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第一章
ユシル
しおりを挟むユシルが住み込んできた。すでに数日は経っている。
カナトは朝から身なりを整えていた。何度も鏡の中で確認し、自分に気合をいれる。
「よしっ!」
主人公攻めのイグナスがいないので触れ合い放題である。
カナトは今だけアレストとのことを頭の後ろに放ってこらからの推し活動に心を躍らせた。
ユシルは屋敷へ来た初日に庭の休憩スペースを気に入って毎日行くようになる。原作で知ったことなので間違いはない。
偶然を装って話しかけるぞ!
庭に向かいながら何気にアレストの部屋を通り過ぎる時に耳を澄ませる。
今日はかなり早起きしたのでこの時間なら本人がまだ部屋の中にいる可能性がある。しかし、残念ながら何も聞こえてこない。
庭に行くまで、通り過ぎる何人かの使用人がギョッとした目で早起きするカナトを見た。
「あれ?俺今日起きるの遅かったか?」
「おかしいわね。私はいつも通りに起きたはずなのに」
「でもカナトさんがこの時間にいるわけないし……」
チラチラ。
こいつら本当に失礼だな!
「早起きしたんだよ!悪いか!」
「全然、朝の散歩楽しんで!」
メイドはお互い笑いながら小走りに去って行く。男の使用人は困ったように笑って「それじゃ」とその場から逃げた。
「たくっ」
次から早起きするか。
庭の休憩スペースに到着すると、すでに人の姿が見えた。
さっき整えたばかりだと言うのに、カナトは思わず身だしなみを気にし始めた。編み上げシャツの襟ぐりを引っ張って整え、汚れがついてないズボンをぱっぱっと払う。
深呼吸して慎重に歩み寄るとサッと目の前に誰かが立ちはだかる。
穏やかな笑みをした目立った特徴のない青年である。灰色のベストに黒いクロスタイをつけた衣服はどこか上着を着用しない燕尾服に見える。
こいつ……今どこから出て来た?
青年はまるで最初からそこに立っていたと言いたげに微笑んでいる。
やがて休憩スペースで紅茶を飲んでいたユシルが異変に気付いたのかふと振り返った。
最初は引っかかりを感じても青年が誰なのかまったくわからなかったが、ユシルが名前を呼んだことで誰なのかすぐに思い出した。
「クモ?」
クモという名前を聞いてカナトが真っ先に思い浮かんだのはこの世界で暗躍する暗殺組織である。作中で作者はこの暗殺組織に『コドク』と名付け、漢字にするとおそらく蠱毒である。例に漏れず組織員はすべて虫の名前で呼ばれ、いずれも人を殺すことに迷いがない人たちである。
蠱毒方式で生き残った子どもを育てて組織員にするため、幼い頃から殺しの英才教育を受けて来たと言ってもいい。
この組織に関してはアレストとの関係も浅くない。なぜならアレストも『コドク』から暗殺者を買っている。
ただ唯一イグナスとの違いを挙げるとすれば、クモはイグナスによって完全に私有化され、アレストの暗殺者はまだ雇われた関係である。
「なんでもございません。お客がいらしたようです」
そうだった。ユシルを心配するイグナスはクモを護衛としてつけていたんだった。
カナトは痛恨の表情で唇を噛んだ。
お客?と言ってユシルは椅子から立ち上がって植物の壁を回ってこようとする。
植物の壁の向こうで近づいてくる淡い金髪を見てカナトの心臓が早まりだす。
来た!
ひょいと不思議そうな顔をのぞかせてユシルがカナトを見る。一瞬の空白のあと、思い出したようにあっと声に出す。
「もしかして、パーティーで会ったカナトさん?」
推しに名前を呼ばれた!!
「は、はい!カナトです!」
「やっぱり!兄さんと仲のいい使用人だって聞きましたよ」
「え?あ、いや……はい」
「ん?何かあったんですか?」
「その、今は喧嘩中というか、なんというか……」
「喧嘩したんですか!」
「う、うん……」
ユシルは心配そうな表情で手を胸の前に持っていった。
「もしよかったらお話聞きましょうか?」
「い、いいのか?」
「もちろんです。私でよければ力になります。兄さんとは仲良くしたいので、カナトさんとも仲良くなりたいです」
天使とはこういう人のことをいうんだなぁ。
カナトはチラッとクモの反応を見た。
相変わらず穏やかな笑みでどうぞと手を差し出している。
こいつの許可さえあればもう恐れるもんはねぇな!
カナトは嬉々としてユシルとともに休憩スペースに入った。興奮するあまり、クモの穏やかな目に浮かんだわずかな敵意を感じ取れなかった。
花に近づく虫は全部噛み殺せーー
クモは自分の主人から預かった命令を頭の中で反芻させた。
だがすぐに敵意を消し去る。まだ害悪のある虫だと判断できない。今は殺し時じゃない。
だが、すぐにクモは弾かれたように後ろを振り返った。
自分とよく似た感じの何かを嗅ぎ取った気がした。
ほんの一瞬だったため定かではないが、あの粘りっこくもしつこい感じは『コドク』にいた頃によく感じ取ったものである。
まさか、という思いでクモは大きな屋敷を見上げた。
『コドク』と関わるような人物がいるのか?
その時、「すげぇな!!」と声が響いた。見やると、カナトは紙の上に出された茶葉を見て目を輝かせていた。ユシルは口もとに手を当てながらうれしそうに笑っている。
その様子を見てクモはフッと笑った。なるべくユシルの興を削がぬよう、ひっそりと息をひそめた。同時にさっき感じ取ったものに神経を研ぎ澄まして、いつでもユシルを守れるようにした。
カナトは椅子に手をつきながら前のめりで二種類の茶葉を見つめていた。
「同じ茶葉なのに収穫時期で名前も違うんだな」
「そう!味も全然ちがうから季節に合わせて飲むのもいいよ!」
2人はいつの間にかもう敬語を外して話す仲になった。
カナトの気がだいぶリラックスしたのを見てユシルが口を開く。
「ねぇ、カナト。兄さんのことで、話を聞いてもいいかな?」
カナトは思わずピタッと身を固くした。その目が泳いだあと上目遣いにユシルを見る。
「誰にも言うなよ」
「もちろん」
「この前アレストのこと怒らせたみたいだけど、いや身に覚えはないけどな?それで怒鳴られたんだよ。あのあとすぐに八つ当たりだったって言って謝って来たけど、プライドが邪魔して許すって言えなかったんだ」
「つまりカナトはもう兄さんのことを許してるけど言い出せないってことかな?」
「……ん」
「はは!たぶんなんだけど、兄さんはとっくにカナトが許しているって気づいてると思うよ」
「ウソだろ……」
「本当だよ。察しがいい人だと思うから」
「で、でもやっぱり言い出せない気がする」
考えてからユシルはにっこりと笑った。
「じゃあ、勇気が出るおまじないしてあげようか?」
…………ッ!!お、おまじないってまさかあのイグナスが毎回緊張する場面(もちろん演技)に純粋なユシルが信じ込んで勇気が出ると言っておまじないをするあのおまじないか!この行為が実は後々作中で大きな役目を果たすんだから、まさか自分が体験できるなんてな!
「お、お願いします」
「なんで敬語に戻ったの?」
おかしそうにユシルが笑った。
朝からずっとカナトを見ないと思っていたアレストはメイドから庭にいると教えられた。言わらた通りの場所に来るとちょうど植物の壁が途切れるところでその姿を見つける。
声をかけようと口を開くが、カナトの向かいにいる人物を見てアレストは目を見開いた。
ユシルだった。
ユシルが両手でカナトの手を包み、目を閉じて何かを唱えている。それに対してカナトは真っ赤になりながら顔を隠していた。その口もとはどこかニヤけるように、うれしそうに弧を描いている。
頭の中で、カナトが今までいろんな場面で味方だと言った場面が横切る。
井戸のそば、同じ部屋の中、階段の下ーー様々な場所でカナトの言葉と真摯な目を思い出す。それが今まで見たこともない表情をユシルに向けていた。自分には一度もないそんな表情を。
「カ、ナト………?」
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