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1巻
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「最近、西の領地で蛮族が暴れているんだ。ハニブラム家の兵を向かわせたんだけど、あまり状況が良くないようで……だから申し訳ないけど、またバッカムの援助を頼めるかな……?」
ユージーンは即答する。
「もちろんいいよ。僕はティーナの婚約者だからね。屋敷に戻ったらすぐに兵を手配しておくから心配しなくていいよ、キース。ハニブラム家の問題は、僕の問題でもあるからね」
「ありがとう、ユージーン。助かるよ」
ユージーンはキースに向かって笑いながら、握りしめたティーナの手に力を込めた。まるで婚約破棄などできやしないだろうと、面と向かって言われているようだ。
胸の奥が再びぎゅうぅっと苦しくなって、ティーナは唇を噛みしめた。
しばらくしてキースと話を終えたユージーンは、ティーナの顔を覗き込む。
「じゃあ、ティーナ。次に会うのは五日後のニューエンブルグ公爵家の夜会だね。僕が贈ったあの紺色のドレスと真珠のネックレスを身に着けてきて。ティーナに似合うと思って、町一番の宝石屋でじっくり選んだんだ。君がどんなに綺麗になるか、会うのが楽しみだよ」
「……え、ええ、そうするわ。ユージーン」
笑顔で返すが、うまく表情を作れているのか自信がない。
ユージーンは満面の笑みになると、彼女の手の甲にキスを落としてから、屋敷を去っていった。
小さくなっていく馬車を見ながら、ハニブラム子爵が満足そうに呟く。
「あの時、ティーナの傷が膿んでくれたおかげだ。背中に醜い傷が残ったせいで、ユージーン様と婚約できた。これでバッカム家とのつながりは盤石だ。すなわちハニブラムの領地も安泰だな」
「ええ、本当ですわ。あんなに高級なドレスや宝石を贈ってくださるのだから、バッカム侯爵家は素晴らしいですわ。うちではとても手が出ない金額のものばかりですもの」
ティーナの思いをよそに、両親と兄はこの婚約に非常に満足している。
思えばあの事件で、ティーナは両親に愛されていないと決定的に思い知った。
すべてのことにおいて常に兄より冷遇されるのは、自分が女で爵位を継ぐことができないからだと思っていた。父も母も心の奥では自分のことを愛してくれているのだと。
でも、それは違っていた。背中の傷の痛みに耐えるティーナを、彼らはちっとも構わなかった。
治療するには、化膿してしまった傷口を何度も裂いて膿をださなければいけない。でないと全身に膿が回って死んでしまうからだ。
包帯を替えるたびに繰り返される処置は、毎回背中に熱く焼けただれた鉄を当てられているようだった。けれどもそれを、幼い彼女は涙も見せずに耐えきった。
そんなティーナの前で、両親や兄は、より大きな傷が残ればいいと口にすることさえ憚らなかった。その時にようやく彼女は思い知ったのだ。彼らは娘のティーナを愛してはいないのだと。
そんな彼らのこと。彼女が婚約を解消したいといっても聞き入れてはくれないだろう。
「疲れましたので、お先に失礼します」
ティーナは喜んでいる両親と兄を尻目に、自室に戻った。
完全に治っているはずの背中の傷がうずく。ドレスの首元を弛めて、鏡越しに背中の傷を見てみる。
引き攣れた赤黒い傷は肩の少し下から始まって、腰まで一直線に続いていた。ティーナは悲しそうに目を細めた。
(なんて……なんて醜いのかしら……)
何度見ても醜悪な傷だ。
背中が開いていないドレスを選べば気づかれないが、もし目に入れば誰でも顔をしかめてしまうだろう。
ユージーン以外、ティーナと結婚してくれる男性は現れない。
幼い頃から一緒に過ごしてきて傷の存在を知っている彼ですら、そのおぞましさには身を引いてしまうのだから。
だからユージーンはその欲望を他の女性で解消しているのだ。
ティーナは胸を痛めた。
「私は一生誰とも結婚しなくてもいいのに……こんな辛い想いをするくらいならいっそのこと、婚約を解消したほうがいいのかしら……」
自分に問いかけるように呟きながら、クローゼットの引き出しを開けた。中には彼女の宝物が入っている。
貝殻や綺麗な石の間にある、分厚い詩集の本を手に取って開くと、中には薄いピンク色をしたユビリアムの押し花が挟まっていた。
あの事件の後、ユージーンが山で採ってきてくれたものだ。ずっと大切に保管してある。
ティーナはユビリアムの花弁に手を触れた。
いまの彼女にとって、これだけが唯一の救いだったから。
「……ユージーン。まだ私のことを大切に思う気持ちがあるって……そう信じててもいいのよね?」
そうしてティーナは濡れた瞼をそっと伏せたのだった。
そんなティーナにも数年前から親友と呼べる存在がいる。ここはその彼女、クレア・シュジェニーの屋敷だ。
豪華で煌びやかな飾りつけのティールームは、彼女の父の経営するシュジェニー商会の経営が好調なことを物語っていた。
国々をまたいで商売をしているので、普段目にしないような珍しい物もたくさんある。
クレアは昨日のデートの様子をティーナから聞くと、勢いよく椅子から立ち上がった。テーブルが音を立てて揺れ、カップの中の紅茶があやうく零れそうだ。
「酷いわ! どうして黙って彼のいいなりになるの⁉ だいたい昔の事件だって、そもそもティーナがユージーン様の命を救ってあげたんじゃないの。もっとガツンと言ってやらないと!」
「ゴホンッ!! お嬢様……」
あまりに大声だったので、隅で控えていた執事が咳ばらいをしてクレアを諫める。
クレアはばつが悪そうに目を細めると、心を落ち着かせてから再び椅子に腰かけた。
そんな彼女をティーナは微笑ましく思う。
「ふふ、クレアったら」
クレアは薄茶色の腰までの真っ直ぐな髪に、強い意思の宿った栗色の瞳をしている。少し吊り上がった彼女の目は魅力的で、いつも生命力に溢れている。
心穏やかで大人しく、婚約者の不貞すら責めることのできないティーナとは正反対だ。
ティーナが一人ぼっちでユージーンに待たされている時、声をかけてもらったのがきっかけでクレアとは親しくなった。
それ以来、彼女はなんでも相談できる友人だ。
背中の傷のことは世間には公にしていないが、クレアにはティーナから話した。彼女は大切な親友だから。
それから二人は、こうやって週に二回はクレアの屋敷で一緒にお茶をしている。ティーナの屋敷では落ち着かないからだ。
すぐに両親と兄が来て、王国最大の商会の娘であるクレアと話をしたがる。
ティーナは寂しそうに微笑んだ。
「……でもユージーンは、私が気に入らないみたいだわ。私は彼の好みの容姿じゃないし、それに彼にとってはこの婚約は強制されたようなものだもの」
「じゃあどうしてティーナが自分から婚約を破棄するって言ったら断るのよ! 渡りに船じゃない。結局ユージーン様はティーナみたいな大人しくて自分の言いなりになる女性と結婚して、この先も他の女と遊び続けたいだけなんだわ! 最低っ! もう婚約を破棄しちゃいなさいよ!」
(私と結婚しても他の女性と遊びたい。ユージーンの本心はそうなのかしら……?)
クレアの言葉に、彼女は心の中で自問自答した。
確かにユージーンの女癖の悪さは結婚しても治りそうにない。
ティーナは悲しい目をして俯き、そして顔を横に振った。
「ユージーンが私と別れたがらないのなら、私から婚約破棄するつもりはないの。それに、もしそうなったらお父様やハニブラム領の民たちはたちまち困ってしまうわ。うちの領地はバッカム家の援助がないとやっていけないほど弱小なのですもの」
「いい! ご両親のことなんか放っておきなさいな。もしティーナが婚約を破棄して家から追い出されても、私が面倒を見てあげるから心配しないで!」
クレアが頼もしそうに自分の胸を叩く。
確かに彼女なら、ティーナ一人の面倒を見るくらい簡単だろう。
(もしかしたらクレアのお父様の商会で雇ってもらえるかもしれないわ。そうだったら、どれほど心が楽になるだろうかしら。あぁ……でもそんなことは無理だわ……)
ほんの少しだけ、いまとは違う明るい未来を夢見た後、ティーナは現実に戻る。
実際に婚約破棄をすればバッカム家との友好的関係も終わってしまう。そうすればなんの関係もないハニブラム領民の生活が脅かされるだろう。
ティーナの我がままで彼らを犠牲にするわけにはいかない。それにユージーンへの愛情も、まだ心の中にわずかながら残っているのだ。
(婚約を破棄したい……でもできない。苦しくてどうしようもない……いつだって同じことの繰り返しだわ)
でもそんな彼女の心の内を知られてしまったら、きっとクレアを心配させてしまうだろう。ティーナは無理に笑顔を作る。
「ありがとうクレア。でもね、私が婚約を解消しないのは、本当は私がまだユージーンを好きだからなのよ。ユビリアムの花を採ってきてくれたあの時のユージーンを信じたいの。あなたが代わりに怒ってくれたお陰で元気になったわ。あなたは私の一番の友達よ」
するとクレアは照れたのか頬を真っ赤に染めた。
彼女は感情がすぐに顔に出るので分かりやすい。ユージーンの心もこんな風に分かりやすければいいのにと思う。
ティーナはクレアの裏表のない、真っ直ぐな明るさにいつも救われていた。
それから二人は美味しいお茶菓子を味わいながら、しばらく楽しい会話を続けた。ティーナは社交界の出来事に疎いが、クレアは違う。
我が国、ダリア王国のみならず近隣諸国でも手広く商売を営んでいる父親のお陰で、色々な情報が集まってくるらしい。
クレアの話は、ティーナには想像もつかないことばかりでとても面白かった。
「そういえば、今度のニューエンブルグ公爵家の夜会に、リンデル皇国の騎士たちがいらっしゃるのですって。しかもみんな揃って独身の男性らしいわ。皇国で騎士になるのは狭き門だから、大抵はお年を召した方が多いのに珍しいわよね」
「へえ、そうなのね」
リンデル皇国はダリア王国の東側の領地に接する隣国で、王国と最も親しみのある友好国だ。
また両国の王族同士で婚姻を繰り返してきたので血のつながりがある。なのでこうして社交シーズンになる頃には、皇国から大勢の人がやってくる。
だが隣の国とはいえ、簡単には訪れることはできない。
皇国までは深い山を越えていく道しかないので、馬車だといくつもの難所を通る。気候のいい春と秋しか行き来は難しい。
皇国の気候は一年中春のように穏やか。対してダリア王国は夏は暑く、冬は雪が積もって凍えるような寒さだ。
なので貴族の子弟はこぞって皇国に留学をする。今回は騎士団交流の一環らしい。
「なかでもエグバート様という方が一番の実力者らしいわ。すぐにでも騎士隊長になれる器なのですって。実践に近い集団模擬戦でも、あっという間に数多くの相手を倒したそうよ」
クレアによると、彼は眉目秀麗で武術も優れているらしい。その上、ダリア王国の公爵家の嫡男ということで、王国中の令嬢が色めきたっているそうだ。
「夜会に向けてドレスを新調する令嬢たちのせいで、王都の仕立て屋はどこも大忙しらしいわ。という私も、気合いを入れて豪華なドレスを作らせたのだけれどもね。何が起こるか分からないじゃない? 一目で騎士様と熱烈な恋に落ちるとか」
クレアが軽快に話すと、ティーナはクスクスと笑い声を漏らした。
「あら、すごいわね。そのドレスをぜひ見てみたいわ。クレアのことだもの、とても素敵なドレスなのでしょうね」
「あら。私のドレスのことよりも、ティーナのほうこそエグバート様に気に入られるかもしれないわよ? そうなったら残念だけど、彼はティーナに譲ってあげるわ。どんな男性だってユージーン様よりましなはずだもの」
「そんな譲るだなんて――それに私は他の男性なんて興味はないわ」
最後のセリフは消え入りそうなほど小さな声だ。
そんなことよりもティーナは、他のことに気を揉んでいた。
(夜会の日――エグバート様にみんなが注目してくれて、ユージーンを誘う女性が現れなければいいのに……)
楽しい時間はあっという間に過ぎ去ってしまうもの。次に会う約束をして、ティーナは手配していた馬車に乗り込んだ。
王都で暮らしている時は、こうして移動のたびに馬車を頼む。子爵家はあまりお金に余裕がないので、王都では専用の馬車を所有していない。
町の中心部を通り過ぎていく時、馬車がいきなりその速度を緩めて止まった。どうしてなのか気になったティーナは、窓から顔を出して馭者に尋ねる。
「何かあったのですか?」
「あぁ、すみません。馬車の前で人が倒れたようです。危険ですので、中でお待ちください」
そう言って馭者は馬車を降りた。ティーナが馬車の窓から外を覗くと、そこには一人の若い男が苦しそうに息をして、石畳の上に倒れこんでいる。
道の真ん中に彼が倒れているので、馬車を進められないらしい。
馭者は彼を道の隅に連れていくとそこに放置し、再び馬車に乗り込んで馬を走らせようとする。
異国風の服を着た病気の男を、介抱しようとする人はいないようだ。それどころか誰もが遠巻きにして見ているだけ。
いま北の国で疫病が流行っているので、感染が不安なのだろう。その間にも男の顔色はますます青白さを増していく。
「待って! このままここで待っていてください!」
見ていられなくなったティーナは、弾かれたように馬車を降りた。一直線に道端に座り込んでいる男に駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
ティーナが声をかけると、男は辛そうに肩で息をしながら鋭い眼光をティーナに向けた。
その緑と茶の混ざったアンバー色の瞳には強い光が宿っていて、弱っているというのに男の力強さを思わせる。
少し長めの黒髪は艶があり、太陽の光を受けて黒曜石のように輝いていた。
その様子は危険で美しい手負いの獣のようだ。思わず心臓が跳ねる。
「向こうへ行け……俺は見世物じゃない! 俺に触るな!」
男の迫力に、ティーナは一歩手前で足を止めた。額には脂汗が光っていて痛々しい。
なのに彼は彼女の助けを拒絶している。かといって、このまま見捨てるなんてできない。
どうしようか迷っていると、男は座っているのも限界になったのか地面に崩れ落ちた。
遠慮がちに汗ばんだ額に触れてみる。すると男は石畳に横になったままびくりと体を動かして、ティーナをぎろりと睨んだ。
どうやら熱はないようだ。どちらかといえば冷たいくらい。
症状が出れば高熱を出すのが疫病の特徴。どうやら疫病ではなさそうだが、彼は青白い顔をしていて相当気分が悪そうだ。
そういう時に効く薬草の名をティーナは知っていた。
昔からずいぶん医者には世話になったので、その時にいろいろな薬草の話を聞いたことがある。
ティーナは急いで近くの屋台まで走っていき、数種類の特別な薬草と水を買ってきた。
手持ちのお金が足りなかったので、宝石のついたイヤリングも渡して薬草を手に入れる。
薬草を手でつぶしてから男の顔の近くに寄せ、水で濡らしたハンカチを額にあてる。そうして、もう一つの薬草の葉を男の口の前に持っていった。
「大きく息を吸ってください。この薬草の香りは血行を良くするので、じきに気分が楽になるはずです。そしてこっちの薬草は、口に含めば気持ちの悪さがなくなりますわ。どちらも安全な薬草ですので安心してください」
男はティーナを警戒しながら威嚇し、睨みつけた。
「もし俺に何かするつもりなら、その細首を折ってやる! そのくらいの力はまだ残っているからな」
その剣幕にティーナはびくりと肩を震わせる。それでも彼女は逃げ出さなかった。
男はティーナが手渡した薬草を指で潰して、まずは確かめるように小さく息を吸い込んだ。ミントとコリアンダーが混ざったような薬草の香りが辺りに漂う。
男は一瞬顔をしかめたが、薬草を安全なものと判断したようだ。何度も大きく呼吸を繰り返す。しばらくして少し元気になったようで、彼はティーナが手渡した薬草を乱暴に口に入れた。
幾度か息をするたびに、徐々に男の顔に赤みが戻って来るのがはっきりと分かる。
「あぁ、良かったわ」
「――お前は変わった女だな……」
男がぼそりと呟いた。
きっと彼は異国から来た商人か何かなのだろう。
状態が良くなるまで、ティーナは懸命に彼の背中をさすっていた。しばらくして具合が良くなったのか、男は天を仰いで顔を弛める。
ティーナは安堵した。
「その服は隣のリンデル皇国のものですよね。もう少しこのままゆっくりお休みになれば、動けるようになると思いますわ」
ティーナは立ち上がり、ドレスについた土埃を掃う。彼女は男に向かって一礼した。
「では馬車を待たせていますので、私はここで失礼いたします」
この場を去ろうとするティーナに、彼が慌てて声を掛ける。
「――待てっ、お前の名前は……! 俺は誰にも貸しは作りたくない、礼をさせろ!」
けれども男はまだ本調子ではないようで、石畳に座りこんだままだ。
「礼など必要ありませんわ。そうですわね、私へのお礼ならば、どうかお体を大事になさってください。そうしてダリア王国滞在を楽しんでいただけると、とても嬉しいですわ」
ティーナは笑って男の側を離れると、馬車の中に戻った。馭者が不安そうな面持ちで彼女を振り返る。
「大丈夫です。疫病ではありませんでしたから。でもお待たせしてごめんなさい」
すると馭者はホッとした表情を浮かべた。そうして前を向いて再び馬車を走らせると、にこやかに話し始める。
「お嬢さんは、お優しい方ですね。こんなに思いやりのある貴族のお嬢さんは初めてですよ。どこの誰とも分からない旅人を助けるなんて」
ティーナは小さく笑って答えた。
「私、子供の頃、大怪我をしたことがあるの。その時にたくさんの方に手厚い看護をしてもらって、本当に感謝しています。ですから、その時にしていただいたことを、少しでも誰かにお返ししたいと思っているだけなの」
ふとティーナはハンカチを男に預けたままだということを思い出した。あれはユージーンからプレゼントされた物だから、バッカム侯爵家の紋章が刺繍されている。
(大事なハンカチを失くしたことが分かったら、またお母様に怒られてしまうかしら……)
一瞬で晴れた気分が憂鬱になる。
でもあの時にはそれは必要なものだったのだ。そう自分に言い聞かせて心を落ち着かせた。
屋敷に戻ったその翌朝のこと。
ティーナの危惧していた通り、彼女は朝食の前に母に呼び出された。
侍女から母に話がいったのだろう。けれども、見知らぬ男性を介抱したことは誰にも言っていない。そんなことが母に知られたら、もっと事態が悪くなるのは目に見えている。
部屋に入ると、母はティーナに背を向けたまま窓の方を向いていた。そうして手にした扇を何度も開いては閉じたりを繰り返している。
これは母、マチルダが怒りを抑えている時の癖だ。ティーナは身を固くして縮こまった。
マチルダは振り返ると、間髪も入れずに高い声で怒鳴り始めた。
「バッカム侯爵家の紋章の入ったハンカチを、いつの間にか失くしてしまっただなんて! ユージーン様が気分を悪くされるわ! ティーナ! なんて馬鹿な子なの!」
マチルダがティーナの顔のすぐ傍で扇を閉じたので、反射的に目を閉じた。全身に力が入って、恐怖が掻き立てられる。ティーナは青い顔をして慌てて頭を下げた。
「ごめんなさい、お母様……申し訳ありません」
「あなたの謝罪一つでどうにかなる問題じゃありません! ユージーン様に見捨てられたら、我が家はどうなると思っているのですか! 本当に愚鈍な子なのだから‼」
こうなるとマチルダは、怒りが収まるまで大声で怒鳴り続ける。ティーナはいつものように頭を下げ、何度も謝罪の言葉を繰り返すしかない。
一時間程小言を聞くと、ようやくマチルダの気分も落ち着いたようだ。
「いいわね、罰として夜会の日まで外出禁止よ! それとユージーン様に許してもらえるまで、お詫びの手紙を書きなさい!」
そう言い捨てて、マチルダは部屋を後にした。そうして今日一日、食事をとることも禁じられる。
ティーナは自室の机に向かい、肩を落とした。
こんな風に食事を抜かれることには慣れているが、今日から四日間の外出禁止は辛い。クレアと明後日会う約束をしていたのだが、駄目になってしまった。
心が沈んでしまう。
けれどもティーナは一人の旅人を救ったのだ。あのまま放っておけば、死にはしないだろうが悪化して何日も寝込むことになっただろう。
そう思って落ち込んだ気持ちを奮いたたせる。悩んでも仕方ない。できるだけ前向きに考えよう。
「そうだわ。教会に寄付する編み物を仕上げようと思っていたから、四日間家にこもるのだったら、ちょうどいいわね。さっさとお詫びの手紙を書いてから、作業をしましょう」
「あの……お嬢様、大丈夫でしたか――」
机に向かって書き物をしていると、中年の白髪交じりの侍女がティーナの側にやってきた。
この侍女、ヒルダはティーナが生まれる前からハニブラムの屋敷に勤めている。
彼女の娘が王都に住んでいるというので、今年は領地から王都の別邸についてきた。彼女の娘は先週出産したばかりだ。
ハンカチを失くしたことを告げ口する形になってしまったので、気に病んでいるのだろう。
ヒルダはすまなそうな面持ちで頭を下げた。
「私のせいで申し訳ありません。お嬢様」
「気にしないで。ハンカチを失くしたのは私だし、ユージーンから貰ったハンカチはあの一枚だけだもの。すぐ気づかれるわ。どうせ今朝になったら、私からお母様に謝ろうと思っていたの。あなたにいやな思いをさせて、私の方こそごめんなさい」
ティーナは心からの笑みを浮かべた。けれどもヒルダはまだ恐縮して頭を下げ続けている。
「さぁ、頭を上げてちょうだい。明日、ヒルダのお孫さんを見に行く予定だったのに、駄目になって申し訳ないわ。でも夜会の次の日には、赤ちゃんのプレゼントを持って伺うわね」
ティーナがそう言うと、ヒルダは何かを言いたそうに彼女を見た。その目は怯えているようだ。
一日食事を抜かれてしまったことで、そんなに気を遣わせてしまったのだろうか。
「あぁ、もう本当に気にしないで。お母様に怒られるのは慣れているもの。あなたも知っているでしょう? それに最近少しドレスがきつくなってきていたのよ。夜会に向けて少しダイエットしておくためにも良かったわ」
その言葉に安心したのか、ヒルダはようやく笑顔を見せた。そうして何度も頭を下げてから部屋を退出する。
ティーナは気を取り直して、ユージーンへ謝罪の手紙を書き始めた。
手紙を出してもユージーンから返事がきたことは一度もない。たぶん今回も返信はないだろう。
(ユージーンは手紙を書くのが苦手だから……)
ヒルダにはああ言ったが、あのハンカチはティーナが二十歳になった時、バッカム家の婚約者としてユージーンが特別にあつらえさせてプレゼントしてくれたもの。
ティーナがそのハンカチを失くしたと知ったら、彼はどんな反応をするのだろう。
湧き上がる不安を振り払うように、顔を横に振る。
(誠心誠意、謝れば許してくれるわ……ユージーンは本当はとても優しい人だもの……)
ティーナは不安な心を落ち着かせた。
第二章 リンデル皇国の騎士との出会い
夜会の日はすぐにやってきた。
ティーナは約束通り紺色のドレスに真珠のネックレスを身に着け、ユージーンが迎えに来るのを待つ。
ティーナのために特別に仕立てられたドレスは、傷が隠れるよう背中の襟ぐりを浅くしている。
ドレスのデザインは大人っぽくシンプルで、体のラインが良く分かるもの。背中を出さない代わりに、胸のあたりが大きく開いていた。
巻きの厚い真珠のネックレスは、ティーナのきめ細かい肌に映えて美しく輝いている。
公爵家主催の夜会ということで、両親と兄は張り切っていた。時間に遅れてはならないと、彼らはティーナを置いて先に公爵家に向かっている。
約束の時間より三十分ほど遅れて、ユージーンが到着した。
ティーナは馬車から降りてきた彼の姿に目を奪われる。
正装で現れたユージーンは完璧だった。
もともと容姿がいい上に髪型を整え、かっちりとした黒の三つ揃えを着こなしているのだ。相変わらずの見栄えの良さに、ハニブラム家の侍女までもが口を開けて見惚れている。
いつもの爽やかな笑顔とともに、彼が甘い声をだす。
「ティーナ、お待たせ。やっぱりその紺色のドレス、君に一番よく似合うね。真珠も色が良くて君にぴったりだ。とても綺麗だよ」
「ありがとう、ユージーン。あなたも素敵よ」
ユージーンは即答する。
「もちろんいいよ。僕はティーナの婚約者だからね。屋敷に戻ったらすぐに兵を手配しておくから心配しなくていいよ、キース。ハニブラム家の問題は、僕の問題でもあるからね」
「ありがとう、ユージーン。助かるよ」
ユージーンはキースに向かって笑いながら、握りしめたティーナの手に力を込めた。まるで婚約破棄などできやしないだろうと、面と向かって言われているようだ。
胸の奥が再びぎゅうぅっと苦しくなって、ティーナは唇を噛みしめた。
しばらくしてキースと話を終えたユージーンは、ティーナの顔を覗き込む。
「じゃあ、ティーナ。次に会うのは五日後のニューエンブルグ公爵家の夜会だね。僕が贈ったあの紺色のドレスと真珠のネックレスを身に着けてきて。ティーナに似合うと思って、町一番の宝石屋でじっくり選んだんだ。君がどんなに綺麗になるか、会うのが楽しみだよ」
「……え、ええ、そうするわ。ユージーン」
笑顔で返すが、うまく表情を作れているのか自信がない。
ユージーンは満面の笑みになると、彼女の手の甲にキスを落としてから、屋敷を去っていった。
小さくなっていく馬車を見ながら、ハニブラム子爵が満足そうに呟く。
「あの時、ティーナの傷が膿んでくれたおかげだ。背中に醜い傷が残ったせいで、ユージーン様と婚約できた。これでバッカム家とのつながりは盤石だ。すなわちハニブラムの領地も安泰だな」
「ええ、本当ですわ。あんなに高級なドレスや宝石を贈ってくださるのだから、バッカム侯爵家は素晴らしいですわ。うちではとても手が出ない金額のものばかりですもの」
ティーナの思いをよそに、両親と兄はこの婚約に非常に満足している。
思えばあの事件で、ティーナは両親に愛されていないと決定的に思い知った。
すべてのことにおいて常に兄より冷遇されるのは、自分が女で爵位を継ぐことができないからだと思っていた。父も母も心の奥では自分のことを愛してくれているのだと。
でも、それは違っていた。背中の傷の痛みに耐えるティーナを、彼らはちっとも構わなかった。
治療するには、化膿してしまった傷口を何度も裂いて膿をださなければいけない。でないと全身に膿が回って死んでしまうからだ。
包帯を替えるたびに繰り返される処置は、毎回背中に熱く焼けただれた鉄を当てられているようだった。けれどもそれを、幼い彼女は涙も見せずに耐えきった。
そんなティーナの前で、両親や兄は、より大きな傷が残ればいいと口にすることさえ憚らなかった。その時にようやく彼女は思い知ったのだ。彼らは娘のティーナを愛してはいないのだと。
そんな彼らのこと。彼女が婚約を解消したいといっても聞き入れてはくれないだろう。
「疲れましたので、お先に失礼します」
ティーナは喜んでいる両親と兄を尻目に、自室に戻った。
完全に治っているはずの背中の傷がうずく。ドレスの首元を弛めて、鏡越しに背中の傷を見てみる。
引き攣れた赤黒い傷は肩の少し下から始まって、腰まで一直線に続いていた。ティーナは悲しそうに目を細めた。
(なんて……なんて醜いのかしら……)
何度見ても醜悪な傷だ。
背中が開いていないドレスを選べば気づかれないが、もし目に入れば誰でも顔をしかめてしまうだろう。
ユージーン以外、ティーナと結婚してくれる男性は現れない。
幼い頃から一緒に過ごしてきて傷の存在を知っている彼ですら、そのおぞましさには身を引いてしまうのだから。
だからユージーンはその欲望を他の女性で解消しているのだ。
ティーナは胸を痛めた。
「私は一生誰とも結婚しなくてもいいのに……こんな辛い想いをするくらいならいっそのこと、婚約を解消したほうがいいのかしら……」
自分に問いかけるように呟きながら、クローゼットの引き出しを開けた。中には彼女の宝物が入っている。
貝殻や綺麗な石の間にある、分厚い詩集の本を手に取って開くと、中には薄いピンク色をしたユビリアムの押し花が挟まっていた。
あの事件の後、ユージーンが山で採ってきてくれたものだ。ずっと大切に保管してある。
ティーナはユビリアムの花弁に手を触れた。
いまの彼女にとって、これだけが唯一の救いだったから。
「……ユージーン。まだ私のことを大切に思う気持ちがあるって……そう信じててもいいのよね?」
そうしてティーナは濡れた瞼をそっと伏せたのだった。
そんなティーナにも数年前から親友と呼べる存在がいる。ここはその彼女、クレア・シュジェニーの屋敷だ。
豪華で煌びやかな飾りつけのティールームは、彼女の父の経営するシュジェニー商会の経営が好調なことを物語っていた。
国々をまたいで商売をしているので、普段目にしないような珍しい物もたくさんある。
クレアは昨日のデートの様子をティーナから聞くと、勢いよく椅子から立ち上がった。テーブルが音を立てて揺れ、カップの中の紅茶があやうく零れそうだ。
「酷いわ! どうして黙って彼のいいなりになるの⁉ だいたい昔の事件だって、そもそもティーナがユージーン様の命を救ってあげたんじゃないの。もっとガツンと言ってやらないと!」
「ゴホンッ!! お嬢様……」
あまりに大声だったので、隅で控えていた執事が咳ばらいをしてクレアを諫める。
クレアはばつが悪そうに目を細めると、心を落ち着かせてから再び椅子に腰かけた。
そんな彼女をティーナは微笑ましく思う。
「ふふ、クレアったら」
クレアは薄茶色の腰までの真っ直ぐな髪に、強い意思の宿った栗色の瞳をしている。少し吊り上がった彼女の目は魅力的で、いつも生命力に溢れている。
心穏やかで大人しく、婚約者の不貞すら責めることのできないティーナとは正反対だ。
ティーナが一人ぼっちでユージーンに待たされている時、声をかけてもらったのがきっかけでクレアとは親しくなった。
それ以来、彼女はなんでも相談できる友人だ。
背中の傷のことは世間には公にしていないが、クレアにはティーナから話した。彼女は大切な親友だから。
それから二人は、こうやって週に二回はクレアの屋敷で一緒にお茶をしている。ティーナの屋敷では落ち着かないからだ。
すぐに両親と兄が来て、王国最大の商会の娘であるクレアと話をしたがる。
ティーナは寂しそうに微笑んだ。
「……でもユージーンは、私が気に入らないみたいだわ。私は彼の好みの容姿じゃないし、それに彼にとってはこの婚約は強制されたようなものだもの」
「じゃあどうしてティーナが自分から婚約を破棄するって言ったら断るのよ! 渡りに船じゃない。結局ユージーン様はティーナみたいな大人しくて自分の言いなりになる女性と結婚して、この先も他の女と遊び続けたいだけなんだわ! 最低っ! もう婚約を破棄しちゃいなさいよ!」
(私と結婚しても他の女性と遊びたい。ユージーンの本心はそうなのかしら……?)
クレアの言葉に、彼女は心の中で自問自答した。
確かにユージーンの女癖の悪さは結婚しても治りそうにない。
ティーナは悲しい目をして俯き、そして顔を横に振った。
「ユージーンが私と別れたがらないのなら、私から婚約破棄するつもりはないの。それに、もしそうなったらお父様やハニブラム領の民たちはたちまち困ってしまうわ。うちの領地はバッカム家の援助がないとやっていけないほど弱小なのですもの」
「いい! ご両親のことなんか放っておきなさいな。もしティーナが婚約を破棄して家から追い出されても、私が面倒を見てあげるから心配しないで!」
クレアが頼もしそうに自分の胸を叩く。
確かに彼女なら、ティーナ一人の面倒を見るくらい簡単だろう。
(もしかしたらクレアのお父様の商会で雇ってもらえるかもしれないわ。そうだったら、どれほど心が楽になるだろうかしら。あぁ……でもそんなことは無理だわ……)
ほんの少しだけ、いまとは違う明るい未来を夢見た後、ティーナは現実に戻る。
実際に婚約破棄をすればバッカム家との友好的関係も終わってしまう。そうすればなんの関係もないハニブラム領民の生活が脅かされるだろう。
ティーナの我がままで彼らを犠牲にするわけにはいかない。それにユージーンへの愛情も、まだ心の中にわずかながら残っているのだ。
(婚約を破棄したい……でもできない。苦しくてどうしようもない……いつだって同じことの繰り返しだわ)
でもそんな彼女の心の内を知られてしまったら、きっとクレアを心配させてしまうだろう。ティーナは無理に笑顔を作る。
「ありがとうクレア。でもね、私が婚約を解消しないのは、本当は私がまだユージーンを好きだからなのよ。ユビリアムの花を採ってきてくれたあの時のユージーンを信じたいの。あなたが代わりに怒ってくれたお陰で元気になったわ。あなたは私の一番の友達よ」
するとクレアは照れたのか頬を真っ赤に染めた。
彼女は感情がすぐに顔に出るので分かりやすい。ユージーンの心もこんな風に分かりやすければいいのにと思う。
ティーナはクレアの裏表のない、真っ直ぐな明るさにいつも救われていた。
それから二人は美味しいお茶菓子を味わいながら、しばらく楽しい会話を続けた。ティーナは社交界の出来事に疎いが、クレアは違う。
我が国、ダリア王国のみならず近隣諸国でも手広く商売を営んでいる父親のお陰で、色々な情報が集まってくるらしい。
クレアの話は、ティーナには想像もつかないことばかりでとても面白かった。
「そういえば、今度のニューエンブルグ公爵家の夜会に、リンデル皇国の騎士たちがいらっしゃるのですって。しかもみんな揃って独身の男性らしいわ。皇国で騎士になるのは狭き門だから、大抵はお年を召した方が多いのに珍しいわよね」
「へえ、そうなのね」
リンデル皇国はダリア王国の東側の領地に接する隣国で、王国と最も親しみのある友好国だ。
また両国の王族同士で婚姻を繰り返してきたので血のつながりがある。なのでこうして社交シーズンになる頃には、皇国から大勢の人がやってくる。
だが隣の国とはいえ、簡単には訪れることはできない。
皇国までは深い山を越えていく道しかないので、馬車だといくつもの難所を通る。気候のいい春と秋しか行き来は難しい。
皇国の気候は一年中春のように穏やか。対してダリア王国は夏は暑く、冬は雪が積もって凍えるような寒さだ。
なので貴族の子弟はこぞって皇国に留学をする。今回は騎士団交流の一環らしい。
「なかでもエグバート様という方が一番の実力者らしいわ。すぐにでも騎士隊長になれる器なのですって。実践に近い集団模擬戦でも、あっという間に数多くの相手を倒したそうよ」
クレアによると、彼は眉目秀麗で武術も優れているらしい。その上、ダリア王国の公爵家の嫡男ということで、王国中の令嬢が色めきたっているそうだ。
「夜会に向けてドレスを新調する令嬢たちのせいで、王都の仕立て屋はどこも大忙しらしいわ。という私も、気合いを入れて豪華なドレスを作らせたのだけれどもね。何が起こるか分からないじゃない? 一目で騎士様と熱烈な恋に落ちるとか」
クレアが軽快に話すと、ティーナはクスクスと笑い声を漏らした。
「あら、すごいわね。そのドレスをぜひ見てみたいわ。クレアのことだもの、とても素敵なドレスなのでしょうね」
「あら。私のドレスのことよりも、ティーナのほうこそエグバート様に気に入られるかもしれないわよ? そうなったら残念だけど、彼はティーナに譲ってあげるわ。どんな男性だってユージーン様よりましなはずだもの」
「そんな譲るだなんて――それに私は他の男性なんて興味はないわ」
最後のセリフは消え入りそうなほど小さな声だ。
そんなことよりもティーナは、他のことに気を揉んでいた。
(夜会の日――エグバート様にみんなが注目してくれて、ユージーンを誘う女性が現れなければいいのに……)
楽しい時間はあっという間に過ぎ去ってしまうもの。次に会う約束をして、ティーナは手配していた馬車に乗り込んだ。
王都で暮らしている時は、こうして移動のたびに馬車を頼む。子爵家はあまりお金に余裕がないので、王都では専用の馬車を所有していない。
町の中心部を通り過ぎていく時、馬車がいきなりその速度を緩めて止まった。どうしてなのか気になったティーナは、窓から顔を出して馭者に尋ねる。
「何かあったのですか?」
「あぁ、すみません。馬車の前で人が倒れたようです。危険ですので、中でお待ちください」
そう言って馭者は馬車を降りた。ティーナが馬車の窓から外を覗くと、そこには一人の若い男が苦しそうに息をして、石畳の上に倒れこんでいる。
道の真ん中に彼が倒れているので、馬車を進められないらしい。
馭者は彼を道の隅に連れていくとそこに放置し、再び馬車に乗り込んで馬を走らせようとする。
異国風の服を着た病気の男を、介抱しようとする人はいないようだ。それどころか誰もが遠巻きにして見ているだけ。
いま北の国で疫病が流行っているので、感染が不安なのだろう。その間にも男の顔色はますます青白さを増していく。
「待って! このままここで待っていてください!」
見ていられなくなったティーナは、弾かれたように馬車を降りた。一直線に道端に座り込んでいる男に駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
ティーナが声をかけると、男は辛そうに肩で息をしながら鋭い眼光をティーナに向けた。
その緑と茶の混ざったアンバー色の瞳には強い光が宿っていて、弱っているというのに男の力強さを思わせる。
少し長めの黒髪は艶があり、太陽の光を受けて黒曜石のように輝いていた。
その様子は危険で美しい手負いの獣のようだ。思わず心臓が跳ねる。
「向こうへ行け……俺は見世物じゃない! 俺に触るな!」
男の迫力に、ティーナは一歩手前で足を止めた。額には脂汗が光っていて痛々しい。
なのに彼は彼女の助けを拒絶している。かといって、このまま見捨てるなんてできない。
どうしようか迷っていると、男は座っているのも限界になったのか地面に崩れ落ちた。
遠慮がちに汗ばんだ額に触れてみる。すると男は石畳に横になったままびくりと体を動かして、ティーナをぎろりと睨んだ。
どうやら熱はないようだ。どちらかといえば冷たいくらい。
症状が出れば高熱を出すのが疫病の特徴。どうやら疫病ではなさそうだが、彼は青白い顔をしていて相当気分が悪そうだ。
そういう時に効く薬草の名をティーナは知っていた。
昔からずいぶん医者には世話になったので、その時にいろいろな薬草の話を聞いたことがある。
ティーナは急いで近くの屋台まで走っていき、数種類の特別な薬草と水を買ってきた。
手持ちのお金が足りなかったので、宝石のついたイヤリングも渡して薬草を手に入れる。
薬草を手でつぶしてから男の顔の近くに寄せ、水で濡らしたハンカチを額にあてる。そうして、もう一つの薬草の葉を男の口の前に持っていった。
「大きく息を吸ってください。この薬草の香りは血行を良くするので、じきに気分が楽になるはずです。そしてこっちの薬草は、口に含めば気持ちの悪さがなくなりますわ。どちらも安全な薬草ですので安心してください」
男はティーナを警戒しながら威嚇し、睨みつけた。
「もし俺に何かするつもりなら、その細首を折ってやる! そのくらいの力はまだ残っているからな」
その剣幕にティーナはびくりと肩を震わせる。それでも彼女は逃げ出さなかった。
男はティーナが手渡した薬草を指で潰して、まずは確かめるように小さく息を吸い込んだ。ミントとコリアンダーが混ざったような薬草の香りが辺りに漂う。
男は一瞬顔をしかめたが、薬草を安全なものと判断したようだ。何度も大きく呼吸を繰り返す。しばらくして少し元気になったようで、彼はティーナが手渡した薬草を乱暴に口に入れた。
幾度か息をするたびに、徐々に男の顔に赤みが戻って来るのがはっきりと分かる。
「あぁ、良かったわ」
「――お前は変わった女だな……」
男がぼそりと呟いた。
きっと彼は異国から来た商人か何かなのだろう。
状態が良くなるまで、ティーナは懸命に彼の背中をさすっていた。しばらくして具合が良くなったのか、男は天を仰いで顔を弛める。
ティーナは安堵した。
「その服は隣のリンデル皇国のものですよね。もう少しこのままゆっくりお休みになれば、動けるようになると思いますわ」
ティーナは立ち上がり、ドレスについた土埃を掃う。彼女は男に向かって一礼した。
「では馬車を待たせていますので、私はここで失礼いたします」
この場を去ろうとするティーナに、彼が慌てて声を掛ける。
「――待てっ、お前の名前は……! 俺は誰にも貸しは作りたくない、礼をさせろ!」
けれども男はまだ本調子ではないようで、石畳に座りこんだままだ。
「礼など必要ありませんわ。そうですわね、私へのお礼ならば、どうかお体を大事になさってください。そうしてダリア王国滞在を楽しんでいただけると、とても嬉しいですわ」
ティーナは笑って男の側を離れると、馬車の中に戻った。馭者が不安そうな面持ちで彼女を振り返る。
「大丈夫です。疫病ではありませんでしたから。でもお待たせしてごめんなさい」
すると馭者はホッとした表情を浮かべた。そうして前を向いて再び馬車を走らせると、にこやかに話し始める。
「お嬢さんは、お優しい方ですね。こんなに思いやりのある貴族のお嬢さんは初めてですよ。どこの誰とも分からない旅人を助けるなんて」
ティーナは小さく笑って答えた。
「私、子供の頃、大怪我をしたことがあるの。その時にたくさんの方に手厚い看護をしてもらって、本当に感謝しています。ですから、その時にしていただいたことを、少しでも誰かにお返ししたいと思っているだけなの」
ふとティーナはハンカチを男に預けたままだということを思い出した。あれはユージーンからプレゼントされた物だから、バッカム侯爵家の紋章が刺繍されている。
(大事なハンカチを失くしたことが分かったら、またお母様に怒られてしまうかしら……)
一瞬で晴れた気分が憂鬱になる。
でもあの時にはそれは必要なものだったのだ。そう自分に言い聞かせて心を落ち着かせた。
屋敷に戻ったその翌朝のこと。
ティーナの危惧していた通り、彼女は朝食の前に母に呼び出された。
侍女から母に話がいったのだろう。けれども、見知らぬ男性を介抱したことは誰にも言っていない。そんなことが母に知られたら、もっと事態が悪くなるのは目に見えている。
部屋に入ると、母はティーナに背を向けたまま窓の方を向いていた。そうして手にした扇を何度も開いては閉じたりを繰り返している。
これは母、マチルダが怒りを抑えている時の癖だ。ティーナは身を固くして縮こまった。
マチルダは振り返ると、間髪も入れずに高い声で怒鳴り始めた。
「バッカム侯爵家の紋章の入ったハンカチを、いつの間にか失くしてしまっただなんて! ユージーン様が気分を悪くされるわ! ティーナ! なんて馬鹿な子なの!」
マチルダがティーナの顔のすぐ傍で扇を閉じたので、反射的に目を閉じた。全身に力が入って、恐怖が掻き立てられる。ティーナは青い顔をして慌てて頭を下げた。
「ごめんなさい、お母様……申し訳ありません」
「あなたの謝罪一つでどうにかなる問題じゃありません! ユージーン様に見捨てられたら、我が家はどうなると思っているのですか! 本当に愚鈍な子なのだから‼」
こうなるとマチルダは、怒りが収まるまで大声で怒鳴り続ける。ティーナはいつものように頭を下げ、何度も謝罪の言葉を繰り返すしかない。
一時間程小言を聞くと、ようやくマチルダの気分も落ち着いたようだ。
「いいわね、罰として夜会の日まで外出禁止よ! それとユージーン様に許してもらえるまで、お詫びの手紙を書きなさい!」
そう言い捨てて、マチルダは部屋を後にした。そうして今日一日、食事をとることも禁じられる。
ティーナは自室の机に向かい、肩を落とした。
こんな風に食事を抜かれることには慣れているが、今日から四日間の外出禁止は辛い。クレアと明後日会う約束をしていたのだが、駄目になってしまった。
心が沈んでしまう。
けれどもティーナは一人の旅人を救ったのだ。あのまま放っておけば、死にはしないだろうが悪化して何日も寝込むことになっただろう。
そう思って落ち込んだ気持ちを奮いたたせる。悩んでも仕方ない。できるだけ前向きに考えよう。
「そうだわ。教会に寄付する編み物を仕上げようと思っていたから、四日間家にこもるのだったら、ちょうどいいわね。さっさとお詫びの手紙を書いてから、作業をしましょう」
「あの……お嬢様、大丈夫でしたか――」
机に向かって書き物をしていると、中年の白髪交じりの侍女がティーナの側にやってきた。
この侍女、ヒルダはティーナが生まれる前からハニブラムの屋敷に勤めている。
彼女の娘が王都に住んでいるというので、今年は領地から王都の別邸についてきた。彼女の娘は先週出産したばかりだ。
ハンカチを失くしたことを告げ口する形になってしまったので、気に病んでいるのだろう。
ヒルダはすまなそうな面持ちで頭を下げた。
「私のせいで申し訳ありません。お嬢様」
「気にしないで。ハンカチを失くしたのは私だし、ユージーンから貰ったハンカチはあの一枚だけだもの。すぐ気づかれるわ。どうせ今朝になったら、私からお母様に謝ろうと思っていたの。あなたにいやな思いをさせて、私の方こそごめんなさい」
ティーナは心からの笑みを浮かべた。けれどもヒルダはまだ恐縮して頭を下げ続けている。
「さぁ、頭を上げてちょうだい。明日、ヒルダのお孫さんを見に行く予定だったのに、駄目になって申し訳ないわ。でも夜会の次の日には、赤ちゃんのプレゼントを持って伺うわね」
ティーナがそう言うと、ヒルダは何かを言いたそうに彼女を見た。その目は怯えているようだ。
一日食事を抜かれてしまったことで、そんなに気を遣わせてしまったのだろうか。
「あぁ、もう本当に気にしないで。お母様に怒られるのは慣れているもの。あなたも知っているでしょう? それに最近少しドレスがきつくなってきていたのよ。夜会に向けて少しダイエットしておくためにも良かったわ」
その言葉に安心したのか、ヒルダはようやく笑顔を見せた。そうして何度も頭を下げてから部屋を退出する。
ティーナは気を取り直して、ユージーンへ謝罪の手紙を書き始めた。
手紙を出してもユージーンから返事がきたことは一度もない。たぶん今回も返信はないだろう。
(ユージーンは手紙を書くのが苦手だから……)
ヒルダにはああ言ったが、あのハンカチはティーナが二十歳になった時、バッカム家の婚約者としてユージーンが特別にあつらえさせてプレゼントしてくれたもの。
ティーナがそのハンカチを失くしたと知ったら、彼はどんな反応をするのだろう。
湧き上がる不安を振り払うように、顔を横に振る。
(誠心誠意、謝れば許してくれるわ……ユージーンは本当はとても優しい人だもの……)
ティーナは不安な心を落ち着かせた。
第二章 リンデル皇国の騎士との出会い
夜会の日はすぐにやってきた。
ティーナは約束通り紺色のドレスに真珠のネックレスを身に着け、ユージーンが迎えに来るのを待つ。
ティーナのために特別に仕立てられたドレスは、傷が隠れるよう背中の襟ぐりを浅くしている。
ドレスのデザインは大人っぽくシンプルで、体のラインが良く分かるもの。背中を出さない代わりに、胸のあたりが大きく開いていた。
巻きの厚い真珠のネックレスは、ティーナのきめ細かい肌に映えて美しく輝いている。
公爵家主催の夜会ということで、両親と兄は張り切っていた。時間に遅れてはならないと、彼らはティーナを置いて先に公爵家に向かっている。
約束の時間より三十分ほど遅れて、ユージーンが到着した。
ティーナは馬車から降りてきた彼の姿に目を奪われる。
正装で現れたユージーンは完璧だった。
もともと容姿がいい上に髪型を整え、かっちりとした黒の三つ揃えを着こなしているのだ。相変わらずの見栄えの良さに、ハニブラム家の侍女までもが口を開けて見惚れている。
いつもの爽やかな笑顔とともに、彼が甘い声をだす。
「ティーナ、お待たせ。やっぱりその紺色のドレス、君に一番よく似合うね。真珠も色が良くて君にぴったりだ。とても綺麗だよ」
「ありがとう、ユージーン。あなたも素敵よ」
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