重にせよ、と断りを入れたことになる。

 後世に残る文書ではあるが、任命したときのものであるかは斜めに見るべきかもしれない。
 なぜならば、その後起こったできごととあまりにも符合が合い過ぎているからである。宛名が通例の官名「陸奥守」でないことも、違和感があると指摘する向きもある。
 簡単に言えば、「こう命じたにも関わらず、それに従わなかった」と後から事実に合わせて作成したと考えるほうが確かに自然なのである。
 五か条については次のような内容である。

   定
一、五十二人の国人如先頭知行可相渡事
一、三年検地あるまじきこと
一、百姓など不痛様肝要之事
一、一揆不起様可遠慮事
一、上方普請三年令免許之事
右之条々無相違可被守此旨也=如件

    天正十五年六月六日 秀吉
 佐々内蔵助どの

 いずれにしても、肥後国全体の国主に佐々成政を任じ隈本城に置き、隈部氏、城氏、相良氏はじめ肥後の国人らはかねてからの居城で成政の与力として参与することを任ぜられた。これは秀吉が国人領主らに告げたことと大きな相違はなかったが、その所領高を見た途端、みな愕然とした。

 晴れがましい南関の記憶はまだ鮮明に残ってはいたが、朱印状に書かれた内容は現状の所領高からかけ離れたものだった。
 秀吉側の言い分としては、菊池氏が守護だった際の本貫地(直接受け取った土地)を安堵するということだったが、それにしても著しい減少である。
 浮いた分は新たな国主佐々成政と家臣への知行として配分し、秀吉が直轄領を設ける分にも充てるというのが実情だったからである。
 土地が無尽蔵にあるわけではない。

 どれぐらいの減少になったのか、天正五年頃の所領高と一部比較してみると、
 隈部親永 千九百町から八百町に減少
 城 久基 三千町から八百町に減少
 辺春親行 七ケ村から百二十町に減少
 小代親泰 千三百町から二百町に減少
 大津山資冬 三百二十町から五十町に減少
 阿蘇惟光 八千町から三百町に減少(四千三百町に家臣所領を含む)

 これだけ減らされては不満が出ないはずがない。
 阿蘇氏にいたっては、家臣所領を除いても三千七百町から十分の一以下の割り当てとなっている。これは阿蘇氏の当主がまだ幼く、領主としての扱いが低かったためだと思われる。
 さらにかれらを大いに不安にさせたのが、自身らが一体誰に仕えるのかということが非常に曖昧だったことである。それぞれの領地に関する朱印状は関白秀吉から発出されている。菊池氏が守護だった頃は菊池氏から安堵を受けていたのだから、当然肥後の国人領主たちは独立した立場で秀吉の臣下となるのだと解釈していた。与力というのはそのようなことである。
 たとえば、肥後国人の一人、小代親泰にはこのような書状が出された。文面は他の領主も皆同じと考えてさしつかえない。

 肥後国に於いて、汝の本知内二百町扶助しめおわんぬ。領地所付は、上、中、下、に相分ち、成政より目録別紙受け取り。全て知行すべき也。
    天正十五年六月二日
 小代下総守どのへ
         秀吉朱印

 この朱印状は同日付で、後日すべての肥後国人領主に配された。「成政より目録別紙を受け取ること」と記載されていた。これはすなわち、成政が秀吉の命令を渡す役目だと解釈される。佐々成政は秀吉の配下にあり、肥後の国人も同じ立場にある。成政は肥後を統括する役目を担った者で、守護菊池氏のような立場ではない。そのように受け止めたのである。所領は大幅に減るものの、朱印状の内容を額面通り受けとれば、これまでのように領地を変わらず治めていける。秀吉はそのように言ったはずだ。国人の大半がそれを信じていた。

 数々の矛盾はすぐに現実として現れた。

 七月一日、挨拶のため隈部親永が隈本城に参じたところ、成政は領地の確定のため検地の実施を申し渡した。そのうえで根拠とするための「指出帳」(さしだしちょう)の提出を求めた。指出帳とは個々の田畑の作付けを記帳したものである。すなわち、「隈部は朱印状により八百町の安堵を受けている。検地をしたうえできちんと八百町を測るべきである」ということである。しかも六尺間にて正確な測量を行うということである。



 丈量について、秀吉の時代まではきちんとした統一単位がなかった。全国統一を果たし、「太閤検地」のための精確な測量の必要が出て、事細かな丈量が定められたのである。六尺三寸(約二メートル)を一間、一間の平方を一歩(坪)、三百歩(六十間×五十間)を一反(段)と定めたのである。この方式が「生駒竿」とされ、検地の表示として「石」を用いたのである。

 もともとは一反を三百六十歩で数えるのが通例である。
 新しい方式に従えば全てこれまでより多い反数となる。農民にとっては賦課が増える。精確に測量する目的といっても、結果的に農民から徴収する量を増やすためのものだったのである。そして、領主たちにとっては逆に実質的な所領の減少となる。よく考えたものである。
 その方法を採ると、天災に見舞われた際の備蓄分を考慮するのりしろはない。何より領主層と農民層が一体となり、一揆反乱を起こしたときに、兵糧米を入れることが難しくなる。
 全国統一の制度は重要である。これまでのやり方を今すぐ変えるということは、誰でも拒否反応を示すもので、それが悪い方向に進むことが分かっていれば、なおさらである。

 この「太閤検地」は「刀狩」制度などと同様、兵農分離を劇的に促進させることになった。



 この地域における検地自体は、六年ほど前に島津氏によって行なわれている。その前はと言えば、国人阿蘇氏によって行なわれた記録が残る程度で、どちらにしても精確なものではなかった。
 親永にしてみれば、「指出帳」を改めたいと要求されるものだとは夢にも思っていなかった。元の所領を減らされても、八百町はこれまでの通り与えられるものだと信じ切っていた。確かにこれまでの所領は大まかに見積もったものであるが、山間で耕地も限られているのだから、よび寸はあってしかるべきではないか。しかもそれまでの領地を大幅に削られているのである。

 さらに納得できなかったのは、佐々成政の言いようだった。これは関白秀吉公の命令である。私は関白様の命で肥後の国主に任ぜられた。貴殿らは私に従わなければならない。朱印状はそのような趣旨である。畿内でも中国、四国でも同様に検地が行なわれており、九州も例外ではない。その準備のため「指出帳」を提出するように、との言いようである。

 肥後の国主は佐々成政である。貴殿らは従わなければならない。

 この一言が、「指出帳」以上に親永の癪に障った。
「おまえは家来なのだから、言うことに従え」ということである。佐々成政は決して傲慢な態度でそう言ったわけではない。既定の内容をきちんと説明したのである。しかし、これまでの領地をあからさまに取り上げられた上に、一方的に従えと命令されていると親永は感じた。さらに島津という敵を追っ払ってやったのだ、という恩着せがましさすら感じたのである。
 この点、成政は如才ないとはお世辞にも言えなかった。秀吉が望むことを成政はよく知っている。九州を平定して天下の覇者となったことはまだ入り口に過ぎず、その先の大陸侵攻を見込んで九州をその基地にするつもりなのである。したがって、直轄領、秀吉の土地がいくらでも手に入るだけ必要である。それが分かっているのは、成政をはじめ、中津に配された黒田孝高(官兵衛)や小早川隆景らの直臣である。

 もともとその土地に住み所領を得ていた国人領主たちにどう納得させるか、それは本当に難しいことであった。取り上げるという解釈しかできないからである。

 余談になるがこの翌年、黒田孝高の息子、長政が中津城で古くからの国人、城井鎮房とその家臣らを騙して皆殺しにする。それほど無理強いしなければできないことでもあった。

 佐々成政は黒田や小早川と比べても、交渉能力が高いとはいえない。なので、肥後国人の長である隈部親永を納得させるような話し方はできるはずもなかった。


 親永はこの話に憮然とした。
「承服いたしかねる。朱印状にそげんこつは書いとらんけん。指出帳が入用ならば、朱印状により命じられよ」と断って帰っていった。

 佐々成政はそれに対して、もう一度伝え方を思案してみるべきだったのかもしれない。しかし、親永に負けず劣らず怒り出してしまった。
 親永の背中が見えなくなる頃には、「わしゃ関白の命を受けてここに来とるんだで。あれだけ丁重に説明してやったがや。田舎侍になめられとるわけにはいかん」と怒鳴り散らした。慌てて親永の後を追う近習たちが、そのことばを耳にしてキッと成政を睨んで走り去っていった。かれらは親永に猛然とそれを伝えるだろう。物事をこじれさせただけであった。

 隈部親永は菊池・山鹿・山本の三郡に八百町という割り当てを受けている。なぜ、改めて検地を受けなければいけないのかということも納得しがたい。親永は城・赤星と並び旧菊池家臣の三家老の一人である。そして今は自他共に認める肥後国人の筆頭である。それが一方的に「指出帳」、いや自身の土地をまっさきに差し出せとは。これまでの奮闘は水の泡に帰し、武士としての面目も立たない。

 話は決裂した。
 親永は自城の山鹿隈府城(やまが わいふじょう)に引きこもった。

 同様に面目をつぶされたのは成政も同様である。
 与力が自分の命に従わないのでは国主としての立場がない。そして、ないがしろにされて腹が煮えくり返るものの、そのままにしておくわけにはいかない。秀吉から自分が叱責される、あるいはさらなる制裁が与えられる可能性もある。成政はここでまた短絡的な行動をした。

 成政が隈本城に入城したことを祝し、日吉太夫という、なにやら秀吉にあやかったような役者の能を行うこととなった。成政は隈部親子とその家臣らを招いた。能というのは口実で、その場で皆殺しにしようと考えたのである。しかし、それが実行されることはなかった。国人の一人である城久基がその計画を事前に知り、親永に伝えたからである。登城すると返答していたものの、「親永急病のため一同失礼する」と言って結局誰一人行かなかった。

 ことは難しいほうに進んでいる。

 隈部親永の嫡男で、現当主である隈部式部太輔親泰は悩んでいた。
 父は頑固で、こうと思ったらてこでも動かない。確かに父の憤りはよく分かる。しかし、佐々陸奥守が来て早々、反抗的な態度を示すのは問題だった。ここで逆らっても何もよいことはない。場合によっては隈部郎党が皆手打ちにされるかもしれないではないか。実際、この間の能の招待がそれであったし、一度反感を買ってしまったら今後恭順の意を示したとしても、冷淡な扱いを受けるに違いない。それならば、自身が佐々陸奥守に恭順の意を示し、その間に父との関係を取り持つしかない。そう考えたのである。

 親泰は隈本城に登城し、成政に詫びを入れた。そして、父はもう歳で頑固になっているため自身が説得する。どうかお許しをいただきたいと頼んだのである。成政は、素直に謝ってきた親泰を許した。父親永を説得し親子ともども恭順を誓うのであれば、さきの件については不問とすると申し渡したのである。

 しかし、親泰の行動に父親はさらに激怒した。

「おまえは父より、よそもんの国主ば立てっとか! そげな輩はわしの息子とは認めんぞ! 」と説明した親泰に怒鳴りつけた。父は全身を震わせて怒っている。

 何を言うても無駄ばい、親泰は悲しくなり何も言えなかった。そして親永は隈府城に籠城の構えを取った。
 恭順はしない、ということである。
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