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同じ言葉を同じ温度で
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夜は、思いのほか深かった。
ランプの芯を短くすると、
炎は小さくなり、影だけが濃くなる。
書きかけの依頼帳を閉じ、
僕は息をついた。
「……今日は、ここまでにしましょうか」
「はい」
ダレルさんは、壁際で装備を整えながら、
いつもの距離で答える。
その距離が、
今日は少しだけ、遠く感じた。
理由は、分かっている。
昼間、何度も呼ばれたからだ。
「ハル様」と。
それが、嫌だったわけじゃない。
でも――
胸の奥で、どこか、落ち着かなかった。
「……ダレルさん」
呼ぶと、すぐにこちらを見る。
眼鏡の奥の視線は、穏やかで、
待つことを知っている目だ。
「……えっと」
言葉を探す。
「……その呼び方、なんですけど」
彼は、一瞬で察したように、姿勢を正す。
「……不都合が、ありましたか」
違う。
そうじゃない。
「不都合、じゃなくて……」
灯りが、ゆらりと揺れる。
「……距離を、感じてしまって」
正直すぎた、と、言ってから思う。
沈黙。
ダレルさんは、少しだけ目を伏せた。
「……では」
静かに、問いが落ちる。
「どう、お呼びすれば」
その言葉で、胸がきゅっと鳴った。
命令にすれば、簡単だ。
でも。
「……」
言いかけて、止まる。
誤魔化しなんて、もう通用しない。
「……名前で」
声が、思ったより小さかった。
「名前だけで。ちゃんと、ハルって……呼んで、ほしいです」
一拍。
「……命令、ですか」
彼の声は、柔らかい。
「……いいえ」
首を振る。
「……お願い、です」
灯りの下で、
ダレルさんの表情が、ほんの少し変わる。
怖がられていた頃の、硬さはない。
従う前の、緊張もない。
ただ、選ぶ顔。
「……承知、しました」
そして。
「……ハル」
その一語が、
静かに、胸に落ちた。
――あ。
それだけで、分かってしまう。
これは、戻れない。
「……どう、ですか」
少し不安そうに、聞かれる。
「……」
返事をしようとして、
声が、出なかった。
代わりに、息を吸って。
「……そのほうが好きです」
それしか、言えなかった。
彼は、困ったように笑う。
「……では」
一歩、近づいて。
「今夜は……
ハルの、そばに居ます」
胸が、強く鳴る。
「……それ」
少し、息を整えて。
「命令、ですか」
冗談めかして言うと。
「いいえ」
即答だった。
「……お願い、です」
同じ言葉。
同じ温度。
二人の間に、
主従という線が、そっと溶ける。
灯りが、また揺れた。
その夜、
呼ばれ方は、それきりだった。
でも。
――名前を呼ばれた、その一度で。
十分すぎるほど、
世界は、変わってしまった。
ランプの芯を短くすると、
炎は小さくなり、影だけが濃くなる。
書きかけの依頼帳を閉じ、
僕は息をついた。
「……今日は、ここまでにしましょうか」
「はい」
ダレルさんは、壁際で装備を整えながら、
いつもの距離で答える。
その距離が、
今日は少しだけ、遠く感じた。
理由は、分かっている。
昼間、何度も呼ばれたからだ。
「ハル様」と。
それが、嫌だったわけじゃない。
でも――
胸の奥で、どこか、落ち着かなかった。
「……ダレルさん」
呼ぶと、すぐにこちらを見る。
眼鏡の奥の視線は、穏やかで、
待つことを知っている目だ。
「……えっと」
言葉を探す。
「……その呼び方、なんですけど」
彼は、一瞬で察したように、姿勢を正す。
「……不都合が、ありましたか」
違う。
そうじゃない。
「不都合、じゃなくて……」
灯りが、ゆらりと揺れる。
「……距離を、感じてしまって」
正直すぎた、と、言ってから思う。
沈黙。
ダレルさんは、少しだけ目を伏せた。
「……では」
静かに、問いが落ちる。
「どう、お呼びすれば」
その言葉で、胸がきゅっと鳴った。
命令にすれば、簡単だ。
でも。
「……」
言いかけて、止まる。
誤魔化しなんて、もう通用しない。
「……名前で」
声が、思ったより小さかった。
「名前だけで。ちゃんと、ハルって……呼んで、ほしいです」
一拍。
「……命令、ですか」
彼の声は、柔らかい。
「……いいえ」
首を振る。
「……お願い、です」
灯りの下で、
ダレルさんの表情が、ほんの少し変わる。
怖がられていた頃の、硬さはない。
従う前の、緊張もない。
ただ、選ぶ顔。
「……承知、しました」
そして。
「……ハル」
その一語が、
静かに、胸に落ちた。
――あ。
それだけで、分かってしまう。
これは、戻れない。
「……どう、ですか」
少し不安そうに、聞かれる。
「……」
返事をしようとして、
声が、出なかった。
代わりに、息を吸って。
「……そのほうが好きです」
それしか、言えなかった。
彼は、困ったように笑う。
「……では」
一歩、近づいて。
「今夜は……
ハルの、そばに居ます」
胸が、強く鳴る。
「……それ」
少し、息を整えて。
「命令、ですか」
冗談めかして言うと。
「いいえ」
即答だった。
「……お願い、です」
同じ言葉。
同じ温度。
二人の間に、
主従という線が、そっと溶ける。
灯りが、また揺れた。
その夜、
呼ばれ方は、それきりだった。
でも。
――名前を呼ばれた、その一度で。
十分すぎるほど、
世界は、変わってしまった。
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