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第13章 死闘
第244話 入道雲
しおりを挟む「俺……あいつに、……大悟に絶対に見捨てないでくれって、頼まれているんだ」
「でも、そんなに……。顔がわからなくなるまで殴られるなんて……」
「約束したんだ」
将は腫れ上がった顔で、聡を安心させるべく、微笑んだ。だけど、それは逆に聡に痛ましさを覚えさせた。
「そこまで大悟くんのために我慢するのは……」
聡はいったんその先のセリフを飲み込んだ。代わりに
「大悟くんは、今……?」
と訊く。
「……睡眠導入剤で眠らせてる。起きると薬を取りに行こうとするから……。ドアは外から開かないようにしてきてる」
将は、大悟が万が一目を覚ましても外に出られないようにしていた。
玄関のドアの上下に外からピッキング対策のロックをし、念のためにドアノブと近くの窓枠を自転車用のチェーンで固定したのだ。
隣近所の人が見たら、あきらかに異常と思うだろうが仕方がない。
聡は何かで見た、薬物中毒患者の拘束を思い出した(これは、講習で見たわけではない)。
手足を厳重に縛られて、何もない部屋に転がされていた映像。……それぐらいしないと依存から抜けられないのだ。
「いつまで……そんな」
「わかんないから、山口さんに訊きに来た」
「そんな……将。これ以上殴られたら……死」
最悪の単語を聡は言いかけて、口を両手で覆うように顔の大半を覆った。
「大丈夫だよ」
今度は遠い目をして天井を見上げる将。確信を持てない希望は、単なる願望である。
「大悟くんのためにそこまでするのは……」
俯いた聡はそこで声のトーンを最低に落とす。
「身代わりになってもらったからなの……?」
将は思わず聡を振り返った。見開こうとした瞼が、よじった体の肋骨が、体中の殴られた跡がきしんだが、今受けた衝撃には遠く及ばない。
聡は下を向いたまま黙っている。長い睫が震えているのが見える。
二人を、べったりとした沈黙が遮った。
待合室のざわめき。リノリウムが蒸発したかのような、どことなく苦い消毒薬の匂い。看護師が患者を呼ぶ澄んだ声。
「知って……たんだ」
将は脱力したように再びベンチに寄りかかった。
「いつ、聞いたの」
それでも、すがるべく聡を盗み見る。
「……ずっと前」
「大悟がいったの?」
聡は黙っていた。そんなことを訊いても仕方がない。
答えるはずもない、ということに、問いを声にしたあとで将は気がつく。
「アキラは……だから、俺と離れたの?」
「違う」
即答と共に、聡が顔をあげた。
黒目がちの瞳はまっすぐに将の顔に向けられている。将の傷だらけの顔がその瞳の中に映っていた。
「違う。それは絶対に違うよ。将。あたしは……」
聡の視線が将の顔から、ついと横に流れた。
「おまたせ」
聡の視線の延長上を将も振り返る。そこに白衣姿の山口が歩いてきていた。昼食用なのか小さなトートバックを持っている。
「待ってるから」
聡は将に小さく囁いた。
結局、山口も聡と同じことを言うのみだった。
せめて、強い睡眠薬か安定剤をもらおうと思ったのだが、それもだめだった。
山口は秘密を守ると約束こそしてくれたが、
「診察しないと、安定剤投与が適切かどうかわからないわ。もし、肝臓を痛めていたらヘタすると命を縮めることになるし……」
と眉をひそめた。
「とにかく、お友達が大事だったら、一刻も早く病院に連れて行くことよ」
そう言うと、将の肩に手を置いた。それは傷を気遣ったのか、ごく軽くだった。
非常階段から出てきた山口と将を見て、ベンチに座っていた聡は立ち上がった。
「いつも、仲がいいわね」
山口は微笑んだ。二人の仲は、たぶんバレているのだろう。
じゃあね、と山口はナースステーションへと別れた。
将は、自分が使う、とウソをついて薬をもらえばよかった、と後悔しながら聡と二人でエレベーターを待った。
いらだちが、傍らの聡を少しだけ邪魔に思わせて、こんなことを言わせた。
「別に待ってなくてもよかったのに。『先生』」
「将……」
聡は将を見上げた。
その黒目がちの瞳に映る窓からの昼の光が少し揺れた。うるんでいるのだ。
すぐに後悔した将は、冗談でフォローしようとした。
「すぐ、泣く」
しかし、将の言葉通り、聡の目は透明な液体で膨れてしまった。
そのとき、エレベーターの扉が開いた。
「ほら。来たよ」
聡はふいに湧き出た涙を拭うハンカチを探して俯いているところだった。
将はサポーターをつけた右手で、そんな聡の肩を抱くように促した。
降りてきたエレベーターには、奇跡的に誰も乗っていなかった。
聡が、ぐしゅん、と洟をすするのを合図に、将は衝動的に聡を抱き寄せた。
体が意識から離れたところで自動的に動いてしまったのだ。聡も洟をすすりながら、将の胴に細い腕をまわしてくる。
「将……」
将は肋骨が痛むのもかまわず、聡をきつく抱きしめた。
髪のあたりから漂う懐かしい甘い香りに理性はますますふっとんでいく。
――もう、どうでもいい。やっぱり聡といたい。
「アキラ……アキラ」
密室を照らす暗い蛍光灯。
息苦しいような閉鎖空間が、今の二人には夢の世界だ。
このまま、エレベーターに閉じ込められたっていい。いや、閉じ込められればいい。
二人は、抱き合ったまま心の奥底で願ってさえいる。
しかし、夢の空間は、あっという間に割れた。
エレベーターの扉が開いて、現実という名の白日が二人に否応なく注ぐ。二人は、教師と生徒に戻らなくてはならなかった。
だが、もう少し将と一緒にいたかった聡は、
「……今日はお弁当を買っていくわ」
と将を先導するように、一歩踏み出すと将を振り返った。
病院から外に出ると、うっとおしいほどの蝉時雨と突き刺すような夏の日差しが二人を出迎えた。
さっきより空の青さはいっそう濃くなっている。正午近いのだろう。
「暑いわねえ」
聡はひなたに出るなり手をおでこにかざした。
「そうだな」
世間に顔が知れつつある将だが、これほど腫れ上がった顔を、イケメン俳優のSHOだと認識する者はいないらしい。
すれ違う者は皆、その形相に一度は視線をひき付けられ、顔をしかめて、目をそらすようにそっぽを向いていく。
「海、行きたいな」
唐突もなく入道雲に夢見るような視線を向ける聡に、ふと将は思いつく。
「ねえ。アキラ」
「なあに?」
涙はすっかり乾いたようだ。眩しげに目を細めて将の顔を見上げる。
「手つなごう」
将の思いがけない提案に、聡は目とともに口をぽかんとあけた。
「手、汗びっしょりよ」
「いいよ。俺もだもん」
「学校の人に見られるかもよ」
ここは、学校の近くだ。
「大丈夫。昼休みはまだだし、この顔だし。俺が誰かなんてわかんねーよ」
「その背の高さでバレバレだって」
という聡にかまわず、すでに将は聡の手をとっていた。
「ひさしぶりだな。アキラと手つなぐの」
「うん……」
聡は急に無口になった。大きな将の手。初めて握ったときより、やや湿り気を帯びている……そんな将の手の感触を伝える自らの左手に、聡は自然に神経を集中させていたのだ。
将の肌の触感は、聡の体にいろいろな記憶を蘇らせた。
将が最も近くにいた記憶を思い出した聡は、俯きながらも将の手をギュッと握った。
そんな聡の握力を感じた将は、笑顔で聡の手を握り返す。
しばらく握力の応酬で無言の会話を交わしながら、二人は降り注ぐ蝉時雨の中、アスファルトに焼きつくような短い濃い影を踏みしめる。
商店街にさしかかると、将のマンションが見えてくるはずだ。
もうすぐ、手を離さないといけない。
二人は、信号待ちで顔を見合わせた。
そのとき。
なんとなく、周囲があわただしいことに二人は気付いた。
皆が、呼びかけあうように商店街のほうへ走っていく。
信号が変わって、二人は手をつないだまま、将のマンションがある商店街のほうに歩く。
何人もの人が、そんな二人を追い越していくように急いでいった。
集まった人々の表情は悲痛な顔や、興味深げな顔、怒りを顕にした顔、とさまざまだったが、ある一点を見上げていることで共通していた。
濃い青空に逞しい入道雲ではなく……その前にある将のマンションを皆は見上げていた。
「あっ!あそこ」
先に声をあげたのは聡だったが、同時に将も息を飲んでいた。
蝉時雨も喧騒もすべて止んだかのようだった。
将は、マンションの、10階と9階の間の……バルコニーの外側のありえない場所に男が張り付いているのを見た。
……それは間違いなく大悟だった。
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