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三話 犬
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「哲くん、水どうぞ」
「あ、はい。ありがとうございます」
下着だけ身につけたサツキさんが差し出すコップを受け取る。俺たちはベッドに並んで座り、ごくごくと水を飲み干した。
正直なところ、くたくただった。心地よい疲労感という次元はとうに通り越している。サツキさんに求められるのが嬉しくて必死に応えていたのだけれど、明らかに自分のキャパシティを超えていた。それでも後悔はない。好きな人と気持ちが通じ合い、その先の関係へと進めたのだから。
サツキさんはというと、ヒートアップして気が済むまで俺を付き合わせてしまった責任を感じているらしい。またしょんぼりしているのが伝わってくる。その姿をちょっと可愛いと思っているなんて、彼には秘密だ。
「哲くん、仕事のことなんだけど」居ずまいを正してサツキさんが切り出す。「今の形のまま続けてくれる? それとも抵抗感があるかな。嫌なら言ってくれれば別の形を――」
「今のままで大丈夫です。あなたの相手になる人間は、俺だけがいいので」
きっぱりと言い切ると、サツキさんは照れたようににひひと笑った。
「なんか、哲くんから独占欲を向けられるの、新鮮で楽しいなあ」
「どっ!? 独占欲なんてそんな……大層なものじゃないですし畏れ多いです。ただ俺は、サツキさんの役に立ちたいので。……俺、今まで役に立ってましたか?」
にわかに不安の雲が胸腔内に広がって、隣にいる大好きな人に問う。
「役に立つどころか――」サツキさんは数秒言葉を溜め、「哲くんはぼくの救世主だよお」
そう大袈裟に言って抱きついてくる。髪をわしゃわしゃと混ぜられ、一旦引いた熱がぶり返しそうになった。
「きゅ、救世主だなんて、そんな」
「ほんとだよお。だって、ぼくだけじゃ虫には対処できないもん」
――虫?
ああ、虫か。そうだよな、俺がここに存在する意味なんてそこにしかないのだ。高揚した気持ちがずうんと沈む。
「あ、そう……いうこと、ですよね。もちろん分かってます、自分の役割は」
「あー! ごめんごめん、今のはジョークだから! 今のはぼくが悪かったよお。哲くんが救世主っていうのはほんとだよ」
サツキさんが俺を抱き寄せ、宥めるように頬に口づけをしてくれる。
「ごめんね、許して?」
そう見つめられると俺は弱い。そもそも別に気にしていないのだから、許すも許さないもない。でも、まだひとつ気がかりが残っているのは確かだった。
「じゃあ、ひとつだけ教えて下さい。そしたら、許します」
「うん、なんでも訊いて」
交換条件を付けたことで俺の心がちくりと痛む。生意気な物言いをするようになったものだ、と思われていたらと想像するととても怖い。自分が相手と対等の立場で発言することに、まだ罪悪感があるのだ。けれど少しずつ慣れていかねばならない。サツキさんの負担をなくすために。
「サツキさんの、本当の名前を知りたいです」
言った。言ってしまった。大きな秘密が隠されているのかもしれない場所に、踏み込んだ。
ドキドキしながら尋ねたのだが、当のサツキさんは不可解そうに目をぱちくりさせている。
「本当の名前……? サツキは本名だよ。あそっか、いつも依頼人には偽名を使ってるもんねえ。でも、相棒になる子相手に偽名なんか使わないよお」
さらりと言ってのけるサツキさんの前で俺は拍子抜けした。意図的に隠しているのでは、という疑念は完全に勘違いだったらしい。
「そうなんですか? なんか神秘主義的な信条があるのかと……どういう字なのか、聞いてもいいですか?」
「あは、特別な信条なんてないよお。でもそっか、説明してなかったか。字はねえ、はやてって字に季節の季。それでサツキって読むよ」
サツキさんは空中に「颯季」という文字を書いてくれる。颯季。颯季。それが、この人の本当の名前。
「格好いい名前ですね……! そっちが名前ってことは、名字の方は?」
それは自然な会話の流れ、だと思ったのだが。
颯季さんはいきなりぴたりと静止すると、どこか遠いところを見る胡乱な目つきになる。
――あれ? 今の、失言だった?
地雷を踏んだかと静かに慌てていると、突然わっと颯季さんが両手で顔面を覆った。そして、呻くように言う。
「名字はね、ももたり……百の足って書いて、ももたりだよ……」
「百の足ってことは……え、ムカデってことですか」
「あー! やめてえ! ぞわぞわする」
サツキさん改め、百足颯季さんはその身を抱き締め、悶絶するように苦しんでいる。ムカデは彼が最も苦手とする生き物だ。なんせ、足がものすごく多いから。
「地球上で一番苦手な生き物が自分の名字って、つらいんだよお……」
「それは、その、難儀ですね」
「うう、一人だった時代に事務所にどでかいアイツが出没したときのこと思い出した……あれはトラウマだよお」
颯季さんはぷるぷる震えている。よっぽど怖かったようだ。俺だって、何十cmもあるムカデと対峙したら震えてしまうかもしれない。でもきっと、颯季さんのためなら立ち向かえると思う。ムカデに、だけじゃない。颯季さんの忠犬になろうとするのではなく、二人三脚という形で、これからは彼を支えていきたいと思った。
もっと場数を踏んで、自分を卑下するのをやめて、颯季さんの隣に立つのに相応しい人間にいつかなりたい。こっそりと決意を固める。
「大丈夫です。次からは俺がなんとかします。なんたって俺は、颯季さんの救世主ですからね」
「うっ、やっぱり気にしてる? ごめん……それにありがとう。哲くん。これからも改めてよろしくね」
「よろしくお願いします」
泣き笑いと下手なほほえみを交わし合って、俺たちはもう一度強く抱き合った。
「あ、はい。ありがとうございます」
下着だけ身につけたサツキさんが差し出すコップを受け取る。俺たちはベッドに並んで座り、ごくごくと水を飲み干した。
正直なところ、くたくただった。心地よい疲労感という次元はとうに通り越している。サツキさんに求められるのが嬉しくて必死に応えていたのだけれど、明らかに自分のキャパシティを超えていた。それでも後悔はない。好きな人と気持ちが通じ合い、その先の関係へと進めたのだから。
サツキさんはというと、ヒートアップして気が済むまで俺を付き合わせてしまった責任を感じているらしい。またしょんぼりしているのが伝わってくる。その姿をちょっと可愛いと思っているなんて、彼には秘密だ。
「哲くん、仕事のことなんだけど」居ずまいを正してサツキさんが切り出す。「今の形のまま続けてくれる? それとも抵抗感があるかな。嫌なら言ってくれれば別の形を――」
「今のままで大丈夫です。あなたの相手になる人間は、俺だけがいいので」
きっぱりと言い切ると、サツキさんは照れたようににひひと笑った。
「なんか、哲くんから独占欲を向けられるの、新鮮で楽しいなあ」
「どっ!? 独占欲なんてそんな……大層なものじゃないですし畏れ多いです。ただ俺は、サツキさんの役に立ちたいので。……俺、今まで役に立ってましたか?」
にわかに不安の雲が胸腔内に広がって、隣にいる大好きな人に問う。
「役に立つどころか――」サツキさんは数秒言葉を溜め、「哲くんはぼくの救世主だよお」
そう大袈裟に言って抱きついてくる。髪をわしゃわしゃと混ぜられ、一旦引いた熱がぶり返しそうになった。
「きゅ、救世主だなんて、そんな」
「ほんとだよお。だって、ぼくだけじゃ虫には対処できないもん」
――虫?
ああ、虫か。そうだよな、俺がここに存在する意味なんてそこにしかないのだ。高揚した気持ちがずうんと沈む。
「あ、そう……いうこと、ですよね。もちろん分かってます、自分の役割は」
「あー! ごめんごめん、今のはジョークだから! 今のはぼくが悪かったよお。哲くんが救世主っていうのはほんとだよ」
サツキさんが俺を抱き寄せ、宥めるように頬に口づけをしてくれる。
「ごめんね、許して?」
そう見つめられると俺は弱い。そもそも別に気にしていないのだから、許すも許さないもない。でも、まだひとつ気がかりが残っているのは確かだった。
「じゃあ、ひとつだけ教えて下さい。そしたら、許します」
「うん、なんでも訊いて」
交換条件を付けたことで俺の心がちくりと痛む。生意気な物言いをするようになったものだ、と思われていたらと想像するととても怖い。自分が相手と対等の立場で発言することに、まだ罪悪感があるのだ。けれど少しずつ慣れていかねばならない。サツキさんの負担をなくすために。
「サツキさんの、本当の名前を知りたいです」
言った。言ってしまった。大きな秘密が隠されているのかもしれない場所に、踏み込んだ。
ドキドキしながら尋ねたのだが、当のサツキさんは不可解そうに目をぱちくりさせている。
「本当の名前……? サツキは本名だよ。あそっか、いつも依頼人には偽名を使ってるもんねえ。でも、相棒になる子相手に偽名なんか使わないよお」
さらりと言ってのけるサツキさんの前で俺は拍子抜けした。意図的に隠しているのでは、という疑念は完全に勘違いだったらしい。
「そうなんですか? なんか神秘主義的な信条があるのかと……どういう字なのか、聞いてもいいですか?」
「あは、特別な信条なんてないよお。でもそっか、説明してなかったか。字はねえ、はやてって字に季節の季。それでサツキって読むよ」
サツキさんは空中に「颯季」という文字を書いてくれる。颯季。颯季。それが、この人の本当の名前。
「格好いい名前ですね……! そっちが名前ってことは、名字の方は?」
それは自然な会話の流れ、だと思ったのだが。
颯季さんはいきなりぴたりと静止すると、どこか遠いところを見る胡乱な目つきになる。
――あれ? 今の、失言だった?
地雷を踏んだかと静かに慌てていると、突然わっと颯季さんが両手で顔面を覆った。そして、呻くように言う。
「名字はね、ももたり……百の足って書いて、ももたりだよ……」
「百の足ってことは……え、ムカデってことですか」
「あー! やめてえ! ぞわぞわする」
サツキさん改め、百足颯季さんはその身を抱き締め、悶絶するように苦しんでいる。ムカデは彼が最も苦手とする生き物だ。なんせ、足がものすごく多いから。
「地球上で一番苦手な生き物が自分の名字って、つらいんだよお……」
「それは、その、難儀ですね」
「うう、一人だった時代に事務所にどでかいアイツが出没したときのこと思い出した……あれはトラウマだよお」
颯季さんはぷるぷる震えている。よっぽど怖かったようだ。俺だって、何十cmもあるムカデと対峙したら震えてしまうかもしれない。でもきっと、颯季さんのためなら立ち向かえると思う。ムカデに、だけじゃない。颯季さんの忠犬になろうとするのではなく、二人三脚という形で、これからは彼を支えていきたいと思った。
もっと場数を踏んで、自分を卑下するのをやめて、颯季さんの隣に立つのに相応しい人間にいつかなりたい。こっそりと決意を固める。
「大丈夫です。次からは俺がなんとかします。なんたって俺は、颯季さんの救世主ですからね」
「うっ、やっぱり気にしてる? ごめん……それにありがとう。哲くん。これからも改めてよろしくね」
「よろしくお願いします」
泣き笑いと下手なほほえみを交わし合って、俺たちはもう一度強く抱き合った。
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