魔法使いは退屈な商売

小稲荷一照

文字の大きさ
24 / 39

三十四週目

しおりを挟む
 木曜日が決戦だった。
 論文の翻訳は出来上がっていた。
 コンテキストにした冊子や資料は大量の付箋が張り付けられて、単語の背景などがミッシリ書き込まれていた。
 畑中純一は火曜日までほとんど一睡もしないままに論文本体を読み下し、五日間の貫徹の成果として論文の和訳は完成していた。
 論文は「レーザー光の立体制御照射による有機化合物の生成促進手法」という表題だった。
 基本的にブラウン運動によるイオンの引力圏への衝突をまたなければならない材料混合液中の化学反応を、複数の周波数のレーザー光による軸拘束をおこない反応形態を制御しようという若干というか、かなり野心的な趣旨の論文で、発展的にはレーザー光の周波数と軸位置を可変的に調節することでレーザー光を窓とした分子結合の選別を行おうという内容だった。
 じっさいに実験で使われている化合物は分子としては大きくなく、しかし割合ドコにでもある複雑さを持つ糖タンパクの生成をおこなっていた。
 化学プロセスだと反応剤やキャリアイオンの沈殿除去などの副産物の濾し取り作業が延々と続く工程を、材料の投入、誘導、結合、結晶化という比較的簡単な整理された形として示してた。
 論文は幾つかの問題を示していて、概ねそれは装置コストと生産規模とがほとんど比例関係にあることに収束していた。つまり少量生産には向いているが大量生産では現状手法の方が拡大的な利用を見込めるので、それに見合った高価な製品をターゲットにしないとならないということが純一には想像できた。
――例えばなんだろう。ホルモンとか遺伝子合成とかかな。
 実際、サンプルはひどく単純な――純一にはそう思える――分子だったが、装置の出力的な容量が許すならば、簡単な遺伝子の合成や組み込みを行ってみたくなるような方法だった。
 数少ない特許の上に成り立っている、遺伝子操作技術に対して全く別のアプローチも可能になるし、今まで生化学的な合成をおこなっていたホルモンなどの大きな有機化合物が、単にバカでかい出力装置と電源装置があればいくらでも合成できることになる。
 これまで純一は漠然と化学反応を促進させる新技術程度に考えていたが、この論文は生化学的錬金術、という少しばかり過剰で曖昧な修飾をおこなって自らを語っていた。
 そして必ずしもそれは間違いと言い切れるほどのモノではなく、普通はかなり精密な工程を要求されるICチップのプリント工程を素子のウェファーの生成段階でおこない、印刷段階をすっ飛ばすコトが可能とも示していた。このことは電子部品の生産プロセスにも影響を与えることを意味しており、試験プラントの設計工程にすでに入っているという記述もあった。
 ともかく、いま純一や先輩たちが大学の研究室でおこなっていることは、必ずしも奇矯なことではなく、すでに必ずしも最先端ではない、という事実の確認ができた。
 実際に多くの大学の工科系でおこなっているコト、おこなえるコトの多くはすでに何年も前から存在する技術理論の検証確認であって、必ずしもそれは最先端の思いつきを意味するものではないし、たとえ最先端でもひとりの教授やそのチームだけで推進するのは困難なので、結局多くの同業他者の協力なり成果の利用なりが必要になる。そこいらはまた成果の名誉は誰のものかというややこしい問題を含むわけだが、純一としてはそういうところよりも、すでにある程度は示された内容のコノ論文が、自分の卒業論文に対してどの程度の影響を与えるのか、が重要だと思えた。
 とくにかなり先行しているようにみえる内容の論文に対して、自分がなにをできるのかということでパニックになった。それはある意味でたいへん若者らしい好ましい反応とも思えるが、大きな思い上がりであるということも純一には理解できたので、誰かにバランスの指針を示して貰う必要があった。
 当然に和訳したての論文をもって、大学の研究室に飛び込み教授に査読を要請した。相田助教授は純一の論文和訳の概要文を見て少し興味を示していたが、時間がないので伊藤教授に直接みせるように、と純一に指示をした。代りにてっぺんに軽く鉛筆で自分の名前をサインした。
 伊藤教授はノンビリとおおらかなわりに一方で激しやすいという、ありがちな二面性を持っている人物で相方の相田助教授と協同の形で多少多めの研究生を指導していた。本当は相田助教授に査読してもらってアラダシをして貰った方が、機嫌によってはかなり容赦ない逃げ道のない論理性で追い詰めてくる伊藤教授よりは気が楽なのだが、仕方ない。
 伊藤教授は相田助教授のサインを見ると、相田センセイは出張のはずだが、と簡単に状況を確認し純一の説明を促した。
 とりあえず入口に近い相田助教授の待機室を尋ねた、というような内容で伊藤教授は納得したようで、論文の和訳についての査読を開始した。途中で原文を何度か見ながら伊藤先生は電卓をたたき始め、ノートを引っ張り出し、かなりノリノリの熱心さで論文翻訳を確認していく。
 途中幾つか和訳のテキストに赤入れをして、純一に差し出したのは三十分くらいしてからだった。
「面白い」
 伊藤教授はそう言った。
「実際のところ、私の専門を越えているところがあるので、単語レベルでの直しがほとんどだが、前後の流れからいってだいたいの骨子はいいと思う。単語の訳語が原文自体かなり揺らいでいるので多少バラけているのは仕方ないが、その辺はもう少し気をつけた方がいい。日本語にしてから単語のチェックをすれば、結構イケると思う。で、これはインターンでもらってきたのか?」
 伊藤教授は確認した。
「そうです」
 教授は唇を口笛の形にゆがめ、しかし鳴らさず――さすがに自重したらしい。
「まぁ、勉強にはなっているようだな。しかし初日にココまでつっこんだ資料もらうってのは、畑中くん、キミはいったいナニをやったんだ?」
「やっぱりなんか変ですか」
 純一は様々な不安を最初から感じていたので、教授に訊いてみる。
「ま、悪いこととも思わないんだけど。ね。なんかとんでもない事務仕事させられたり、つまらない倉庫掃除をさせられる会社なんかもあるらしいし、それに比べれば、かなり格別の待遇だね。業界情報を直接みせて貰う機会は私でも余り多くない」
 教授は原文を軽く査読して、翻訳の矛盾を探す。
「――まぁ、君が優秀なのはある程度分かっていたが、ココまであちらで期待されるってのは初日になんかあったのかね」
「初日っていうか、つい先週なんですが……」
 さすがに、純一もどう言っていいものか分からず教授に相談するつもりで口を切ろうかとした。
 教授は驚いたようだった。
「コレは君が一週間でというか四五日で訳したってことか?」
「まぁ、そうです」
 コンテクストはかなり手伝って貰ってほとんどそのまま利用したが、どうせ質問があれば純一が返さねばならないということで、論文本体は式や図面の部分を除いて、手伝って貰った翻訳部分も纏めて純一が校正しながら文意を修正しながら編集してしていた。彼女らの語学力はありがたかったが、一方で工学的知識にかけた翻訳では論文として意味をなしていなかった。辞書を引くヒマや文法上の悩みを省けたのは事実だが、純一が訳したといってもウソという程の間違いではないと思える作業量だった。
 教授はマジマジと純一を眺めた。
「よほどシゴかれているのかね。あんまりムリそうならコチラから苦情を申し入れることもできる。協定も給金も発生しない分、早めに対応するような協議条件にはなっているんだ。体力的能力的に無理をさせるつもりもないし、そんな事実があるなら、直ちに申し入れて改善を求めるが。ちなみにコレの締切はイツだね」
「明日です」
 教授は息を飲んだ。
「……畑中くん。君が翻訳している論文は極めて高度な実証試験向けの試験プラントのリファレンスだ。
 正直なところ私の研究室で扱えるような予算ではここまでは詳細に推められないし、キミたちの卒論期間で学習と研究を両立できるような内容でもないし、ましてやその精度は学生の自作がおこなえるようなレベルではない。この論文をココまで翻訳した君の能力は、すでにじゅうぶん卒業論文を完成できる理論的な理解力に到達していると思うが、一方で君自身が学部期間中に工学的な実証は不可能なレベルである。
 正直に言えば、私はこの課題をキミに提示した人物に大きな不愉快を感じる。そしてこの課題を自力で満足した君自身の能力に感銘を覚える。もちろんコンテキストを大量に提供されたとは思うが、それすらも目的を考えれば膨大な量だったはずだ。
 私はひどい会社をインターン先に選んだようだ。済まなかった」
 伊藤教授は頭を下げた。
 それから、伊藤教授は論文翻訳を精読し、詳細な校正を始めた。
 それは純一の作業量を確実に増やす結果になるのは明らかだったが、それでも作業の完成度を各段に高めることにもなった。
 純一よりも教授がこの課題に怒りを感じており、とうに終業時間になっているのに詳細に詰め、学校の大型のプリンタを使って完成させた。
 その和訳を三部と、翻訳データをサーバーに残し、伊藤教授はようやく納得したようだった。
「負けるなよ」
 そう言って、教授は純一を帰路に送り出した。


 木曜日。インターンの時間通り、始業後ややしてから金城女史のオフィスに入ると女史は不在だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」

音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。 本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。 しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。 *6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。

裏切りの代償

中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。 尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。 取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。 自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...