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〖第1話〗
しおりを挟む階段をのぼる音で解る。『彼だ』と。通販の配達員でも、ポスティングでもない。『彼』特有の足音。
見かけにそぐわない、ゆっくりとした穏やかな足取りで、火曜日と金曜日、このアパートへ、彼は来る。廊下を歩く、踏みしめるような足音。咲也は、この訪問を心待ちにするようになった。最初は、ただ気まずいだけだったけれど。
『彼』は、もう誰も来ないこの部屋に、唯一来る『お客さん』だ。ほとんど家から出ない咲也にとって、彼、大家の赤根巌は大切なひとだ。彼の笑った顔が見たくて咲也は料理を作る。『美味しい。咲也くんは本当に料理が上手だね』といつも巌が喜んでくれるからだ。
暫くして、部屋の色気のないチャイムが鳴る。
咲也は、いかにも待ちわびたという顔はしない。いつも通りの顔をする。この関係を続けるためだ。待ってはいけない。関係性に優劣がつけば、いつしか『終わり』がつきまとう。『終わり』なんて、もう見たくない。だから、このままでいい。咲也は、そう思いながらも、火曜と金曜は、身綺麗にして、ほんの少しだけ、いい服を着る。
「こんばんは」
ドアを開けると、外は街灯が少ないせいか、いつもこの玄関は薄暗い。けれど今日は、いつ降りだしたか分からないほどに積もった雪明りで、巌の顔は、はっきりと見えた。
ニットの、灰色のざっくりと編んであるマフラーに、ぐるぐる巻きになって、両手にスーパーマーケットの白いレジ袋を持った巌が、目だけを出して、笑う。マフラーはこの冬、巌に似合うだろうなと、咲也が衝動買いして無理にプレゼントしてしまったものだ。
「あがって。とりあえずビールでいい?夕ご飯、すぐ作るね。巌さんこの前『鍋食べたい』って言っていたから、今日は約束通り鍋だよ」
巌は嬉しそうに、目をくしゃりとさせて笑った。
「ありがとう。お邪魔します」
咲也は巌が重そうに両手にぶら下げている白い袋の中身について訊いた。
「巌さん。あのさ、その荷物、何?」
「鍋の具材の差し入れだよ。こっちは、食後のデザート」
そう言い巌は左手の荷物を軽くあげた。巌は世に言うコワモテと呼ばれる顔をしているが、咲也は巌を怖いと思ったこと一度もない。いつも巌は笑っている。それも、少し控えめに、笑う。
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