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第16章 運命
第291話 無理難題(3)
しおりを挟む9月の雨は、やむこともなく、かといって雨脚を強めることもなく、土曜の昼下がりを憂鬱なものにした。
高級住宅街にある自宅を出た将は、巌が眠る菩提寺を訪れていた。
濡れて艶めいた墓碑。この下に、巌の骨の大部分が納められている。
まだ巌が亡くなって49日にもならない墓には、誰かしらが白菊を供えている。それも雨に濡れそぼっていた。
「ヒージー」
ビニール傘を差した将はその前にしゃがむと、呼びかけた。
この下に、巌の魂があるわけではない、というのはわかっている。
だけど将は、今日、巌にどうしても話をしたくて、ここにやってきてしまった。
墓というのは……死んだ人のためのものではなく、生きて残された者の拠り所なのだ。今日の将は、それがとても理解できる。
――俺さ。ヒージーと同じ大学に行くことになっちゃったよ。
将は心の中で語りかけてみる。それに対して
――そうか。そりゃ災難じゃのう。せいぜい勉強することだ。
ふぉっふぉっと笑う声が将の心には聞こえた。
――俺、わかってんだ。これヒージーの差し金だろう。
将は墓碑の中に浮かんだ巌のイメージを軽く睨んだ。
――なんでそんなことを思うんだ?
巌は、愉快そうに笑った。
なんでかな、と将は傘を差したまま頬杖をつきながら、濡れそぼった白菊と巌のまっ白な眉毛に共通点を探そうとした。
聡が将の子供を身ごもったこと。聡と結婚するために東大を現役で目指さなくてはならなくなったこと。そして実家に帰ること……。
東大に入るのはゆくゆくは政治家としての鷹枝家を継ぐだめだし、実家に帰れば純代とうまくやっていかねばならない。
聡の妊娠は別として、すべて巌が将にのぞんだことばかりではないのか。
――ヒージー。もしかして、聡のお腹の子は……。
巌の生まれ変わりなのではないのか。
将は甘い露のように菊の花びらに丸く浮かぶ雨粒を見つめながら、かねてからの『疑い』を心の表面に浮かべる。
輪廻転生など馬鹿げている。18歳にして、人の生き死にに、生で接したことがある将は、そんなことを信じなかった。
人は死んだら……見事なまでに動かないし、いなくなる。
それを将は生母をはじめ、祖父、手に掛けたヤクザ、そして今また巌に見てきたから。
だけど……このタイミング。
将は、聡のお腹に子供がいる、とわかったときから、あれは巌の魂がスイッチされたのだ、という考えを消すことができなかったのだ。
実家に帰るという条件をしぶしぶ飲んだ将に、康三はさらにもう一度確認してきた。
「いいか。お前の結婚は、東大に現役で入らないと認められないんだぞ。わかっているな」
「わかってるよ」
将は再度顔をあげて、父親の目をはっきりと見据えた。
しかし康三は、そんな将に挑むように問い掛けてきた。
「じゃあ、将。もし、東大に落ちたらどうするんだ」
「落ちないから安心しろよ」
軽く微笑みさえ浮かべている将に、康三はいらついた。
偏差値81。しかも他の大学の入試のように、記憶力がメインの試験が行われるわけではない。
記憶させた莫大な知識をもとに、短時間で自分の考えを再構築して述べさせるような試験が行われる東大入試。
康三も辟易のあまり避けたその入試を、この息子は舐めているのではないか。
「お前、先生の子供を堕ろす気はないんだな」
「なんでそんなことをする必要があるんだよ」
将は瞬きをした瞼と一緒に黒目をあげて、康三を睨んだ。
「ということは、先生に子供を産ませるんだな」
「そうだよ」
何度同じことを確認させるんだ、と将の眉根が代弁するようにゆがむ。
「もしお前が、受験に失敗したらどうするんだ。結婚もできないし、先生を未婚の母にするのか」
将は、そのとき、鼻から息をもらすように笑うと
「だから。絶対に失敗なんかしねえってば」
と強く言い放った。どんなに康三に、
「そうはいうが、万が一。万が一落ちた場合、どうするんだ」
問い詰められても、
「万に1つもねえよ。俺は絶対に聡と結婚するに決まってるんだ」
とあくまでも『もしもの受験失敗』について語らなかった。意地になっていたといってもいい。
――だってさ。ヒージー、いつか『言霊』って言ってたじゃん。
言葉は、口にすると魂を持ち、それを実現させる力を持つ。巌が将に教えたことの1つだ。
将は雨粒を蜜のようにはじいている白い菊の花に、8歳の頃を思い出していた。
あの頃、将はハーモニカが苦手だった。
いつも、吐くところと吸うところを間違えて、変な曲になってしまう。
ピアノは思うとおりに弾けるのに、この小さな金属の箱は将の思うとおりにならなく、将を苛立たせた。
明日は音楽のテストというそのときも、将は縁側で嫌々ながらハーモニカを練習していた。
しかし、自分が思うような曲を吹けず、2~3回くらいで吹くのをやめてしまった。
ランニングに地下足袋姿で庭木をいじっていた巌は、珍妙な音楽がやんだのに気づいて、縁側の将に目をやった。
『どうした。練習はしないのか』
『だって、どうせできないもん』
将は拗ねて、縁側からはみ出た足をぶらぶらさせた。
巌は、剪定バサミで枝を切るのをやめると、縁側に向かって歩いてきた。
『お前は、ピアノは上手じゃないか』
『ハーモニカは別だよ』
と将は唇を尖らせた。だからよけいにムカつくのだ。
『どれ、貸してみろ』
そういうと巌は、将の膝の上にあったハーモニカをひょいと取り上げた。
……次の瞬間、巌が吹くハーモニカから流れてきたのは、将が好きなアニメのエンディングだった。
『ドラえもんのおわりの歌だ!』
将は、自分のハーモニカに巌の口が触れた不潔感を忘れて歓声をあげた。
『そうじゃ』
巌は得意そうに将に微笑んだ。
『いつ練習したの?楽譜は?』
『そんなものはない。聞いたままに吹いたんじゃ』
『すっげー』
将は手渡されたハーモニカを思わずのぞきこむ。だけど自分が吹いていたときとなんらかわらない。
巌は将に、何、コツを覚えれば簡単じゃ、とリズムにあわせてフッフフッフフー、と唄いながら尖らせた唇で息を吸ったり吐いたりした。
それを一緒に繰り返し真似る将に巌は
『将よ。物事は、出来ない、と声に出したら、そのとおり出来なくなるものじゃ』
と語りかけた。
『それをコトダマという』
『コトダマ?』
『そう。言霊じゃ。古来より言葉は声に出すと魂を持つとされていてな。
出来ない、と言ってしまうと、その言霊に引っ張られて本当に出来なくなってしまうんじゃ』
『ふーん』
将は金属で出来たウエハースのようなハーモニカを見つめた。
ウエハースなら好きだが、この物体は将の思うような音を出さない、にっくき存在だ。
それがさっきは、まるで巌に懐いたように、将の好きな唄を奏でてみせた。
『だから、自信がないときほど、出来る。と言葉に出すんじゃ。さすれば今度は言霊が出来る方に導いてくれるのじゃよ』
半信半疑の将に
『ためしに将、お前は大好きなドラえもんの歌を、ハーモニカで吹ける。そう自分に宣言してみろ』
と巌は白髪交じりの睫をしばたいた。うなづいた将は
『僕はドラえもんが吹ける』
と宣言すると、ハーモニカをおごそかに手に取った。
言霊のパワーがハーモニカに満ちますように、と祈るように。
そして、巌におそわったとおりのリズムで息を吹き込んだ……。
♪青い空は……のメロディが口笛ではなくハーモニカの音で縁側に響き、将は『言霊』の霊験に顔を輝かせた……。
将とて、失敗したらどうするか、を考えなかったわけではない。
いや、油断をすると、聡を連れて逃げてしまったほうが楽だ、という結論に傾きそうになる。
そんな将を踏みとどまらせていたのが、巌が将に託した刀と遺言だった。
聡を連れて駆け落ちしてしまえば、巌の遺言は果たせなくなる。
1年前の将なら、そんなことを気にせずに逃げていただろう。
だが、今の将は違う。
仮に、聡のお腹の子が、巌の生まれ変わりなら。
巌の遺言を……努力もせずに放棄するのは決して許さないだろう。
はっきりそう思ったわけではないが、心の深いところが将を引きとめた。
――東大に行けというのなら、努力しよう。
――巌から続く長男の伝統なら踏襲してやる。
それをきっと成し遂げることが、巌とそして聡、そして生まれてくる子への愛の証になると考えた将は、絶対にそれを成功させるというゲンをかついで、
『もしも失敗したら』
ということを意地でも口に出さないことを誓っていた。
口に出さないどころか、頭の中から一切のイメージを抹消した。
将は自分の脳に、受験成功と聡との結婚だけをイメージするように……そしてそれに続く階段を具体的に築きあげていくことだけに思考を働かせるように厳しく命じた。
――俺さ、頑張るよ。だからめいっぱい応援してくれよ。ヒージー。
将は立ち上がると、白い空を雨粒のついたビニール傘ごしに一瞬あおいだ。
巌の魂が……仮にあるとしたら。あの空と、この墓の下とどこにいるんだろう。
そんなことを考えながら、将は濡れた石畳を歩く。ここの境内にも大きな桜の木があった。
桜は若干その緑をくすませた葉をいっぱいに茂らせている。
――森村先生のところか。
将は笑みを浮かべると、自分も聡に早く逢いたいと急ぐ。
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