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第9章 バレンタイン
第140話 ボイコット(1)
しおりを挟む週末が終わってしまった。将はため息をついた。
聡が東京に帰ってきていた、夢の時間。
今朝早く、出発する聡のタクシーに便乗して、将は自宅マンションに戻ってきた。
別れ際に、運転手の目を気にする聡にかまわず、後部座席で将は聡と唇を重ねた。
そのぬくもりはまだ生々しいのに、将がいるマンションの廊下は思わずふるえあがるほど寒い。
今日も天気は好いらしく、その分冷え込みもひどい。
マンションでは、早くも大悟と瑞樹が起きていて、朝食を食べているところだった。
「はよ……、将、なんだその顔?」
大悟が、顔に赤や青のアザが残る将の顔を見咎める。
瑞樹も目を見開いている。
「ああ、コレ。なんでもない。……いまからハケン?」
将は、あまり深く追求するなという意味で、大悟に逆に訊き返した。
大悟はそれをさとったのか、
「ああ」とだけ答えた。
瑞樹までジーンズ姿なので訊くと、今日から一緒にハケンに行くことにしたのだという。
朝食を終えた二人は、あわただしくも、仲良くハケンへ出かけてしまった。
将は取り残されて一人になってしまった。
――しかし好都合。
これで、学校をサボれる。
将は自分のベッドに横になった。
それにしてもよかった……瑞樹が真面目に働こうとしているのはいいことだ。
これがヤクと離れるきっかけになってくれれば……。
まだ寝足りない将はすぐにウトウトとしてきた。
と、そのとき。携帯が鳴った。
「なんだよぉ~」
寝付いたばかりの将は、目をあけるのももどかしく携帯を手探りで取った。
井口からだ。
「なんだよー、朝っぱらからよぉ」
めいっぱい不機嫌な声で出る。
「おう、将、おまえさ、今日学校こいよ、絶対」
「あんだよー。そんなことかよ。……カンケーね-だろ、切るぞ」
まだ眠い将は、井口がなんでいちいちそんな電話をかけてくるのかもちろんわからない。
「おい、切るなよ。将」
井口があわてて大声をあげる。
「ヤクザ(京極)のヤツ、今度から一人でも無断欠席がいたら、クラス全員のポイントをさっぴくなんて言い出しやがってさぁ。ホラ、お前、金曜サボったろ」
「ほわぁ~……マジかよ」
返事をする将は、まだアクビまじりだ。
「マジだぜ。いいか、俺は伝えたからな。絶対欠席すんなよ。わかったな」
井口は、しつこく念を押してようやく電話を切ってくれた。
将は電話を持ったまま、そのまま仰向けに目を閉じた。
――知るもんか。
眠気に支配された将の思考は無視しろ、と指令を出す。
――畜生!
十数秒後、将は、目をカッと見開くとガバッと起きた。
「クソー、あの京極のヤロー!」
とブツクサ言いながら制服に着替えた。
タクシーに乗った将は、金曜の件を唐突に思い出した。
ちなみに、半ギプスになったとはいえ、まだ徒歩10分の学校に杖をついて行くのはしんどい。
ゆえにまだタクシーを利用しているのだ。
金曜の件……あの京極の強圧的な指導は、中退者をわざと出してキャッシュバック額を少なくするためのものだということ。
そして出た中退者は、あわよくば、山梨に新設中の中退者用の全寮制の予備校に取り込もうという陰謀。
思い出してしまった将は、だんだん学校に行く気が萎えてくるのを感じた。
が、タクシーは校門前についてしまい、
「おう、鷹枝将」
と、タクシーを降りるなり、竹刀を片手にしたヤクザ教師京極に目をつけられることになった。
「金曜日は、無断欠席で、どこにいってたんだァ、ケンカか? オイ」
京極は竹刀で地面を突付きながら、斜に構えて将にすごんでくる。
将の顔のアザは『ケンカ』と勝手に決め付けたようだ。
将は、無視して先に進もうとしたが
「オイ、聞いてンのかァ!」
京極はいきなり、竹刀で地面をバシッと叩いて軽くキレるパフォーマンスをした。
将は面倒くさそうに横目だけで振り返ると
「足。ギプスを半ギプスにした。届忘れただけだっつの」
と言い訳してとっととそこから立ち去った(本当はサボリだったが)。
「あ、将!……ちゃんと来たか、あ~よかったぁ」
将の姿を入り口に見つけた井口は、ほっとしたように教壇に座り込んだ。
「なんだよ」
将はステッキをつきながら、教壇に座り込んだ井口の前を通り過ぎて自分の席についた。
「もー、金曜お前がサボったおかげで、あのヤクザ、さんざんだったんだぜー!」
井口は将の顔のアザをみてもなんにもいわない。
そういうのに慣れているというのもあるが、今は、アザよりヤクザ京極の仕打ちを訴えたいらしい。
「へーそー」
将は興味なさそうにカバンを机の横にかけると、机の上につっぷした。
「将、教科書持ってきてるの?」
「ない」
井口の心配そうな問いに将はさも面倒くさそうに答える。
「もー。俺、また借りにいくのかよ~?」
井口が抗議する。英語の教科書を将はとうに紛失している。
だからいつも井口が1組から借りてきてくれてるのだ。
「いーよ。別に借りなくても。フン」
「そういうわけにはいかねーだろ。ヤクザがまたキレるし」
すると、将の斜め後ろから、教科書が無言で差し出された。
女子クラス委員の星野みな子だ。
「星野サン?」
将は、教科書が差し出されたほうを振り返った。
「部室に先輩のが置きっぱだったから。たぶん今年のと同じだから、使えば」
星野は将の顔をみずに、そっぽを向いて答えた。
ツンと横を向いた眼鏡の横顔は、なかなか美人だということに将は今気付いた。
漫研所属、どっちかというとアニオタ腐女子系で、この学校で珍しく勉強ができる星野である。
彼女のことを美人だなんて気づいているやつは誰もいないに違いない。
「……どうもありがとう。星野サン」
将は素直に星野に礼を言った。
星野はあいかわらず将から目をそらしていたが、その頬はほんのりと染まっていた。
乱暴に引き戸が開くのを合図に、チャイムより早めにHRが始まるのも、すでに日常になりつつある。
京極はズカズカと教壇に登ると、
「今日は、無断欠席はいないようだな」
とわざわざ将のほうをみて言った。
しかし当の将は、わざとらしく窓の外に目をそらしていて、京極の嫌味にはまるで気付かない。
京極は、チッと舌打ちをすると、全員の出欠を順番に取りはじめた。
「松岡。……松岡は無断欠席か」
生徒たちは少々ざわめいた。
その見た目からして弱弱しい松岡は、いたって真面目で無断欠席などしたことがないからだ。
鼻をほじっていた将は、振り返った。なるほど、松岡の席はあいている。
京極は、そのまま最後まで出欠を取ったところで、いきなりバシッと教卓を竹刀で叩いた。
生徒がのけぞるように身を固くする。
「……俺が金曜日になんていったか覚えてるよな」
教壇の上から、生徒らを睥睨する。
「一人でも、無断欠席がいたら、お前ら全員100P引きとな!」
生徒一人一人の目がせつなそうに歪む。沈黙こそ守っているが
『そんな殺生な……』という声が聞こえてきそうだった。
そのときだ。ガラッと前の引き戸が開いて、
「すいません。遅くなりまして」
と息をはずませて、松岡が飛び込んできた。
クラス中の目が松岡に集まる中、彼は教室に入るなり前のめりにかがむように倒れこんだ。
ゼイゼイという息に、ヒューヒューという音が混じる呼吸は誰が見ても体調が悪そうだった。
京極だけが教壇の上から、床に手をついて苦しげな松岡を平然と見下ろして
「あぁっ?遅くなった、だとう?」
と威嚇の大声をあげる。
「理由は!届は出てないぞ!」
「す……すいませ……ん。登校中に……急に……発作が」
理由を述べる松岡の喉からは、ヒューヒューという苦しげな音が響いた。
それは、どんなに鈍い者でも呼吸困難の苦しさを想像できるほどの音だった。
現に一番前の真田由紀子などは、自分が呼吸困難になっているような苦しげな表情に思わず変わっている。
「発作だァ……?」
京極は教壇をドカドカと降りると、床に手をつく松岡の襟首を乱暴に引っ張りあげた。
はずみで、松岡の喉から咽るような咳が立て続けに出た。
「たるんでるからそうなるんだ!」
そういって、叩きつけるように引っ張り挙げた襟から手を離した。
松岡は、倒れこみはしなかったものの、体を曲げて苦しげに咳を続けた。
京極は「ケッ」と吐きすてるように言うと
「無断遅刻は、無断欠席同様、連帯責任と俺はいったはずだ」
とクラス中に聞こえるように怒鳴った。
「全員50P引き!」
「えー」
今度は、やや控えめに抗議の声があがった。
「そ、そんな」
松岡も咳で赤くなった顔を泣きそうにゆがめた。
彼のせい……彼の発作のせいでクラス全員が咎を受けるのが彼には耐えられないのだ。
「先生!」
とうとうクラスの皆を代表して丸刈りの兵藤が立ち上がった。
「松岡くんは、喘息持ちなんです。大目に見てもらえませんか」
兵藤の言うとおり、松岡は日頃から鼻炎に喘息とアレルギー系の慢性病に悩まされていたのだった。
兵藤が、京極の目をまっすぐに見据えているのを将は見た。
「ふっ」
京極は兵藤に向かって斜に構えると、軽く笑った。次に
「そんな病気、甘えだ」
と言い放った。
「ヒドイ!」「ひどすぎる」
クラス中がざわめくのを、京極は竹刀で一喝する。
「だが!」
シンと静まり返った教室に京極は偉そうに言った。
「今回は特別に大目に見てやろう。全員30P引きにしてやる」
生徒たちは不満を飲み込んで押し黙った。
「お前も30P引きでいい。そのかわりに罰を受けろ」
と京極は松岡に向き直ると、黒板にチョークでなにやら文字を書き始めた。
書き終わると、京極は松岡に、
「お前は、次の俺の授業までずっとここに座っていろ。命令だ」
黒板に書いた文字の下の教壇に正座することを命じた。
皆固唾を呑んで、松岡を見守った。
松岡は、うつむくと、京極の言うとおり教壇に座った。
その頬には耐えられなかったのか、涙が流れていた。
黒板にはこう書いてあった。
『私は、たるんだ精神のせいで、病気持ちです。それでクラスに迷惑をかけてしまいました。このままでは社会のお荷物です。負け組決定です』
もはや罰を超越している、ひどい屈辱を、京極は松岡に与えているのだ。
将は座ったまま、京極を睨みつけた。
HRはやや延長して終わった。
授業開始まで7分しかないが、何人かの生徒たちは心配そうに、前に座らされている松岡のところに集まった。
松岡は、涙にうるんだ目のまま、休憩時間だというのにずっとそこに座っていた。
「みんな、ゴメン。俺のせいで……」
としきりに謝る。
「なんだよ松岡、お前、そんなところに座っている必要ないよ」
とカイト。カイトは茶髪のワルながら、ゲーム会社の社会見学以来、松岡と親しいのだ。
「そうだよ」
兵藤もうなづく。
だが――不良のカイトが松岡に同情的な態度なので、表立って松岡を非難するものはいなかったが――
なんで松岡のせいで自分のポイントが減じられないといけないのか。
生徒の中には、そんな不満を持つ者がいるのも明らかだった。
遠巻きに集まる冷たい視線を感じるのか、松岡はかたくなに、そこに座ったままだった。
そして京極の書いた言葉に直接傷ついただけでなく、ナイーブな松岡は自らを深く傷つけてしまっているのだ。
将は、自分の席から立たずに、松岡の悲しげな顔を見つめた。
――こんなことまですんのか。金のために……。
まず、京極に腹が立った。そして次に彼のそういう行動を容認かつ推奨している学校に。
さらには、自分のポイントのことしか考えないあさましいクラスメートに。
将の中の怒りは、熱く燃え上った……。
将はついに立ち上がった。
ステッキをついて、松岡のいる教壇に上がる。
背の高い将に皆の注目が集まる。
将は黒板消しを取ると、いとも簡単に、松岡の後ろに書かれた言葉を全部消してしまった。
そのまま、松岡の後ろを通り過ぎて、前の引き戸から廊下へ出る。
その手にはいつのまにかカバンを持っていた。
「将、どこいくんだよ。あとちょっとで授業始まるぜ」
井口が将の背中に、大声で訊く。
クラス中の皆が将の動向を見守る中、将は、ゆっくりと振り返ると皆に聞こえるようにはっきりと宣言した。
「俺、授業ボイコットする。全部」
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