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3、ご主人様との生活
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チリリリリン!
ベッドの上の壁に取り付けられたベルが揺れて、けたたましい音を出す。
元貴族令嬢、エマ・ソーントンの一日は枕元のベルが鳴り響くことで始まる。
てっきり寝過ごしてしまったのかと寝ぼけ眼で窓の外を見るが、まだ空は真っ暗。カーテンの隙間からのぞくと、丸いお月様が悠然と輝いていた。
まだ夜なのだ……そうしておそらく深夜。ああ、またか‥…とそう思う。
抗いがたい睡眠の誘惑を振り払いながら、瞼をこすりメイド服に着替える。十年前からリチャード・エマーソンの専属メイドになった私は、一週間後には名実ともに二十歳の成人した大人になる。
ありがたいことに執事としての父の仕事はうまくいっている。
ご主人様は二十七歳になられた。あの頃に比べて更に美貌に磨きがかかり、天使の容貌が今では神々しいほどに光り輝いている。
悔しいことに彼はいわゆる美形と呼ばれる男性に成長していた。
大学教授としての地位は確立され、それだけでなく彼は副業として事業を起こし、それがすこぶる順調らしい。嫌味なくらい完璧を絵にかいた紳士。
十歳の時に彼に無理やり専属メイドにさせられてからというもの、ご主人様に命じられた私の仕事は主に二つ。ご主人様の身の回りの世話、それと彼のお仕事のお手伝い。
仕事のお手伝いとはいえ、大抵はご主人様がお仕事をしている間、いわれるままに本を書き写すだけの簡単なもの。
写す元となる本は王国の歴史やら貴族名鑑。はてには外国語の辞書までその内容は多岐にわたる。彼にとって書き写す内容などどうでもいいのだろう。だってただの嫌がらせなのだから。
だというのに毎回、ご主人様のチェックが入って間違っていると何度も訂正させられるので適当にすますこともできない。十年間の間にもう何百冊と書き写したのではないだろうか。いまでは私の右手の指には大きなペンだこができてしまった。
どんなに高価な本だろうと買うことのできる財力はあるだろうにどうしてだろう……と誰もが首をかしげるはず。けれどもこれは彼のねじくれた性格によるものであまり意味はない。
あれからまだ数分しかたっていないのに、催促するようにもう一度ベルが激しく鳴る。
私は急いで紺のワンピースと白いレースのエプロンのメイド服を身に着けた。そうして髪をまとめて慌てて部屋を出て、ご主人様のお部屋に急ぐ。
ご主人様の部屋は廊下を挟んで、私の部屋のすぐ向かいにある。その隣の部屋はまだ空っぽで、いづれご主人様の奥様となる方のもの。
(もうご主人様の二十七歳ですし、いつ奥様をお迎えになってもおかしくないですね。外面のすこぶるいいご主人様ですから、その気になればどんな女性もお断りしないでしょう)
大きな樫の一枚板で作られた重厚な扉をノックすると、ご主人様の機嫌の悪そうな声が聞こえてくる。
「遅い! 早く扉を開けて入ってこい!」
「は、はいっ! ご主人様!」
扉を開けると、そこには天蓋付きのベッドの上で座り込んでいるご主人様がいた。シルクの寝巻きを身にまとい、片脚を反対の足に乗せ腕を組んでいる姿は、すでに当主といってもいいほどの風格がある。
整った顔はまるで陶器の人形のよう。切れ長の目が更に美貌の迫力を増し、銀色の髪がさらりと揺れた。その姿に思わず胸が跳ねてしまう。
彼は身長も伸びて体つきも立派な男性になり、こうして不本意ながらも時々どきりとさせられてしまうのだ。最悪な性格だということを知っているというのに。本当に美形というものは恐ろしい。
いつもと変わらず美しい彼の顔には、ありありと苛立ちが浮かんでいる。
「俺が呼んだら五分以内に来いといっただろう。なんのためにお前の部屋を俺の隣にしたと思っている。それにスカートの裾が乱れているぞ」
「も、申し訳ありません。ご主人様」
私はあわててまくれ上がったスカートのすそを直した。こんな風に深夜、ご主人様にいきなり呼びつけられることはよくあること。
そうしてそれは喉が渇いたとかカーテンが三センチ開いていたから閉めてくれだとか……どうでもいいような理由ばかり。今回はどんなくだらないことなのだろうか。
しばらく重い沈黙が続くが、私は緊張しながらご主人様の命令を待つ。早く指示してくれないだろうか。ご主人様を見ているとなんだか胸の奥がチリチリとしてくるから嫌なのだ。
かゆいのに掻けない。かゆい場所に手が届かない――そんなもどかしい気持ちになってしまう。
「寝付けないから本が読みたい。そこの本棚から本を取ってくれ」
いきなり彼が声をだしたので、思わずビクッと肩が震えてしまった。
「わ、わかりました、ご主人様!」
私は駆け足で本棚の場所に向かう。本棚からご主人様のベッドまでは二メートルも離れていない。
「ニューグマルニアの書いた『資本統一論の不可逆性』がいい」
私の身長は百五十八センチ。たいしてご主人様は百八十センチを優に超えている。
そう――毎日毎日仕事と称してどうでもいい本の複写を何冊もさせるのも、私を夜中にいきなり呼びつけるのも――ご主人様は私の困った顔や泣いた顔を見るのが大好きだからなのだ。
私と出会った日にそう言っていたし、今まで本人からも何度も言われている。
ベッドの上の壁に取り付けられたベルが揺れて、けたたましい音を出す。
元貴族令嬢、エマ・ソーントンの一日は枕元のベルが鳴り響くことで始まる。
てっきり寝過ごしてしまったのかと寝ぼけ眼で窓の外を見るが、まだ空は真っ暗。カーテンの隙間からのぞくと、丸いお月様が悠然と輝いていた。
まだ夜なのだ……そうしておそらく深夜。ああ、またか‥…とそう思う。
抗いがたい睡眠の誘惑を振り払いながら、瞼をこすりメイド服に着替える。十年前からリチャード・エマーソンの専属メイドになった私は、一週間後には名実ともに二十歳の成人した大人になる。
ありがたいことに執事としての父の仕事はうまくいっている。
ご主人様は二十七歳になられた。あの頃に比べて更に美貌に磨きがかかり、天使の容貌が今では神々しいほどに光り輝いている。
悔しいことに彼はいわゆる美形と呼ばれる男性に成長していた。
大学教授としての地位は確立され、それだけでなく彼は副業として事業を起こし、それがすこぶる順調らしい。嫌味なくらい完璧を絵にかいた紳士。
十歳の時に彼に無理やり専属メイドにさせられてからというもの、ご主人様に命じられた私の仕事は主に二つ。ご主人様の身の回りの世話、それと彼のお仕事のお手伝い。
仕事のお手伝いとはいえ、大抵はご主人様がお仕事をしている間、いわれるままに本を書き写すだけの簡単なもの。
写す元となる本は王国の歴史やら貴族名鑑。はてには外国語の辞書までその内容は多岐にわたる。彼にとって書き写す内容などどうでもいいのだろう。だってただの嫌がらせなのだから。
だというのに毎回、ご主人様のチェックが入って間違っていると何度も訂正させられるので適当にすますこともできない。十年間の間にもう何百冊と書き写したのではないだろうか。いまでは私の右手の指には大きなペンだこができてしまった。
どんなに高価な本だろうと買うことのできる財力はあるだろうにどうしてだろう……と誰もが首をかしげるはず。けれどもこれは彼のねじくれた性格によるものであまり意味はない。
あれからまだ数分しかたっていないのに、催促するようにもう一度ベルが激しく鳴る。
私は急いで紺のワンピースと白いレースのエプロンのメイド服を身に着けた。そうして髪をまとめて慌てて部屋を出て、ご主人様のお部屋に急ぐ。
ご主人様の部屋は廊下を挟んで、私の部屋のすぐ向かいにある。その隣の部屋はまだ空っぽで、いづれご主人様の奥様となる方のもの。
(もうご主人様の二十七歳ですし、いつ奥様をお迎えになってもおかしくないですね。外面のすこぶるいいご主人様ですから、その気になればどんな女性もお断りしないでしょう)
大きな樫の一枚板で作られた重厚な扉をノックすると、ご主人様の機嫌の悪そうな声が聞こえてくる。
「遅い! 早く扉を開けて入ってこい!」
「は、はいっ! ご主人様!」
扉を開けると、そこには天蓋付きのベッドの上で座り込んでいるご主人様がいた。シルクの寝巻きを身にまとい、片脚を反対の足に乗せ腕を組んでいる姿は、すでに当主といってもいいほどの風格がある。
整った顔はまるで陶器の人形のよう。切れ長の目が更に美貌の迫力を増し、銀色の髪がさらりと揺れた。その姿に思わず胸が跳ねてしまう。
彼は身長も伸びて体つきも立派な男性になり、こうして不本意ながらも時々どきりとさせられてしまうのだ。最悪な性格だということを知っているというのに。本当に美形というものは恐ろしい。
いつもと変わらず美しい彼の顔には、ありありと苛立ちが浮かんでいる。
「俺が呼んだら五分以内に来いといっただろう。なんのためにお前の部屋を俺の隣にしたと思っている。それにスカートの裾が乱れているぞ」
「も、申し訳ありません。ご主人様」
私はあわててまくれ上がったスカートのすそを直した。こんな風に深夜、ご主人様にいきなり呼びつけられることはよくあること。
そうしてそれは喉が渇いたとかカーテンが三センチ開いていたから閉めてくれだとか……どうでもいいような理由ばかり。今回はどんなくだらないことなのだろうか。
しばらく重い沈黙が続くが、私は緊張しながらご主人様の命令を待つ。早く指示してくれないだろうか。ご主人様を見ているとなんだか胸の奥がチリチリとしてくるから嫌なのだ。
かゆいのに掻けない。かゆい場所に手が届かない――そんなもどかしい気持ちになってしまう。
「寝付けないから本が読みたい。そこの本棚から本を取ってくれ」
いきなり彼が声をだしたので、思わずビクッと肩が震えてしまった。
「わ、わかりました、ご主人様!」
私は駆け足で本棚の場所に向かう。本棚からご主人様のベッドまでは二メートルも離れていない。
「ニューグマルニアの書いた『資本統一論の不可逆性』がいい」
私の身長は百五十八センチ。たいしてご主人様は百八十センチを優に超えている。
そう――毎日毎日仕事と称してどうでもいい本の複写を何冊もさせるのも、私を夜中にいきなり呼びつけるのも――ご主人様は私の困った顔や泣いた顔を見るのが大好きだからなのだ。
私と出会った日にそう言っていたし、今まで本人からも何度も言われている。
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