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四話 異聞
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はあ、はあ、という熱く荒い息が自分の口から吐き出される。体はとっくに火照り、汗ばんでいた。規則的な振動が脳を揺らし、軽い酩酊感を覚える。邪念を吹き飛ばそうとするように、手の甲で乱暴に額の汗を拭う。
もう限界、というタイミングで――ぼくはランニングマシンのボタンを押した。ベルトの速度が緩やかに落ち、肩で息をしながらマシンから降りる。
ここは定期的に通っている会員制のジムだった。ほとんど倒れこむようにして設置されている椅子に座り、ごくごくと水分補給をする。
なぜジムで無心に体を追い込んでいるのかというと、先ほどまで耽っていたセックスの熱と興奮を発散させるために他ならない。ぼくはつい二時間ほど前まで哲くんと交わっていた。除霊のために彼と肌を重ねたあとは、こうして限界まで体を虐め抜くのが常だった。
タオルで丁寧に汗を拭き、シャワーを浴びるために立ち上がる。
移動しながら、それにしても――と事務所での出来事を反芻する。今日の哲くんは一段と艶かしかった。彼の透明感すら感じる白い肌はほんのりと朱に色づき、つややかな黒髪のあわいから垣間見える項が、こちらを誘っているようにも見えた。もちろんそれは完全にぼくの思い込みなのだが、妄想が逞しくなるのは止められない。
哲くんの色香を放つ項に、歯を立てたらどうなるのだろうと想像する。そこは桃に似た香気を放ち、ぼくの舌に甘やかさという快楽をもたらすのではないかと思えてならない。ギリシャ神話の神々が味わったという神餐、ネクタルやアンブロシアのように。
服を無造作に脱ぎ、仕切りで個室状になっているシャワールームに入る。お湯の温度を調整して栓を捻れば、火照った全身をやや冷たい感触が流れていって気持ち良かった。
体を重ねれば重ねるほど、霊が哲くんを好むのもうなずけると実感する。とにかく彼の中は心地が好いのだ。淡白そうな外見なのに、中は熱くうねり、ぴたりと切なげに吸いついてきて、下半身が持っていかれそうになる。
今日祓ったのはマユミという名の女性だったが、行為を少しでも長引かせたいという欲求を抑えられず、衝動的に哲くんの鈴口を押さえるなどという愚行に及んでいた。お祓いが済んだ後も、何かをねだるような、期待するような、そしてどこか切ない目で彼はぼくを見ていた。あんな視線を向けられては、平常心でいろという方が難しい。たまらずジムへ逃げてきたというわけだ。
「あーもう、駄目だ……」
そんなことを思い出していたから、下半身に再び熱が灯ってしまっている。ぼくの股のものは興奮を反映してびん、と切っ先を天に向けていた。せっかく体を動かして不埒な感情を蹴散らしたというのに、これでは元の木阿弥だ。
ぼくは熱をぶちまけたくて腫れている自分の昂りに指の腹を添える。哲くんの熱くて狭い中を想起しながらやや乱暴に扱けば、簡単に快感が高まって呼吸が荒くなった。
哲くんとの交わりでは一度も達していなかったそこは、ティーンエイジャーみたいな速度で容易く白濁をぶち撒ける。
「く……、……っ」
どくり、どくり、と壁面に吐き出された精液が垂れ落ち、やがてお湯と混ざり渦を成して排水溝へ消えていく。分かってはいるのだ。妄想の哲くん相手に欲を解放したところで、後には虚しさしか残らないと。
痕跡が残らないよう丁寧にシャワーで流してから前面を見る。縦長の鏡が備えつけられていて、そこに映る自分を見た。以前より明らかに胸筋も腹筋も発達しており、特に腹筋は六つに割れた筋肉の形がくっきりとしてきている。哲くんを助手に迎えてから、ジム通いの頻度が飛躍的に多くなったからだ。それだけ自分が悶々としている証でもある。こうして筋肉がつくのがいいのか悪いのか、今一つ判断が下せなかった。
服を着て、ジムを後にする。住居から徒歩圏内にあるアーケード内のスーパーへ向かいながら、ぼくはまだ哲くんのことを考えている。
率直に言って、ぼくは哲くんが好きだ。
最初に声をかけたとき、下心はなかったはずだ。でも生活の一部を共にし、肌を重ねるうちに、彼の人柄に惹かれている自分を否定できなくなった。真面目で繊細で、共感能力が高く努力家。きっと本人は自覚していないだろうが、そのうえ美形でもある。これまでぼくの周りにはいなかったタイプだ。
哲くんはぼくをどう思っているのだろう。嫌われてはいない、と思いたいが確証はない。なんたってぼくは彼の上司なのだ。雇用関係の都合上、好意がなくとも愛想はよくするだろう。哲くんの場合、事務所があるビルに住んでもいるのだから。
除霊の際、ぼくは哲くんを降ろした霊の名では呼ばない。哲くんを哲くんとして抱きたいから、という理由ではあるが、それだって彼に意識がないのだから特別意味があるわけでもない。ただの自己満足に過ぎず、彼にしてみればそんな些細なこだわりは気色悪いだけに違いない。
こんなとき、もし別の出会い方をしていたら、と無意味なたらればを考えてしまう。祓い屋と口寄せではなく、ぼくらが別の関係性であったなら、これほど悩まなかっただろうか。好きだと伝えて、相手の素直な返答を引き出すことができただろうか。ただその場合、ぼくは仕事で別の誰かを抱いていることになるが。
定期的に特定の人間を抱いている相手と、果たして付き合ってもいいと思うか? 誰だってノーだろう。どちらにせよ結局、八方塞がりなのだ。
中身のない仮定が止まらなくなって、苦笑しながら思考をせき止める。おかしいな、自分はこんなに益体もないことに延々と思い悩む人間じゃなかったはずだ。もっとこざっぱりとした性格だと思っていた、のに。
それだけ哲くんに本気という証左なのだろうか。
――恥ずかしいこと考えてるな、ぼく……。
頬を若干熱くさせながら道端で小さくため息をこぼす。
「ねえ、おにーさん」
唐突に聴覚に割り込んできた品のない声。ぼくは気に留めず歩みを進めようとした、のだが。
「そこのおにーさんてば。無視しないで、ちょっと待ってよ」
出し抜けにぐい、と袖口を引っ張られて思わず瞠目する。体が半ば無理やり反転させられた。振り向くと、まさしく筋骨隆々といった風情の若者が下卑た笑みを浮かべている。体に厚みがあって、身長はこちらより十cm近く高いだろうか。
ぼくはかなり驚いていた。相手の容姿より何より、チンピラ紛いの派手な上下に色つきサングラス、という格好の自分に声をかける人間がいることに。
側頭部を刈り上げた若者はねっとりとした口調で言葉を継いでいく。
「俺、そこのジムの常連なんだけどさあ。おにーさんのこと何回か見かけて気になってたのね。ねえねえ、決まった相手がいないならこれからどう? おにーさんも俺と同類でしょ? 見てれば分かるんだから」
分厚い掌がぼくの手の甲をいやらしく撫でる。怖気をこらえながら、ぼくはサングラスを下げて彼の後ろを見やった。
ひょろりとした青年が若者をじっとりと見つめている。汚物を睨むような、それでいて頑是ない子供を見守るような目。湿った視線が背後から注がれていることに、ナンパ男はまったく気づいていないらしい。
他人から見てほぼ百パーセント胡散臭いと言われる笑みを顔に貼りつけ、ぼくは口を開いた。
「君ねえ、ナンパする前に不義理を詫びないといけない相手がいるんじゃないかなあ?」
「ああ? 急に何……」若者が眉をひそめる。
「その相手は君より少し身長は低くて、体型は痩せ型。センター分けの黒髪がよく似合う人だねえ。あ、あちこちに痣があるみたいだけど、もしかして君が殴ったりした? いけない子だねえ」
「は、おい、なんで知って……何者だよ、あんた」
若者はさっと青褪め、ぼくの袖を離した。彼がぐら、と一歩引いたので、逆にこちらから大きく一歩を詰める。
「彼ね、君のすぐそばにいて君を見てますよお。生き霊になるなんてずいぶんなことだ。君、一体何をしたんだい? おにーさん、気になっちゃうなあ」
もはや若者の顔は土気色になっている。及び腰を通り越して、腰を抜かしてしまいそうだ。身震いする彼に向かって、安心させるような笑顔を意図的につくる。
「あ、そうそう。実はぼくは祓い屋でね、ちょうどよく効く御札を持ってるんだった。これも何かの縁だからねえ、少し色をつけてもいいと思うんだ。五百万、いや四百万にまけちゃおうかなあ。どう? 欲しいでしょ?」
ぼくが懐に手を突っ込むと、色を失った相手は「ひい……! 勘弁してくれ!」とか細い悲鳴を上げながら退散していった。無遠慮に手を触っておいて勘弁しても何もないと思うのだが、ああいう輩の思考回路はよく分からない。
ぼくは懐から手を出した。もちろん、よく効くお札なんて持っていないから、さっきのはハッタリだ。結界を張ったり、御札で霊体を封じたりするのはそもそも専門外である。
ナンパ男の生ぬるい手の感触が残る肌を振り払うように撫でながら、先ほどよりよほど深いため息を吐く。手を握られたのと同じくらい、知らない相手の内側で知らないうちに好意が膨らんでいたことが、どうしようもなく不快に感じられた。なんとも思っていない相手に好意を表明されること。それは一種の暴力でもある。
仕事上の上司であるぼくが、部下の哲くんに好きだと伝えたら。それも暴力の範疇に入ってしまうだろう。
そうすれば哲くんはきっと、ぼくから離れていってしまう。ぼくは永遠に彼を失い、祓い屋の仕事を続けるのにも支障を来す。それは現在考えうる限り最悪の事態だった。
やはり、この気持ちは秘めておくしかない。悶々とする気持ちを、ぼくが一人でどうにかすれば済む話だ。
交差点に差し掛かると、歩行者用信号が赤へ変わるところだった。
「ねえ。ねえ」
ぶつぶつと呟いている女性の隣に、少し距離を開けて立つ。
「ねえ、どうして? どうして会いに来てくれないの? ねえねえねえ、どうしてどうしてどうしてどうして? 来てよ、来てよ来てよ、ねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえ」
女性は息継ぎも抑揚もなく恨み言を言い続けている。彼女の声はおそらく、ぼくにしか聞こえていない。腹からちぎれた内臓をゆらゆらとぶら下げているその女性は、この交差点で亡くなったのだろうか。歩行者だったのか、自転車に乗っていたのか、ドライバーだったのか。会いに来てほしいのは誰なのだろう。親か、きょうだいか、友人か、配偶者か、自身の子供か。
知りたいことはたくさんあるものの、この状況では何を訊いてもぼくの言葉は彼女に届かない。哲くんの力を借りて始めて、ぼくは死者と対話ができるようになる。一方的に祓ってしまうこともできなくはないけれど、それこそ暴力と変わらない独善的行為だ。結局のところ、ぼくは一人では満足に役割を果たせない。
「無力だなあ……」
ぽつりと呟いて、哲くんの顔を思い浮かべながら歩を速める。早いところ買い物を済ませ、自分の城へ帰ってほっと一息つきたかった。
――その後すぐ、GとGのダブルパンチを食らうことになるとは、そのときのぼくは知る由もなかった。
もう限界、というタイミングで――ぼくはランニングマシンのボタンを押した。ベルトの速度が緩やかに落ち、肩で息をしながらマシンから降りる。
ここは定期的に通っている会員制のジムだった。ほとんど倒れこむようにして設置されている椅子に座り、ごくごくと水分補給をする。
なぜジムで無心に体を追い込んでいるのかというと、先ほどまで耽っていたセックスの熱と興奮を発散させるために他ならない。ぼくはつい二時間ほど前まで哲くんと交わっていた。除霊のために彼と肌を重ねたあとは、こうして限界まで体を虐め抜くのが常だった。
タオルで丁寧に汗を拭き、シャワーを浴びるために立ち上がる。
移動しながら、それにしても――と事務所での出来事を反芻する。今日の哲くんは一段と艶かしかった。彼の透明感すら感じる白い肌はほんのりと朱に色づき、つややかな黒髪のあわいから垣間見える項が、こちらを誘っているようにも見えた。もちろんそれは完全にぼくの思い込みなのだが、妄想が逞しくなるのは止められない。
哲くんの色香を放つ項に、歯を立てたらどうなるのだろうと想像する。そこは桃に似た香気を放ち、ぼくの舌に甘やかさという快楽をもたらすのではないかと思えてならない。ギリシャ神話の神々が味わったという神餐、ネクタルやアンブロシアのように。
服を無造作に脱ぎ、仕切りで個室状になっているシャワールームに入る。お湯の温度を調整して栓を捻れば、火照った全身をやや冷たい感触が流れていって気持ち良かった。
体を重ねれば重ねるほど、霊が哲くんを好むのもうなずけると実感する。とにかく彼の中は心地が好いのだ。淡白そうな外見なのに、中は熱くうねり、ぴたりと切なげに吸いついてきて、下半身が持っていかれそうになる。
今日祓ったのはマユミという名の女性だったが、行為を少しでも長引かせたいという欲求を抑えられず、衝動的に哲くんの鈴口を押さえるなどという愚行に及んでいた。お祓いが済んだ後も、何かをねだるような、期待するような、そしてどこか切ない目で彼はぼくを見ていた。あんな視線を向けられては、平常心でいろという方が難しい。たまらずジムへ逃げてきたというわけだ。
「あーもう、駄目だ……」
そんなことを思い出していたから、下半身に再び熱が灯ってしまっている。ぼくの股のものは興奮を反映してびん、と切っ先を天に向けていた。せっかく体を動かして不埒な感情を蹴散らしたというのに、これでは元の木阿弥だ。
ぼくは熱をぶちまけたくて腫れている自分の昂りに指の腹を添える。哲くんの熱くて狭い中を想起しながらやや乱暴に扱けば、簡単に快感が高まって呼吸が荒くなった。
哲くんとの交わりでは一度も達していなかったそこは、ティーンエイジャーみたいな速度で容易く白濁をぶち撒ける。
「く……、……っ」
どくり、どくり、と壁面に吐き出された精液が垂れ落ち、やがてお湯と混ざり渦を成して排水溝へ消えていく。分かってはいるのだ。妄想の哲くん相手に欲を解放したところで、後には虚しさしか残らないと。
痕跡が残らないよう丁寧にシャワーで流してから前面を見る。縦長の鏡が備えつけられていて、そこに映る自分を見た。以前より明らかに胸筋も腹筋も発達しており、特に腹筋は六つに割れた筋肉の形がくっきりとしてきている。哲くんを助手に迎えてから、ジム通いの頻度が飛躍的に多くなったからだ。それだけ自分が悶々としている証でもある。こうして筋肉がつくのがいいのか悪いのか、今一つ判断が下せなかった。
服を着て、ジムを後にする。住居から徒歩圏内にあるアーケード内のスーパーへ向かいながら、ぼくはまだ哲くんのことを考えている。
率直に言って、ぼくは哲くんが好きだ。
最初に声をかけたとき、下心はなかったはずだ。でも生活の一部を共にし、肌を重ねるうちに、彼の人柄に惹かれている自分を否定できなくなった。真面目で繊細で、共感能力が高く努力家。きっと本人は自覚していないだろうが、そのうえ美形でもある。これまでぼくの周りにはいなかったタイプだ。
哲くんはぼくをどう思っているのだろう。嫌われてはいない、と思いたいが確証はない。なんたってぼくは彼の上司なのだ。雇用関係の都合上、好意がなくとも愛想はよくするだろう。哲くんの場合、事務所があるビルに住んでもいるのだから。
除霊の際、ぼくは哲くんを降ろした霊の名では呼ばない。哲くんを哲くんとして抱きたいから、という理由ではあるが、それだって彼に意識がないのだから特別意味があるわけでもない。ただの自己満足に過ぎず、彼にしてみればそんな些細なこだわりは気色悪いだけに違いない。
こんなとき、もし別の出会い方をしていたら、と無意味なたらればを考えてしまう。祓い屋と口寄せではなく、ぼくらが別の関係性であったなら、これほど悩まなかっただろうか。好きだと伝えて、相手の素直な返答を引き出すことができただろうか。ただその場合、ぼくは仕事で別の誰かを抱いていることになるが。
定期的に特定の人間を抱いている相手と、果たして付き合ってもいいと思うか? 誰だってノーだろう。どちらにせよ結局、八方塞がりなのだ。
中身のない仮定が止まらなくなって、苦笑しながら思考をせき止める。おかしいな、自分はこんなに益体もないことに延々と思い悩む人間じゃなかったはずだ。もっとこざっぱりとした性格だと思っていた、のに。
それだけ哲くんに本気という証左なのだろうか。
――恥ずかしいこと考えてるな、ぼく……。
頬を若干熱くさせながら道端で小さくため息をこぼす。
「ねえ、おにーさん」
唐突に聴覚に割り込んできた品のない声。ぼくは気に留めず歩みを進めようとした、のだが。
「そこのおにーさんてば。無視しないで、ちょっと待ってよ」
出し抜けにぐい、と袖口を引っ張られて思わず瞠目する。体が半ば無理やり反転させられた。振り向くと、まさしく筋骨隆々といった風情の若者が下卑た笑みを浮かべている。体に厚みがあって、身長はこちらより十cm近く高いだろうか。
ぼくはかなり驚いていた。相手の容姿より何より、チンピラ紛いの派手な上下に色つきサングラス、という格好の自分に声をかける人間がいることに。
側頭部を刈り上げた若者はねっとりとした口調で言葉を継いでいく。
「俺、そこのジムの常連なんだけどさあ。おにーさんのこと何回か見かけて気になってたのね。ねえねえ、決まった相手がいないならこれからどう? おにーさんも俺と同類でしょ? 見てれば分かるんだから」
分厚い掌がぼくの手の甲をいやらしく撫でる。怖気をこらえながら、ぼくはサングラスを下げて彼の後ろを見やった。
ひょろりとした青年が若者をじっとりと見つめている。汚物を睨むような、それでいて頑是ない子供を見守るような目。湿った視線が背後から注がれていることに、ナンパ男はまったく気づいていないらしい。
他人から見てほぼ百パーセント胡散臭いと言われる笑みを顔に貼りつけ、ぼくは口を開いた。
「君ねえ、ナンパする前に不義理を詫びないといけない相手がいるんじゃないかなあ?」
「ああ? 急に何……」若者が眉をひそめる。
「その相手は君より少し身長は低くて、体型は痩せ型。センター分けの黒髪がよく似合う人だねえ。あ、あちこちに痣があるみたいだけど、もしかして君が殴ったりした? いけない子だねえ」
「は、おい、なんで知って……何者だよ、あんた」
若者はさっと青褪め、ぼくの袖を離した。彼がぐら、と一歩引いたので、逆にこちらから大きく一歩を詰める。
「彼ね、君のすぐそばにいて君を見てますよお。生き霊になるなんてずいぶんなことだ。君、一体何をしたんだい? おにーさん、気になっちゃうなあ」
もはや若者の顔は土気色になっている。及び腰を通り越して、腰を抜かしてしまいそうだ。身震いする彼に向かって、安心させるような笑顔を意図的につくる。
「あ、そうそう。実はぼくは祓い屋でね、ちょうどよく効く御札を持ってるんだった。これも何かの縁だからねえ、少し色をつけてもいいと思うんだ。五百万、いや四百万にまけちゃおうかなあ。どう? 欲しいでしょ?」
ぼくが懐に手を突っ込むと、色を失った相手は「ひい……! 勘弁してくれ!」とか細い悲鳴を上げながら退散していった。無遠慮に手を触っておいて勘弁しても何もないと思うのだが、ああいう輩の思考回路はよく分からない。
ぼくは懐から手を出した。もちろん、よく効くお札なんて持っていないから、さっきのはハッタリだ。結界を張ったり、御札で霊体を封じたりするのはそもそも専門外である。
ナンパ男の生ぬるい手の感触が残る肌を振り払うように撫でながら、先ほどよりよほど深いため息を吐く。手を握られたのと同じくらい、知らない相手の内側で知らないうちに好意が膨らんでいたことが、どうしようもなく不快に感じられた。なんとも思っていない相手に好意を表明されること。それは一種の暴力でもある。
仕事上の上司であるぼくが、部下の哲くんに好きだと伝えたら。それも暴力の範疇に入ってしまうだろう。
そうすれば哲くんはきっと、ぼくから離れていってしまう。ぼくは永遠に彼を失い、祓い屋の仕事を続けるのにも支障を来す。それは現在考えうる限り最悪の事態だった。
やはり、この気持ちは秘めておくしかない。悶々とする気持ちを、ぼくが一人でどうにかすれば済む話だ。
交差点に差し掛かると、歩行者用信号が赤へ変わるところだった。
「ねえ。ねえ」
ぶつぶつと呟いている女性の隣に、少し距離を開けて立つ。
「ねえ、どうして? どうして会いに来てくれないの? ねえねえねえ、どうしてどうしてどうしてどうして? 来てよ、来てよ来てよ、ねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえどうしてねえ」
女性は息継ぎも抑揚もなく恨み言を言い続けている。彼女の声はおそらく、ぼくにしか聞こえていない。腹からちぎれた内臓をゆらゆらとぶら下げているその女性は、この交差点で亡くなったのだろうか。歩行者だったのか、自転車に乗っていたのか、ドライバーだったのか。会いに来てほしいのは誰なのだろう。親か、きょうだいか、友人か、配偶者か、自身の子供か。
知りたいことはたくさんあるものの、この状況では何を訊いてもぼくの言葉は彼女に届かない。哲くんの力を借りて始めて、ぼくは死者と対話ができるようになる。一方的に祓ってしまうこともできなくはないけれど、それこそ暴力と変わらない独善的行為だ。結局のところ、ぼくは一人では満足に役割を果たせない。
「無力だなあ……」
ぽつりと呟いて、哲くんの顔を思い浮かべながら歩を速める。早いところ買い物を済ませ、自分の城へ帰ってほっと一息つきたかった。
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