シグナルグリーンの天使たち

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二月・禍福は糾えるナポリタンの如し


   *

「へえ、これがサツキのお人形?」
「そうだよ。小さいけれど出来が良いでしょ」
「白い髪に赤い眼……」
「このサイズで入れ目ヘッドは珍しいかな。好みにカスタムして」
「うん。蚕蛾の擬人化みたいで良いと思う」
如月サツキが「虫かあ……」と言葉に詰まったところで、店長がコーヒーを持ってきた。私たちは喫茶店のテーブルを囲んで語らっている。今日はサツキがお気に入りの人形を見せてくれているのだ。
「打ち解けたようで何より。雨屋くんも、如月くんも」
今日も今日とて客入りは少ない。昼時を過ぎたこともあり、席はどこでも自由に使い放題だった。だからといって何に使うでもないのだが。
「どうも店長さん。お邪魔しています」
サツキは先月ここで出会ったお客さんだ。店長が隣のアパートを紹介したので、そのまますぐに入居が決まった。大学のキャンパス移動に伴い、新しい部屋を探していたらしい。アパート二階の一室で暮らし、よく喫茶店へ食事に来る。
「私のとこでは買い物してくれなくなったじゃない」
少し拗ねるように語気を強めると、彼は首を竦めた。
「ごめん、自分の部屋には無頓着で……」
ドールハウスには小物を置くが、人間の部屋はこざっぱりしているタイプらしい。うちは大型の観葉植物がメインであるし、客として定着してくれなかったのは仕方がない。だが温室の雰囲気は好みのようで、螺旋階段に腰かけ、ガラスの天井を眺めている姿をよく見かける。
「そうだ、ひとつ面白い話があって」
人形を眼鏡ケースに仕舞いながら彼は言った。ふわふわのドレスがぎゅっと押し込められていく。
「同じ小学校に通っていた旧友が、隣の部屋に住んでいたんですよ」
「おや、それは奇遇だね」
店長が思わず声をあげる。私はそのアパートに住んでいないので、こちらの建物に来ない住人に関しては把握していない。店長も別の場所に居を構えているため、例の旧友が誰のことを指すのか分からないはずだ。
「それじゃあ、十年ぶりくらい? よく顔を覚えていたわね」
「けっこう仲良くやっていたからね。最初は半信半疑だったけど」
「いいなあ。積もる話もあるでしょう。今どんな生活をしているかとか」
私がそう尋ねると、彼の顔が曇ったような気がした。
「今の生活……ね。俺と同じで大学生みたい」
なら良かったじゃないか、と考える。大学に通えているのなら十分安泰な生活だ。ここは決して安アパートではないし、生活に困窮していないのは確かだろう。
「何か心配なの?」
私の問いかけに、言い淀みつつも彼は応える。
「俺、あいつは音楽家になると思っていたんだよね」
例えばピアニストか、そうでなくとも指揮者あたり、と続けた。
「ものすごく音楽のセンスが良かったし、本人もそれが夢だって言っていたから。だから今頃は音大にいるのかなって想像していたんだけど、普通の大学生みたいで」
「ああ……」
何となく気持ちは分かる。他人の人生なのだから、気にするようなことでもない。でも少しだけ心に引っ掛かってしまうような、そんな気持ち。音楽の才能というものは子供のうちから定まりがちであるし、勝手な期待をするのも無理ないことだ。
「店長さんはどうでした?」
厨房の方へ戻った彼にサツキが声を掛ける。距離があるので、少し大きな声で。
「喫茶店のマスターをやるってこと、昔から考えていましたか?」
「そうだねえ……」
新しい注文もないのに調理する音が聞こえる。ケチャップの焼ける匂いが漂ってきた。
「僕はもともと、変哲のない会社員だったよ。会社員になる前は、喫茶店のことなんて全く頭になかったね。まあ、料理は嫌いじゃなかったけれど」
フライパンの中身を皿に移す音。トングが軽く叩かれる音。もし私に才能があったなら、それらの音の呼び方が正確に分かるのだろう。私には何も分からない。私は普通の人間だから。それでも他愛ない音に喜びを見出すことはできる。
「ふたりとも、ちょっと味見してくれないかな?」
これらの音に続く言葉を知っているから。私たちに食事を振る舞いたいとき、彼は決まってこう告げる。
「やった。ナポリタンだ」
「良いんですか? 俺もいただいちゃって」
私だけのときはまかないと称して出してくれた。厳密には私はここのスタッフじゃないのだけれど。サツキが私と親しくなってからは、新作でもない料理の味見を何度もさせる。そんな生活がゆるりと繰り返されていた。
「そうだ、夢を見るって言っていたんですよ」
私の倍ほどのペースで食べ進めながらサツキは言った。
「ピアノの曲を聞く夢を見るって。夢の中でずっと鳴り響いているって。そんな夢を何日も頻繁に見ているらしくて、それで俺――」
「お前は本当に口が軽いなあ」
え、という視線がこちらに向けられた。フォークを握ったまま呆けている顔を、私は人差し指で突いて動かす。店の入り口の方へと。
「私が言ったんじゃないわよ」
というか、声で分かるでしょうに。
「お、ま、え、は、本当に口が軽いな!」
どこかで見たような、でも確実に知り合いではない男の人が扉を開けて立っていた。

   *

「二色(にしき)小龍(こりゅう)といいます」
私たちのいる四人掛けのテーブルに近寄ってきた彼は、断ることなく席に着いた。強引だとは思ったが、私ではなくサツキの隣を選んだのでまあ許そう。年の頃はサツキと同じほど。話の流れから察するに、彼が例の旧友に違いない。友人の口の軽さに呆れる素振りを見せているものの、さほど気にしているわけではないようだ。
「迂闊な奴ですよね、ほんと。夢のことまでぺらぺらと」
「ごめんね」
明らかにサツキより垢抜けている。大学でも活発なグループに属しているタイプだろう。初対面の私にも臆することなく、テンポよく会話を繰り出す。
「別に深刻な話じゃないんですよ」
どこまで喋ったのかを聞き出した後、彼はからりと笑った。
「音楽家の夢も、そんなに真剣に追っていたわけではないし。今の進路は自分で決めたことですから。才能は、まあ……確かに」
「それは認めるんだ?」
「絶対音感は、あります」
小龍は机の上で指を動かし、ピアノを弾くような仕草をした。その響きにも音が見えているのだろう。羨ましいような、そうでもないような。考えてみれば、私が絶対音感を持っていても何かに役立てそうにない。
「しかし頻繁に同じ夢を見るというのは気になりますね」
彼の注文した紅茶を運びながら店長が言った。小龍がここに来たのは気まぐれで、不意に紅茶が飲みたくなったからだそうだ。扉を開けるまで中にサツキがいることにも気付かなかったらしい。
「曲名は分かりますか?」
「いえ、現実で聞いたのなら分かりそうなんですけど、何せ夢の中ですので。クラシックらしきピアノ曲が鳴っているなあ、としか」
「それは、映像のない夢なのですか?」
店長がカップを置くのと引き換えに、空いた皿をサツキが差し出す。ごちそうさま、という声が聞こえた。そんな呑気な光景の隣で、小龍が夢を思い出そうと宙を見ていた。
「階段……」
視線は天井からずらされ、奥の螺旋階段へと向かう。鮮やかな緑のペンキで塗られた、玩具のような色味の階段。温室から光が漏れ落ちている。
「階段を上り続けているイメージはありますね」
曖昧ですみません、と彼は目を閉じる。
「あれみたいに螺旋階段ってわけじゃないんですけど。真っ直ぐな階段を、終わることなく上り続けていたような気がします」
真似して私も目を閉じてみた。暗がりの中、階段だけが足元にあって。それを上る度にピアノの曲が聞こえる。真剣に追い続けはしなかったけれど、かつてはピアニストになれると思っていた。上へ。聞こえる。もっと上へ。ずっと聞こえている。あの螺旋階段はすぐに温室へ着くけれども、この階段はどこへも続かない。
「本当に、俺は気にしていないんですけどね」
ひとしきり話した後、小龍は鞄を抱えて席を立った。レモンまで綺麗に食べ尽くされた空のカップがテーブルに残される。ドアベルの響きが完全に過ぎ去った後、サツキが私たちの方へ向き直ってこう呟いた。
「俺……夢で聞こえていた曲の名前が分かるかもしれません」

   *

夢を記録しているんです、と彼は言った。
私の隣の席には店長が収まっている。彼が真剣な顔で話し始めたので、腰を据えて聞こうと思ったのだろう。
「夢というのは脳の情報の整理なので、目覚めれば忘れてしまう人がほとんどです。でも俺は昔からどうにも夢を忘れられない体質のようで……」
そんな話をしながらタブレット端末を取り出す。彼がそれでゲームをしたり、レポートを書いたりする姿を見たことがあった。外付けのキーボードを使っているのだ。しかし今は入力ではなく、出力のために使おうとしたようで。
「まるで現実で起きたことみたいに、ある程度は記憶に残っているんです。だからいっそのこと、日記を付けてしまおうと思って。一年ほど前から、書けるときは必ず」
こちらに向けた画面に映っているのは、非公開のブログのようなものだった。アーカイヴされた文章が日付ごとに読めるようになっている。ほぼ毎日書き連ねられていて、彼の意外な性格が垣間見えた。
だが、それはただ几帳面というだけではない。
「ちょ……これ、小説じゃん」
私は声を漏らす。夢の日記という時点で既に異質だが、更に特徴的な部分があったのだ。日記はあたかも小説のような文体で綴られていた。箇条書きではなく、導入から起承転結まで整えられた掌編小説の形式。
「マメだねえ、ほんと……」
「これは凄い」
覗き込んでいた店長が目を見開いた。
「内容もさることながら、筆も相当はやいことになる。溜めて書いているわけではないのだろう?」
「ええ。大抵は起きてすぐ、三十分ほどで」
店長に感心され、サツキの顔がすっかり緩んでいる。だがすぐに気を取り直し、俺のことはいいんです、と話を戻した。
「問題はこの部分なんですよ」
カレンダの一部をタップすると、その日に綴られた日記が現れた。日付は今から一週間ほど前。小龍が何度もピアノ曲の夢を見ているならば、当然その日も同じだろう。彼が夢の中で階段を上り続けている間、隣の部屋にいる男が見た夢とは――
「彼はピアニストだ。今から舞台の上で演奏をする……?」
夢の主人公はひとりのピアニスト。売れていないが腕は確かだ。その日は奇跡的に大きな舞台での演奏を任され、緊張しながら鍵盤に指を置いている。
「…………」
私は端末とサツキの顔を見比べた。
「お前が弾いていたのかーッ」
「わああっ」
襲い掛かる素振りをすると、彼は面白いほどに飛び上がった。もちろん冤罪だ。夢の中で弾いたピアノが他人の夢で聞こえるはずもない。
「夢の内容は、外的要因に影響を受ける場合が多いですから」
傾いた眼鏡をずり上げながらサツキは言った。
「俺と二色の部屋は、隣同士です。ちょうど夢を見やすい時間帯――通常の生活リズムの人ならば明け方頃――その時に、同じ音が近くで鳴っていたのではと思って」
端末を操作した後、それを再び店長の方へ向けた。
「なるほどね……」
画面は夢に関する研究報告書を表示している。そこでも夢は明け方に見るケースが多いと記されていた。確認したところ、サツキも小龍も規則正しい生活を送っているそうだ。同時に夢を見ていた可能性は高い。
「近くの部屋で誰かがピアノを弾いているとか?」
私が尋ねると、サツキは首を傾げる。
「アパートだし、時間が時間だからね……。そんな非常識な人はいないと思うけれど」
「そっかあ。君はぐっすり眠っていて気付かないだろうけど、小龍さんには毎日のように聞こえていたはずだから、さすがに非常識よね」
「俺が鈍感みたいな言い方しないでよ。それに、俺だって一度は聞こえたからこそ、あんな夢を見たわけで」
売れないピアニストが大舞台に立つという夢。
そういえば演奏曲の正体を教えられていないな、と思い至った。
「それじゃあ、何かの音が偶然その曲に似ていたのかな」
曲については後で訊くとして、思いついた可能性を述べてみる。小龍には絶対音感があるのだ。聞いた音から無意識に連想したものがあったのかもしれない。そして、こればかりは実際にその場へ行ってみないと調べられないだろう。
「可能性は……あるかも」
真剣な顔でサツキは頷く。
「あり得るでしょ」
「うん」
「ね。私もアパートに行っても良い?」
その問いかけに、彼はこくりと頷いた。

   *

店を開けているので店長はついて来なかった。
もっとも、彼はこの件に関してそこまで興味は持っていないだろう。小龍自身に助けを求められたわけでもない。私たちの好奇心による部分が大きかった。
「開けるよ」
セキュリティを解除してもらって中に入る。どこにでもあるアパートのエントランスだ。棟の片端にはエレベータ、もう片方の端には階段があり、サツキの部屋は二階の階段寄りの端から二番目だった。
つまり小龍の部屋は階段のすぐ傍である。
「順当に考えると、この音……?」
鉄製の階段は靴音がよく響く。一階から二階へ上がる部分に障害物は無かったが、二階から三階までの階段は錆びついており、所々に雑貨や植木鉢が置かれていた。だが、通るのに苦労するほどではない。
「鉢を置くならうちの商品を買ってくれたら良いのに」
中身はとっくに枯れており、土しか入っていない鉢植えだ。これらを満開の花に取り換えることができたなら、さぞや綺麗だろうと思った。アパートの意匠には緑のアクセントが取り入れられ、園芸店と同じ色味の階段や窓枠がある。見慣れた色。植物のイメージにしては少し強めの、信号のような緑色。
「ところでどんな曲なのよ、それ」
きっと題を聞いても分からないだろう。私はサツキの持っているタブレット端末を指し示した。世界中の音楽のほとんどを、その機械ひとつで耳にすることができる。階段を上っていた彼は振り返った。
「ああ、そうだね。教えていなかった」
音楽アプリで該当の曲を探し、聞かせてくれた。イヤホンがないので踊り場で身を寄せ合い、穏やかに始まるピアノ演奏に耳を傾ける。馴染み深い曲ではない。だが、どこかで聞いたことがあるような気がする。サツキの方へ視線を向けると、彼は
「夢の中では何の曲か分からなかったんだけど、後で調べたら見付かったんだよ」
と言った。鼻唄で検索でもしたのだろう。
「待って……私も聞いたことがあるような」
「そうかい? 作曲家は有名でも、この作品はあまり知られていないと思うんだ」
「ううん、そういうのじゃなくて。もっと直近で聞いた……」
額に手を置いて考え込む。しかし直近といっても、喫茶店からアパートへ移動しただけなのだ。どの部屋も静まり返っており、物音ひとつしない。
耳にしたとすれば、階段を上ったときの靴音だけ。
「……あっ」
私たちは顔を見合わせた。
階段を駆け下りる。踊り場から二階へと。サツキの部屋はすぐそこにある。改めて階段の一段目から足を進めれば、靴音が激しく鳴った。
「ほらこの音、よく聞いて」
物が置かれていても、並んで歩くだけの余裕はある。似ている、と思ったのだ。靴音の奏でる旋律が、聞いたばかりの曲の冒頭に似ている。ほんの十数段、印象的な繰り返しの一部分しか再現できないが、それでも。
「えっ、こういうことってあるんだ! 同じ音だよ!」
聞いたばかりなので、絶対音感を持たなくとも分かる。私は面白くなって何度も階段を往復した。同じ幅の鉄板が続いているのだから、本来は音の高さなど変わらない。しかし一段ごとの錆び具合や置かれた物などによって、偶然にもあの曲を想起させる響きになっていたのだ。
「こんな音を睡眠中に聞いていたら、夢に見ても仕方がない、か……」
二階にいるサツキが、踊り場の私を見上げながら呟いた。小龍の夢は、この音の影響を受けていると考えて間違いないだろう。延々と階段を上る夢だというのも、無意識に音の正体を感じ取っていたからかもしれない。
「このことを小龍さんに伝えたら、もう変な夢を見なくなるかもね」
「そうかもしれないけど、うーん……」
首を傾げる。もう謎は解けたというのに、サツキが思案に暮れていたからだ。何を悩んでいるのだろう。この階段の先には三階があり、更に進んでも屋上しかない。繰り返し見る夢の終わりが現れたのだ。
「ねえ。この曲、私も調べたいから名前を教えてよ」
スマートフォンを取り出しながら尋ねる。声が届かないのか、彼は顔を上げなかった。栗色の髪の頭頂部を眺め、私は軽く息を吐く。
その時、足元で扉の開く音が聞こえた。

「シューベルトの幻想曲ヘ短調、D940」

二階の端。階段の近く。
そこにあるのはサツキの部屋だけではない。不意に紅茶が飲みたくなって喫茶店に来た男は、用が済めば自室に戻るだろう。自然なことだ。それなのになぜか「ここにいない」と思い込んでいた。彼の存在をすっかり忘れたまま、彼について話し合っていた。
本人の登場でうろたえるなんて、まったく間抜けすぎる。
「さっきからバタバタと行ったり来たり……さすがに聞こえているからね?」
二色小龍が、扉を押し開きながら立っていた。

   *

「ちょっと足音が大きすぎるかな」
部屋に通された私たちは、小龍から正論でさとされた。今は客と店員という立場ではないせいか、口調が砕けている。
「特に三階に住んでいる智恵子ちゃんは、受験中の高校生だから。もう試験は終わっているけれど、すごくナーバスになっているだろうし」
「返す言葉もありません」
私が肩を縮めて叱られている間、サツキはぼんやりと天井を眺めていた。先ほどから考え事ばかりで気味が悪い。喫茶店ならば天井の向こうに温室があるが、ここには例の智恵子ちゃんの部屋があるだけだった。三階には一世帯しか住んでいないらしい。
「お母さんと娘さんのふたり暮らし。何かと不安だろうし、気掛かりになるようなことはしないで欲しいんだ」
「小龍さん、アパートの住民について詳しいんですね」
今どき隣人の顔すら知らないで暮らすことが当たり前だ。サツキとて隣の部屋に旧友がいると気付かずに、半月ほどを過ごしていた。
「家庭教師をしているから、俺」
小龍は柔和な笑みを浮かべる。
「それなりに付き合いは長いよ」
「ああ、それで……」
相槌を打ちながら、まだ隣で呆けているサツキに肘鉄する。先ほどから何も言おうとしないのだ。さすがにこのままでは小龍の機嫌を損ねてしまうだろう。
「君もひと言くらい謝って――」
小声で囁く。だが、返ってきたのは
「それだ!」
という叫びだった。
「ちょっと、何よぉ……」
「それだよ二色! 上にいるのは母子二人暮らしの家庭だけなんだろう?」
身を乗り出す。面食らった小龍が、同じ分だけ後ずさった。
「確かに他は空き部屋だけど」
「そんな場所に、夜明け前、毎日のように階段を上って向かう人物がいる!」
その言葉に――私は息を呑んだ。
そうだ。その通りだ。小龍が頻繁に夢を見るということは、階段の音は何度も鳴り響いているのだ。ちょうど夢を見ている時間帯、陽が昇る前の暗がりで。二階から三階。他の階ではあの曲に聞こえない。鉄板の錆び具合や置かれた鉢植え、雑貨の数々に影響を受けているから。
「あの階段の先には智恵子ちゃんの部屋しかない。彼女とお母さんがふたりきりで暮らしている部屋しか。でも、受験生の彼女が朝帰りなんてするはずがない」
小龍曰く、シューベルトの幻想曲。ただの靴音があの旋律に聞こえるのは、下から上へと向かった時のみだ。出掛けるのではなく、帰ってきたときだけ。
「二色、これは――」
私は青年たちの顔を見比べる。サツキの言わんとすることは分かった。そして、小龍が智恵子という少女を大切に思っていることも。付き合いが長いと話したときの彼の顔。その顔を見ていれば、たとえ不謹慎な思いつきでも口に出さずにはいられない。
けれども、サツキは。
「――いいよ、ごめん」
彼は、この場に来てから初めて謝った。
「ごめんね。首を突っ込むようなことじゃなかったね。俺が勝手に夢のことまで喋って、それでこんなことになったんだもの。二色に頼まれたわけでもないのに」
「サツキ……?」
立ち上がる彼の服を引っ張る。だが軽く振り払われてしまった。
「想像で行動するのは良くないし、思いつきで行動するのはもっと良くないよ。俺はこのアパートに入ったばかりだ。関わって役に立てることなんて、ほとんどない」
「でも、危険を感じたんでしょう?」
呼び止める。つい先ほどまで、彼はそのことばかりを考えていたはずなのだ。友人にさとされていても上の空になってしまうほどに。母子家庭を執拗に訪れる人物に関しては、私も見過ごすことができない。
「いいんだよ、りりすちゃん」
彼は私の腕を取って玄関へと向かう。引きずられるように歩きながらも、私は小龍の方を見遣った。
哀しげな顔をしている。
サツキは急に引き下がり、小龍は急に表情を変え。この瞬間に何が起きたのだろう。私だけがピースを取り損ねたまま、物語の欠落が埋められていく。
「最後にひとつ、確認なんだけど」
先に扉の向こうへ押し出され、背後で交わされる声だけが聞こえた。
「智恵子ちゃんにピアノを教えたことって、ある?」
これも、ピースのひとつなのだろうか。
「――あるさ。電子キーボードで少しだけ、な」

   *

その男には絶対音感があった。
流れる水の音も。食器が擦れる音も。本のページを繰る音も。全ての音の高さが分かる。それらがあの曲のどの部分に使われている音なのか、ひとつずつ繋ぎ合わせることができる。音が分かるということは、音を作れるということだ。例えばグラスを打つ音ならば、中の水を増減させて。張りつめた糸を弾く音ならば、指で摘まむ位置を動かして。
つまり彼は、身の回りの生活音を楽器のように扱うことができた。
鉄階段の錆び具合を確かめ、鉢や雑貨を置き、一段ずつ調整する根気さえあれば、足音で任意の曲を奏でさせることもできるのだ。
その行為に何の意味があるのかは、きっと本人にしか分からない。鍵盤は踊り場までの十数段。テンポも定まらない。それでも大切な曲の一節をそこに作ったのは、彼女への贈り物のつもりだったのか。あるいは呪いか。男はそこを通らなくとも生活できるが、その少女は毎日階段を上る。明け方の薄暗がりの中ではなく、学校の帰り、あるいは塾の帰り、母親と買い物に出かけた帰り道。小さな電子ピアノで数度だけ教えた曲を、靴底で幾度も奏でながら生きてゆく。
それは、けして永遠ではないけれど。

「……如月かと思った」
屋上に現れた私の姿を見て、彼は呟いた。月は爪の痕のように透き通り、今にも夜へ消え入りそうだ。対となる東の空では暁闇が滲んでいる。
「不正解。私は雨屋りりす」
灯りがないので扉を閉めるのにも苦労した。私たちがいるのはアパートの屋上。靴の下では智恵子とその母親が眠っている。ここまで来る際は物音を立てないよう、細心の注意を払ったつもりだ。
それはきっと、小龍の方とて同じだろう。
「この時間に屋上へ来たのは二回目だ」
その内の一回を如月に聞かれるなんて――と溜め息を吐く。白い息が煙草のように天へたなびいた。
「人生とはそんなものよ」
真四角な屋上を対角線に横切り、彼の隣に立つ。
「たった一度の出来事が、よりにもよって夢に出る」
「そうかも。うん……えっと、如月に聞いた?」
その問い掛けには微笑むだけで答えなかった。暗がりの中で、ちゃんと見えたかは分からないが。
「それとも自分で気付いた? ま、どっちでも良いか」
「どっちでも良いよ。私もサツキも、似たような存在だから」
「仲が良いんだな」
「うん。私たち、仲が良いの」
何度も同じ夢を見る男。それは、階段の音を聞き続けていたからではない。母子が通る度に幻想曲は奏でられたが、その頃の彼は大学やアルバイトに出かけていただろう。明け方に靴音が鳴ったのは一度きり。そして、その音を発していたのは他ならぬ彼自身だ。
「罪を犯した気分だった」
だから夢を見たのだ、と。
「何度も足を踏み鳴らして、音を確認して。鉢植えの土を抜いて重さを調整したり、置物の位置を動かしたり。通行の妨げになるようなことがあってはならない。つまずいて転ぶなんてことがあっては、絶対に。苦労してほんの一節を作り上げて、そんな自分の執念が我が身ながらに怖かった」
「……そんなに駄目なことかな」
少女は何も知らない。彼女にとって、男は心優しい家庭教師でしかないのだ。再会したばかりの旧友に漏らすほどの悪夢は、彼に相応しい罰なのだろうか。
だが、彼自身はそれを受け入れているようだった。
「駄目だろ」
かつてひとりの作曲家が、貴族の娘に恋したように。
「高校生の教え子を好きになるのは、さすがに駄目だろ」
「そっか」
彼がそこまで考えているのなら、私に言えることは何もない。そのまま少し話を聞いた。彼自身の得意分野とは裏腹に、彼女は国語が苦手であるということ。紅茶を好きになったのは、彼女の母親が美味しいものを出してくれたから。第一志望の大学は、一週間ほど前に試験が終わった。それに合格していれば、彼女は遠くに行ってしまうこと。
――嫌なんです、あなたの行ってしまうのが。
そんな一節を脳裏で諳んじる。そろそろ寒くなってきたので、私たちは屋内へ戻ることにした。再び対角線上を歩きながら、階段へと続く扉を開ける。
「訊きたいことがあるのだけれど」
「何だい」
「レモン、好きなの?」
紅茶に添えられたレモンまで食べ尽くされていたのだ。皮も、種も、まるで最初から存在していないかのように。あの時のことを思い出したのか、小龍は顔を伏せて笑う。
「好きなんだよ、あの果物が。やっぱり意地汚かったかな?」
「ううん。捨てるよりかはずっと良い」
私たちはまた足を忍ばせて、緑の階段を下りていった。

   *

二週間後、智恵子が見事合格したという報せが届いた。
「やったぞ、如月! りりすさん! 皆で祝おう!」
小龍が彼女と母親を連れて喫茶店に現れ、ささやかな祝賀会を開くことを希望した。とはいえ、彼の奢りで母子が食事するというだけの話である。豪華なディナーもなければ酒も出せないが、少女の門出を祝うには心持の方が大切だろう。
「俺は本当に嬉しい」
家庭教師の青年は既に涙ぐんでいた。
「何でも頼んでください。ここの食事はどれも美味い。たぶん。如月が言っていた」
「そういえば二色は紅茶しか注文したことがなかったね」
ずっと隣のアパートに住んでいたものの、機会がなければ案外来ないものだ。だけど店長の料理が美味しいことは私も保障する。興奮さめ止まぬ小龍と気圧されて大人しくなる母子。そんな彼女らに遠慮させまいと盛り上げる私に通常運転のサツキ。人生も思考もばらばらな五人がテーブルを囲んでいる。あの日私たちが経験した出来事を、店長はほとんど知らない。それでも深入りせずに見守ることを選んでくれたようだ。
「店長! 私、ステーキが食べたい!」
「あっ、じゃあ俺は鉄火丼」
率先して手を上げる。店長は大忙しだが今日は私も客だ。料理を待つ間は積もる話に花を咲かせていれば良い。話すことならいくらでもある。小龍がサツキと再会するまでの十年間と、智恵子と過ごした勉学の日々と。どちらに咲く花も綺麗だろう。
「智恵子ちゃんは何が食べたい?」
メニューを覗き込む彼女に問い掛けると、晴れやかに力強い声が返ってきた。

「えっとね、こだわりベーコンのナポリタン!」

〈二月・禍福は糾えるナポリタンの如し 終〉
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