終 R18 リセットされた夫

にじくす まさしよ

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ロープ一本の暗闇の中で

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 びゅうびゅう吹き荒れる風が、少し先すら見えない暗闇のなお暗い底から、エルとライトの立つ断崖絶壁の上まで吹き上げられていた。

 エルの柔らかく細い髪は、風によってぼさぼさになっており、白い小さな顔を隠していた。

 幸い、月の灯りがあるため、数メートル先まで見えるものの、ライトの発動する守護魔法のひとつである結界とライティングがなければ、彼らは数歩も進めなかっただろう。

 ライトの相棒である軍馬はこれ以上進めない。エルは、空恐ろしい崖の底をそっと身を乗り出して覗きこもうとするが、恐怖のため体が動かなかった。

「エル様、これ以上は危険です。ディ殿は、ここからキマイラと共に我々の前から姿を消しました。捜索は、生憎絶壁の半分も降りる事なく中断されており、今は日が昇るのを待っている状態かと思われます。騎士たちが設置した道がありますが、ロープ一本と、打ち込まれたハーケンのみとなっております。訓練されていない貴女では降りる事は不可能でしょう」

「そんな……ディ……」

 こんな崖の底に、意識を失った状態で堕ちたらひとたまりもないだろう。しかも、猛毒ともいえるキマイラの瘴気を全身に浴びており、大きな牙も体を貫いているはずだ。

 すでに、ディの命は絶望的だとされている。だが、エルは自分の細い指にはめられた結婚指輪をそっとなぞり、きっと彼は生きていると言い聞かせるように何度も心の中で彼の元気な笑顔を思い浮かべようとした。けれど、今の彼女の中に現れるディの姿は、最後に見た雄々しい様子とはかけはなれている。瞼の裏に浮かぶのは、愛する人が目を閉じて赤い水を流し、これまで散々見て来た命の灯が消えてしまった騎士たちの姿と重なってしまうのだった。

「ライト様、ここまで連れて来てくださり、ありがとうございました。これ以上危険な目に、貴方を合わせるわけには参りません……」

「エル様、何をするつもりなのです?」

「……わたくし、この崖を降りようと思います。わたくしもライティングが使えますし、歴代聖女様の力の込められたネックレスもあります。きっと、助けを求めている彼の元に行けると思うのです」

「エル様、それは勇気とは言いません。無謀で、愚かな行為です。貴女に万が一の事があれば、ディ殿が嘆き悲しむでしょう。今は私の指示に従ってください」

「で、ですが。こうしている今にも彼は苦しんでいます。ほんの数分間に合わなかったために命を落とした方々を見てきました。わたくしは、生きている可能性が0ではないのなら、今出来る事をしたいのです」

「今出来る事は、せめて太陽が昇るのを待つ事です……。はぁ、普通、令嬢はこういう場にも来ようとは思わないだろう。まして、男でも足が震えるこの奈落の底に行こうとは……。なかなかどうして、この国の聖女様は、誰よりも儚げでいて騎士よりも強い人だ……って、おい!」

 フラフラで、今にも倒れそうなエルの確固たる意志と眼差しを見て、ライトは感嘆と呆れまじりのため息を吐きながら独り言ちる。すると、エルは彼の制止を待たずに、崖につけられたディを捜索するためのロープをガシッと掴み、小さく手細いハーケンで作られた足場に右足を乗せた。

 乱気流が、崖から降りようとするエルを容赦なく襲う。服の生地と髪が、激しく彼女自身を襲いまるで凶器のように肌を強く打った。一歩踏み出そうにも、風と恐怖が体を揺らしてロープにつかまっているだけでも振り落とされそうなほどグラグラする。

「あー、もう。わかった。わかりましたから。エル様、私につかまって下さい!」

 ライトは、自らも危険な事は百も承知でエルを担ぎ上げる。そして、命綱であるカラビナとロープをふたりの腰につけた。
 ライトは、慣れた手つきでしっかり命綱をロープにつけた後、守護の魔法をふたりの体に張り巡らせ、設置されたロープと頼りなさ過ぎる足場を、まるで大きな階段を降りるかのように、トントンっと軽やかに降り始める。

「ライト様……」

「こうなったら、エル様にお付き合い致しましょう。ですが、私でも到達できるかどうかわかりません。今回、私がどうしても不可能だと判断した場合、朝日が昇るまで待っていただきます。いいですね?」

「は、はい、はいっ! ライト様、ありがとうございます」

「言ったでしょう? 私の命は貴女のものだと。それに、私自身もこうしてこの崖を降りてみたいと思ったのです。ですから、礼は、ディ殿と無事に王都に帰還した時にお願いします」

「はい」

 大柄な彼の背中におぶさるとエルはまるで子供のようだ。広くて温かい背中は、小さな頃におんぶしてくれた父を思い出させた。そして、こうして協力してくれる彼に感謝し、不安と恐怖の中、きっとディを救出できるという期待と緊張で、鼓動が大きく速くなった。

 しかし、ほんの数分経過しただけでライトの体が止まる。崖の上が、目を凝らせば見えるほどしか降りていない。


「……足場はここまでです。底は、見えませんね……」

「……」

 頼りない足場から、どれほど目を凝らしても何も見えない。ライトが、ポケットから何かを取り出し、火を纏わせたものを下に落とすと、それはあっという間に暗闇に飲まれていき、地に落ちた時に発生する音すら聞こえなかった。

 エルは、ディの事だけを想い、ここまで来てどうしようもないのかと涙が出そうになった。ライトの言う通り、一旦崖の上に登ろうとしたその時、ふたりを痛いほどの強い突風が縦横無尽に襲う。

「ちっ!」

「きゃあっ!」

 
 ライトが、エルを気遣いながら力いっぱいロープを掴む。強固な岩壁にしっかり打ち込まれたハーケンが、風にあおられたふたりの体重を支え切れずに一本、また一本と抜けた。

「くそ、このままでは……」

 ライトは、せめてエルだけでもロープに捕まらせ安全な場所に移動させようとしたが、今の体勢を保つのがやっとだ。さらにハーケンが、徐々に抜けていくのを感じ、大量の冷や汗が背に流れ落ちる。

「エル様、風が鎮まった瞬間、私の体を踏み台にして、上のロープを掴んでください」

「え?」

「いいですか? 私が補助します。ですから、精一杯手を伸ばしてロープを掴むのです」

「そ、そんな。そんな事をしたら、ライト様はどうなるのです?」

「なぁに、私ひとりならなんとかなります。風の向きが変わりましたね。行きますよ」

 ライトは、ロープを掴んでいた両手を、右手だけを残す。背にいるエルを左腕で保持しつつ、彼女をぐいっと頭上へとあげた。

 その反動で、ハーケンがまた一本抜ける。カランという音とともに、ロープがたわみ、ふたりの体ががくんと下がった。

「手を伸ばして!」

「だ、ダメです。そんな……わたくしひとり助かるなど……」

 エルは、彼が無謀だと言ったのにもかかわらず、無理をしてここまで彼を突き合わせた事を後悔した。
  屈強な騎士たちでさえ、この崖を数日かけても降りる事などできなかった。だというのに、何一つ訓練などしていない自分が、心のどこかで、聖女の不可思議な力が働きなんとかなるという奢りと、根拠のない自信しかなかった事に気付いた。

「ぐぅ……エル、さま……さあ、手を伸ばしてロープを掴んで……!」

「ライト様、ライト様……!」

「エル様、日が登ったら必ず誰かがここまで来るはずです。ですから、それまでなんとか耐えていてください。私は、一足先に底に降りてディ殿を探しておきましょう」

「そんな……っ!」

 ライトはそう言うと、自分の腰につけてあった命綱であるカラビナをロープから外す。そして、渾身の力でエルの体を、頭上のロープまで上げた。

  その反動で、ライトの体が落下していく。辛うじて刺さっていた、彼が手に持つロープを支える最後の一本のハーケンが抜け落ちたのであった。





足場に、ハーケンは実際には使用しないと思います。今回、魔法で強化しつつ足場に利用してると考えてください
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