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2話
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「あら、どなたかと思ったら、イグナシオさまの元……」
パーティ会場で声をかけてきたのは、見知らぬ令嬢だった。
振り返ったファティマが首を傾げていると、自己紹介をされる。
「初めまして、新たにイグナシオさまの婚約者となりました、アブリルと申します」
「っ……!」
若さ溢れる肢体を惜しげもなく露わにした美しいアブリルに、会場のあちこちから羨望の眼差しが注がれている。
婚約を解消されたファティマと一緒にいる場面は、格好の噂話の的になっていることだろう。
「どんな経緯があったのかは知りませんが、もうあなたとイグナシオさまとの縁は切れたのですから、どうぞ未練など残されませんように」
うふふ、と薄笑いを浮かべ、ファティマへ意味ありげな視線を投げるアブリル。
ファティマよりも自分が上位に立ったことを、分からせに来たのだ。
二人を取り囲む貴族たちの囁きが、否応なく声高になる。
「ご覧になって、元婚約者と現婚約者の対立ですわ」
「アブリルさまは高圧的でいらっしゃるから」
「大人しいファティマさまでは、太刀打ちできないでしょうね」
「どなたか婚約解消の本当の理由をご存じないの?」
「急な取り替え劇でしたものね。でも原因はおそらく、ファティマさまの方に……」
「私の妻に、何か?」
そこへカツカツと靴音も高らかに現れたのは、レアンドロだった。
すぐにファティマの隣に寄り添うと、周囲を睥睨した。
多くの者はそれだけで、ひっと息を飲みそそくさと離れていく。
公爵家に面と向かって物言える貴族など、王族以外では限られている。
「イグナシオさまかと思ったら、レアンドロさまでしたのね。いまだに兄弟の見分けがつきませんわ」
アブリルだけが、居丈高に言い放った。
将来の義弟など、恐ろしくはないのだろう。
「まだ婚約者のあなたとは違い、ファティマはすでに公爵家の一員だ。無礼な振る舞いは控えてもらおう」
しかし、レアンドロも負けてはいない。
アブリルを一喝すると、ファティマを伴って会場を後にした。
残されたアブリルは、悔し気に顔をしかめるしかなかった。
「すまない、僕が目を離した隙に――」
「いいえ、助けていただいて感謝しています」
「君には何の落ち度もないんだ。すべては僕のせいで――」
こうした場面が何度かあって、ファティマはレアンドロ本来の律儀な性格を知るようになる。
初対面で見せた暴力的な部分は、日頃のレアンドロからは微塵も感じられない。
あの一瞬でレアンドロを判断するのは、早計だとファティマは思った。
(誰しもカッとなったり、魔が差すことがあるわ。私だって、それは否定できない)
犯した罪を反省し、償おうとするレアンドロの姿勢を、ファティマは評価しようと決めた。
そしてレアンドロをもっと知るために、ファティマは二人で会話する機会を設けるようになった。
◇◆◇◆
数か月も過ぎると、ファティマに慣れてきたのか、レアンドロは閉ざしていた心の内を見せるようになってきた。
そして時折、亡くなったエルネスタの思い出を、ぽつりぽつりと漏らすようになる。
「エルネスタとの出会いは、僕がまだ少年だった頃で――」
レアンドロが語るエルネスタの姿に、ファティマは癒された。
愛しあっていた二人の話を聞くと、改めてイグナシオとの間にあったものが愛ではなかったと感じる。
本当に愛しあう者同士は尊い。
もうファティマには望めないからこそ、よりレアンドロとエルネスタの関係は美しく思われた。
「僕はエルネスタの無念を晴らしたかった。でも……兄には通じなかった。ファティマだけを不幸にして、僕は――」
レアンドロは何度もファティマへ頭を下げる。
今になって、無意味だった仇討ちの虚しさが分かったのだろう。
むしろレアンドロはファティマを襲ったことで、より多くの苦しみを背負ったかもしれない。
「エルネスタのところへ行きたい。何もかも捨てて……。でもそれでは無責任だ」
レアンドロが傷つけてしまったファティマの名誉を、罵る者たちから護り抜く役目がある。
希死念慮に支配されそうな精神を、レアンドロは奮い立たせた。
「僕ができる償いは、それ位しかない」
エルネスタを失ってから、ずっとしおれていたレアンドロだったが、ファティマの隣で気力を取り戻した。
社交界にも次第に、レアンドロとファティマの仲の良さが広まっていく。
それが気に喰わないのはイグナシオだった。
「僕が捨てた者を拾って、どうしてレアンドロは笑っていられる?」
◇◆◇◆
「僕ばかり、つまらない目に合うのはおかしいじゃないか」
「イグナシオさま……?」
「やはりファティマは、正確に僕たちを見分けるね」
パーティ会場から離れた薄暗がりに、ファティマは引きずり込まれた。
そしてその相手に驚愕する。
「手を放してください!」
「何を乙女ぶっているんだ。もう君は傷物だろう?」
「それとこれとは、話が別です」
「違わないさ。弟とやるのも、僕とやるのも」
「嫌! 止めて!」
ファティマの叫びは、レアンドロに届かない。
「前の女は抱いたら死んだが、君は死んでくれるなよ? 男爵令嬢と違って、もみ消すのが大変そうだからな」
心無いイグナシオの言葉に、ファティマの胸はえぐられる。
どれだけレアンドロがエルネスタを愛していたのか、知っているからなおさらだ。
「どうしてそんな酷いことができるの……?」
ドレスの胸元を破られたファティマは、抵抗しつつもイグナシオを問い詰める。
それがイグナシオに響かないと分かっていても、言わずにはいられなかった。
「酷いことでもないだろう? 君は僕に惚れていたじゃないか。こうされて嬉しいはずだ」
感情のこもらない声にゾッとする。
イグナシオの本当の姿を知らず、恋焦がれていたファティマは愚かだった。
今さらかもしれないが、イグナシオに触れられて鳥肌が立つ。
「誰か! 助けて!」
ファティマが懸命に上げた声を聞きつけたのは、まさかのアブリルだった。
イグナシオと絡むファティマを見て、つかつかと駆け寄ってくると、ビシャリと頬を引っ叩く。
「よくもイグナシオさまを誘惑したわね!」
責められたファティマは唖然とした。
イグナシオに迫られて嫌がっているのは明らかにファティマだ。
この状況で、どうしたらアブリルのような判断ができるのか。
「離れなさいよ、この売女! イグナシオさまと、よりを戻そうとしたのね!」
「ち、違うわ! そんなこと……」
「おい、アブリル。邪魔をするな」
もみ合いになったアブリルとファティマを、イグナシオが止める。
「せっかくいいところだったのに」
「イグナシオさま、この女が悪いんでしょ? そそのかされて、うっかり手を伸ばしたのよね?」
「僕を馬鹿にしているのか? 僕の行動は、僕が決める」
「ど……どういうこと?」
「傷物になった女がどんなものか、興味があっただけだ。大袈裟に騒ぐな」
興がそがれた、と零してイグナシオは立ち去る。
助かったファティマは慌てて身なりを整え、女性用の休憩室へ逃げだした。
そこに隠れていれば、戻ってこないファティマを心配して、レアンドロが迎えに来てくれる。
――ぽつんと残されたアブリルは、イグナシオの言葉を反芻していた。
「傷物になった女がいいの? じゃあ私に手を出してくれないのは、私が傷物じゃないから?」
それから数日後、イグナシオとアブリルの婚約が解消された。
アブリルは自分を傷物にするため、パーティ会場で複数人の貴族令息に清らかな体を明け渡したのだ。
そしてその饗宴をイグナシオに見せつけ、「さあ、傷物になった私をどうぞ召し上がれ」と脚を開いたのだが、侮蔑の視線を向けられただけであっけなく捨てられた。
「どうしてええ! どうしてよおおお! イグナシオさまああああ!!!!」
未来の公爵夫人になるための捨て身の努力は、アブリルの首を絞めただけだった。
パーティ会場で声をかけてきたのは、見知らぬ令嬢だった。
振り返ったファティマが首を傾げていると、自己紹介をされる。
「初めまして、新たにイグナシオさまの婚約者となりました、アブリルと申します」
「っ……!」
若さ溢れる肢体を惜しげもなく露わにした美しいアブリルに、会場のあちこちから羨望の眼差しが注がれている。
婚約を解消されたファティマと一緒にいる場面は、格好の噂話の的になっていることだろう。
「どんな経緯があったのかは知りませんが、もうあなたとイグナシオさまとの縁は切れたのですから、どうぞ未練など残されませんように」
うふふ、と薄笑いを浮かべ、ファティマへ意味ありげな視線を投げるアブリル。
ファティマよりも自分が上位に立ったことを、分からせに来たのだ。
二人を取り囲む貴族たちの囁きが、否応なく声高になる。
「ご覧になって、元婚約者と現婚約者の対立ですわ」
「アブリルさまは高圧的でいらっしゃるから」
「大人しいファティマさまでは、太刀打ちできないでしょうね」
「どなたか婚約解消の本当の理由をご存じないの?」
「急な取り替え劇でしたものね。でも原因はおそらく、ファティマさまの方に……」
「私の妻に、何か?」
そこへカツカツと靴音も高らかに現れたのは、レアンドロだった。
すぐにファティマの隣に寄り添うと、周囲を睥睨した。
多くの者はそれだけで、ひっと息を飲みそそくさと離れていく。
公爵家に面と向かって物言える貴族など、王族以外では限られている。
「イグナシオさまかと思ったら、レアンドロさまでしたのね。いまだに兄弟の見分けがつきませんわ」
アブリルだけが、居丈高に言い放った。
将来の義弟など、恐ろしくはないのだろう。
「まだ婚約者のあなたとは違い、ファティマはすでに公爵家の一員だ。無礼な振る舞いは控えてもらおう」
しかし、レアンドロも負けてはいない。
アブリルを一喝すると、ファティマを伴って会場を後にした。
残されたアブリルは、悔し気に顔をしかめるしかなかった。
「すまない、僕が目を離した隙に――」
「いいえ、助けていただいて感謝しています」
「君には何の落ち度もないんだ。すべては僕のせいで――」
こうした場面が何度かあって、ファティマはレアンドロ本来の律儀な性格を知るようになる。
初対面で見せた暴力的な部分は、日頃のレアンドロからは微塵も感じられない。
あの一瞬でレアンドロを判断するのは、早計だとファティマは思った。
(誰しもカッとなったり、魔が差すことがあるわ。私だって、それは否定できない)
犯した罪を反省し、償おうとするレアンドロの姿勢を、ファティマは評価しようと決めた。
そしてレアンドロをもっと知るために、ファティマは二人で会話する機会を設けるようになった。
◇◆◇◆
数か月も過ぎると、ファティマに慣れてきたのか、レアンドロは閉ざしていた心の内を見せるようになってきた。
そして時折、亡くなったエルネスタの思い出を、ぽつりぽつりと漏らすようになる。
「エルネスタとの出会いは、僕がまだ少年だった頃で――」
レアンドロが語るエルネスタの姿に、ファティマは癒された。
愛しあっていた二人の話を聞くと、改めてイグナシオとの間にあったものが愛ではなかったと感じる。
本当に愛しあう者同士は尊い。
もうファティマには望めないからこそ、よりレアンドロとエルネスタの関係は美しく思われた。
「僕はエルネスタの無念を晴らしたかった。でも……兄には通じなかった。ファティマだけを不幸にして、僕は――」
レアンドロは何度もファティマへ頭を下げる。
今になって、無意味だった仇討ちの虚しさが分かったのだろう。
むしろレアンドロはファティマを襲ったことで、より多くの苦しみを背負ったかもしれない。
「エルネスタのところへ行きたい。何もかも捨てて……。でもそれでは無責任だ」
レアンドロが傷つけてしまったファティマの名誉を、罵る者たちから護り抜く役目がある。
希死念慮に支配されそうな精神を、レアンドロは奮い立たせた。
「僕ができる償いは、それ位しかない」
エルネスタを失ってから、ずっとしおれていたレアンドロだったが、ファティマの隣で気力を取り戻した。
社交界にも次第に、レアンドロとファティマの仲の良さが広まっていく。
それが気に喰わないのはイグナシオだった。
「僕が捨てた者を拾って、どうしてレアンドロは笑っていられる?」
◇◆◇◆
「僕ばかり、つまらない目に合うのはおかしいじゃないか」
「イグナシオさま……?」
「やはりファティマは、正確に僕たちを見分けるね」
パーティ会場から離れた薄暗がりに、ファティマは引きずり込まれた。
そしてその相手に驚愕する。
「手を放してください!」
「何を乙女ぶっているんだ。もう君は傷物だろう?」
「それとこれとは、話が別です」
「違わないさ。弟とやるのも、僕とやるのも」
「嫌! 止めて!」
ファティマの叫びは、レアンドロに届かない。
「前の女は抱いたら死んだが、君は死んでくれるなよ? 男爵令嬢と違って、もみ消すのが大変そうだからな」
心無いイグナシオの言葉に、ファティマの胸はえぐられる。
どれだけレアンドロがエルネスタを愛していたのか、知っているからなおさらだ。
「どうしてそんな酷いことができるの……?」
ドレスの胸元を破られたファティマは、抵抗しつつもイグナシオを問い詰める。
それがイグナシオに響かないと分かっていても、言わずにはいられなかった。
「酷いことでもないだろう? 君は僕に惚れていたじゃないか。こうされて嬉しいはずだ」
感情のこもらない声にゾッとする。
イグナシオの本当の姿を知らず、恋焦がれていたファティマは愚かだった。
今さらかもしれないが、イグナシオに触れられて鳥肌が立つ。
「誰か! 助けて!」
ファティマが懸命に上げた声を聞きつけたのは、まさかのアブリルだった。
イグナシオと絡むファティマを見て、つかつかと駆け寄ってくると、ビシャリと頬を引っ叩く。
「よくもイグナシオさまを誘惑したわね!」
責められたファティマは唖然とした。
イグナシオに迫られて嫌がっているのは明らかにファティマだ。
この状況で、どうしたらアブリルのような判断ができるのか。
「離れなさいよ、この売女! イグナシオさまと、よりを戻そうとしたのね!」
「ち、違うわ! そんなこと……」
「おい、アブリル。邪魔をするな」
もみ合いになったアブリルとファティマを、イグナシオが止める。
「せっかくいいところだったのに」
「イグナシオさま、この女が悪いんでしょ? そそのかされて、うっかり手を伸ばしたのよね?」
「僕を馬鹿にしているのか? 僕の行動は、僕が決める」
「ど……どういうこと?」
「傷物になった女がどんなものか、興味があっただけだ。大袈裟に騒ぐな」
興がそがれた、と零してイグナシオは立ち去る。
助かったファティマは慌てて身なりを整え、女性用の休憩室へ逃げだした。
そこに隠れていれば、戻ってこないファティマを心配して、レアンドロが迎えに来てくれる。
――ぽつんと残されたアブリルは、イグナシオの言葉を反芻していた。
「傷物になった女がいいの? じゃあ私に手を出してくれないのは、私が傷物じゃないから?」
それから数日後、イグナシオとアブリルの婚約が解消された。
アブリルは自分を傷物にするため、パーティ会場で複数人の貴族令息に清らかな体を明け渡したのだ。
そしてその饗宴をイグナシオに見せつけ、「さあ、傷物になった私をどうぞ召し上がれ」と脚を開いたのだが、侮蔑の視線を向けられただけであっけなく捨てられた。
「どうしてええ! どうしてよおおお! イグナシオさまああああ!!!!」
未来の公爵夫人になるための捨て身の努力は、アブリルの首を絞めただけだった。
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