虚構の軍師 上杉謙信軍師『宇佐美定行』を作った男、名は宇佐美勝興

筒香時一

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神徳左馬介

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陸奥国米沢藩上杉家、その配下であった大関家の勝手場(台所)では、二人の男がせわしなく料理をしていた。
但し、楽しそうではある。

「仁左衛門、こっちの焼き物は上がった。 そっちの煮物はどうだ?」

「盛り付けをして上がりだ!」

「相変わらず手早いな!」

「甚五郎煽てるおだてるな、照れるじゃねーか!」

仁左衛門が三条藩を暇乞いしてから、もう二月が過ぎようとしている。

『心配するな、この父は三木乃助を必ず軍師にしてみせる。
大船に乗った気で待っていろ!』

こんな大見えを切って米沢へ来てみたものの、未だ『小幡下野守』の手掛かりすら掴めないでいる。
しかし、料理役としては充実感満載の日々を過ごしていた。
それは当座の居候先を求めて、古くからの友である山口甚五郎を訪ねた時から始まったのだ。

「ここは、本当に大関様のお屋敷なのか⁉︎」

散々と人に聞き回り、やっと甚五郎が仕えるという大関家を探し当てたが、どうも様子がおかしい。
この大関家は、上杉家中でも屈指の武将を輩出した系譜けいふに連なっていると聴いていたが、その屋敷は閑散かんさんとし門番すらも立っていなかった。

空家のような雰囲気だ、これは間違えたか⁉︎

それでも一応はと、遠慮気味に門の外から声を掛けてみた。

「頼もう……誰ぞ居られませぬか?」

その醸し出す雰囲気を物語るかのように、返事は帰って来なかった。
違うのかと思いつつも念の為、もう一度声を掛けてみる。

「頼もう、若山仁左衛門と申す。
こちらの家中にお仕えする、山口甚五郎を訪ねて参った。 誰ぞ居られませぬか?」

やはり返事は無かった。
どうやら違ったようだと、足早に踵を返そうとした時だ。
屋敷の奥からバタバタと慌てたような足音が聞こえ、転がり込むように仁左衛門と似た歳の男が現れた。

「にっ、仁左衛門なのか⁉︎」

「おうよ、甚五郎久しぶりだな!」

上杉家が会津へ転封となって以来、もう二十年以上ぶりの再会となった。

「もう会えぬかと思っておったわ。
嬉しいぞ、仁左衛門!」

「俺もだ! 
甚五郎よ、壮健そうで何よりだ!」

二人手を取り泣きながら、久しぶりの再会に喜んだ時だ。
そんな雰囲気に誘われたのか、屋敷の奥から二十を少し過ぎたばかりと伺える、疲れ切った様子の女が顔を出した。

「甚五郎、そちらは?」

「こいつは私めの古くからの友、若山仁左衛門と申す者でございます。 
仁左衛門、こちらは大関家の奥方田鶴たづる様だ。 ご挨拶をせい!」

「私めは若山仁左衛門と申します。
此度こたびは甚五郎を訪ね参った次第、お見知りおきを」

「これは、よくおいで下さいました。
されど、只今当家はこの有り様にて……。 
長居は出来ませぬが、ゆるりと致しなされ」

そう言い残すと、恥じた顔をして奥へと早々に引っ込んでしまった。
この様子に仁左衛門は不穏を感じ、無礼とは思いつつも甚五郎に聞いてみた。

「何かあったのか?」

「実はな……この家は三月後に取り潰しとなるのだ」

「取り潰しだと⁉︎」

聞くと、三月ほど前に当主であった田鶴の夫が死去したことで無子断絶となり、米沢藩から取り潰しの沙汰が出たらしい。

「おいおい……跡取り様はおられなんだのか?」

「おられん、出来なんだのだ……」

「……にしても御本家から御養子を頂くなり、奥方様が改めて婿取りなどを……」

こういう由緒正しき家の相続には、本家の意思も介入して来る。
噂を聞きつけた、どこかの家が次男坊や三男坊なりを押し込んで来たりなども十分に考えられた。
そもそも田鶴ほどの美貌ならば、我先に押し掛けて来ても不思議ではない。
そう思い聞いてみたが、これは甚五郎の深い溜め息の後に否定された。

「どこも養子など出さんし、誰も婿へなど来ようとせんよ……」

「どういうことだ?」

「これまで婿養子には三人来られたが、悉くことごとく亡くなられてしまわれた」

「なんと!」

項垂れる甚五郎が、詳しく教えてくれた。
元々、この大関家には田鶴の他に子女は無く、本家から婿養子を取り継がせたが、ここから不幸は始まる。
最初の婿は二年ちょっと、次は一年ほど
、三番目は二年保たずして亡くなったらしい。

「おかげで呪われておるだの、鬼女の化身だのと言われ放題だ。
お優しく美しいお方なのにな……」

「だからか、下働き達がおらんのも……」

「藩の温情で半年の猶予は頂けたが、もう俸禄など無くなったからな。 とうに逃げ果てたわ」

「だが、なぜ甚五郎は残っておる?」

こう聞くと、甚五郎は再び溜め息を吐き語り始めた。
この男ならではの理由があったのだ。

「俺は奥方様のお父上様に拾うて貰った身だ、その恩には報いたい。
だいたい女房が許してくれん、銭より義理だと言うてな」

「ほぉー、甚五郎は良い女房を持っておるな」

「まぁ、しょっちゅう殴られてはおるがな」

この甚五郎と女房の心意気には胸を打たれた。
何よりも呪われておるだの、鬼女だのと言われも無い中傷を受ける田鶴が哀れでならなかった。
そもそも女が幸せになっていないなど、仁左衛門にとって最も許し難いことだ。
そこで、躊躇いもなく行動に移した。

「よし決めた、今から俺は大関家の家臣になるぞ!」

「はぁ、何を言っておる⁉︎ 
俸禄など出んぞ」

「そんなものいらん、寝床と飯さえあれば結構! 
例え後三月としても、俺はお仕えするぞ!」

このような次第で勝手に家臣面して居座り、今日に至っている訳だ。 
しかし同情から至った行為は、仁左衛門にとって久しく無かった充実した毎日を伴っていた。

今の俺は料理役として、まるで水を得た魚のようだ。
俺俺の作った料理達を美味いと食べてくれる、田鶴様や残った家中の者達には感謝しかない。

こんな感じで、料理役としては幸せな日々を過ごしていた。

しかし一方では暇さえあれば、『小幡下野守』について探ってみたが何も掴めないでいる。
もはや『小幡光盛』は、上杉家中では過去の存在と認識されていたからだ。
二十年以上前くらいには米沢にはいたはず。
ここまでは上杉家中の者達も覚えていたが、その後の暮らしぶりなどは知らず、気が付けば死んでいたが実情だった。

『大船に乗った気でいろ!とは言うたが、何も掴めん。どうすれば……』

こんな焦りが、現在の仁左衛門を襲っていた。

しかし、ひょんなことから解消されていく。
それは朝食の仕込みの最中の出来事だった。
照れた顔をする甚五郎から、一人の女を紹介されたことから始まった。

「仁左衛門、こいつは俺の女房のたえだ」

「おぉー、甚五郎の女房殿か!」

「宜しゅうなぁ、仁左衛門様」

「これは伽羅きゃらな女房殿ではないか!
もしやどこぞから攫って来たのか、甚五郎⁉︎」

伽羅とは最高級の香木であり、この時代では『素晴らしい』『極上』などの比喩表現として用いられていた。
だからこそ、そのような例えを使い妙を褒め立てたのだ。
最高の褒め言葉になると、女に対しては海千山千うみせんやませんな仁左衛門は当然知ることながら、この時ばかりは嘘掛け値の無い本心からだった。
友である甚五郎に、この妙のような義理堅い女が夫婦めおととなってくれたことが嬉しかったからだ。
しかしその想いは、逆に捉えられる。
甚五郎は引き攣った顔をし、妙は顔を赤らめた。

「もしや仁左衛門、妙を口説いておるのか⁉︎」

「まぁ嬉しい、こんな年増としまに!」

「ちっ、違う!
誠に本心から、良い女房殿を貰いおったと思っただけだ!」

こんな滑稽なやり取りをして、その後は親し気な会話となったが、ここから仁左衛門は妙から聞かれることとなる。

どうして米沢まで来たのか?
甚五郎を訪ねて来ただけなら、ここまで長居はしないだろう⁉︎
何か目的があって、米沢に来たのではないかと尋ねられたのだ。

「御仕官ならば、現在の当家では難しいかと……」

そう妙が難しい顔をして言った。
理由として、上杉家は関ヶ原合戦の敗北により大幅な減封とされたにも関わらず、一人の家臣の放逐も行わなかったからだ。
与えられた石高に対して仕える人材が明らかに飽和しており、二十年以上過ぎてでさえ財政困難な苦境を極めていた。
ちなみに上杉家と似たような状況に晒された毛利家は、さっさと家臣の放逐を行ない、大きな財政危機は回避している。
この辺の臨機応変さが、幕末期の活躍に寄与していたのかはわからない。

「いや、仕官ではなくてな……」

そう思わず口から出そうになったが、すぐに閉じた。
来た目的は『小幡光盛』と『小幡下野守』の行方を探っていると言えなかったからだ。
もし一反でも喋れば、この夫婦や田鶴達にも危険が及ぶかもしれない。
それだけ相手は、大きな力を持つ存在なのかもしれないからだ。

「今更、仕官など思ってはおらんよ。
ただ甚五郎の顔を見とうなって訪ねただけだ」

こう嘘を並べたが、妙は渋い顔を浮かべ始めた。
仁左衛門の意図を察した訳ではなく、全く違う意味合いで捉えたからだ。

わざわざ越後から米沢まで来た訳が、友人を訪ねて来たなどと単純なはずはない。
おそらく恥じており、仕官は探しておらんと見栄を張っておられるのだ……。

全く違ったが、そんな心情を察して別の話を振り始めた。
もう、二月も俸禄無しで奉公している。
いくら寝食の確保があるとはいえ、銭には苦労されておるはずだ。

こんな勘違いから、妙のお節介が起こった。

「ならば、暇を見つけて私の手伝いをして貰えませぬか?」

「妙殿の手伝いをか⁉︎」

「ちょっとした銭稼ぎにもなりますゆえに」

この時の仁左衛門は、実際のところ銭には困っていた。
しかし大関家で料理方は続けたく、また『小幡下野守』を探る余裕は欲しいのだ

余計なことには関わりたくはない。
だが銭稼ぎが出来るなら、やはりあやかりたかった。

「何をすれば良いのだ?」

神徳しんとく左馬介さますけという、伊豆から来られた浪人様の飯作りでございます」

「飯を作る手伝いだけで良いのだな」

「はい、仁左衛門様の腕ならばお喜びになられるかと」

それだけなら大した手間にならず、本来の目的にも然程の影響はない。
飛びつくように了承した。

「おー、ならば願いたい!
ぜひにもだ!」

「では話は通しておきます」

こうして仁左衛門は、神徳左馬介の飯作りをすることにはなった。
しかし翌朝、妙に案内され神徳家に向かう途中で、おかしな話をされた。

「神徳様は、変わった御人にて驚かれぬよう」

「変わった御人?」

そう聴いた途端に嫌な悪寒がし始めた。
変わった御人と言うからには、厄介な気性の持ち主かもしれない。
妙も難しい顔を絶やさないところを見ると、そういった感じで間違い無さそうだ。

「お優しいお方なのですが、一つ懸念が……。 仁左衛門様が我慢出来れば宜しいが……。
ここで話すよりも、実際にお会いされた方が宜しいのかも」

どうも、はっきりとした話をしない。
おそらくは神徳左馬介なる人物が、かなりの訳ありなのだろう。
それからは二人して黙って歩くだけとなり、やがて到着した。

「ここが神徳様のお屋敷でございます」
 
目の前に映る屋敷は、小降りだが涼やかな雰囲気を醸し出している。

「ここは良い風が流れておる、実に良い所だ」

「元は慶長出羽合戦(長谷堂城の戦い)で武功を立てられた武人様が、生前にいおりを結ばれておったとか」

「ほぉー、そのようなお方様が」

「さぁ話は終いにして参りましょうか。
見ても驚かれますな、御覚悟を!」

そして、妙が神妙な顔つきで戸を開ける。
釣られて少し怯えつつ、チラッと眺めると見慣れた光景が広がっているだけだった。

「妙殿、見たかぎりでは訳ありでは無さそうだが……」

それは仁左衛門にとって当たり前の光景だった。
居候する三木乃助の屋敷と同じ、所狭しと書物が乱雑に置かれてあるだけだ。
そんな拍子抜けな顔をする仁左衛門に、大きな口を開けて妙が驚きの声を上げた。

「この足の踏み場もない屋敷を見ても、何も思われませぬのか⁉︎」

「多くの書物があるな、そう思うただけだが……」

「それだけでございますか⁉︎」

「いや、三条の我が家も似た感じなのだ。
いや……もっと多いか」

「仁左衛門様は、どんな所におられたのだ……」

あんぐりと口を開けた妙を尻目に、一人の男が書物の間を潜り抜けるようにして奥から現れた。
髪と髭は乱れ伸び放題、仁左衛門よりも一回り歳下くらいの男だ。

「奥で聴いておったが、妙殿は酷いな」

「左馬介様! 本日は人を連れ罷り来るとお伝えしておったではないか!
片付けくらいはして下され!」

「いやいや、すまんすまん!
久しく読んでおらなんだ、『義経記ぎけいき』に熱中してしもうたわ!」

呆れ果てた妙を置いて行くかのように、その『義経記』について語り出した神徳左馬介を見ていて仁左衛門は思った。

この男、三木乃助と同類だな。

証拠に横目で積まれた書物の表紙を見てみると、三木乃助が持つ同じのが多数ある。
おかげで文字は理解していなくとも、その形から題名がわかるのもあった。
何よりも、そのベラベラと講釈を垂れている『義経記』は、三木乃助も同じように垂れていたのを覚えている。
そこで試してみた。

「判官御自害の時、亀鶴御前と生後まもない姫君が切り殺されるところは胸が痛みましたな」

三木乃助が酔っ払った挙句に泣きながら悦に入り、熱く語った箇所を思い出し語ってみた。
即、反応が返って来る、予想したとおりのものだ。

「何⁉︎ そこは俺も感動し泣いてしまったぞ! まさか其方そなたも読まれておったとは!
さぁさぁ、酒でも飲みながら語り合おうぞ!」

早朝なのに酒盛りが始まってしまい、妙に代わって仁左衛門が『義経記』の講釈を聴くはめになった。
そして気が付くと夕暮れ時、既に妙の姿は消えていた。 
もう妙が居なくとも、左馬介には気に入られ雇われたと意味している。

こうして銭に稼ぎの算段をつけた。 しかし、後々に仁左衛門は知る。
この神徳左馬介こそが、小幡景憲の双子の弟『小幡昌重』であることを……。
更に三木乃助、いや越後流軍学者宇佐美勝興の師となっていく人物になるとは未だ知らない。



















 





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