夫には好きな相手がいるようです。愛されない僕は針と糸で未来を縫い直します。

伊織

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 僕は、呉服屋ののれんをくぐった。
 懐かしい匂い――反物の新しいのりの香りと、日なたで乾かした木の床の匂いが鼻をくすぐる。
 まだ家を出て一か月ほどなのに、ずいぶん久しぶりに思えた。

 左右の棚一面に、色とりどりの美しい反物が並んでいる。
 奥の壁に飾られているのは、桃色の生地に赤や白の花が全面に描かれた振袖と、裾に金銀糸で松を刺繍した黒留袖くろとめそで
 息をのむほど美しく、圧倒される。

「いらっしゃいませ……って、千尋じゃないの」

 店の右手の帳場ちょうばにいた母が、少し驚いたように声を上げた。
 久しぶりに見る母の姿に、胸の奥がじんわりと温かくなる。

 母は傍に来て僕の顔を見たあと、ふと視線を下げた。
 僕が今着ているのは、繰り返し洗われて色も褪せた、よれよれの木綿の着物。
 呉服屋にいた頃には、母が決して着させなかったようなものだ。

 そのせいか、母の目にはすぐに涙が浮かび、唇をきゅっと結ばれてしまった。
 綾音ちゃんの言ったことは、本当だったのかもしれない……。

「……今日はどうしたの?」

「ちょっと、相談があって来たんだ」

「相談?」

 母は小さくうなずき、「すぐに行くから、奥で待ってなさい」と言った。
 途中、従業員の人に「あら、千尋ちゃん!お帰りなさい」と笑顔で声をかけられる。
 小さい頃からずっとそう呼ばれてきたその響きに、胸が温かくなった。

 奥の座敷に着くと、母がお茶を運んできてくれた。
 湯気の立つ茶碗を両手で包みながら、僕は昨日の出来事を話した。
 
 誠一のことは言えなかったけれど、自分で何かできるようになりたいと思ったこと。
 綾音ちゃんに裁縫を教えることになったこと。
 必要だと思うことや、綾音ちゃんが飽きないように工夫したいことなど――。

 母は黙って頷きながら最後まで聞いてくれた。

「……なるほどね」

 お茶をひと口飲んでから、母はゆっくりと口を開いた。

「花嫁修業の裁縫なら、教えることはいくらでもあるわ。縫い方の基本から、着物や小物のお直しまで。千尋、あんたは昔から手先が器用だから、ちゃんと教えられるはずよ」

「ありがとう。そうだと良いな」

「針仕事が苦手な子は多いけど…でもね、いざという時に出来ると、嫁ぎ先でとても重宝されるのよ。うちにもよく“ほつれを直してほしい”って持ち込む若いお嫁さんが来るくらいだもの」

 母の言葉に、胸の奥が少し明るくなる。

「飽きないようにするなら――まずは簡単な小物からがいいわね。巾着袋や半襟はんえりの付け替えなんかは、すぐに形になるし、達成感があるから」

「……なるほど」
 
 僕は持ってきた紙に、母の助言を走り書きしていった。

「そうだ――これ、持っていきなさい」

 母は立ち上がると、奥の棚から布の束を抱えて戻ってきた。
 柔らかい木綿や、色鮮やかな端切れ――残り布だろうが、まだ十分に使えるものばかりだった。

「これ、見本に使いなさい。巾着でも、袱紗(ふくさ)でも作れるでしょう」

 さらに、木箱の引き出しから糸と針を取り出して、僕の前に置いた。

「道具も揃えていきなさい」

 差し出された布や道具を手に取った瞬間、鼻の奥がツンとして、涙が出そうになった。
 
「お母さん、ありがとう……本当に」

「いいのよ。また困ったら、いつでもおいで」

 そう言って母は微笑んだ。
 母は布や道具を風呂敷に包んで持たせてくれた。

 座敷を出て店に戻ると、僕が小さい頃から来てくれていたお客様がいた。
 浅黄色の着物を着た初老の男性――お得意様の笹原ささはら様だ。

「おぉ、千尋ちゃんじゃないか。もう嫁いだから会えないかと思っていたよ」

「そんなことありませんよ、笹原様。千尋はずっとうちの大事な息子ですから」

 母が笑って返す。

「はは、そうだったね。でも、会えてちょうど良かった。いつものように千尋ちゃんがいると思って、さっきあんぱんを買ってきちゃったんだ。よかったら食べておくれ」

「わぁ! 嬉しいです! いつもありがとうございます」

 笹原様は呉服屋に立ち寄るたびに、色々なお菓子を持ってきてくれる人だった。
 小食だった僕はお菓子でお腹いっぱいにしないようにと、母に注意されていたけど。

「笹原様、ありがとうございます。千尋、あんたご飯もちゃんと食べるのよ」

「分かってるよ」

 僕はその後も笹原様と少し話して、幸せな気持ちで家に帰った。
 
 さっそく計画を立てる。
 呉服屋に来るお嫁さんの悩み、お嫁さんとして出来た方が良い裁縫、基本の縫い方で出来る小物……。
 綾音ちゃんが裁縫の花嫁修業にどれくらいの時間をかけるつもりなのかは分からない。
 でも、最低限必要なことは伝えてから手を動かしてもらおうと思った。

 考えているうちに、もう日が暮れていた。
 一日はあっという間だ。
 そういえば、あんぱんもまだ食べていない。
 夕飯は食べられなくなりそうだけど、仕方ない。

 僕は急いで頬張り、お風呂を沸かしに行った。
 ちょうど沸かしたところで、誠一が帰ってきた。
 慌てて玄関に出迎える。

「お帰りなさい」

 誠一は少し驚いた顔をした。

「……起きてたのか」

 なんだよ、僕が起きてたらだめなのか。

「えぇ、ちょうどお風呂を沸かしたところです。入りますか? それともご飯にしますか?」

「先に風呂に入る」

「わかりました」
 
 僕は誠一の荷物を受け取って書斎に運び、寝室から寝間着と下着を出して風呂の傍に置いた。

「浴衣、ここに置いておきますね」

「あぁ」

 味噌汁の温め直し用にまきを数本拝借する。
 代わりに新しい薪をくべた。

 ……良かった。朝よりは普通に会話できている。
 母の所へ行って花嫁修業のことを整理できたのも、気持ちを落ち着けてくれているのかもしれない。

 僕は台所に戻り、誠一の食事を用意した。
 誠一が食べている間に布団を敷こうと思いながら、味噌汁を温め、ご飯も蒸し器で温め直す。
 明日からはまた先に寝るつもりだし、これくらいはしておいてやろう。 

 誠一が風呂から上がってきたので、ご飯と味噌汁をお盆にのせて座敷へ運ぶ。
 朝のようにすぐ離れようとした時――

「君は食べないのか?」

 誠一がこちらを見ていた。

「僕は食欲がないので」

「朝もそう言ってたな。昼は?」

「昼は、朝が遅かったので……お腹が空かなくて」

 本当だ。でも、裁縫のことを考えていたら、ご飯のことを忘れていた。

「それで、今も食欲がないのか?」

「……はい」

 さっきあんぱんを食べたし……。
 誠一が大きくため息をついた。

「何も食べないのは良くない。せめて味噌汁だけでも飲め」

 そう言って、自分の前の味噌汁を僕の方へ押しやった。

「あの、味噌汁はまだ残ってますから。これは誠一さんが召し上がってください」

「なら、今ここに持ってきなさい」

「……はい」

 僕は台所に戻って残っていた味噌汁を器に盛り、座敷に戻った。
 誠一は食べるのを止めて、僕を待っていたらしい。

 僕は腰を下ろし、「いただきます」と言って椀を手に取る。
 僕が口をつけるのを確認してから、誠一も食事を再開した。

 ……明日の朝、また“食欲がない”と言い訳するのは難しそうだ。
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