個人授業は放課後に

須藤慎弥

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 「おかわり飲むか?」と問われたが要らないと首を振り、由宇は橘に甘えるように体をすり寄せた。

 すると大きな手のひらで優しく髪を撫でてくれて、くすぐったくも柔らかい気持ちで心がじんわり満たされる。


「まだ電子の方はたまに吸ってるけどな。  葉っぱと加熱式はマジでやめた」
「ど、どう違うのか分かんない……!  それはやめたって事になるのっ?」
「俺ルールではな。  電子やめんのはあと一年待ってくれ。  十五年吸ってきたんだ、いきなり煙断ちすんのはこの俺様も不可能」
「ちょっ、……計算おかしくない?」
「俺は数学教師だぞ。  計算間違いなんかするわけねーだろ」
「ひぇ……っっ、先生ほんとにヤンキーだったんだな……!」


 喫煙が許されている年齢と、橘の喫煙歴が合致しない。

 過去の話だとはいえ、もし同じクラスだったら目も合わせられないほどの不良だったに違いない橘と、今こうしてイチャついているとは……。


「ヤンキーって言葉あんま好きじゃねぇな。  「自分に正直に生きてきたんですね」って言えよ」
「それすんごい美化されてる!」
「うるせーな」


 言い返す言葉が無いときの「うるせー」を用いながら意地悪く笑う橘は、樹のおかげか、由宇との初体験の余韻からか、何とも上機嫌だ。

 冗談だろうと思っていた禁煙が実は本当で、しかもそれが由宇のためだと聞かされればつい甘えてしまうだろう。

 離れていた間も、橘は由宇を気に掛け、想い続けていてくれたのではないかと、感動すらしてしまう。

 喜びが抑えきれない由宇は、橘の機嫌が良いうちにたっぷり甘えてやろうと広い胸に頭を擦り付けた。


「先生、……俺のためにやめてくれたんだ……」
「そ。  煙草はお前のため」
「……嬉しい、……って言ってもいい?」
「嬉しいのか?  なんで?」
「俺のため、っていうのが嬉しい。  吸い過ぎだったから先生の体も心配してたし……」


(こんな事言うの恥ずかしいんだけど……先生いつもみたいに茶化さないからいいや……)


 橘の胸にもたれて感慨深く喜びに浸っていると、ふと丁寧に巻かれた包帯が目に入る。

 この左手に痛々しい包帯が巻かれていなければ…由宇も心置きなく居られるのだが、あえて左手で木刀や短刀を受け止めた理由さえ橘らしかった事を思い出して、勝手にキュンとした。


「……先生、それってまだ痛む?」
「これか?  もう痛くねーよ。  握った時と、刀抜いた時は痛かったけどな、それ以降は別に」
「ひぃぃ……痛そう……」
「いや痛くねーって言ってんだろ」


 由宇は現場を直に見てしまったため、いくら橘がそう言っても左手からおびただしい量の出血があった事まで思い出してしまい、今も目を回してしまいそうだ。

 冷たい唇から熱いキスを受け、青ざめた顔で「ごめんな」と言った橘が意識を失ったあの時、由宇の心が瞬時に冷え切った。

 このまま橘が居なくなったらどうしよう。  由宇の心には橘しか居ない。  これから先も橘以上に好きになれる人はきっと現れない…。

 橘と同じく、あの時は由宇も顔面蒼白だった。

 結果、手のひらの縫合だけで済んで心の底から安堵しているのは、恐らく橘本人よりも由宇の方がそう強く思っている。


「すごいよ、先生。  ほんとにすごい。  あんな状況で咄嗟に左手で受け止めるなんて、常人には絶対無理だもん……!」
「あぁ……。  だろ」
「先生すごいなって思った。  嫌々で教師やってるわけじゃなかったんだよね。  もうさぁ、俺……めちゃくちゃ感動したんだよ」


 右手を庇った橘の左手は痛々しくはなったが、それはとても素晴らしい理由によるものだった。

 橘をよく知る拓也が笑顔で感心し、由宇にだけ聞こえるようにこっそり、「風助さんマジ尊敬だなぁ」と呟いていた。

 由宇も同じ事を思っていたので、うんうんと涙目で頷いた事をよく覚えている。

 一度ギュッと橘を抱いて、由宇は、意地悪で不敵な笑みが待っているであろう彼の顔面を見上げてみた。


(…………あ、あれ……っ?  先生、仏頂面してる……??  こんな褒められたらニタニタしててもおかしくないのに……)


 てっきり、照れ隠しの「俺様すげぇだろ」という自信満々な台詞と悪魔の微笑を期待していたのに、橘は複雑な表情で由宇を見下ろし、足を組み直した。


「………………何の話だ」
「え?」
「なんで感動すんだよ。  たかが左で受けただけで」
「えぇっ?  たかがって……。  だって、右手で受けたら黒板に文字書けないじゃん……?  授業に支障が出るから、左手を犠牲にしたんじゃ……」
「あぁー……そういう事か。  そうだな、そうそう」


 まったく意味が分かっていなかった橘が、なるほど、とでも言いたげにわざとらしく頷いている。

 ……怪しい。



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