あなたを探して100年愛

神楽倖白

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四章〜(四)

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 ◆

 玲子との仲は、誤解が解けたーと言えないまでも、一旦は基希を信じてもらう形に納まった。
 こんな事になったのは、そもそもで山下に口止めをされていたからなのだが……
「お前を札幌に飛ばせーって言ってきたぞ。よっぽど彼女が気に入ったんだな。次の愛人にでもするつもりなんだろうよ」
 クツクツと笑う山下はなかなかに人が悪い。
 完全に他人事だと思っている。
「はぁ……今度は転勤ですか?全く!」
 基希を転勤させて玲子を愛人になどとふざけたことを!
 こんな見事なまでの職権乱用がいつまで通用するものか…万が一、表沙汰になってしまった時の事も予測出来ないようでは、社長として先見の明が無さすぎやしないだろうか。
 一社員としては、社長の進退までもが懸念される。
「まぁそう怒るなよ、朗報だぞ。明後日は休みだろ?彼女と一緒に新垣邸に来い。お前の気が晴れるイベントが待ってる」
 何のことやらさっぱりだが、山下がこれだけ自信満々に言うのであれば、何かあるのだろう。
「わかりました、伺います」
 何を企んでいるのかは不明だが、基希の気が晴れるイベントとは何だろう…。
 奥さんに浮気がバレて怒られるとか…?そのくらいしか思いつかない。
 今は山下の計略に乗っかるとしよう…きっと大丈夫だ。いざとなったらホテルを辞めればいいし、問題ない。
 そう覚悟を決めたら少し気が楽になった。

   ◆

 基希に言われて一緒に来たが、やはり落ち着かない……
 新垣邸には支配人と愛美さんまで来ていて、知らない人も数名いる。
 前回来た時のように怪しい人たちが多くいるパーティーとは違うのでまだ大丈夫だが、いったい何があるというのだろう。
 あまりに静まり返っていて、とても何が始まるのかなんて聞けた雰囲気ではない。
 基希も手を繋いだまま黙っている。
 緊迫した空気が流れる中、カチャ…っとリビングのドアが開き、新垣社長と夫人、スーツをかっちり着こなした山下が一緒に現れた。
「おお、玲子じゃないか!どうした、こんな時間に。気が変わったのかね?いいとも、だが今回は私もかなり心を砕いたからねぇ…手間賃はいただくよ」
ーなんの手間賃…?
 勝手に他所様の家に押し掛けて来て、勝手に怒ってドアまで蹴飛ばして帰った人が、何を言ってるんだろう……。
「社長、おはようございます」
 サッと玲子を背後に隠し、基希が身構える。
「何だ、まだ別れてなかったのか。玲子、この男は止めた方がいい。とんだ浮気者だぞ?」
ーお前が言うな!
 この場にいた誰もが、そう思ったことだろう。
「あなたを上回る女好きなんて、そうはいませんよ」
 言わずもがな、横に控えていた夫人が小さくため息をつく。
「お前は黙ってろ!いったい今日は何なんだ!」
 本日の集まりの目的が何なのか、社長自身も知らないようで、ソファにどかっと腰を降ろすと煙草に火をつけた。
 向かい側には夫人が座り、その横には何故か山下が付いて立っている。
ーあれ?なんで奥さんの方にいるんだ?
 社長秘書である山下が、夫人の方にいるのは不自然に感じる。
 苛立つ新垣社長を見る事もなく、夫人はおもむろに口を開いた。
「さて、いよいよ頭のイカれたあなたには、社長職を退いていただこうかと思いまして…」
「何だと!?」
 声を荒げた夫に畏服する様子もなく、夫人は目配せをすると山下がパソコンを開いて話し始めた。
「まず新垣社長ですが、我が社が管理する予定であった駅ビルのテナント候補会社の取締役に勝手に就任し、その事実を他の役員や会社に対して隠し、出店申込みをされました。確認済です」
 山下は指示に従って資料を読み上げる。
「何の事だ、知らん!」
 あくまでしらを切る社長はどんどん不機嫌になっていく。
 基希も何が起こっているのかがよくわかっていない。
「他の駅ビルの開発事業に関して取締役会にはかることなく設計請負契約を締結しておられましたね」
「そ、そんなことは…」
 雲行きが怪しくなり、新垣社長の声が窄まる。
「ない…と仰る?」
 夫人の威圧感が凄まじい……。
 大の男を相手にしても一歩も引かない豪胆な様は、現代に生きる女勇者のようだ。
 それに仕える魔道士山下は、阿吽の呼吸で音声を流し始める。
『駅前のビル開発はまだのはずです。なぜそこに自分の店を出してもらえると?』
『そんなの知らないけど、パパはあたしの会社の社長だもん。それくらい簡単でしょ』
『あんたの会社の社長が開発を手掛けるビルで、愛人のあんたに店を出させるのは、社長の勝手だと言うことか…』
『そう言うこと!もう契約はされてるし、お金もたっぶりいただいたわ~!それよりねぇ…あたしとどう…?もうこんな……』
ーピッ……
 音声はここで途切れた。
 周囲がざわつき、新垣社長の顔色がみるみる変わっていくのがわかる。
ーこれって基希の声よね…いったいいつこんな……
 玲子もまた混乱していた。
「この音声にもあるように、新垣社長が他社の社長も務めていらっしゃることも、多額のリベートを愛人である西様始めとする関係者に取得させておられたことも確認できております」
「山下…っ、貴様いつからこんな!」
 鬼の形相で食いつかんばかりの社長を相手に、山下は相好を崩して答えた。
「私は初めから奥様にお仕えしております。そしてこれからはあなたも新社長にお仕えして下さい」
 にっこり微笑む山下を、基希は初めて怖いと思った。
 あの録音もそうだ。
 取っておくように言われてやったことだが、あれが今ここで出されるなんて聞いてない。
 結果的にはあの録音を最後まで聞けば真実は証明されるので、こちらとしては好都合だが……
「基希、あの録音の声ってあなたよね?どういう事?」
 玲子が首を傾げるのも無理はない。
 録音の事は極秘だったし、まさか新垣社長が写真を撮らせてまで自分たちを別れさせようとするなど露にも思わず、その油断が招いた結果が玲子に「しばらく会えない…」と言わせる事態に発展してしまったわけだ。
「あれはこの間、出張に行かされた時ので、社長御用達の売春婦が来た時の…」
「ああ、あの時の!」
 玲子の中では解決しているのか、あまりそこに拘った様子はない。
 信じてくれたからこそなのだが、基希としては証明できる事ははっきりさせたかった。
「山下さんに頼まれてこの証言が欲しかっただけだから、本当にあの女とは何もなかったんだよ。信じてくれる?」
 あの時の写真にどれほど悩まされたことか……!
 あれほどまでに愛した玲子から疑われるような行動をとってしまうという人生最大の汚点……。
 今となっては仲直りもしているが、潔白が証明されている訳ではなかった。
 本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
 斯くいう基希も初めからちゃんと話をしていたら、あんなに苦しい思いをしなくて済んだのに…自分がこんなにも弱い人間だったのかと痛感した出来事だった。
 もう二度と、隠し事はしない。
 これから先も時々は不安になる事もあるかもしれないが、きちんと話す事が大切なのだと学んだ。
 人生二度目とは言え、まだまだ初心者…どんな時でも愛した者を信じ、不安にさせない努力と、守り抜く強靭な心を持ち続けたい。
「信じてる…ごめんね私こそ、疑ったりして……」
 玲子もまた同じ思いでいた。
 言葉にしなくても、今ならお互いが何を考えているのかがわかる。
 信じきれなくて会えなかった時間は、二人が離れては生きられない事を再確認できた貴重な経験だった。
「いいんだ、言わなかった俺が悪かったんだよ…ごめんね」
 これで心置きなく、玲子のご両親にご挨拶に行けるというものだ。
 めでたく基希の疑惑は晴れたが、新垣社長の疑惑は事実のようで、言い逃れが難しそうな状況になっているのがわかる。
「新社長だと!?ふざけるなっ!だいたいそんな録音に証拠能力などない!」
 都合が悪くなるとすぐに怒鳴り散らすのは本当に如何なものだろう。
 社長の怒号が虚しく響く。
「証拠なんてまだまだありますからご心配なく。あなたは解任です。わたくしに頭を下げるのがお嫌でしたら、どうぞ他社へお行きなさい。このように傲岸不遜な老いぼれを雇ってくれる所があれば、ですけれど……」
 初めてお目にかかった時から何か言い知れぬものを感じていたけど、ここで本領発揮とは……すごいものを見ている気がする。
 玲子もこの状況に目を丸くしていた。
「ふざけるのも大概にしろっ!華江、お前とは離婚だ!」
 都合が悪くなった途端に離婚の二文字…社長秘書の山下まで抱き込んだ夫人が、離婚という言葉に恐れをなすとは到底思えない。
「よろしいですよ。数多いる愛人とあなたには、たっぷり慰謝料を請求させていただきますから。さて…お金のないあなたを愛人達がどこまで面倒見て下さるのか見物ですわね。山下、とりあえずこの老害を西雅さんのお宅にお送りしてちょうだい。荷物も全てお願いね」
「かしこまりました」
 パンパンっ!
 山下が柏手を打つと、何処からともなく作業着を着た人達が部屋の中にぞろぞろと入ってきた。
「始めて下さい」
 この言葉を皮切りに、業者と思われる人達は部屋の中に散らばると、事前に打ち合わせでもしていたのか、食器棚の決まった食器やお箸、グラスに至るまで迷わず出していき、引き出しの中のランチョンマットや壁掛け時計まで外していった。
「こちらはいかがしますか?」
 業者は窓際の端に飾られていた日本人形を指して指示を仰ぐと…
「いらないわ。私、日本人形は嫌いなの」
 ブラウンとアイボリーで統一されたモダンな部屋の至る所に、インテリアには似つかわしくない日本人形がちょくちょく飾られている。
 ここの雰囲気にはあまり合わないと思っていたが、これは夫人の趣味ではなかったようだ。
「華江、それは私達が結婚した年に買ってやった記念の人形だぞ!」
 プルプルと手を震わせながら、新垣社長は人形を指さした。
「そうでしたね。これを私に渡した翌日にはもう、あなたは愛人の元へ行かれていましたわ。その人形を見る度に首を圧し折って差し上げたくてウズウズしていましたの」
 積年の恨みからか、夫人は表情一つ変えない。
 どんどん運び出されていく荷物に、新垣社長だけが顔色を変えて右往左往としている。
「華江、それは私を愛していたからだろ?だから腹を立てたんだろ?」
 散々怒って怒鳴って、お次は泣き落とし……なんとも愚劣極まりない。
 そんな姿が哀れにも思えるが、前世の記憶がある身としては、現代女性の強さを知る事ができて良かったと思う。
「そんな時もありました……ですがすでに愛は冷めております。いつまでも愛されていると思っていたら大間違いです!」
「華江、待ってくれ、私が悪かった、だから、なっ…?」
 もっと早く〝悪かった〟と謝れていたら、何か違っていたのかもしれないのに……。
 同情の余地はないが、女性が与えてくれる愛情にあぐらをかけば、いずれはこうなるのだと思い知らされる光景だ。
 山下に呼ばれたのは、このショーの為だったのかと今やっと頭が追い付いた感じがする。
「お黙りなさい、見苦しい!借りにも社長と名乗っていたのなら、引き際くらい潔くありなさい!」
 いつまでも男性優位社会では発展は成し得ない…社長ならいち早くその事に気付くべきだっただろう。
 女性を道具のように扱い、蔑ろにし、人権を奪ってきたであろう悪行は、おそらく夫人が一番痛感しているはずだ。
 新垣社長が一喝されたことで、周囲も納得の様子で運び出される荷物を見送っている。
 新垣社長はまだ何か言いたげだ。
 当然、夫人はそんなことはお構いなしにそっぽを向き、真っ直ぐにこちらに歩み寄って来る。
「あなた、玲子さんだったわね。息子から聞いてるわ。夫が迷惑をかけて…本当にごめんなさい。許してちょうだいね」
 先程とは打って変わって優しい表情で夫人は頭を下げた。
 あんなに厳しく新垣社長を糾弾しても、夫の不始末をきちんと謝罪できる辺りは、奥さんの方がよほど社長の器だと思う。
「いえ大丈夫です、まだ何もされていませんし…」
 優しく相対されたので玲子もそれに習うように返すと、夫人は穏やかに微笑んで言った。
「いけませんね。何かあってからでは大切な者を悲しませてしまうわよ。女性はね、もっと欲張りになっていいの。女が我慢する時代は終わったのだから……」
 この言葉は夫人の経験に基づいて出たものだろう。
 もしかしたら、前世の玲子と似たような屈辱を味わってきたのかもしれない。
 男に迫害され、自分を殺して生きる事の辛さは、誰よりも理解できる。
 そんな扱いをしてきた新垣社長に愛情などもう残っていないのかもしれないが、最後の礼を尽くすことができるのは、まがいながらも夫婦であったからなのだろうと思う。
 愛は湯水のように湧き出るものではない。
 大切にされず、与えられる事もなく、ただ使い続けていれば、いずれは枯れ果て無くなるものだ。 
 時代は流れて移り変わり、人々も変わっていく。
 玲子の知る昔とは違い、女性が声を上げても、疑問を持っても許される。
 自分の人生を選べる事の素晴らしさは、今世に生まれ変わったことで得られた最高の醍醐味と言えるだろう。
 夫人の言葉に玲子は「はい」と頷いた。
 しばらくすると業者に指示を出していた山下が戻ってきた。
「どうだ、スカッとしたろ?」
 山下は基希にいの一番そう言うと、まさに今連れ出されようとしている新垣社長を見送りながら冷笑を浮かべている。
 気が晴れる…と言えばそうかもしれない。
 ざまぁみろ…と言ってやりたい気持ちもさっきまではあった。
 でも…夫人に捨てられ、仕事まで失った社長がこれからどうなるのかを考えると、少し後味は悪い。
 散々な目にあわされた相手だが、本当に新垣社長が玲子の芯の素晴らしさに気づいてくれていたなら、愛人になどと言うのではなく、ただ彼女を慕う者として見守ってくれていたなら……そんな残念な気持ちになってしまった。
 これから新垣社長は、夫人を蔑ろにしてきた過去への精算に追われる人生になるだろう。
 自分で蒔いた種とは言え、険しい道のりだ。
 ただ不思議と大きな津波から逃れられたような安堵感があるのも事実で、人生最大の危機を乗り越え、ホッとして空を見上げているような爽快な気分でもあった。
「正直、何とも言えないですけど、俺は玲子が無事ならそれでいいんで……」
 基希が微苦笑すると夫人が呆れたようにため息をついた。
「全く…二人揃ってお人好しだこと。でもまぁ、こんな世の中でも許す人がいなければ、許される人も居なくなって救われないわ。だからと言って忘れてはダメ。いつだって平和ボケはよろしくないのよ」
 平和ボケ…していたかもしれない。
 昔とは違い、今世に平和を感じていたのは確かで、玲子を見つけてからは特に世の中が桃色にでも見えていたのだろう。
 言われて初めて反省した。
 優しく諭すような夫人の横で山下は玲子に話しかける。
「はじめまして玲子さん。出張の時はこちらが口止めしていたせいであなたにも事情を話せず誤解させて申し訳ない。こいつはね、あなたが居ないと生きていけないから、どうか捨てないでやって下さいね」
 悪戯にウインクをする山下は勝利者の余裕に満ち溢れている。
 玲子は両手を振って「そんな、捨てません!」と全力で否定してくれていて、その生真面目さがまた愛おしい。
 録音を頼まれた時はこんなに大事になるとは思いもよらず、安易に返事をしてしまったが、結果的に丸く納まって本当に良かった。
「玲子、大丈夫?」
 部屋の隅で待機していた愛美と支配人が神妙な面持ちでやってきた。
 二人には本当に心配をかけたと思う。
 支配人は変わらず明るくいてくれたが気遣われているのがわかったし、愛美は基希への気持ちを後押ししてくれた。
 玲子一人で悩んでいたらまだウジウジとしていたかもしれない。
「愛美さん、支配人、ご心配おかけしました」
 深々と頭を下げた玲子に、大志が手を添えて起こした。
「こっちこそ悪かったな。でも仲直りもできたみたいで良かったよ。伊達石さんも父がすみませんでした…これからは母と兄が会社を盛り立てていくんで、どうかお力添え下さい」
「ありがとうございます、微力ながら努めさせていただきます」
 だが答えて思った。
ー兄って誰だ…?
 そんな疑問を他所に、夫人は二人にも声をかける。
「愛美さん、今まで嫌な思いをさせてごめんなさいね。大志、あなたもよく耐えてきたわ。約束通りこれからは自由よ。二人で好きに生きなさい。でもお願いだから結婚式だけはやってちょうだい!儀式は大切よ、大輔はお式も挙げないまま子供が生まれたものだから私…心残りなのよ」
ー大輔……確か山下さんの下の名前も大輔……普通に考えて秘書を下の名前で呼ぶか…?
 さっぱりわからないまま聞くに聞けず迷っていると、それに気づいた夫人がクスっと笑いかけてきた。
「大輔から何も聞いていない顔ね。あの子はね…私が十五の時に産んだ子供なの」
「えーーーっ!」
 この新事実は、その場にいた全員を驚倒させた。
 当の山下はニコニコとしていたが、大志は若干恥ずかしそうにしている。
 それでも夫人は懐かしそうに目を細めると、息子二人を一瞬見遣り話し始めた。
「当時の私はまだ若くて、とても一人では育てられないと親から説得されて…散々悩んだ末に子供は養子に出す事にしたの。でも、初めて自分でお腹を痛めて生んだ子を、そう簡単に忘れられるはずもなくてね……」
 温かな情愛と少しの不安…懐かしさが入り混じった夫人のその顔は、母親そのものだった。
「その後、お見合いで知り合った新垣に見初められて結婚して……でも、卑劣なまでの男尊女卑に、浮気相手が乗り込んで来る事も日常茶飯事。お金があったってちっとも幸せじゃないし、親の判断が全てではなかったのだと思い知ったわ。帰らぬ夫を待つのも、大志を一人で育てるのも辛くてね……大輔にした仕打ちを後悔しては泣いてばかりいたものよ。だからね私、大輔に援助をさせてもらいながら成長を見守ってきたの。里親の方も良い人達でね…いつでも会わせてくれたから大志にも〝あなたにはお兄ちゃんがいるから将来は仲良くしなさい〟って言い聞かせてきたのよ」
「そうだったんですね」
ーこの二人が親子だったとは……社長は知っていたのだろうか?いや、知っていたら秘書にはしなかっただろうな。
 驚愕の事実ではあったが、こうなる事を虎視眈々と狙っていたのだとしたら……新垣社長の敗北は初めから決まっていたような気がする。
「だからね、私はこの子達を自由にしてあげたかったのよ。好きな場所で暮らし、好きな仕事をする自由、愛する人と生きる自由…全て自分で選べる自由を与えてあげたかったの」
 その気持ちはわかる気がする。
 基希も玲子も思想の自由ですら許されない陽炎のような時代に生きてきて、互いを護りたくともそれができなかった。
 現代女性が強く、少しでも生きやすい時代に世界が変わってきたのだと、夫人を見ていて感じられる事は喜ばしい。
「ありがとう母さん。俺には母親が二人もいて幸せだよ」
 山下は夫人の背中を優しく擦って微笑んだ。
「まぁ、上手い事。何か欲しいものでもあるのかしら?」
「強いて言うなら休暇をいただきたいですね」
「だったら早く良い人材を育てなさいな」
「そういうわけだからお前さ、秘書やらない?」
 山下には前々から〝秘書にならないか?〟と勧誘されている。
 いつも簡単に言ってくれるが、基希は秘書になる気はない。
「謹んでお断り致します!」
「駄目かぁ~あはははは~」
 山下が本気で基希を秘書にする気になれば、その時はきっと逃げられない。
 だから逃げていられるうちは逃げておこうと思う。
 前社長に付いていきたいなどという感情はなかったが、社長が夫人に変わり新体制となるなら、秘書も悪くないのかもしれない。
 でも今はまだ気持ちがそこまでに至らないので、この先ご縁があるなら考える余地はある。
 いずれにしても山下の笑顔は本当に怖い…改めてそう思った。


続く……
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