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第16章 運命
第290話 無理難題(2)
しおりを挟むここ3日、聡は目覚めとともにお腹に手をやるのが習慣になっている。
お腹は、何の感触も動きもなく平らのままだ。
今日は、学校が休みの土曜日。
毎週、好きなだけ眠る習慣の聡が目覚めたのはもう12時近くだった。いつもは9時過ぎには目覚めるのに。
妊ごもったことがわかってから……聡はやたらに眠くなった。いつも眠い。そして起きるときに布団から感じる引力は10倍になった。
連休があった今週は出勤は3日だけだったが、それでもつらかった。
今も……目は覚めたけれど、体を起こしたくない。
ベッドの中でけだるい体を横たえていた聡は、通過する車のタイヤがたてる湿った音で、ようやく雨が降っていることに気付いた。
重い体を起こすと青いカーテンをあけてみる。目を凝らすと景色の黒っぽい部分に斜めの細い縞が見えた。
「雨かあ……」
それだけを確かめた聡はもう一度ベッドに横たわる。
あいかわらず食欲はない。お腹はすくし、食べなくてはという義務感もある。だが……食べると吐いてしまうのだ。
こうして一人でいると、たまらなく心細くなる。
金曜日の昨日、ここで将は明け方まで、まるで卵を抱える雌鳥のように聡をずっと抱きしめていた。
明け方には約束どおり、タクシーを呼んで自分のマンションに帰り、学校にやってきた。
ずっといたわるような将の視線に支えられて、聡はどうにか授業をこなすことができたようなものだ。
聡は再びお腹に手のひらを添わせた。
超音波には確かに映っていたけれど、この平らなお腹に子供がいるなんて……。
信じられないけれど、体はあきらかに変わっていくようだった。
絶え間ない眠気。食事のたびに襲う吐き気。喉の渇き。トイレも近くなった。
気持ちの準備ときたら、まるで出来ていないのに……。
聡は、おなかをなぜながら
「なんで、出来たの」
と皮膚の下にいる胎児に恨み言を吐いてみる。
――二人が……いずれ結ばれて家庭を持つにしても、お前は、まだ早すぎる。
聡にはそうとしか思えない。
大学1年のとき。国語教師の子を身ごもった美佐が言っていたことを思い出す。
『女って変わるんよ。妊娠する前は、出来たら堕ろさないと、とか思うやん。
だけど、いざ出来たらね。絶対にこの子を産みたい!って思うんだから』
だけど、今の聡にはとてもじゃないけど思えなかった。
愛する将の子供だから、状況が許せば産みたい。
だけど、今のこの状況じゃ無理なのはわかりきっている。
木曜日の夕方、将は『絶対に大丈夫。オヤジを説得するから』と聡を抱きしめた。
――でも。
常識的な大人だったら、絶対に許すはずがない。
張本人の聡だって、非常識だと思うのだから。
ふいに、胃が空腹を訴えた。
気分としては何も食べなくないけれど、疼痛のような空腹に聡はのろのろと起き上がると、冷蔵庫をあけた。
あいにく、冷凍しておいたパンぐらいしかなかったので、聡は仕方なくそれをトースターで焼いてみる。
……だが、こんがりとキツネ色に焼けたパンの香ばしい香りは、案の定、痙攣のような吐き気となって聡を襲った。
「うっ……、うぐっ……」
聡は洗面所に駆け込んで、吐き気と格闘した。
食べていないのだから何も出るはずはない。吐瀉物のかわりに涙がぽろぽろとこぼれてくる。
自分が、自分の体はいったいどうなってしまうのか。
――将。こわい。
痙攣のような吐き気がようやく治まっても、うずくまった聡はパジャマの膝を涙で濡らしながら、将を待つしかなかった。
「現役で東大に入れ。それが出来たら結婚を認めてやろう」
康三はさらに続けた。
「……担任の先生を卒業の前に孕ませたなど、鷹枝家の跡取としては言語道断、世間の格好の物笑いとスキャンダルの種だ。
本来だったら絶対に許可などできない。……だが、お前がそこまで言うのなら、物笑いを跳ね返すだけの実力を身につけなさい。
その第一歩が東大に現役で合格することだ。……どうだ、できるか」
康三はもちろん、将がそんなことを承知するはずがないと高をくくっていた。
いっときはS社の模試で偏差値60程度まであげた将の成績は、芸能活動が祟って、かろうじて全国平均あたりにひっかかる程度に下がっている。
同社の模試で偏差値81をマークする東大に合格するなど、まずもって無理だ。
おまけにセンター試験まで3ヶ月と少し。受験勉強に取り掛かるにしても時間的にも足りなさ過ぎる。
康三は、頤を心持あげて跪く将を見下ろしていた。
その将は……一呼吸置くと、立ち上がった。
そして目をあげた。その視線の位置ははすでに康三より高い位置にあった。
「わかった」
将はしっかりとした口調で答えた。
将の即答に、逆に康三のほうがうろたえるようだった。
康三はこちらを見ている将の顔を探ろうとして……自分の息子がそんな顔をするようになったのを初めて知った。
将は……澄みきった瞳に、まっすぐな決意を浮かべていた。
「わかった、というのはどういう意味だ」
将の表情から真意を汲み取れなかった康三は、あらためて訊くしかない。
今までの息子の所業から考えると『鷹枝家など捨てて、聡と出て行く』という言葉が最もありがちなように思える。
だが、自分に注がれるまっすぐな視線は、そういう言動にあまりにふさわしくなかったのだ。
「東大に入るよ。だから結婚を認めてくれ」
将はあっさりと言った。
康三は絶句しかけた。ちなみに三男だった康三は東大出ではない。
孝太が行っている小学校と同系列であるK大の出だ。
『東大がどういうところか知っているんだろうな』と反射的に喉まで出かかった言葉を、舌の上で別の言葉に言い換える。
「お前……本気か?」
そう問いかけながら、本気のはずがないとすでに康三は判断していた。
しかし将は、うなづきながら
「本気だよ。絶対に東大に現役で合格してやる」
とはっきりと宣言さえしようとする。
康三は、ばかな、と小さく嘲笑うと、デスクに置いた資料をめくり始めた。
つまり、戯言扱いしようとしたのだ。
「お前の今の状況じゃ、逆立ちしたって無理だ」
「無理かどうかなんて、やってみないとわからないだろ」
将は康三が立っているデスクのほうに一歩詰め寄った。
「いっとくが、将」
康三は顔をあげて、将の顔を見据えた。
「とりあえず目指したからと、許可させておいて、あとで撤回できない状況にするというのはないぞ」
つまり、『東大に行く』と言葉のうわっつらだけでの結婚許可はない、と康三は断言したのだ。
将はふっと笑うと、
「そんなつもりなんか、さらさらねえから安心しろよ」
といつもの語調で答えた。
笑顔さえ浮かべている息子が康三はわからなくて、康三の舌は丸まった。
「今日からせいいっぱい頑張るよ。合格したらすぐに結婚していいんだろ」
こんどは逆に将が首を少し傾けるようにして康三を見下ろした。
康三は、う、と言葉をつまらせたが、
「先生の出産予定はいつだ」
となんとか体面を保つことができた。
「5月半ば。東大に合格すれば、3月に結婚できるんだろ」
将は笑顔ながらも、視線でじわじわと康三に詰め寄った。
康三はさっき確かに……一瞬将のひたむきな聡への思いにかすかに同情した。
だが、こんなことを本当は許したくはない。
だから絶対に出来ない無理難題を与えたはずなのに、将はやる、と胸を張っている。
その自信たっぷりな息子の表情を見ていると、なんだか本当に難題をクリアしそうな気さえする。
だが、一度口にしてしまったことは、撤回できない。
鷹枝家に育った人間は、そういう口約束をもっとも軽蔑するのだ。
――なに。口だけさ。絶対にできるはずがない。
康三は開き直ることにした。
それに万が一、合格しても……スキャンダルは困るが、将自身の将来のために最高学府の学歴は何かと役に立つ。
そう親心に言い聞かせて康三は
「いいだろう」
と約束をした。しかし目を輝かせた将に、釘を打つように
「ただし、だ」
と条件を付け加える。
「先生のお腹の子供が、お前の子供であることは、合格するまでは絶対に秘密にしろ」
とたんに将の眉根がゆがむ。
「でも……お腹、どんどん大きく……」
「それは、私がなんとか手を打つ」
「オヤジ」
将は何かに思い当たって、まなこを見開いた。
「まさか、毛利に頼んで、アキラに危害をくわえないだろうな。そんなことをしたら……」
オヤジを殺す、と叫ぼうとする将を康三の言葉が遮った。
「そんなことは絶対にしない」
語気が強いあまり、吼えるようなその迫力に将は黙った。
その瞳も将を突き刺すかのようだった。
康三自身も少し過ぎたか、と俯くと
「……仮にもお前の親だ。お前の信頼を失うようなことを、これ以上したくない。……信じろ。
お前も結婚したい、というなら、まず家族を信頼することを覚えろ」
努めて柔らかい声で続けた。そしておもむろに顔をあげた。
「……そうだ。もう1つ。お前はここに……この家に帰ってきなさい」
デスクの上に置かれた康三の手のあたりを見ていた将は、新たなる課題に顔をあげた。
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